060 宴と評定 竹中半兵衛重治 元亀三年(1572年)
お館様の『ご要望』どおり、何とか年内に婚礼も済ませて帰蝶様の説得にも成功した我らは、京から戻られたお館様に首尾を報告しました。
そして特に何事もなければ、今浜に戻ろうかと思っていたのですが──。
「まあ待て。年明けの評定で例の農機具の説明をしてもらわねばならん。昨年同様、おぬしらも評定に参加せよ」
まあ、そうなりますよね。
「──それと、おぬしらにはもうひとつ、ちょっとした役目をやろう。評定までの数日、どうせ暇だろうからな」
あ、何だか嫌な予感が……。
明けて、元亀三年正月。
我々には、年が改まったことをおごそかな気持ちで噛みしめるような余裕すら許されていませんでした。
『小一郎様! この切った肉はどうすれば──!?』
「そこの沸いた大鍋にぶち込んでくれ! ──ああっ! お徳さん、ごぼうと大根以外の野菜はまだじゃ!」
『羽柴様、蕎麦切りとは、このくらいの幅で切ればよろしいのでしょうか!?』
「いかん、それではうどんになってしまう! その三分の一の幅で切ってくれ!」
新年の宴の料理を支度する厨房は、大晦日の夜からまさに戦場さながらです。
何人もの調理人や女中が慌ただしく動き回る中、全体の指揮を執るのは小一郎殿です。
──お館様から言われた『ちょっとした役目』とは、新年の宴で出すよう、岐阜城の料理人たちに羽柴の料理を教えることだったです。
始めは、料理の作り方を教えるだけで済むかと思っていましたが、なにしろ彼らがまだ見たことも食べたこともないものばかり。皆から不安そうな顔を向けられては、任せっぱなしにするわけにもいきません。
時に味見をし、火加減を注意し、作り方をやってみせ、指示を飛ばす小一郎殿は、まさに休む暇すらありません。
──これのどこが『ちょっとした役目』なんでしょうかねぇ?
先日、料理を教えていた三の丸の賄い方の手伝いがなければ、それこそ宴に間に合ったものかどうか……。
──ちなみに、私は厨房の一角で、三の丸で蕎麦打ちを習得した方と一緒に、延々と蕎麦を打ち続けています。まあ、小一郎殿とともに試行錯誤してきたので蕎麦打ちは上手くなったとは思うのですが、さすがに、そろそろ、腕が、限界です……。
広間では宴が始まったようで、料理を作り終わった厨房は、まさに死屍累々といった有様です。
皆が突っ伏したりへたり込んでいる中、小一郎殿ひとりがまだ竈の前で、鼻歌混じりに何やら作っています。
「皆様、まっことご苦労様じゃったの。せっかく作ったんじゃ、皆も味おうてくれ」
そう言って、初めの頃に作った多少不揃いな蕎麦切りを茹で、温かい汁に入れてネギを散らしたものを配って回ります。
『おお、この汁は旨いですな』
『蕎麦切りって、つるつるしておいしいのですねぇ。
小一郎様、これがお肌にいいって本当なんですか?』
さすがに女性に噂が広まるのは早いですね。
皆が舌鼓を打つ様子を満足げに眺めていた小一郎殿は、しばらくして着物の汚れを払いながら立ち上がりました。
「さて、半兵衛殿。そろそろ着替えておきますか。
たぶんこの後、お館様の呼び出しがあるじゃろからの」
小一郎殿の予想通り、着替えを終えた直後に、お館様のお召しがかかりました。
大広間に入ると、真ん中を開けるように両側にずらりと膳が並び、その正面にお館様とお方様、奇妙丸様の席があります。
お館様は基本的に礼儀に厳しい方なので、皆様は座を乱すこともなく、近くの席の方と歓談されているご様子です。この辺は羽柴家の宴とは大違いですね。
「おお、来たか、小一郎、半兵衛! 構わぬ、近う寄れ!」
お館様が上機嫌で手招きされます。皆の視線が集まる中、御前に出て深く頭を下げます。
「この醤油によって、今年の膳はかつてない味わいのものとなった。また、蕎麦の旨い食し方、脚病に効くことの発見なども実に見事である。褒めて遣わす!」
「はっ! ありがたきお言葉!」
「しかしなあ、小一郎──」
他所行きの言葉で称賛の言葉をかけて下さったお館様が、急に声の調子を今浜の時のようなざっくばらんなものに変えられました。
「おぬしが帰蝶たちに振る舞ったという『鴨ネギ蕎麦』──わしはまだ食べておらんのだが、これは一体どういうことなのだ?」
「あ、いや、あれはたまたま、岐阜に来る途中で鴨が売られておりましてですな──」
「鴨とネギは買いに行かせた。明日にでもわしにも食わせろ」
「ははっ!」
もう胃袋掴まれちゃってますねぇ、お館様。
「──おい、小一郎! このシジミの甘辛煮というのは、実にけしからんな!
酒がいくらでも呑めてしまうではないか!」
柴田様もだいぶ酒が進まれているのか、かなり上機嫌ですね。
「こんなに旨いものを知ってしまっては、悔しいが、この先買わないわけにもいかんではないか。
わしが羽柴を儲けさせてしまうなど──くそう、実にけしからん!」
「あ、それではいっそ、柴田様のところでも醤油や甘辛煮を作ってしまわれますか?」
小一郎殿のあっけらかんとした発言に、柴田様だけでなく周りの重臣方も、ぎょっとしたようにこちらに目を向けられます。
「な、何だと──!?」
「実は、商人たちからの醤油や甘辛煮の引き合いが多過ぎて、もう手一杯なのです。もしよろしければ、皆様のところでも作ってみませんか?」
皆、唖然として言葉もありません。
無理もありません。羽柴家が大いに儲けられそうな機会を、平然と皆に分けてしまおうというのですから。
「そ、それは願ってもない話だが、本当に良いのか? せっかくの大儲けの話を──」
ようやく口を開いた柴田様が、おずおずと疑問を口にされます。
「はい。羽柴領内で作る分ではとても引き合いに応えきれんのです。そうこうしている間に、いずれ他所でも真似されてしまうでしょうからな。
それくらいなら、織田家の皆で作って、一気に日ノ本中に広めてしまった方が織田家全体の利益になります。
いかがですか、この際、皆で醤油や甘辛煮を作って、大いに儲けようではありませんか!」
そう小一郎殿が高らかに宣言すると、広間中が一気に沸き立ちました。
「小一郎! おぬし、実はなかなかにいい奴じゃなぁ!」
柴田様だけでなく佐久間様など、日ごろ羽柴家をあまりよく思っていないとされる方々までもが、小一郎殿に寄ってきます。
「いえ、皆様! これは我が兄、藤吉郎の発案なのです!」
その声に、満を持して藤吉郎殿が立ち上がられました。
「皆様! わしは確かに先だって思いもよらぬ出世を致しましたが、しがない小者であった頃よりお世話になった皆様へのご恩は、片時も忘れたことなどありません!
これはわしからの、ほんのわずかばかりのご恩返しなんですわ!」
「その気がある方は、職人をしばらくわしらに預けて下され! 味噌造りの職人なら、さほど時間もかけずに技術を習得できるでしょう。
皆さんは、蔵と働き手と材料を用意して、待っていて下され。羽柴家で立派な職人に育てて、お返しいたしますので!」
「蔵の造り方や材料の調達についても、相談に乗りますぞ! ささ、皆様、ご遠慮なさらず──」
本当に変わり身が早いですね、藤吉郎殿。
小一郎殿がこの話を提案した時、初めは藤吉郎殿はかなり渋っておられたのです。
せっかくの儲け話を、何でわざわざ他の者に──と。
しかしこの話を持ち掛ければ、おそらくどなたも乗って来るだろう、そして利害で一度関係が結ばれてしまえばこの先、羽柴を追い落とそうとはしにくくなるはずだという小一郎殿の説得に、ようやく折れてくれたのです。
それなのに、この堂々たる話しぶり──。役者ですねぇ。
もちろん羽柴家としても、何も善意から儲け話を皆様に分けたわけでもないのです。
どのみち、羽柴領内での製造だけでは、全国的に広まるであろう醤油の需要には応えきれません。
そして、織田家の皆様が醤油を製造したところで、近在で売る分はともかく、遠方に売るためにはどうしても商人たちの力が必要になります。
しかし、日頃から商人を見下しがちな武家が、商人と新たに関係を築いていくのはそう簡単ではありません。となれば、多少の仲介料を払っても、織田家や羽柴家の販売網に委託してしまう方が手っ取り早い──。
織田家や羽柴家は、そこで少しずつ利を得続けようという思惑なのです。
自分たちで全て作って売るより、確かに儲けは大幅に減りますが、それ以上に他家との軋轢をなくしておくのが今の羽柴家にとって最も重要だ、というのが小一郎殿の考えなのです。
「しかしなぁ、小一郎殿。あいにく、わしの領地には小さな川しかないのだ。甘辛煮にするような魚や貝など、ほとんど採れないんじゃが──」
中にはそんな悩みを口にされる方もおられます。
「ああ、甘辛煮は何も魚や貝じゃなくてもいいのです。
蜂の子やキノコや山菜、小さく切ったタケノコやごぼう、鹿やイノシシの肉などでも、たぶん作れるでしょう。
風味づけにもワサビやニンニクなど、わしがまだ試していないものも色々と試してみてはどうでしょうか。
それぞれの領地で独自の名物が色々と出来れば、なかなか面白そうではありませんか?」
そんな小一郎殿の提案に、お館様が食いつかれます。
「それは面白い!
皆の者、それぞれに工夫を凝らし、わしに新しい旨いものを食わせてくれるよう期待する。
特に気に入ったものには、褒美を取らせるぞ!」
『ははぁっ!』
翌日の評定も、実に円滑に話が進みました。
小一郎殿が今度は新しい農機具を開発したということに、重臣の方々はまたしても唖然とされてましたが──。
その後、お館様からこれらを普及させるために女性の働き口を積極的に作っていくこと、孤児たちを救済して養育すること、そしてその責任者にお濃の方様が就任されることが告げられましたが、意外なほど抵抗なく受け入れられたのです。
この辺りの話については、お館様のご配慮により、あえて羽柴からの発案だということは語られなかったので、無用の反発が避けられたのかも知れません。
密かに警戒していた無明殿からの探りが入ることもなく──こうして、あの日おね様の枕元で語り合われた私たちの政策が、無事に動き出すこととなったのです。
評定が散会すると、私と小一郎殿はお館様からその場に残るよう言い渡されました。
「──さて、小一郎、半兵衛。よくぞ帰蝶を説得したな。
醤油作りを他の者にもやらせると聞いた時は、何を馬鹿なとも思ったが、銭より『人の和』を採ったということか」
「はい。これで、羽柴を嫌う気持ちはともかく、羽柴を排除しようとする動きくらいは抑えられるかと。
派閥間の対立も、当面は少し落ち着くでしょう」
「うむ、なかなか上手いことを考えたな。
──しかし、良かったのか? 唐箕や千歯扱きまであのような条件でとは、あまりに気前が良すぎはせんか?」
お館様が訊ねられます。
さきほどの評定の席で、小一郎殿はそれらの農機具についても、皆様に破格の条件を提示していたのです。
『やはり一台ずつは実物を買って頂きますが、絵図面をお付けいたしますので、領内で広める分は職人に作らせて、好きに売って下さいませ』
これもまた、重臣方の間に狂乱とも言えるひと騒動を巻き起こしたのですが──。
「まあ、あまり羽柴家だけが儲けすぎても妬まれますでの。遠方に絵図面を売ることで、それなりに織田家と羽柴家の利益は確保しちょりますし。
それに──正直申せば、今はそちらに時間を割くのが惜しいのです。新しいものの開発が前に進み始めましたので」
「ほう?」
「今、大砲と、船を大幅に改良する仕組みを作り始めています」
「大砲だと? 南蛮人たちが船に積んでいるという、巨大な鉄砲のことか?
奴らめ、頑として見せてはくれんかったし、売ろうともしなかったのだが──まさか見たことがあるのか?」
「いえ。ですが、鉄砲と原理は同じと聞いております。
ならば何とか作れるのではないかとは考えてはいたものの、実現には時間がかかりそうかと躊躇しておったのですが──ひとり、凄い才能の持ち主が見つかりましてな」
「何? そんな者がいたのか」
「はい。与力の堀次郎殿です」
実は我々はあの日、お館様にも次郎殿のことをある程度伝えておくべきだと話し合っていたのです。無論、三郎助殿の記憶の件は極秘なのですが。
堀家は、あくまでも織田家から羽柴家に預けられた与力です。お館様の思惑により、他の武将のもとへ付替えられてしまうこともあり得ます。
せっかく進み始めた開発が滞らないようにするためにも、堀家は羽柴家付きから外されないようにしておかねばならないのです。
「堀次郎──秀村か? しかし、まだほんの若造ではないか」
「確かにまだ若いですが、ものづくりに関してはかなりの才を持っております。
わしは、新しいものの案はよくひらめくのですが、何しろ突拍子もないものばかりなので、自分でもなかなか上手く言葉に出来んのです。職人に考えを伝えるのにも、そうとう難儀しておりましてな。
しかし、次郎殿はわしの考えをすぐに呑み込み、理路整然とした考えにまとめてくれるのです。
わしのような奇抜な発想はないですが、あれはあれで得難き才能です。
次郎殿の手助けがあれば、わしのものづくりもますます捗ること間違いなしです」
──これも、前もって相談して決めていたことです。
発明や発見をするのは小一郎殿で、次郎殿はあくまでそれを助ける補佐役だということにして、次郎殿の秘密が露見する可能性を少しでも減らそうという算段です。
次郎殿もあまり目立ちたくない、不相応な出世も望まないとのことだったのでこういう筋書きにしたのですが、果たしてこれでいつまで無明殿の目を欺けるものやら──。
「ふむ。確か堀家は、家老の樋口が隠居して替わったばかりだったな。
よかろう、その辺りもおぬしらで手助けしてやれ。
当面、堀家は羽柴家付きからは外さん。それでよいか?」
「はっ。ご高配、ありがたく存じます」
「うむ、よい結果を期待しておるぞ」
さて、今度こそようやく今浜に戻るお許しを得て帰路に就いたのですが、ふと先日の宴での光景を思い出して、ひとつ訊いてみることにしました。
「そういえば、小一郎殿。
一昨日の宴の時、奇妙丸様に声を掛けられていたようでしたが、何を言われたのです?
他の方との話し中だったので、よく聞こえなかったのですが」
「ああ、わしに直臣にならんか、とのお誘いじゃった」
「えっ──!?」
「『料理人としてなら雇ってやるぞ』とのことでな──まあ、ただのお戯れじゃよ」
ああ、そういうことですか。帰蝶様までもが小一郎殿の肩を持つようになってしまわれたのが、面白くなかったんでしょうね。
「──ああいうところが、どうにも、なぁ」
「もう少し大人になっていただかないと困るのですけど、ねぇ」
──帰蝶様との関係はそれなりに改善されたのですが、奇妙丸様との関係を改善するには、どうやら道のりはまだまだ遠いようです。




