037 六角追討の宣旨 羽柴藤吉郎秀吉
久しぶりの秀吉視点です。
季節が変わり始め、雪が解け出した頃──。
いよいよ、織田家の清酒が、満を持して大々的に売り出された。
公家や帝までもが絶賛されたという『織田の清酒』の噂は全国に広まっており、人々はその味に想像を膨らませ、期待し、一般に発売されるのを心待ちにしていたのだ。
取り扱いをしたがる商人たちの争奪戦により、予想外の高値に跳ね上がってしまったんじゃが、それでもまさに飛ぶように売れとるそうだ。
羽柴家の儲けもかなりのものになっとる。いずれは織田筒の儲けも見込めるし、先々が楽しみじゃな。ふふふ。
が、他の重役方から妬みを買わんよう、いくらかは付け届けもせにゃならんし──そうそう、小一郎や半兵衛殿にも褒美を奮発してやらんといかんな。
──あ、そういや、小一郎の嫁取りの話はその後どうなったんじゃったかな?
そんなある日、ちょっとした事件があった。
雪の多く残る関ケ原を避けて、南寄りの東海道で京に向けて清酒を運んでいた荷駄隊が甲賀郡に入ったところで襲われ、荷を全て奪われたのだ。
襲ったのは案の定、六角父子。
おそらく、やつらは根城にしているどこかの国人衆の城あたりで、さっさと荷を置いて逃げた織田兵の弱腰をあざ笑いつつ、祝杯を上げたことじゃろう。
幻と言われる清酒に舌鼓を打ち、さらに、呑み切れないほどの清酒の残りを売りさばくことで多額の資金を得る皮算用に酔いしれていたはずだ。
──悪いがそれ、わざと奪わせたんじゃがな。
そして、その半月後──畿内に激震が走った。
お館様が、畿内や周囲の大名、寺社勢力、国人衆、果ては大商人に至るまでに、一斉に過激極まりない書状を送り付けたのだ。
その内容は──難しい言葉はわからんので、半兵衛殿が要約して教えてくれたのだが、まあ、とんでもない代物だった。
『古来、何人もの帝や公方様が街道の治安維持を命じてこられたはずだが、近年の、特に甲賀郡の治安の悪さはいったいどういうことなのか。
先日、甲賀郡において、六角親子を名乗る野盗どもに、織田の清酒を運ぶ荷駄が襲われ奪われた。
事もあろうに、恐れ多くも帝や公家の方々に献上する品を、である。
清酒を心待ちにしていた帝や公家衆の心痛、落胆、如何ばかりか。それを思うだけで、この信長、胸が締め付けられる。
六角は、ただ酒を奪ったのみにあらず。奴らが奪ったのは、帝の御威光そのものである。
帝の御威光を踏みにじり、蔑ろにした者を赦すわけにはいかん。
よって此度、六角を朝敵(朝廷の敵)とし、追討する宣旨を出して頂くよう言上し、御許しを頂戴した。
これは織田の私戦にあらず、帝より命ぜられた戦いである。
方々にお願いする。
六角に手を貸すな。六角をかくまうな。六角から清酒を買い取るなどの商いの取引をするな。
これをなさんとしたものは、全てこれ、朝敵の一味と見做す。
くれぐれも言っておく、此度、織田は本気だ。
帝に命ぜられた以上、織田の動かせる全ての兵を使って、文字通り草の根をかき分けてでも六角を探し出す。
甲賀郡の全ての木を伐り、全ての山を切り崩し、全ての谷を埋め、全ての建物を壊してでも、必ずや朝敵を探し出す。
その結果、たとえ甲賀郡すべてが不毛の焦土と化しても、責任は朝敵どもにあるので、織田に文句を言わぬように。
なお、その他の方々についても、少なくともこの戦が終わるまでは、織田に戦を仕掛けるような事は慎むようお願いする。それは、六角を利する行為であり、六角への合力、しいては帝のご英慮に背くものと受け止める。
此度、帝や公家衆の怒りや悲しみはとても深い。
くれぐれも、軽々しい行いからお怒りを買い、千年の後まで朝敵の汚名を被らぬよう、よくよく考えるように。
なお、今回の件については、織田家は異論も反論も一切受け付けない。
文句があるなら六角に言うか、あるいは帝に直接申し上げよ。 以上 』
そして、その後に、この書状を送った相手の一覧がずらっと続くものだそうだ。
──確かに筋は通っているとは言え、かなりの暴論だわなぁ。
そもそも、『朝敵』となったところで、直ちに何かが変わるということでもないらしい。
現に、丹波国で宇津なにがしとやらが、禁裏御料(朝廷の直轄地)を勝手に占有し続け、朝敵とされて久しい。
前々から前の公方様や三好や、近年ではお館様も返還するよう書状を出しているが、全く応じる風もない。まあ、公方様にはろくに兵力もないし、三好や織田が大軍で攻めようにも急峻な山間の地なので、手出ししにくい場所なんじゃが──。
当初、潜伏先で書状の事を聞いた六角も、周辺の各家も、織田からの書状をさほど気にも留めていなかった。
──唯一、義理堅いことで有名な越後の上杉家だけは『織田家の忠勤、誠に殊勝な事也』と、いささかの軍用金を送ってはきたが。
ほとんどの勢力が、どうせ成り上がりの織田が威勢のいいことを言っているだけで、帝もそこまでさせるつもりもあるまいし、さほど大事には出来まいと高をくくっていたのだ。
──ところが書状が届いてからさほど日を置かずに、ほとんどの勢力の元に突然、公家達が個別に訪れた。そして、六角討伐の間はくれぐれも織田家の邪魔をせぬよう、かなり強く忠告したのだ。
ここに至って彼らはようやく気付いた。
織田家による六角討伐を、ほとんど全ての公家が支持していることに。そして、此度は朝廷もなあなあで済ますつもりがなく、すでに事態はとんでもなく大事になってしまっているということに。
実は、この裏にわしの働きがある。
わしは年明け以来、足繁く公家衆たちの間を回り、ご機嫌伺いとともに清酒の宣伝に励んできた。
前回の試飲の時は量があまりなかったので、親織田派の公家にしか味見してもらえなかったが、この春には帝に献上するとともに皆様にも贈呈させて頂く。前回のものよりはるかにいい出来なので、楽しみに待っていて欲しい、と。
今の公家は貧しい、自前で高価な清酒を買うことが出来るものなどほとんどいない。皆、すました顔で礼を言っておったが、ありゃ内心で小躍りしとったな。
そこへ、あの六角による強奪騒ぎじゃ──。
わしは、謝罪に駆けずり回り、頭を下げ続けた。ただし、涙ながらに六角の非を訴え、帝の御威光のためにも六角を討つべきではないか、と吹き込むのも忘れんかったが。
その時に、『もし、織田のためにいささかお骨折り頂けるのであれば、些少ながら謝礼と、そして貴殿の分の清酒も羽柴家で何とかいたしますぞ』と付け加えて──。
実は、帝は当初、織田に六角追討の宣旨を出す事に、あまり乗り気ではなかったらしい。いかに高価なものでも、しょせん酒は酒だ。そんなもののために、あまり大事にするのもいかがなものか、と。
しかし、連日連夜、わしがそそのかした文武百官がひっきりなしに参内し、口々に六角討つべしと強硬に主張してきたのだ。
これに根負けしたのか、あるいは、日ごろ反目し合っている公家衆の意見をたちどころにまとめ上げた織田家に恐れをなしたのか、ついに帝は追討の宣旨を出さざるを得なくなってしまったのだ。
──『食い物の恨みは恐ろしい』とは、よく言うたもんじゃ。
ただ、公家衆は、別に清酒を呑みそびれて怒ったから動いた、ということでもないらしい。
清酒の味を知っているか否か──これがいまや公家衆の間でえらく重要な意味を持つ問題になってしまったそうで──。
公家なんて、しょせん見栄と体裁だけが大事な、つまらん稼業じゃ。
出世といっても家の格によってここまでしか上がれない、という線引きがはっきりしていて、特に高位の役職についてはいくつかの家で順番に回しているだけだ。
これじゃあ、張り合いがないわな。
そうなると、出世を目指して励むより、いつの間にか、今役職に就いているものをいかに早く引きずり落とすか、という事に血道を上げることになる。
もっとも、面と向かって論戦で言い負かすような野蛮な真似はなさらん。なにせ雅な方々じゃからな。
それよりも、ねちねちと嫌味を言うて面目を潰したり、こっそり仕事の邪魔をして足を引っ張ったりと、常に相手の隙を窺っているのだとか。
清酒の件でも、こんな感じらしい。
『先日のお歌の会で、皆様が清酒の味わいを愛でる様を歌に詠み込まれましたのに、○○さんだけどうしてその趣向に外れた歌をお詠みになられましたんかいな?
──おや、まさか清酒の味をご存じなかったので? 麿のような身分の者でも味を知っておりますのに、まさか○○さんがご存じないとは──織田にまた随分に軽ぅ見られておられるようで。
そのような事では、××の職を全うされるのはいささか無理があるのではあらしゃいませんか? ほほほほほ』
──こんな嫌味が飛び交っているそうな。想像しただけでイラっとするわ。
まあ、ともかく。
昨秋に試飲できなかった者は、何としても清酒の味を知りたい。昨秋に試飲した者も、今年の清酒の味を知らなければ、昨秋から馬鹿にしてきた者たちから逆に馬鹿にされかねない。
もはや最新の清酒の味を知っているか否かが、公家衆の沽券に関わる重要な問題になってしまっているそうな。
ま、そういう風潮になるように仕向けたのもわしなんじゃがな。
また、各地の大名や国人衆への使いを自ら引き受ける者も続出した。
──これも、何も親切心からという事ではないらしい。
地方に行けば、向こうもそれなりに公家をもてなさない訳にもいかないし、手ぶらで帰す訳にもいかない。しかも今回は、織田が旅費を持ってくれる。更に謝礼も貰えるし、恩も売れる。貧しい公家にとって、今回地方へ赴くのは大いに旨味のあることなのだ。
更に、追討軍への参戦を申し出る方も多い。
公家の参戦と言っても、数人から十数人の家来衆を連れて織田軍に付いてくるだけで、実際はただの物見遊山でしかない。
戦力的には何の足しにもならない──それどころか、はっきり言ってお荷物でしかないんだが、半兵衛殿によると、織田の私戦ではなく帝の戦だという箔を付けることになるんだとか──。
まあ、これで全ての公家が親織田派になったなどと信じるほど、おめでたくはない。
しかし、こと六角に関してだけは、どうやら皆こちらの思惑に乗ってくれたようじゃ。
代わり映えしない日々を過ごしとる公家衆にとっても、これはめったにない大きな催し物のように感じるらしい。実に生き生きと動いてくれとる。
『仲の悪いものをまとめるには共通の敵を作ってしまうのが一番』とは、小一郎も巧いこと言うたもんじゃな。
六角は、完全に色を失った。
このままでは、日ノ本中に身の置き場が無くなってしまう。それどころか、今は味方である甲賀郡の国人衆が、いつ自分たちの敵に回るかもわからない──。
何とか逃れられないかと血眼になって織田の書状を読み、そして気付いた──書状の送り先の一覧に叡山(比叡山)の名がないことに。
六角親子は、叡山に逃げ込んだ。──実はここに、第一の罠がある。
六角に協力していそうな甲賀郡の諸勢力に送られた書状には、送った先の一覧に、わざと織田と仲のよろしくない叡山や朝倉、武田などいくつかの勢力の名を書かなかったのだ。そのどこかに逃げ込もうと思わせるためにな。
ただ、六角としてもあまり遠くの勢力は頼れないので、おのずと逃げ込む先の選択肢は限られてくる──こちらの思惑通り、叡山か朝倉へ、と。
さて、六角に頼られた叡山は、さぞ困ったことだろう。
まさか、聖域である叡山を朝敵と見做して攻めて来るような事はあるまいが、それでも織田に糾弾されるような状況になるのはまずい。
そこで、公方様に使いを出し、何とか穏便に事を治めてもらうよう仲裁を願った。──実はここに、二つ目の罠があるんじゃがな。
この話から新章になります。
話の構成上、どうしても今回は説明ばかりになってしまって、ちょっと読みにくくなってしまいました、申し訳ないです。
この章では、ようやく小一郎の弁舌の才が存分に発揮される展開になる筈です。でも、次回も小一郎の出番は無いんですけどw
次はむしろお館様の見せ場となります。




