063 嫁の覚悟 羽柴ねね
「──ねねです。入りますよ」
そう入り口の外で声をかけて中広間に入ると、そこはまるでお通夜のような、重苦しい空気に支配されていました。
壁に肩を預けてうずくまり、前髪を掻きむしった姿勢のまま固まっている小一郎殿と──。
おそらく、考え得る限りの慰めの言葉をかけ続けて、打つ手を無くして困惑したままのお駒殿と、堀家のお二人と──。
「おね様。大方様のご様子は──?」
そんな中、唯一入口の近くに立っていた半兵衛殿が、小声で私に問いかけてきます。
「ああ、今は藤吉郎殿がなだめています。少しは落ち着いたようですが、まだ小一郎殿が偽物だと言い張っておられて」
「──まんまと、してやられましたね」
半兵衛殿が、忌々しげに吐き捨てます。
「先ほど、大方様が『やっぱり』と言われてましたね。
あの様子から察するに──事前に誰かに吹き込まれていたのでしょう。小一郎殿が昔の小一郎殿ではなく、別人が成り代わっているとか何とか。
お二人の最大の弱みを、これほど的確かつ効果的に責めてくるとは──。
悔しいですが、敵ながら実に見事なお手並みです」
「──やはり、無明殿の仕業なのでしょうか?」
「はい、おそらくは。明智様は、大方様が春に今浜に来ることを知っていましたからね」
「──義姉上様!」
そこに、私に気づいたのか、お駒殿が近寄ってきます。
「あの、お義母様のご様子は──!?」
「今は藤吉郎殿と旭殿がなだめています。まだ少し混乱されているようなのですが……」
「そうですか……。
あの──もしかしたら、お二人は今回の件の理由について、何か心当たりがあるのではないですか?」
なかなか鋭いですね。とはいえ、このことについては、おいそれと教えるわけにもいかないのですけど。
「お願いします! 事情が分からなければ──上辺だけの慰めの言葉では、今の小一郎には届きません!
何があったのか、私にも教えて下さい!」
なおも食い下がるお駒殿に私たちが逡巡していると、ふいに天井あたりから声が聞こえてきました。
『──申し訳ありません、小一郎様!』
その切羽詰まったような声と同時に、治部左衛門殿が平伏した姿勢のまま姿を現わします。
え、ちょっと──! 治部左衛門殿が忍びだということは、お駒殿にまだ伝えていないはずなのに、まずくないですか?
そんなことにも気を配れないほど、治部左衛門殿も動揺しているということなのでしょうか。
「此度のことは、完全に我らの落ち度です!
大方様に怪しい者が近づかぬよう、ずっと警戒はさせていたのですが、ただ一度だけ目が届かぬ場面がありました。
大方様が菩提寺の住職に、尾張を離れることになったと別れの挨拶に行かれたそうなのですが、あるいはその際に何者かが接触していたのではないかと。
寺の周囲は充分に警戒していたのですが、事前に寺に潜伏している可能性に思い至らなかったようで──。どうも、そのあたりから大方様の様子が少しおかしかったようなのです」
そう説明する治部左衛門殿に、小一郎殿は今更そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、項垂れたまま面倒くさそうに手をひらひらと振るうだけでした。
自分たちの不手際で、小一郎殿の心に取り返しのつかない深い傷を負わせてしまった──。
その申し訳のなさに、治部左衛門殿は沈痛な面持ちで俯いたままだったのですが、──意外なことに、お駒殿がその背に厳しい声をかけたのです。
「──治部殿。確か、あなたには貸しがありましたよね?
小一郎に何があったのか、私にも初めから詳しく話して下さい」
「そ、それは──っ!? お駒様、それは、それだけは言えません! そればかりはどうかご容赦下さい!」
慌てたように治部左衛門殿がお駒殿に平伏し直します。
──今、治部左衛門殿のことを『治部殿』って言ってました?
それに『貸し』があるって──この二人の間に、私の知らない何かがあったのでしょうか。
半兵衛殿も事情が分からないのか、困惑したような顔をされています。
でも──うん、そうですね。
小一郎殿があんな状態である以上、ここは最も立場が上である私が決断を下すべきなのでしょう。
受け入れられるかどうか、とても大きな賭けではあるのですが……。
「半兵衛殿、治部左衛門殿。ここは、お駒殿にも事情を知っておいてもらう方が良いのではないですか?
全てを話してあげて下さい」
『おね様──!?』
お二人だけでなく、堀家のお二人も唖然とされています。
小一郎殿は一瞬身を固くしただけで、依然として顔を上げようとはしないのですが。
「どのみち、事ここに至っては、お駒殿に隠し続けるのは難しいでしょう。意外に鋭いところもありますし、下手にごまかして探り回られる方が、かえって厄介です。
ならば全てを話して、お駒殿も仲間にしてしまう方が得策でしょう。ただし──」
私はそこで言葉を切り、挑むような目で私を見つめるお駒殿に向き合いました。
「ただし、聞いてしまったらもう後戻りは許されませんよ?
ここにいる五人以外には決して知られてはならない話ですし、他人に知られれば命さえ──」
「覚悟などとうに出来ています。私は小一郎の嫁なのですから」
ああ、何て──何て芯の強い子なんでしょう。
私は確信しました。この子は必ず、今の小一郎殿のことを受け入れてくれる。そして、小一郎殿を救ってくれると。
「わかりました、お駒殿。──小一郎殿、よろしいですね?」
その私の問いかけに、小一郎殿がしばしの逡巡の後、弱々しく小さく頷きました。
半兵衛殿からお駒殿への説明は、半刻程にも及びました。
小一郎殿が三百年ほど未来に生きた坂本龍馬殿の記憶を持ってしまったこと、本来起こるべきこの先の歴史のこと、小一郎殿の目的のこと、次郎殿のこと、そして無明殿と明智様のこと、彼らがやろうとしているであろう恐ろしい計画のこと──。
お駒殿はその間、身じろぎもせず、口を挟むこともなく、真剣な表情のままじっとその話を聞いています。
「──そして、おそらく無明殿から、小一郎殿が別人の成りすましだと吹き込まれた大方様が、それを信じ込んで、あのように取り乱されたということなのです」
そうして、ようやく半兵衛殿による長い長い話が終わりました。
お駒殿も、話の内容を咀嚼するように、ずっと黙ったままだったのですが──。
「──母様は、わしにとって一番大事な根っ子だったんじゃ……」
その時、小一郎殿が俯いた姿勢のまま、ようやく弱々しく口を開きました。
「金ケ崎の後、しばらくは自分が龍馬なのか小一郎なのか、全くわからなくなってしまってなぁ。
皆には想像できるか? ──自分の記憶以上に鮮明な他人の記憶があるということの怖さが……。
それこそ、自分の親兄弟の顔より、会ったこともない龍馬の家族の顔の方が鮮明に思い出せるんじゃぞ?
──もう、自分の心は完全に乗っ取られてしまったのではないか、次に目が覚めたら小一郎としての記憶は消えてしまうんではないかと、眠れん夜もあったくらいでな……」
そう呟いて小一郎殿は、その頃の恐怖がぶり返したかのようにぶるっと身を震わせます。
「──だが、やがて気づいたんじゃ。どれほど龍馬の家族のことを思い出せても、情が湧くのは小一郎の家族に対してだけなんじゃ、と。
だからこそ、わしは、自分の心が龍馬のものになったわけではない、元の小一郎の心のままなのだと信じることが出来たんじゃ。
兄者や母様は、わしが小一郎のままでい続けるための、一番大事な根っ子だったんじゃ。それを──それを、こんな形で奪われてしもうた……」
「小一郎──」
「──わしがつらい思いをするだけなら、まだええんじゃ。そんなのはいくらでも我慢できる。耐えられる。
だがわしのせいで、母様にあんな化け物でも見たような顔をさせてしまった。あんな怖い思いをさせてしまった。
わしが、龍馬の記憶なんかを手に入れてしまったばかりに、母様にあんな思いを──そのことが申し訳なくて──心底、申し訳なくて──どうしようもなく胸が痛むんじゃ……」
震える声で心情を吐露する小一郎殿に、そっとお駒殿が近寄ります。
「小一郎──、ねぇ」
小一郎殿はその駒殿の呼びかけにも、身を固くするだけで、頑として顔を上げようとはしません。
おそらく今、お駒殿にまで拒絶するような言葉をぶつけられてしまったら、自分はもう二度と立ち直れない。──そんな恐れが小一郎殿を縛りつけているのでしょう。
「小一郎──ねえ、お願いだからこっちを見てよ」
そんな懇願にも応えようとしない様子に業を煮やしたのか、お駒殿はいきなり、前髪を掻きむしったままの小一郎殿の手をぐいっと引っ張り、意表をつくような言葉をぶつけたのです。
「小一郎──あんた、この癖を何とかしないと、すぐに禿げるわよ?」
「────へっ!?」
あまりに予想外の言葉に、思わず顔を上げてしまった小一郎殿の両頬を、お駒殿がすかさず両の掌で挟みこんでその双眸を見つめます。
「やっと捕まえた──!
何よ、情けない顔しちゃって。小一郎らしくもないわよ?
もっと早くに打ち明けてくれればよかったのに──水くさいわね」
「お、お駒……? おんし、わしのことが気味悪くはないんか? わしは、二人分の記憶なんていう異様なものを持っていて──」
「うーん、別に?
私と初めて会った時には、もう龍馬殿の記憶を持ってたんでしょ? だったら、私が知っているのは、今の小一郎だけだもの。今さら、何も変わりようがないわよ。
私が、その──す、好きになったのは今の小一郎なのよ?」
あら、初めて聞きましたよ、そんな素直な言葉。
「それにね、龍馬殿の記憶だって、小一郎が望んで手に入れたわけじゃないんでしょ? だったら小一郎は、訳の分からない事態に巻き込まれただけの、いわば被害者でしょ?
──小一郎は、何も悪くなんかない。誰かに申し訳ないなんて思う必要は、これっぽっちもないんだよ?」
「し、しかし、わしは母様に──」
「大丈夫! いずれお義母様にもわかってもらえるはずよ、小一郎の心根は少しも変っていないって。
だって、ほら、半兵衛様や義姉上様だって、今の小一郎を受け入れてくれたでしょ?
すぐには難しいかもしれないけど──小一郎のやって来たことで、民がどれほど安心して暮らせるようになったかを見てくれれば、絶対にわかるはずよ。
だって、根っからの武家には出来ない、百姓の心を知る小一郎にしか出来なかったこともたくさんあるじゃない。大丈夫、絶対に伝わるよ」
「──本当にそうなんじゃろか……」
自信無げに目をそらそうとする小一郎殿を、お駒殿は逃がそうとしません。
「自信持ちなさいよ! 小一郎がやってきたのは、人に誇れる立派なことなんだから!
──龍馬殿の記憶なんてとんでもないものを持ちながら、小一郎は一度だって自分だけいい目を見ようなんて思ってこなかったでしょ?
いつだって、織田家のため、羽柴家のため、そして民が戦に怯えず豊かに暮らせるためにって、頑張ってきたじゃない。
誰にでも出来ることじゃない。──そう、その坂本龍馬殿にも、元の小一郎にも出来ない──きっと、今の小一郎にしか出来なかったことなんだよ。
だから、誇りに思っていい。胸を張っていいんだよ、小一郎」
そう諭すように言って、お駒殿は小一郎殿の頭を引き寄せ、自分の胸元にぎゅっと抱え込みました。
「大丈夫、お義母様にもきっといつかわかってもらえる。褒めてくれる日がきっとくるよ。
だから──それまでは、私が褒めてあげる。
私じゃお義母様の代わりにはなれないけど、小一郎の嫁として、いっぱいいっぱい褒めてあげるよ」
「──っ」
言葉を詰まらせる小一郎殿に、お駒殿は慈愛に満ちた声で、先日の私との会話で出てきた言葉をかけ続けます。
「よくやった、小一郎。でかした、小一郎。 ──今まで、本当によく頑張ったね」
「──う、ぐう、ううぅっ……」
その言葉に、小一郎殿はお駒殿にすがるように頭を押し付け、ぼろぼろと涙をこぼしながら、声を殺して嗚咽し始めました。
それは──それこそは、小一郎殿がお義母様からかけて欲しいとずっと心の奥底で願い続けてきた、救いともいえる言葉だったのです。
──ああ、小一郎殿。
お駒殿なら共に苦難を乗り越えてくれそうだと嫁に望んだあなたの目は、本当に正しかったのですね。
「──皆、心配かけてすまんかった。
もう落ち着いた、大丈夫じゃ」
長いことお駒殿の胸で静かに泣き続けていた小一郎殿は、ぐいっと袖元で目元をぬぐい、ようやく姿勢を正して頭を下げました。
「母様のことは、お駒の言うとおり、時間をかけて解決するしかないじゃろ。
まあ、当分は顔を合わさん方がええじゃろな」
「いや、それより問題は藤吉郎殿の方です」
その様子に、もう多少厳しい現実を突きつけても大丈夫だと判断したのか、半兵衛殿が深刻な声で切り出します。
「大方様のあの取り乱しようを見れば、何かよほどの理由があるのでは、とさすがに訝しむでしょう。
この先、藤吉郎殿に隠し通すのは、かなり難しくなったのではないかと」
「あの──やはり藤吉郎様には秘密にしておかねばならないのですか?」
そんな半兵衛殿に、お駒殿が訊いてきます。
「はい。藤吉郎殿は本来、出世欲が異様に強い方です。
未来の記憶というものの存在を知ってしまえば、その『出世欲』が危険な『野心』に変貌してしまいかねません。
小一郎殿や次郎殿は、野心に取りつかれてしまった晩年の藤吉郎殿の様子を知っていますからね」
もっとも私には、そうなってしまった藤吉郎殿のことがちょっと想像つかないんですけど。
このところは、出世のことより無双丸や双葉に夢中ですし、女遊びもすっぱりやめてくれましたしね。
──ちょうどその時、部屋の外からその藤吉郎殿の声が聞こえてきました。
『小一郎、いいか、入るぞ』
そして、藤吉郎殿と与右衛門殿が一緒に入ってきました。
これは少しまずいですね。まだ、藤吉郎殿への対応を決めかねていたところだったのに。
「兄者、母様は──?」
「泣き疲れて眠ってしもうたので、旭に任せてきた。
それはいいんじゃが、いったい何で急にあんなことを言い出したのか──。
確かに、おんしも昔とはずいぶん変わったとは思うが、別人の成りすましなど、普通はありえんじゃろう?
何で、あそこまで頑なに信じ込んでしまったのか──小一郎、何か心当たりはないのか?」
これはいったい、どう答えるのが正解なんでしょう……。
皆が固唾を飲んで見守る中、しばらく考え込んでいた小一郎殿が口を開きました。
「──おそらく、わしらの仲を裂いて羽柴家を弱体化させようとする何者かに吹き込まれたのではないかと思う。わしが小一郎とは別人じゃと。
母様がああ思い込んでしまったら、わしが今浜にはいられなくなるだろうとの目論見なんじゃろな」
──確かに筋は通りますが、それではお義母様がそう信じ込んだことの説明にはなっていません。
そのあたりをどう言い逃れるのかと思っていたのですが──何と小一郎殿は、皆が全く予想もしていなかったことを唐突に話し始めたのです。
「実は、母様がそう思い込んでしまったのも、全くいわれがない話というわけでもないんじゃ。
──兄者。わしゃあ実は、土佐の坂本龍馬という男の生まれ変わりでな」




