038 決裂 羽柴藤吉郎秀吉
六角親子が叡山に逃げ込んだ──。
この報を聞き、お館様はご嫡男の奇妙丸様とともに、討伐の兵を率いて南近江に移られた。
かつて六角の本拠だった観音寺城(滋賀県近江八幡市)付近の平野部に陣を敷き、付近の兵の参集を待つことにされたのだ。
事ここに至り、こっそり六角と組んでさんざん織田に嫌がらせをしてきた甲賀郡の国人衆たちもやむなく兵を出し、織田家にいっそうの服従を誓ってきた。
まあ、落ち目の六角の巻き添えにはなりたくはないわな。
大和の支配権をめぐって争い、犬猿の仲だった松永(久秀)・筒井(順慶)も揃って従軍を申し出てきた。
また、尾張・美濃方面からの後続の兵が小谷城周辺に集結し、淡海(琵琶湖)の北回りで進軍を始め、山城・摂津・河内の兵が京郊外の宇治槙島に集結しつつある。
三方面からの包囲作戦──すでに兵は総勢六万を超えようとしている。
──そんな中、幕府から三渕大和守(藤英)・細川兵部大輔(藤孝)兄弟が、公方様の内示を携えて、お館様の本陣に慌てて駆けつけてきた。
公方様は大いに焦っていた──。
此度の清酒の件では、昨秋の試飲の段階から、完全に蚊帳の外に置かれてしまっていたからじゃ。
清酒の噂だけは聞こえてくるものの、織田が公方様に献上してくる様子もない。かと言って、自分から催促するわけにもいかんしな。
そうこうしているうちに、六角の騒動じゃ。
公方様を介さず、直接織田に六角追討の宣旨が下されたことで、さすがに幕府も気付いた。
織田は公方様のことを全くはばかろうとはしていない。そして、今はまだ人々の口には登っていないものの、やがて世間も気付くじゃろう、もはや帝も公方様のことなど気にも留めていないということに。
このままでは、幕府の沽券に関わる。叡山からの仲裁の願いは絶好の機会、何としてでもこの機を使って、幕府の存在感を世に知らしめねば!
──そう意を決して、三渕・細川両氏はお館様の元に駆けつけた──はずなんじゃがな。
「──で、わしにどうしろと?」
お館様は、実につまらなさそうに幕臣の両氏に聞き返された。
申し開きの場には、公家衆も参加されておる。最上位の上座におられるのはお館様と、そして何と、関白の二条(晴良)殿下じゃ。
これまでは親幕府側の最たるお方と目されておったが、此度は松永・筒井への使者に名乗りを上げ、さらにその両軍に守られる形で参陣までされておられる。
織田から謝礼が貰えそうな機会は余さず利用しようということか──この貪欲さはさすがじゃな。
「はっ! 恐れながらこの両名、先日奪った荷が帝への献上品だとは知らなかったと申しております。
なにとぞ、ご寛恕を頂き、命ばかりは──」
幕臣両名の後ろには、白装束に身を包んだ六角親子が、衣装に負けぬほど真っ白な顔色で震えながら平伏しておる。ふふふ、いい気味じゃのぅ。
「そいつらが知っていたかどうかなど、どうでも良いわ。
そもそも、野盗を働くこと自体が許されざる大罪だ。公方様はいつから野盗風情の肩を持つようになってしまわれたのか──」
お館様が、呆れたように嘆息される。
「いや、弾正大弼(信長)殿のお怒りはごもっともなれど、そもそも六角は宇多源氏佐々木氏以来の名門であり──」
「今さら血筋など、何の関係がある? どれほど高貴な血筋であっても、今のそやつらは野盗に成り下がったクズであって、帝の御威光を踏みにじった朝敵だ。
朝敵を共に討つために兵を引き連れて来るのならともかく、言うに事欠いて朝敵の助命を願うなど──
いったい貴様らは何を考えておるのだ!!」
──お館様がついに怒声をあげられた。
が、何だか少し、怒りの中に物憂げな色が見えるのは気のせいなんじゃろか?
「大体、此度の件については、異論も反論も受け付けぬと書状で記してあろうが! 文句があるのなら帝に直接申し上げろ!」
「し、しかし、帝に拝謁がかなわぬのです! 公家衆が邪魔をして──」
悲壮な声で訴え続ける三渕殿に、お館様は冷たく言い放った。
「つまりはそれが朝廷のご意向だ、ということだ。
──なぁ、大和守。いい加減に気付け。帝はすでに、公方様に何ひとつ期待などされておらん。公家衆も、だがな。
此度、幕府は公家衆から六角追討の件、事前に全く聞かされてなかったであろう? 何故だかわかるか?」
「それは──」
「言っておくが、織田からは口止めなぞしておらんぞ?
ただ、ここにいる羽柴秀吉が、公家衆に織田への協力をお願いした時に、一言付け加えただけだ。
『御英慮が下される前に、公方様が反対などして騒がれなければ良いのですが』とな。
それだけで、皆、公方様に対して自ら口を閉ざして下されたのだ。
わかるか? 公家の方々は、公方様への義理立てより織田から得られる利を優先した、ということだ」
「仰せごもっともにございます! しかし、このままでは公方様の面目が立ちません! どうか、ここは公方様の顔を立てて頂き──」
「──何故、わしを殺そうとするお方の顔を立てねばならんのかのぅ?」
お館様が、ふところから一通の書状を取り出し、ひらひらと振るって見せられた。
公方様がどこぞの勢力に送られた『織田を討て』との書状のひとつじゃな。
「──っ!? い、いや、それは──」
「ふん、まあ、いい。ここは公方様の顔を立ててやらんでもない。
それに、六角の。その方ら、奪った清酒の大部分はまだ隠してあると言っておったな?」
「はっ! かなりの量でございましたので、まだ八割方は残っており、甲賀郡のとある洞窟に隠してございます。
ただ、ここで首を刎ねられますと、隠し場所を教えることが叶わなくなりますゆえ──」
「隠し場所を教える代わりに、命は助けろ、か?
なかなかにしたたかだのぅ。──が、嫌いではないぞ。
まあ、拷問して吐かせるのも、甲賀郡中探し回るのも面倒だからな。
──公家の皆様はいかがですかな? 一度、野盗の手に渡ったというケチのついたものですが、清酒の味に変わりは無し、それでご納得いただけますかな?」
「麿は構いませぬ。別に六角の血が見たかった訳でもなし、それに──不足した分の清酒は織田が何とかしてくれるのであろ?」
さらっと付け加えた二条殿下は、やはり強欲じゃのう。
「無論にございます。
──六角右衛門督、その方は剃髪の上、高野山に永蟄居(終生の謹慎処分)だ。どうせ家臣どもからも愛想を尽かされとるようだから、それで良かろう。
丞禎はすでに出家しておるしのぅ──しかし、おぬしは六角の旧臣への影響力も少なくない。畿内には置いておけんが、目の届かんところに行かせるのもな──尾張の外れあたりで永蟄居だ。
二人とも、今後『六角』を名乗ることは許さん。六角家の家督(家長の相続権)はわしが預かり、貴様らの態度次第で、いずれ六角の血を引く者に再興させることも考えてやろう。
──皆様方、落としどころとしては、そんなところで如何でしょうかな?」
「異論はありませぬ」
二条殿下が答え、他の公家衆も頷かれた。
「──皆様のご厚情、誠にありがたく存じます。我ら親子、以後は心を入れ替え、俗世に関わることなく、念仏に専念いたしますことを固く誓いまする」
「うむ。わしと関白殿下と、幕府に対して誓ったのだ。次はないぞ。──連れて行け」
二人の配流の沙汰が決まり、場に少し和やかな空気が流れる──。
三渕・細川殿も安堵したかのように大きく溜息をつき、深く頭を下げられた。
「弾正大弼殿の御配慮、公家の皆様の御宥恕、公方様に代わりまして篤く御礼申し上げます。
では、これより我らは、公方様に事の次第を伝えに──」
「待て、大和守。まだ話は終わっておらんぞ。
──公方様への仕置の件がまだ残っておる」
「仕置──ですと?」
二人が怪訝そうな顔をされる。──わしにも、どういうことだかよくわからん。
──わしと小一郎はあの日、どうせ大事になど出来まいと高をくくっている六角を退治するため、ならばとことん大事にしてやろうじゃないかと考えた。
六角に手を貸す者どもが揃って手を引かざるを得ないほど、とことん大事に、な。
そこで、帝の権威を利用する策を立てたんじゃ。──そのために、清酒を使って公家衆を味方につけるのはわしの案じゃがな。
だが、そこまでしてたかが六角を討つだけでは、費用も掛かり過ぎるし、あまりにもったいない。
そこで、献上の清酒を奪わせた六角を、書状で追いつめて朝倉か叡山に逃げ込ませ、朝敵追討の大義名分をもって、六角もろともにこれに大打撃を与える。ついでに、調停に乗り込んでくるであろう公方様にも大いに恩を売りつけ、行状を改めさせる。一挙三得──そういう算段だったんじゃが。
それが、公方様への『仕置』だと?
お館様は一体、何を言われるおつもりなんじゃ?
「──なあ、大和守、兵部大輔……。
残念だ、実に残念だ。──これまでわしが、どれほど公方様のために尽くしてきたか、おぬしらは知っておろう?
誰も上洛に力を貸そうともせん中、わしだけが公方様のために兵を出して上洛を実現させ、金を出して二条城を建てさせた──。
もともと武家の育ちではない公方様に、武家の棟梁に求められるふるまいなどをお教えするために殿中御掟を作った。──ご自分でもお認めいただいた割には、ちっとも守って下さらんがな。
口うるさいわしが目障りになって、各勢力に『織田を討て』との書状を送り付けておるのも、以前から気付いておる。
だが、いずれわしの誠意もわかっていただけるものと信じ、わし一人が我慢すれば済む話だと目をつぶっておったのだ。
──だがな、これはいかん。これだけは絶対にいかん」
そう言って、お館様は先ほどの書状を二人の前に投げてよこした。
二人は慌てて書状を手に取ったが──いつもの書状とどこが違うのか、どう見てもわからないらしい。
やがて、お館様の顔に、苛立ちが浮かび始めた。
「まだわからんのか!? 日付だ!」
「日付──?」
「それが何の日かわかるか? わしの書状が公方様の元に届けられた、その三日後だ!」
「──あっ! あぁっ……!?」
「わしの書状にはこう書いてあったはずだ。
『六角に手を貸すな、六角追討の最中に織田に戦を仕掛けるな、それをすれば御英慮に背くものとして朝敵と見做す』と。
それを知りながら、織田への戦をけしかけようと画策し続けた──これはもはや『御英慮に真っ向から逆らう意志あり』と見做さざるを得ん!!」
お館様が怒りに震えながら立ち上がられた。
いずれあるいは──とも予想していたが、ついにご決断なされましたか……。
「三渕大和守、細川兵部大輔!! 帰って公方様──いや、『足利義昭』に申し伝えよ!!
たった今から貴様は『朝敵』であり、わしの敵だ!! 覚悟しておけ、とな!!」
「しばらく、しばらく──! 恐れながら申し上げます! 公方様はおそらく、弾正大弼殿の書状をよく読んでおられなかったのです! 御英慮に反するおつもりなど──」
「それがどうしたぁっ!
──まだわからんのか!? 義昭にその気があろうがなかろうが関係ない!
奴の書状を見た者は誰もがこう思うであろう、公方様は此度の御英慮に従うつもりがないのだ、とな。
愚かにも義昭は自らの手で、帝に背く意思ありと日ノ本中に知らしめてしまったのだ。──もはや手遅れだ!!」
三渕、細川両氏は書状を手にしたまま固まってしまった。
──全ての武家の棟梁たる公方様が、まさか『朝敵』とされようとは、今の今まで予想だにしていなかったじゃろうからな。
そんなお二方に語り掛けるお館様のお声は、怒っているというより、むしろどこか悲しそうじゃった。
「貴様ら──何故もっと真剣に公方様の行状をお諫めしなかったのだ……。
公方様のなさり様を見て、世間が『悪御所』などと揶揄しておることぐらい、知っておったであろう?
それなのに何故、好き放題に振る舞わせていたのだ。
──それほどに、公方様のご機嫌を損ねるのが怖かったか?」
「そ、それは──」
「たとえどれほど主君に嫌われようとも諫めるべきは諫める。それこそが家臣の務めではないか?
──わしは、お諫めし続けてきたぞ? たとえ命を狙われようとも、な。
それこそが、本当の忠義だと信じておったからだ」
お館様のお声が、次第に怒気を孕み始める。
「──わしは、後世に『足利幕府を滅ぼした男』として、悪名を残すであろう。
だがな──覚えておけ、わしにそうさせたのは貴様らだ。
忠臣面した佞臣どもめ。──貴様ら、阿諛追従の佞臣どもこそが公方様に道を誤らせ、破滅への道を歩ませてしまったのだ! そのこと、しかと覚えておけ!!」
厳しい言葉を叩きつけられて言葉もないお二方に、お館様は一息ついて、最後の言葉をかけられた。
「──せめてもの情けだ。身の振り方くらいは義昭本人に決めさせてやる。将軍職を返上するなり、どこぞへ逃げるなり、勝手にせぃ。
だが、わしが京に戻った時に、まだ京でのうのうと将軍の座に居続けていようものなら──もはや容赦はせん。たとえどのような悪名を被ることになろうとも、わしは成すべきことを成すまでだ。
武をもって抗うというのなら、受けて立とう。ただし、わしは佞臣どもにかける情けは一切持ち合わせてはおらんぞ。
──一族郎党、皆殺しになる覚悟で挑んでくるが良い」
「──弾正大弼さん、さすがに、ちょっとあれはやり過ぎなのではあらしゃいませんか?」
お二方が顔面蒼白で帰られた後、二条殿下が口元を扇子で隠したまま、眉を顰めて話しかけられた。
「例え、救いようのない阿呆だとはいえ、仮にも征夷大将軍に任ぜられた者を──」
「何をおっしゃいます、関白殿下。
たとえどのような高位におられる方であろうと──いや、高位にあられる方なればこそ、あれほど明白に御英慮に背くと広言したことを許してしまっては、それこそ帝の御威信に傷が付きましょうぞ。
それがしはあくまでも、追討の宣旨に書かれていたことを粛々と実行するまで。全ては義昭めの身から出た錆にございましょう」
「いや、しかし、六角の件も無事片付き、戦もせずに済みましたに、何もそこまで事を荒立てなくとも──」
「戦もせずに? ──何をおっしゃられます、戦はこれからですぞ?
不埒にも六角に手を貸した、もう一つの朝敵を討つ戦が残っているではありませんか?」
そう言って、お館様が不敵な笑みを浮かべて指差したのは──淡海の湖水の向こうに黒々とした姿を横たえる叡山の山並みじゃった──。




