039 諫言(かんげん) 竹中半兵衛重治
※ ご注意 ※
ここ何話かの中で、仏教勢力に対するかなり批判的な表現があります。
これは、この当時の寺社勢力に対するものであって、筆者に現代の仏教各宗派や信者の方を批判・非難する意図は一切ありません。
その点、ご理解の上、ご容赦下さい。
織田軍が、叡山に向けて動き出しています──。
お館様率いる本陣が瀬田を渡って淡海(琵琶湖)の南から北上し、小谷に集結した第二陣が高島郡の兵を集めつつ淡海を北回りで南下し、叡山のふもと坂本を目指します。
その数、合わせておよそ六万。
さらに、京郊外に集結した第三陣二万五千が叡山の裏手である大原から八瀬・一条寺を固め、総勢八万五千の兵が叡山を完全に包囲しつつあります。
ここに至り、叡山は慌てて使者を立て、黄金三百枚を献上するという条件で和睦を申し出てきましたが、お館様はこれを一蹴、坂本の地に布陣されました。
叡山付近の平野部は狭く、多くの兵がいられる余地はありません。──結果、三里もの長きにわたって湖岸線が織田兵によって埋め尽くされるという、前代未聞の包囲網となりました──。
「小一郎、半兵衛殿、待っておったぞ!」
我々、小谷の羽柴勢が堅田付近に着陣すると、作戦の立案者として本陣に詰めていた藤吉郎殿が駆けつけられました。
「──藤吉郎殿、お館様が公方様を『朝敵』と見做すと宣告されたと聞きましたが、まことですか?」
「おう。手紙公方め、お館様の書状が届いてもろくに読まんと、相変わらず『織田を討て』との書状を出しまくっておったらしいわ。日ノ本中に自分で『御英慮に逆らいます』と言い廻ったようなもんじゃ、もはや、言い逃れは出来ん」
「今後、公方様は如何されますかね?」
「さあな? まあ、将軍を返上するとも思えんし、どこかに逃げるんじゃないかの。
そんなことより、今は叡山攻めのことじゃ。
──お館様は、本気で叡山を焼き払い、一人残らず斬るおつもりらしい。
今、公家衆や重臣方が必死で止めておられるが、全く聞き入れてくれんでの。
全く、どうしたらいいもんかのぅ──。二人とも、何かいい知恵はないか?」
藤吉郎殿もほとほと困り果てているようです。
「しかし、藤吉郎殿、六角を匿ったというだけで全山焼き討ちとは、さすがにやりすぎでしょう。お館様は何故そこまで──」
「それがな、浅井の御隠居と朝倉、叡山の間で交わされた密約の情報があったんじゃ。織田が本願寺と戦をした際に、浅井・朝倉が湖西を南下して、京を急襲して織田を挟撃するつもりだったそうじゃ。叡山もそれに協力する約束だったらしい」
「そ、それを実際にやられていたら、相当に危なかったでしょうね……」
以前に小一郎殿から聞いた史実では、それをされてしまったが為に、一千の兵で南近江の宇佐山城を守る重臣の森(可成)様や、お館様の弟君のどなたかが討ち死にされたのだとか。
さらに、迎撃に引き返して来た織田軍と、叡山に籠った浅井・朝倉軍の睨み合いが続き、身動きが取れなくなった間に、長島の一向一揆が激化。お館様は、そこでもう一人弟君を失うことになるそうなのです。
それを思えば、その何年後かに叡山の全山焼き討ちが決行されたというのも、わからなくはないのですが……。
「──その密約を知って、お館様が激怒されたんじゃ。戦やまつりごとに介入してくるような寺など日ノ本には不要、この機に滅ぼしてしまえと。
おまけに、公方様の件で、このところ相当にご機嫌が悪かったからな。
──しかしなぁ、神仏に手をかけるというのは、やはりどうしても気が進まなくてな……」
それはそうでしょう。叡山の延暦寺と言えば日ノ本の仏教の総本山とも言える由緒ある寺です。全山焼き討ちなどしてしまっては、それこそ日ノ本中の寺社を敵に回してしまいかねません。
「──兄者。兄者はどうなんじゃ? この戦、やりたいんか?」
その時、私たちの会話をじっと聞いていた小一郎殿が訊ねました。
「たわけ! やりたいやりたくないではないわ! お館様がそう命ぜられる以上、やらんわけにはいかんじゃろうが──!」
「お館様のことは聞いとらん! 兄者自身が、叡山の坊主どもの根切り(皆殺し)をやりたいのかと聞いとるんじゃ!」
「やりたいわけがなかろうが!
向こうに戦う気なんて最早ない。あそこには女子供もおるんじゃ、こんなのはいくさとも呼べん、ただの虐殺じゃろが!
わしとて、本当はやりたくないんじゃ!」
「そうか、やりたくはないか。──わかった」
しばしの沈黙の後、小一郎殿は意を決したようにひらりと馬に乗り、辺りの兵士たちを混乱させぬよう並足で歩みを進めさせました。
「お、おい、小一郎、どこに行くんじゃ?」
「──本陣に行く。わしがお館様をお諫めして、このいくさを止める。
兄者がやりたくもないことをせんで済むようにするんが、わしの役目じゃからな。──それに、あいつとの約束もあるしの」
「──お、おい待て、やめとけ、小一郎! どんなお叱りをうけるかわからん! それどころか下手すりゃその場で手討ちじゃ!」
「まあ、わしに任せてくれ、兄者。最悪でもわし一人の命で済むようにするでの」
「そういうことを言っておるのではないわ! ──半兵衛殿もこいつを止めて下さらんか!」
必死に止めようとする藤吉郎殿や私の言も聞かず、小一郎殿はずんずんと馬の歩を進め、ついに本陣までやって来ました。
ちょうどその時、本陣の陣幕の中から出て来られたのは──。
「こ、これは関白殿下──!」
さすがに小一郎殿も馬から降り、藤吉郎殿に倣って殿下の前に跪きました。
「おや、羽柴さん? お勤めご苦労さんなことですな。
羽柴さんからも弾正大弼(信長)さんに言うてくれませんかの。由緒ある叡山を焼くなど野蛮の極み、兵を収められてはいかがかいなと」
「は、いや、それがしなどでは、なかなか──」
「まあ、お立場的にも難しいですかな──ま、こうなったら、麿と弾正大弼さんの根競べじゃな。ほほほほほ」
公家の方々が軽やかな笑い声とともに去って行かれると、藤吉郎殿が頭を下げたまま、深刻な声で呟かれました。
「これは、お館様、相当に突き上げを食らっておったんじゃろうな──。
まずい、まずいぞ、こんな時に下手なことを言おうもんなら──小一郎、待て、おいっ!?」
小一郎殿を追いかけて入った陣幕の中は、重臣方が多くおられるにも係わらず重苦しい沈黙で満ちておりました。
つい今しがたまで、公家衆による焼き討ち反対の声を受け続けていたのでしょう、お館様も珍しく疲れ切ったご様子です。
「藤吉郎、遅いぞ。何をしておった。
──なんじゃ、小一郎たちも来たのか……」
そのお声にも力がありません。
「そうか、公家衆の相手など、小一郎にさせておけばよかったな。
いや、小一郎もいくさ嫌いだったか……。
で、どうした、小一郎? おぬしまでわしを止めに来たのか?」
「──はい」
「そうか、おぬしまでも、か。
──何で皆、わしのやろうとすることが理解出来んのかのぅ……」
そう自嘲気味にこぼしたお館様は、怒るというよりむしろ少し寂しげでした。
小一郎殿から聞いたことがあります。織田信長という人は、後世でも、それまでの常識を覆すような新しい考えを次々と打ち出したことを高く評価されていると。
その反面、その発想があまりに斬新であるがゆえに、ご自身でも充分に言葉にすることが出来なかった──そのため、家臣の無理解から何人もの離反者を生んでしまい、ついにはその一人に討たれてしまうのだと。
お館様が時折見せる癇癪は、家臣に対してというより、上手く家臣を説得できないご自身への苛立ちからなのかも知れません。
だからこそ、言葉を尽くさなくとも自分の意を汲んで動いてくれる藤吉郎殿や十兵衛殿を重用された。
そして、自分と同じく独創的な発想力を持つ小一郎殿なら、それ以上の存在になってくれるかも、と期待していたのではないでしょうか。
その小一郎殿にまで反対された──。
今の寂しげな声色に、私は、お館様の絶望的なまでの孤独感を垣間見た気がしました。
「──小一郎。おぬしにならあるいは、わしの成さんとすることがわかるのではないかと期待していたのだがな……」
「わかっております。『朝敵』云々というのはただの建前ですな?
お館様が目指すのは『寺社勢力の無力化』。
全ての寺社勢力から力を奪い、今後、戦やまつりごとに関わることが出来なくさせるおつもりなのでしょう?」
ざわっ──!?
重臣方が一様に息を呑みます。小一郎殿が手短にまとめた言葉に、ようやくお館様がなぜ叡山焼き討ちという苛烈な決断をされたのか、得心がいったのでしょう。
「何!? ──小一郎! 貴様、それがわかっているのなら、なぜわしに異を唱える!?」
「恐れながら──お館様、相手を間違っておられます」
「何だと?」
「──お館様。此度の相手が石山本願寺、あるいは長島の一向一揆なら、わしも反対など致しません。
あいつらには、説得など通じません。仏敵と戦い、死ねば極楽浄土に行けると本気で信じている──信じ込まされている。それゆえ、死を恐れず、どれほどの犠牲を出そうとも倦むことなく攻めてくる。あれは、根切り以外ではなかなか止められません。
しかし、叡山の高僧どもは違います。あれは、自分の身と権力と金だけが大事、仏法のために命を賭して戦うなど一度も考えたこともないような俗物どもです。お館様が手にかけるほどの価値もない連中です」
「う、うむ、だが──」
「わかっちょります。他の寺社勢力を屈服させるためにも、一度、無慈悲なまでの根切りを見せつけ、織田の恐ろしさを世に知らしめる必要がある、というのは。
しかし、叡山の坊主どもを根切りにしたところで、一向門徒には全く響きませんぞ。それどころか、むしろいっそう意気が上がってしまう危険性があります」
「──」
「どうせ、いずれ長島や石山の門徒とは全面対決せねばなりますまい。根切りなど、その時にしてみせればよいのです。
しかし、今無理に叡山を攻め滅ぼしても、逆に一向門徒の結束を固め、なにより、せっかくまとまった公家衆の支持を失うことになりかねません。
ここで『織田の条件さえ呑めば、存続だけは許される』という実例を作っておけば、あるいは各勢力が徹底抗戦でまとまるのを阻害できるやもしれません」
「──ううむ」
お館様の気持ちがかすかに揺らいだのを感じたのか、小一郎殿が一気に畳みかけます。
「お館様! どうかそれがしにお命じ下さいませ! お前の弁舌で叡山の牙を抜き、屈服させてみせよ、と!
この羽柴小一郎長秀、必ずやお館様の望む以上の条件を、叡山から引き出してご覧にいれます!
それが無用、あくまでも焼き討ちを決行されるというのなら──今、ここでそれがしを斬り捨て、その屍を踏み越えてからにして下さりませ!」
「な、何っ!? 小一郎、おぬしまさか、こんなことのために命を懸けると申すのか!?」
「はい。これははっきり言って、やらなくても済む程度の、実に下らんいくさです。
こんないくさひとつ止められんようでは──わしゃあ、惚れたおなごに顔向け出来なくなりますんでの」
『──え?』『──はぁ?』
重臣方が一様にあっけにとられる中──お館様は、しばらく顔を伏せて小刻みに震えておられましたが、やがて堰を切ったように大きな笑い声をあげられました。
「ぐ……くく──、はあっはっはっはっは、何じゃあそれは!?
今までおぬしの言葉には驚かされっぱなしだったが、これは一番の予想外じゃ!
鬼神の如き策を次々と生み出すおぬしの口から、まさかそんな俗っぽい言葉が飛び出してくるとはのう──くっくっく……」
笑いを堪えるように少し俯かれたお館様の目元に、わずかに光るものが見えたのは、私の気のせいだったのでしょうか──。
「ふぅ。──まあ、仕方がないのう。
義昭を諫めなかった幕臣どもを叱り飛ばしておきながら、わし自らが、家臣の命懸けの諫言を撥ねつける訳にもいくまい。
──わしも少し、意固地になっておったようじゃの」
ようやく笑いを収め、辞儀を正して小一郎殿に向き直ったお館様は、その目にいつもの生気を取り戻しておられました。
「小一郎。そなた、まことに叡山を屈服させられるのだな?」
「はっ!」
「では、叡山にどのような条件を呑ませるべきか、考えを申してみよ」
「はっ──まずは武力と、それから資金力を奪うこと。
さすれば、まつりごとや戦に関与することなどおのずと出来なくなりましょう。
それと──そうですな、一時的に奪うだけではなく、将来にわたってその二つを再び蓄えることが出来なくする。これこそが重要かと」
「──うむ、よかろう。
小一郎の命懸けの諫言と、その娘御とやらへの思いに免じて交渉を許す。ただし、今言った条件は絶対だ。それだけは譲らんぞ?」
「はっ。お任せください」
「──誰かある! 関白殿下に伝えよ! 半刻後に叡山の使者と会う、向こうの出方次第では和睦もあり得る、とな!
──で、小一郎、それはそんなにいい女なのか?」
「そりゃあもう──というより、怒らせるとかなりおっかないもんで」
「ははは、何だ、すでに尻に敷かれておるのか! よし、嫁にすることが決まったならその娘を連れて来い、わしにも一度会わせろ!」
「は、その折は是非」
──先ほどまでの鬱屈から解き放たれたように、楽し気に小一郎殿と雑談を交わすお館様を見ながら、私はしばし、自分の考えに没頭していました。
実は、この後、織田家にとって大いに利のありそうな策をもう一手、思い付いていたのです。小一郎殿にも藤吉郎殿にも、まだ話してはいないのですが。
しかし、この策をお二人が提案されるとなると、さすがに羽柴の手柄だけが突出して大きくなり過ぎてしまうかも知れません。
この策は、どなたか他の方にそれとなくお譲りするべきなのでしょうか──?




