047 お見舞いと噂と 浅井駒
それからの与右衛門は、毎日羽柴屋敷に帰っているようです。
それどころか、朝、おね様に挨拶してから今浜の築城現場の仕事に向かい、夕方に戻るとそのままおね様の寝所の前の不寝番まで買って出て、朝まで一歩も動かないそうです。
最近入った家臣や侍女の中には、寝所の前で聞こえよがしに悪意ある噂話を交わす不届き者もいたそうですが、強面の与右衛門が番をし出してからは鳴りを潜めているのだとか。
でも、あいつ一体いつ寝てるのかしらね。
半兵衛様も、おね様のことは気がかりなようですけど、芳野様の前ではそんなことはおくびにも出しません。ようやくご夫婦で暮らせる日々を迎え、芳野様が口数少なくいつもニコニコされているので、まあ、しばらくここは平和ですかね。
──半兵衛様、お願いですから、芳野様には他の女性の心配をしているなどと思わせないで下さいね!?
小一郎とはまだ会えていません。どうも、おね様のために何やら調べ物で領内を走り回っているようです。
それはいいんだけど──べ、別に寂しくなんてないんだけど──三介殿は大丈夫なのかしら。
お館様の力を借りに行くとは言っていたけど……。
でも、お館様が仮に『双子を不吉だなどと言うことを禁止する』というお触れを出してくれたとしても、やはり人の口に蓋をするのは難しいんじゃないかなぁ。こういうのは、やはりそれぞれの心の問題なんだし。
ここはせめて私たちだけでも、双子のことなど全く気にしていない、ということを周囲にも見せておかないと。
そのためにも、おね様のお見舞いに伺う前に、きちんと釘は刺しておかないと──。
「よろしいですか、芳野様。おね様の前では、双子の事はいったんお忘れくださいませ」
「ええっ? で、ですが──」
「そうでもしないと、芳野様、『ああ、おね様、なんてお可哀想に──!』とか『なんて運命は残酷な──!』とか口走ってしまわれるでしょう?」
「ああ、芳野様は言っちゃいそうですよねぇ」
私より少し後に勤め始めた侍女のお美代殿も、苦笑しながら同意してくれます。
「そ、そんなことはありませんよ?」
「いいえ、あります。おまけに、一度そういう風になってしまったら、芳野様はもう止まらないのですから。
よろしいですか、今回のご挨拶では、同情や哀れみなどは決して口にされませんように。
本当に辛い時、そのような言葉をかけられると、人はかえって辛くなってしまうものなのです。
半兵衛様が日頃お世話になっていることのお礼を述べた後は、あくまで、普通にご懐妊されているお方とのお話、とご自分にくれぐれも言い聞かせて下さいませ」
「──わかりました」
芳野様が、いささかしょげたように答えられました。
申し訳ないのですが、今の弱っておられるおね様に暴走状態の芳野様をお会いさせて、余計なご負担をかけるわけにはいかないのです。
──与右衛門がこの光景を見たら、たぶん『イノシシをもってイノシシを制す』とか言うんでしょうね。ふん。
「こんな姿勢のままでごめんなさいね?
芳野殿、良く今浜に参られましたね。歓迎いたしますよ。
──それと、お駒殿、久しぶりですね。お元気そうで何よりです」
今朝、ようやく与右衛門の『今日はわりと元気そうなので、お見舞いに来ても大丈夫だと思う』との言葉を聞いて、お見舞いとご挨拶に伺ったのですが──これで『わりと元気そう』な状態なの!?
床に着いた状態から何とか上体だけ起こしたおね様は、お腹だけは異様に膨らんでいるものの、お顔はむしろかなりやつれてしまわれたようで──見ているだけで胸が痛みます。
「おね様、どうかご無理をなさらず、横になっていて下さいませ!
芳野様、よろしいですよね?」
「え、ええ」
──え、ちょっと──!? 何で誰もおね様に手を貸そうとしないのよ!?
他家の侍女の私が手を貸すしかないって、いくら何でもおかしいでしょう?
「お手を煩わせてしまってすみませんねぇ、お駒殿。──やはり、二人もお腹に入っていると、身を起こすのも横にするのも、重くて重くて……」
「えっ!?」
「聞いているのでしょう? 双子だということは。
どうも皆さん、不吉だ、縁起が悪いと思っておられるようで──心労をかけてしまってますよねぇ……。
私の世話など、皆さん、本当は気が進まないでしょうに──」
その言葉に、お付の侍女たちの何人かが気まずそうに顔をそむけます。
お、おのれ、こいつらが──っ!?
「何を言われます! おね様が、口さがない者たちのことを気遣ってやる必要など、これっぽっちもないのですよ!」
──ああ、駄目だ。
絶対に憐憫の言葉など掛けない、涙など見せないと心に誓ったはずなのに──。
悪意ある噂を広めたり、手を貸そうともしない者にさえ心を砕かれるおね様の優しさが哀しくて、そのお力にもなれない自分の無力さが悔しくて──。
もう、涙を堪えられそうにありません。
こんな、針の筵のような空気から逃れることも出来ないおね様を、誰か救ってさしあげることは出来ないのですか!?
お願い、小一郎、何とかしてあげて──!
──その時。
『……お、お待ち下さいませ、ただいま取次ぎをいたしますので──!』
『何とぞ、何とぞしばしお待ちを──!』
『ええい、うるさい! おい、藤堂与右衛門、そこをどけ!』
何やら部屋の外が騒がしいと思った直後、
スパーン──!
小気味よい音を立てて障子を開けて入って来られたのは。
ぐるぐる巻きに縛られて猿轡を掛けられた人を無造作に肩に担いだ、その堂々たるお姿──。
一目見て確信しました。このお方こそお館様、織田弾正大弼信長様!!
「お、お館様!? なぜこんなところへ!?」
「おねの見舞いに来たに決まっておるではないか!」
そう言ってお館様は、肩に担いでいた誰かをゴミでも捨てるように部屋の隅に放り投げると、おね様の枕元ににじり寄りました。
「おね、かまわぬ、横になったままで良い。
だいぶやつれてしまったのう。──苦しくはないか?」
「お館様、そんな、あまりにもったいのうございます……」
──お館様って、物凄く怖い方だと聞いていたけど、どこが? とてもお優しい表情をされてるじゃない。
その時、放り出された誰かさんが、ようやく猿轡だけは外れたのか、縛られたまま大声でお館様に食って掛かりました。
「お館様、いくら何でもこれはあんまりですじゃ! 何でこんな仕打ちを──!?」
あ、良く見ると秀吉ではないですか。ちょっといい気味ですね。
「黙れ、藤吉郎っ! 言うておったろう、『おねを粗略に扱ったら承知せん』と!
おぬし、双子のことを聞いてから、ろくに屋敷に戻っておらんそうではないか。
つまらん迷信に振り回されおって──この、この大たわけがぁっ!!」
「ひぃっ──!?」
──前言撤回。やっぱり怒らせるととんでもない迫力の怖さです。
そこにようやく、小一郎や半兵衛様、三介殿が部屋に駆け込んで来ました。
無理やり秀吉を拉致してきたお館様に必死で追いすがって来たのか、息も荒く、髪も服も乱れてひどい有様です。
「こんなにもやつれたおねを放っておくとは、実にけしからん!
お前こそが、下らん迷信だと笑い飛ばして、おねの傍にいてやらんといかんのではないか!
上に立つ者がそのような不甲斐ないさまだから、下の者たちがうろたえるのだ!
それと──小一郎! お前の弁舌の力をもってすれば、家臣どもを説得できたのではないか!? 今まで何をしておったのだ!」
「誠に恐れながら、お館様──」
驚いたことに、お館様の剣幕の最中だというのに、侍女の一人が口を開きました。
あ、おね様の一番近くにいながら手を貸そうともしなかった、ちょっと感じの悪かった人です。
「うむ? 何だ?」
「そもそも、全てはその小一郎様が悪いのではないのですか!?
御一門の小一郎様が叡山にひどい仕打ちをしたせいで、お方様に仏罰が下ってしまったのだと、みな噂して恐れているのです!」
「ほう、ひどい仕打ちだと──?」
それを聞いたお館様の目がすぅっと細められました。
それに気づいていないのか、その侍女はさらに興奮気味に言葉を続けます。
「何でも、高僧を愚弄したり、首を差し出せと詰め寄ったそうではないですか!
あまつさえ、仏罰などまやかしだ、いつでも当ててみせろと放言したとか……。
小一郎様が、そのような傲岸不遜な態度で叡山を追い詰めたりしなければ、お方様がこのように呪われた子に苦しめられることも──!」
「──ずいぶんと詳しいのぅ。ただの噂というより、その場にいた誰やらから詳しく教えられたようにも聞こえるが?」
「あっ……!」
しゃべり過ぎてしまったことに気付いた侍女が口を手で塞ぐのを見て、お館様が高らかに声をあげられました。
「──皆の者! 誤解があるようなのではっきり言っておく!
腐敗した叡山を焼き討ちし、坊主どもなど皆殺しにしてしまえと命じたのは、このわしだ!
そのわしを、命がけで諫め、一人も殺さずに事を収めたのがこの小一郎だ!
交渉の場で多少荒っぽい言葉は使ったが、こやつは金と権力に溺れる腐れ坊主から力を奪い、真面目に学問や修行に打ち込める本来の叡山を取り戻してやったのだ!
そんな小一郎のせいで、おねに仏罰が下っただと? 断じてあり得ん!
以後、そのような世迷言を口にするものは、御仏の心を手前勝手に捻じ曲げて広める不心得者として、厳しく罰する! しかと心得よ!」
『ははぁっ!』
威厳あるお館様の声に、おね様とその侍女以外の全員が一斉に平伏します。
「──さて、ゆっくりと話を聞かせてもらおうか、おぬしにそのような話を吹き込んだのが誰なのか、をな。
腐れ坊主どもか、羽柴をよく思わぬ家中の誰かか、それとも、やんごとなき立場のお方なのか──」
「ひっ──!?」
──その時、部屋の入口近くにいる小一郎の背後に女中らしき小柄な人が近づき、何やら紙を手の中に押し込み、すぐに離れて行くのが見えました。あれ、今の人って……?
その紙に素早く目を走らせ、小一郎が口を開きました。
「お館様。その侍女からはたぶんもう何も聞き出せませんぞ。病気の母親の薬代で相当苦しかったようで、金で噂を流すことを引き受けたらしいです。
──お前さんが妙な噂を流している大元だとは少し前から気付いちょった。裏で誰が糸を引いているのか確かめたくて、色々調べさせてもらったんじゃがな。
お前さんが最近よく会っておったという男は、詰問しようとしたら自ら毒を呑んで死んだそうじゃ。ありゃ、おそらく忍びじゃな」
──青白い顔で口をつぐんでしまった侍女を、与右衛門が部屋に入ってきて連れ出そうとします。
「あの、与右衛門殿、あまり手荒な真似は──」
こんな時にも、おね様ったら──!
「心得ております。事情を訊くだけです」
「ああ、それとお仙殿にはお母上の病のこともあるのですから、勤め口がなくなってしまうというのも──」
「──はっ! 何を今さらきれいごとを! ひどい噂を流した私をさぞ憎んでいるのでしょう!?
さっさと馘にすればいいじゃないですか! それとも本当に首を斬りますか!?
大名の奥方様にとって、わたしのような下々のものがどうなろうと、どうせ痛くもかゆくもないのでしょう!?」
与右衛門に後ろ手を掴まれながら、おね様に最後の悪態をつくお仙とかいう侍女の姿に、私は思わず立ち上がって──気付いたら、全力でその頬をひっぱたいていました。
「なっ──!?」
「馬鹿じゃないの、あんた……。
あんなにお傍にいたのに、あんたはおね様の何を見ていたの?
あの方は、初めて会った私にも手を差し伸べ、心を救って下った──どんな人にでも分け隔てなく向き合って下さる方よ。
さっきだって、手を貸そうともしないあんたたちのことを逆に気遣ってたでしょう?
それを、大名の奥方だから相手にしてくれるはずがない、助けてくれるはずがないと勝手に決めつけて、いじけて──。
得体の知れない男の怪しい話に乗るよりも、まず自分が仕えるお方がどういうお方なのか、どうしてちゃんと知ろうとしなかったのよ!!」
「──うむ、娘、よくぞ言ってくれた。まこと、胸がすく思いぞ」
侍女が連れていかれた後、最初に口を開いたのはお館様でした。
──あぁっ、しまった! 私ってば、お館様の前でとんでもないことを──!
ここはもう、土下座しかありません!
「ご、御前にもかかわらず、誠に不調法な真似をいたしました! 申し訳ございません!」
「なに、かまわん。おぬしのおねを慕う気持ち、わしも嬉しく思うぞ。
さて、これで下らん噂も下火になろう。藤吉郎、おぬしも──」
「いや、それがですな、お館様──」
その時、小一郎が、何やら歯切れが悪い様子でおずおずと口を開きました。
「わしも『双子が不吉』だなどつまらん迷信だと笑い飛ばして、皆を説得しようとはしておったんですが、事のほか皆の信じ方が根深くて、ですな。
医師やら産婆やらから話を聞き回っておったんですが、どうも根も葉もないことだとも言い切れないようでして──」
「どういうことだ? 双子が不吉だということに理由でもあるのか? 小一郎、答えよ」
「あ、いえ、それはここではいささか──」
ちらりとおね様に目を走らせます。おね様にはあまり聞かせたくない話なの?
でも、おね様は青白い顔に笑顔まで浮かべて、気丈にも小一郎に続きを促されたのです。
「私なら大丈夫ですよ、小一郎殿。ちゃんと聞かせて下さい」
「い、いや、しかし……」
「──主君の妻の命令ですよ。包み隠さず、全部話しなさい」




