050 貸し二つ 浅井駒
今朝は、半兵衛様も芳野様も、どうにも朝餉の箸が進まないようです。
「どうされました? もしや、お口に合いませんでしたかぁ?」
お美代殿が、いつものように間延びした口調で心配そうに声を掛けます。
「あ、いや、そういうわけではないんですが、昨日少し食べすぎましてね」
「私もです。夕べのお鍋もおにぎりも美味しくて、つい──。
あの醤油というのは、まさに魔性の味ですね。お駒殿もそう思うでしょう?」
「はい、まあ。でも、醤油は少し分けて貰いましたし、鍋の作り方もお女中に聞いてきましたので、当家でもお肉さえ手に入れば作れますよ」
「まあ、ではまた、ぜひとも!」
「あ、でもあのお肉って、この辺で手に入るのかしら。お美代殿、売っているの見たことある?」
「うーん、ないですねぇ」
「では、いっそこのお屋敷でも庭で飼ってしまいますか?」
「いやいや、この屋敷まで騒々しくなるのは勘弁してください」
半兵衛様は少し苦笑いです。
お美代殿も一緒になって笑っていますが──やっぱりね。
さて、私には、次に小一郎に会う前にひとつ、どうしても確認しておかなければいけないことがあるのです。
お美代殿には、少し無理を言って半兵衛様に忘れ物を届けて貰うように仕向けたし、今なら少し時間がありそうですね。
──昨日、おね様の寝所であの侍女が糾弾されていた時、小一郎の後ろに現れ、何やら書付けを渡して去って行った女中──ほんの一瞬でしたが、あの横顔と背格好は、間違いなくお美代殿のものだったのです。今浜の屋敷で留守番をしていて、小谷にいるはずがないのに。
──お美代殿は私と同い年ですが、頭半分ほど背が低く、かなり華奢なので二つ三つ年下にも見えます。目は細いのですが鋭いということもなく、のんびりした口調も相まって、どこか眠いのを我慢している猫のような印象があります。
でも、背筋がすっと伸びて、身のこなしもかなりきびきびして、何だか武芸の上級者のようにも見えるんですよね……。
しかも先ほどの会話で、夕べの鍋の中身を「お肉」としか言ってないのに、ちょっと鎌をかけたら、それが何なのかも聞き返さずに返事をしていました。
昨日の鍋の中身を知っていたか、あるいは、まだ行ったことがないはずの羽柴屋敷で軍鶏を飼っていることを知っていたのか──。
でも、それだけではまだ、追及する根拠としては弱い。とぼけられたらそれまでです。
何かもう一つないか──せめて、お美代殿が着ているのを見たことがない、あの時の着物を持っていることを確認できれば。
そう考えて、こっそりお美代殿の私物が入れてある行李を確認しようとしていたのですが──。
行李の蓋に手をかけた瞬間、どこからともなく聞こえて来た男性の鋭い声がそれを制止してきたのです。
『──やめておけ。余計な詮索はせぬ方が身のためだぞ、浅井駒』
見張られていた──!?
私はぴたりと手を止めた姿勢のまま、辺りの気配を伺いました。
──そして、再び手を動かして行李の蓋を開け、中に詰まった着物をかき分け始めました。
『え? お、おい、聞こえなかったのか!? やめておけと言っておるのだぞ!?』
謎の声の主が少し動揺しているのがわかります。
──思った通り、私を害してまで止めるつもりはなさそうですね。
『おい! 少しは人の話を──』
「私に話を聞いてほしいのなら、せめて顔くらい見せなさい! 顔も見せない輩の話など、私は聞いてあげませんよ!」
そう私が虚空に向かって一喝すると──しばらくの後、諦めたような溜息が聞こえたかと思うと、いきなり私の目の前に、父上と同年代くらいの男の人が片膝を着いた状態で姿を現しました。
「はいはい、顔をお見せ致しますよ、これでよろしいですかね」
ふてくされた様に言ったその顔は、あれ、何だか見覚えが──。
「もしかして、治部殿?」
「──!? な、何故その名を!?」
「父上と時々うちで呑んでいらしたわよね? 夜中に起きた時に、こっそり覗いたことがあったのです。
あんなに楽しそうな父上は見たことがなかったので、印象に残っていたのですが、その時に父上が『治部殿』と呼び掛けておられたと──」
「ふう、顔は合わせていなかったはずなのに、まさか顔も名前も知られていたとは。
これでは、忍び失格ですなあ」
「ああ、やっぱり忍びだったのね。
──じゃ、確認させて。貴方とお美代殿は忍びの仲間で、今は小一郎様の指示の下で働いている。そういうことで間違いないのよね?」
「はい、御察しの通りで」
「で、どういうこと? 小一郎はいったいどういうつもりで、私を見張らせているわけ?」
「はぁ?」
──そう、私はとても怒っているのです。
以前、小一郎から届いた文では、私を本当に嫁にしたいと、不器用ながらも結構な量の言葉を書き連ねてあって、『ああ、成り行きで私を嫁にすると言ってたんじゃなかったのね』と嬉しかっ──悪い気はしていなかったのです。
それなのに、こっそり忍びを身近に潜り込ませているというのは、やっぱり私のことを本当は信用していないってことなの?
それに、お美代殿とは仕事以外でも仲良くしていたのに、それも全部、監視のための嘘だったってこと?
「──あっ!? お駒殿! ち、違う、誤解ですぞそれは!」
私が怒りを溜め込んでいることに気づいたのか、治部殿が慌てて否定してきます。
「小一郎様がお美代に命じられたのは、監視ではありません、お駒殿と芳野殿の身辺警護なのです!」
「身辺警護──? 私、別に誰かに狙われるような覚えはないんだけれど」
「──わかっておられませんなぁ、お駒殿」
治部殿が呆れたように溜息交じりにこぼします。もしかして、馬鹿にされてる?
「いいですか? 小一郎様は今や織田家中で知らぬ者がいないほどの指折りの知恵者です。
様々な新しいものを作り出して利を上げ、戦略を立て、弁舌の才に秀で、陪臣ながらお館様の信頼も厚い。
その上、此度の六角の件や『叡山問答』で、公家衆にまで広く名が知られることになりました。
いずれ、他の大名たちにもその名は知られることでしょう。
──これからはますます敵も多くなる、ということです。内にも外にも」
「内にも?」
「はい、やはり、織田のご家中にも藤吉郎様の大出世を妬む方は多いですから。
ただ、羽柴家がこれだけ大きくなったことで、直接手出しするのは難しくなるでしょうな。
となると、この先、羽柴家に手出しをしようとする者は、もっと裏の汚い手も使ってくるようになります。
昨日の侍女のように不穏な噂で家中の不和を誘う、なんてのはまだ可愛い方です。
家人を誘拐して脅したり、最悪、家人やご本人の暗殺、なんてことも──」
ああ、そうか。小一郎と夫婦になるということは、そういう危険もあるということなのね。
「だからこその身辺警護なんです。
──お美代は、性格は多少抜けたところもありますが、腕は確かです。
今回が初めての単独任務なので、出来ればいきなり任務失敗、などという汚点はつけてやりたくない。すぐに代わりの者を寄こせるほど、うちは大所帯ではないので。
ここはひとつ、何も気づかなかったということで、このままお傍に置いてやってもらえるとありがたいのですがね……」
そう言って、治部殿は私の顔を窺うようにしていましたが──。
「うーん、何だか、ちょっと意外ね」
「は? まだ何か?」
「忍びって、もっと冷酷なものと思っていたんだけど。
任務に失敗した部下は切り捨てるとか、正体に気づいた者は始末するとか──」
治部殿は、少し──なぜか誇らしげにも見える笑みを浮かべて応えました。
「ああ、他所の忍びならそうかも知れませんな。ですが、我らの主は、そういうことをお許しにはならないので」
「主──? 小一郎は、貴方たちの雇い主なんじゃないの?」
「いえ、小一郎様は我ら一党を、家臣として召し抱えて下さいました。
その上で我らのような忍び如きに、金で雇われていつでも使い捨てに出来るような道具ではなく、自分の頭で判断する人間になれ、その上でおぬしらの心からの忠義が欲しい、とまで言って下さいましてな。
その日から、我らは小一郎様に心の底から忠誠を誓っておるのです」
「ふうん──」
「それゆえ、我らが主君、小一郎様が最も大事に想っていられるお駒殿の御身は、我らにとっても最優先でお守りせねばならんのです」
え、ちょ、ちょっと──!? 最も大事にって──!?
「よろしいですか? お駒殿に護衛を付けるということは、万一お駒殿に危険が及ぶとなれば、小一郎殿にとって大変困った事態になるということ。
つまり、それだけ小一郎様が、お駒殿を大事にされ、愛おしく思っておられるということなのです」
──だ、駄目だ、感情を抑えろっ、感情を顔に出すな浅井駒っ!
「ここはどうかひとつ、我らに御身を守ることを、お許し願えないかと。──お方様」
したり顔でにやにやしている治部殿に、何とか一矢報いねば──!
「──よくわかりました、治部殿。では、今回の件は、貸し二つということで」
「え? 二つ、ですか?」
「ええ、まず、お美代殿の正体を見破ったことを見逃すことで、ひとつ。
それと、治部殿。いくら気を許した友と呑んでいたとはいえ、その子供に顔を覚えられていたこと、そして、子供に見られていたことにも気づけなかったこと──。これ、配下の者に知られたら、さすがに恰好がつかないですよねぇ?」
「うぐっ──」
ふふん、形勢逆転。
私がやり込められっぱなしで終わらせるような大人しい小娘じゃないことを、よーく覚えておいてもらわなくちゃ。
「黙っておいてさしあげてもいいんですけど──おわかりですよね?」
お昼過ぎに、半兵衛様が帰宅されました。あれ、まだだいぶ日も高いのですが。
「お帰りなさいませ、半兵衛様。今日はまた随分とお早いのですね」
「ああ、お駒殿、それがですね……」
いささか困ったようなお顔の半兵衛様に続いて入ってきたのは──。
「おお、おったか、駒!」
「お、お館様っ!?」
「一緒に来い! 芳野、しばらく駒を借りるぞ!」
そう言うと、お館様は返事も聞かずに踵を返して、すたすたと歩き始めます。
遅れないように速足で追いかけながら、半兵衛様に事情を聞いてみたのですが──。
先ほど、昼食を取っている時、御屋形様が小一郎に突然、新しい産業その二その三とやらをすぐ見せろと言い出したそうなのです。
小一郎は準備があるということで、昼食も放り出して一足先にご自分の屋敷に慌てて戻ったとのことなのですが──。
「ところが、通りがかりに『ここが私の屋敷です』と言ったら、お館様が突然『お前のところの侍女、駒とか言ったな、あれも連れて行くぞ』と言い出されて、ですね……」
何それ? 何で私が? 私、また気づかないうちに何かお館様にやらかしちゃった?
──などと混乱しているうちに、小一郎の新築の屋敷に着きました。こんなに近かったのね。
建物は出来たものの、家人の採用のための時間が取れず、まだ住んではいないと聞いていたけど──。
「小一郎、来たぞ! 用意は出来ておるか?」
「お館様、出来ればもっと早く言って下され。準備にも時間が必要でして──って、何でお駒がここにおるんじゃ?」
「そんなの、私が聞きたいわよ。訳も分からず、お館様に急に連れ出されて──」
お館様に文句を言う訳にもいかないので、少しぶっきらぼうに小一郎に答えます。
すると、お館様が少し楽しそうにおっしゃられたのです。
「駒も、将来の旦那がどのようなことを考えているのか、知っておいた方がいいと思ったのでな。連れて来てやったのだ」
「えっ──!? な、何でそのことを──!?」
「昨日の様子で、すぐに察しがついたわ。お前ら、互いにずいぶん目で追っていたぞ?
それに小一郎の想い人というのが、いい女だが怒らせるとおっかない、と聞いていたのでな。駒は条件にぴったりではないか」
──ちょっと、小一郎! あんたお館様に何てこと言ってるのよっ!?
「駒、こいつがわしに叡山焼き討ちを思い止まらせた一言が傑作でな。半兵衛、覚えておるか?」
「ええ、勿論です。『こんな戦も止められんようでは、わしは惚れたおなごに顔向けできません!』でしたかねぇ?」
──うわ、こんなに真っ赤になった小一郎の顔、初めて見たわ。
たぶん、私もでしょうけど。




