062 お義母様 羽柴駒
近頃、小一郎の様子が変です。
少し前まで、頼りになる助っ人が現れた、新しいものづくりが順調に動き出したと食事のたびに嬉しそうに話していたのですが、ある日を境になぜか全くその話をしなくなったのです。
その助っ人というのは樋口殿の主君の堀次郎殿だそうで、先日初めてご挨拶に来られました。
その時はにこやかに話をされていて、穏やかな方だという印象を持ったのですが──広間で皆さんと何やら打ち合わせをした後は、どういうわけか真っ青な強張った顔で、ものも言わずに帰って行かれました。
半兵衛様や治部殿や樋口殿までも、このところ何だか少しピリピリしているようにも見えます。
何か、うまくいかないことでもあったのかしら。
──でも、ずっとこんな雰囲気ってのも良くないわよね。こういう空気って家中に伝染するものだし、特に我が家はまだ、新しい使用人も多いのだから。
仕方がない、ここは嫁である私が一肌脱ぎましょうか。
「ねえ、小一郎。明日、何か急ぎの仕事はあるの?」
今日も難しい顔で黙々と夕餉を取っている小一郎に、声をかけてみます。
「ん? ──ああ、特に急ぎの仕事は入っとらんが」
「じゃ、ちょっと付き合ってよ。最近、ちょっと張りつめているようだし、たまには気分転換も必要なんじゃない?」
翌日、小一郎と一緒に今浜城に登城します。
実は先日、ようやく産褥から復調されたおね様が、お子様たちと一緒に小谷の屋敷から移り住んでこられたのです。
「おお、無双丸様、双葉様! 小一郎じゃ、おんしらの叔父上じゃぞぅ」
おね様の部屋に入るなり、寝台に寝かされたお子様たちを見た小一郎が、嘘のように緩み切った顔であやし始めます。
うんうん、疲れた時や落ち込んだ時は、やっぱり赤子に会うのが何よりの特効薬よね。
「ちょっと、小一郎、まだ義姉上様にご挨拶もすんでないのに──」
「ああ、かまいませんよ、お駒殿。この子たちも小一郎殿やお駒殿に会うと機嫌がいいんですから」
ちょっと会わなかった間に、おね様もだいぶ元の明るく元気なお姿に戻っておられます。
「──で、どうですか、新生活の方は。少しは落ち着きましたか?」
「あ、はい。お千代殿が一日おきくらいに来てくれてますし、侍女の方は何とかなりそうです」
「ああ、それはよかったですね。お千代殿のことも、私の意を汲んでくれて、嬉しかったですよ」
良かった、喜んでくれた。やっぱりあれで正解だったのよね。
「でも、侍女の方はそれでいいとして、女中の方はどうなの? 募集してもなかなか集まっていないと聞いたのですけど」
「ああ、醤油とか甘辛煮の工房の方に人手を取られちゃいまして。せめてあとひとり、まとめ役ができるくらいの方がいると助かるんですけどね」
「ひとり、紹介できる人がいますよ。以前、浅井家の重臣の家で女中頭をしていた方なのですが、病気で勤めをやめてしまって──今はもう回復しているのですけど」
「本当ですか!? それはぜひ!」
それは願ってもない話です。それくらい経験豊富な人が来てくれれば、今の人数でも問題はなさそうです。
でも、おね様には、何だか少し躊躇いの色が見えるのですけど。
「ただ──まあ、いずれわかることですから先に伝えておきましょうか。
その方はお兼殿というのですが──実はお仙殿の母親なのです」
え? お仙って、おね様の悪い噂を広めていた、あの──!?
「お駒殿、不機嫌さが顔に出ちゃってますよ?
──お仙殿も根は決して悪い子ではないんです。でも、母上の薬代で困り果てた末に、つい悪い者にそそのかされてしまって──。
お駒殿になら、その時のお仙殿の気持ちはよくわかるのではないかと思ったのですけどね?」
──あ。そういえば私なんて、噂を広めるどころじゃない、もっと大それたことをやらかしてましたっけ!
「うう……。その節は誠に申し訳ありませんでした」
「お仙殿からも、心のこもった謝罪の文を受け取りました。お兼殿が届けて下さったのです。
その上でお兼殿ご自身も、どうしても羽柴家に恩返しがしたい、羽柴家にご奉仕させて下さいと強くお願いしてこられたのです」
「お兼殿が恩返し、ですか?」
「実はお兼殿の病は脚病だったそうで、蕎麦でかなり良くなったそうなのですよ」
ああ、それなら、羽柴家に恩を感じるというのもわかりますね。
「でも、今浜城で働いてもらうというのも、他の使用人たちの目もあるし、やはり居心地が悪いのじゃないかと思うのです。そこで──」
「わかりました。お兼殿には、うちで働いてもらいましょう」
「え、いいのですか? まだご本人に会ってもいないのに」
私の即決に、おね様は少し驚かれたようです。
「問題ないです。私、義姉上様の人を見る目を信じてますので。
うちとしても今、最も欲しい人材です。喜んで引き受けますとも」
「お、話がまとまりましたか」
そこで、ようやく小一郎が話に加わってきました。
お子様たちは、はしゃぎ疲れて眠ってしまわれたようです。ずるいなぁ、私だって遊んであげたかったのに……。
「お駒も、懸案事項がひとつ片付いて、ひと安心じゃろ?」
あ、何だか表情がいつもの小一郎に戻ったみたい。やっぱり赤子の力って偉大よね。
「あら、小一郎殿。お宅の懸案事項は他にもあるでしょう?
うちの子にばかり構ってないで、お二人も早く自分たちのお子を作って、ですね──」
──うわ、おね様、ふいうちです! 予想もしていなかったから、赤面しちゃうじゃないですか!
「はは、まあ、こればかりは授かりものですからの」
「出来れば、義母上様にこの子たちを初対面させるときに、小一郎殿たちの嬉しい知らせもあると、なおいいのですけどね」
そのおね様の言葉に──ふいに、私がずっと押し殺していた不安な気持ちが浮かび上がってきてしまいます。
「──お駒殿? 何か気になることでもあるの?」
おね様って本当に鋭いなぁ。そんなに顔に出したつもりはなかったんだけど。
ここは、素直に本心を打ち明けてみましょうか。
「あの、そのお義母上様のことなんですけど、春にはお城に来られるんですよね?
──私、うまくやっていけるんでしょうか。
私って勝気だし、いつの間にか言葉遣いも荒んじゃったし、もし気に入られなかったらどうしようかと不安なんです。
結局、婚礼にも来てくれなかったし、もしかしたら結婚自体に反対なんじゃないかと──」
「あら、私たちの婚礼の時も来てくれませんでしたよ?」
「で、でも、文も何度か書いたのに、全くお返事もいただけなくて」
「ああ、すまん、言ってなかったの。母様は、字が読めんし書けんのじゃ」
小一郎が、少し恥ずかしそうに答えます。
「届いた文は読んでもらえるんじゃが、返事を出すとなると代書屋に金を払わにゃならん。
そんなことなど気にせんでいいように、それなりに金は送っとるんじゃが、わしらからの金にはほとんど手を付けとらんようなんじゃ。
わしの文にも、ほとんど返事なんぞくれんぞ」
え、そんなものなの? おね様も頷いておられますけど。
「──それに、母様には、あまり畏まった応対をしない方がええと思う。
母様は、本当は城などに住んで堅苦しい暮らしになることを嫌がっとるようだしの。
──まあ、そこは警護の都合もあるんで、諦めてもらう他ないんじゃが」
そういえば、一緒に住むことを認めてもらう条件に、城内に畑まで作ったとか言ってましたね。
「──実はの、母様はかなりの武家嫌いなんじゃ。
父様を戦で亡くしてから、ずいぶん苦労してきたからな。
おまけに、兄者がわしや、姉上や旭(小一郎たちの妹)の旦那までも、無理を言って武家にしてしまったからのう。
本当は、わしらが武家になったことも、あまり良くは思っておらんようでな」
「で、でも、お二人はこんなにも立身出世したのに──」
「なまじわしらが出世したばかりに、城に住まわされる羽目になったからの。
『ありがた迷惑』くらいに思われとるかもな」
そう自嘲気味に言った小一郎の笑顔は、何だか少し寂しそうでした。
「──なるほど。お二人の原動力は、案外そこにあるのかも知れませんね」
しばしの沈黙の後、何かに気づいたようにおね様が口を開きました。
「原動力、ですか?」
「──いつかはお義母様に、武家となった自分たちの働きもちゃんと認めてほしい、褒めてほしい。
そんな願望が、お二人の心の奥底にあるのではないですか?」
おね様の指摘に、小一郎が少し考え込んで、大きく溜息をつきます。
「──やはり、義姉上には敵いませんなぁ。
確かに、母様がわしらの働きを認めてくれていたなら、きっと兄者もわしも、もっと早い段階で現状に満足していたでしょうな。
もっともっと頑張って、いつかは『よくやった、小一郎!』『でかしたぞ、藤吉郎!』と母様に褒めてもらいたい。──そんな願いが、今のわしらを動かす大元なのかもしれません。
──何だか、いい歳して子供みたいじゃなぁ」
「そ、そんなことないよ! 小一郎たちが本当に家族思いだってことは知っているもの!」
「家族はわしらにとって、一番大事なものじゃからな。だからこそ──わしは新しい家族であるお駒のことも、ちゃんと大事にするぞ」
「こ、小一郎──」
「お駒……」
「──あのー、お二人とも?」
ふいに横から、おね様の引きつったような声がかけられました。
「悪いのですけど、そういうのは二人きりになってからにしていただけません?
正直言って──甘ったるすぎて、見ていられません」
それからは、小一郎たちの張りつめたような感じは見られなくなりました。
何が起こったのか聞いても、機密に関することだとかで、はっきりとは教えてくれなかったのですが──。
『まあ、将来に大きな問題が起こる可能性があるということがわかったので、ちょっと警戒しとったんじゃがな。
しかし、ずっと警戒しっぱなしというのも身が持たんのでな。何かきざしが見えた時に、いち早く知らせが届くような仕組みを作ったんで、まあ、しばらくはいつも通りじゃ』
そんな風に答えてくれたので、良くはわかりませんが、まあ、あまり気にしないことにしておきますか。
──そして、季節は移って春になり、いよいよお義母様が今浜に来られる日がやって来ました。
大手門の前で出迎えているのは、おね様と私、半兵衛様、そして──何故か、先ほどまで打ち合わせに参加していた次郎殿と赤心斎殿までもが同席しています。
──これはたぶん、親子の感動の再会の場面を見てやろうという野次馬根性ですよね。赤心斎殿なんて、ずいぶんニヤニヤしてますし。
「──そういや、お駒殿、肝心の小一郎殿はどうしたんだ?」
「ちょっと所要で──もう戻ると思うんですけど」
「何じゃ、つまらん。──あ、大方様(小一郎たちの母)が来られたようだぞ」
その声に大通りの向うを見ると、お義母様を迎えに行っていたご一行が小さく見えてきました。
先頭をゆっくり歩く馬の背に乗っているのはお義母様で、その後ろの馬に妹の旭様。
お義母様の馬の轡を曳いて得意満面で歩いているのは、何と藤吉郎様です。
──ああ、これは何となく察しがつきました。
たぶんお義母様は、おおげさに馬や輿に乗って今浜まで来ることをかなり嫌がったのでしょう。でも、皆に示しがつかないからと、今浜の手前あたりで無理を言って、馬に乗ってもらったに違いありません。
おかわいそうに、不慣れな乗馬に緊張で身をすくめてかなりびくびくされているのが、ここからでもわかります。
同じことに気付いたのか、おね様も少し苦笑いを浮かべて、ともに出迎えの列から一歩前に出るよう促してくれます。
「皆、今戻ったぞ!
母様、見てくれ、これが今浜城じゃ! 大きいじゃろう?
誰かのお古をもらったわけじゃない。お館様から許されて、わしのために新たに造った、わしの城じゃ!」
「あ、ああ、こらまた、大層なもんで……」
馬から降ろされたお義母様は、恐縮したように、かなり小柄な体をいっそう縮ませておられます。
──ちょっと訛りがきついけど、うまくお話しができるかしら。
「義母上様、おねです。お久しぶりでございます。
ようこそおいで下さいました。お待ちしていましたよ」
おね様が、緊張を和らげるよう、優しい声でゆっくりと話しかけられます。次は私の番ですよね。
「初めまして、お義母様。小一郎の嫁の駒と申します。どうかよろしくお願いいたします」
「あ、ああ、どうも──。あの、それで、小竹(小一郎の幼名)は?」
「今、所要で外してまして。もう来ると思うのですが」
──気のせいかしら。何だかおどおどしていて、まるで小一郎に会うのを怖がっているみたいな──まさか、ね。
ちょうどその時、蹄の音といななきが聞こえてきて、小一郎が到着しました。
「すまん、遅くなった!
母様、ご無沙汰してます。お待ちしてましたぞ」
馬から飛び降りながら、そう明るい笑顔で声をかけた小一郎を、何故かお義母様は怪訝そうな顔でじっと見つめておられます。
「──ん? どうしたんじゃ、母様?」
そして、戸惑う小一郎にお義母様が険しい顔でかけた言葉は──誰もがまったく予想もしていないものだったのです。
「お前さん、誰かね……?」
「なっ──何を言うがじゃ、母様? わしじゃ、小一郎──小竹じゃよ」
なだめるようにお義母様の肩に小一郎が手を伸ばしかけますが、お義母様はその手を拒絶するように激しく跳ね除けたのです。
「──触るな!!」
その、嫌悪感すら感じさせる厳しいご様子に、皆が言葉を失います。
「わしはだまされんぞ! やっぱり、お前は小竹ではないわ!」
そこでようやく、我に返ったおね様や藤吉郎様が慌ててなだめに入りました。
「な、何を言われるのです、お義母様。これは間違いなく小竹殿ですよ」
「そうじゃ。確かにしばらく会ってなかったが、まさか母様、忘れてしまったんか?」
「いいや! 藤吉郎もおねさんも皆、この悪党にだまされとるんじゃ!
こいつは、見た目は確かに小竹そっくりじゃが、中身はまるで別人だで!
赤の他人が、しれっと小竹に成りすましとる。──何でそれがわからないんじゃ!」
「──か、母様……」
どうしてよいかわからず、茫然と立ち尽くす小一郎に、お義母様がさらに激しい怒りをぶつけてきます。
「やい、偽物め! 皆はだませても、腹を痛めて産んだこの母はだまされんぞ!
皆をだまして、いったいどうするつもりなんじゃ!
──いや、それより、本物の小竹をどこにやったっ!
わしの小竹を──返せっ!」
そう激しくののしって、お義母様が小一郎の胸板に小さなこぶしをぶつけました。
小柄なお義母様が精一杯手を振り上げても、大柄な小一郎の胸くらいにしか届きません。そのあまりに小さなこぶしがいくらぶつけられても、小一郎には全く痛みなど感じられないでしょう。
でも──。
「返せっ! わしのっ、小竹をっ、返せっ! このっ、偽物めっ!」
お義母様は、よりいっそう取り乱したかのように声を荒げて、真っ青な顔で固まってしまった小一郎の胸板を何度も打擲し続けます。
そして──そのこぶしの一振りごとに、小一郎の胸に目に見えない深い傷が刻まれていくのを、私たちは止めることもできず、ただ茫然と見ているしかなかったのです……。




