035 家臣の教育 羽柴ねね
一晩かけて、何とかお駒殿への返事を書き上げました。我ながら、なかなかの名文に仕上がったんじゃないでしょうか。
でも──あの時は勢いに流されてしまいましたけど、よくよく考えてみれば、一番悪いのは半兵衛様ですよね?
面白がってお駒殿の気持ちを私たちに内緒にしなければ、あんな騒動にはならず、私もあんなはしたない大声を上げたりせずに済んだのに──。
そう考えたら何だか悔しくなってきたので、今日の朝餉は半兵衛様だけ卵焼き無しです。
その晩、小一郎殿と半兵衛様と久々に秘密の会合を持つことになりました。例の、日ノ本の未来に関する話です。
広間に入ると、すでにお二人が話を始めておられました。
「ああ、義姉上、来られましたか。
まず、紹介しておきます。──治部左衛門、おるな?」
「は」
どこからともなく声がして、気が付くと目の前に見慣れない男性が片膝を付いて座っていました。ああ、これが言っていた忍びの方ですか。
「──日比治部左衛門と申します。此度、小一郎様に召し抱えていただきました。以後、お見知りおきを……」
「羽柴ねねです。──忍びって凄いのですねぇ。本当に一瞬で現われましたよ?」
「は」
「私でも鍛えたら出来るかしら? 藤吉郎殿の浮気現場に突然、こう、しゅっと──」
「いや、さすがにそれは──。浮気の見破り方のコツくらいなら伝授いたしますが」
治部左衛門殿が少し苦笑いしてます。
「あら、それはぜひ」
それから、ここしばらくにあったことをひと通り聞いたのですが──。
わずかひと月足らずの間に、嫁の話だの『無明殿』だの伴天連さんだのと、ずいぶん色々あったのですね。
「──それでですな、お館様か奇妙丸様、あるいは三介殿に天下を治めていただくことを目指すとしても、その後にどういう世にすべきか、ということを考えておきたいと思ったわけです」
すると、治部左衛門殿が小一郎殿に軽く会釈されました。
「では小一郎様、それがしはそろそろ──」
「ん? 何か用でもあるんか?」
「いえ、以前に言いましたように、あまり未来の話に興味がありませんので。
それに、今後のまつりごとの話となると、あまりお役に立てそうにもありません」
「あ、それなら私も──戦やまつりごとのことなどわかりませんもの」
「いや、二人ともいてくれんかの? やはり違った視点からの意見が欲しいし、義姉上には頼みたいこともありますんで……」
まあ、それなら残っておきましょうか。
「いや、しかし任務に直接関係ありませんし、特に知らなくとも支障は──」
「いかん! それではいかんぞ、治部左衛門」
小一郎殿が、叱りつけるような厳しい声を出しました。
「任務に必要なことさえ知っていればいい──それでは今までの、ただの道具として使われるだけの忍びと変わらんぞ。
──今までとは違う生き方をしようと決心したんじゃろ? だったら、『考えること』『判断すること』を人任せにするな。
色々なものを見て、聞いて、自分の頭で考え、自分なりの意見を持て。わしの命令に納得できん時はちゃんと談判に来い。それでもわしが間違っていると思うならちゃんと止めろ。
主君を諫めるのも、家臣の務めじゃ。
──わしは、ただの道具を買ったつもりはないぞ?」
ぎろりと睨みつける小一郎殿に、治部左衛門殿はしばらく黙って考え込んでいましたが、やがて深く頭を下げました。
「承知しました。努力してみます」
「それでええ。部下たちにもわしがどう考えとるか、良く言い含めておいてくれ。
──では、話を始めるかの」
小一郎殿がふところから巻紙を取り出し、畳の上に転がすように広げました。ずいぶん長くて、びっしりと文字が書かれているのですが──。
「──何だかずいぶん、汚い字ですこと」
「う、龍馬の記憶を思い起こそうとすると、どうしても龍馬の手(筆跡)に引きずられてしまっての…」
「これは年表、ですか?」
半兵衛殿が全体をざっと見て質問します。
「はい、思い起こせる限り書いてみました。年号はうろ覚えですが、龍馬が死ぬまでの日ノ本の歴史です」
「なるほど──この、年号の上に書いてある数字は?」
「それは西洋の年号です。切支丹の開祖が生まれた年からの年数だそうで──」
「千五百年以上もあるのですか? ──でも、数字だけだと何だか味気ないですね」
「ああ、でもいい事もあるんですわ。例えば、慶応元年と言っても今から何年前なのか何年先なのか、ぱっとは思い出せんですろ? その点、西洋歴なら一目瞭然です」
「なるほど──このように長い年月の事を考えるときにはそちらの方が便利そうですね」
さすがは半兵衛様、目の付け所が違いますね。
「──さてと、まずは確認じゃな」
小一郎殿が、年表の始めあたりを示して、話を始めました。
「わしが最大の目標としているのは、兄者を天下人にさせないことと、日ノ本を豊かにすることじゃ。
そして、ここにある『大陸出兵』、これはそもそもお館様が言い出したことじゃが、これも絶対に阻止したい。お館様や奇妙丸様がその考えを改めて下さるなら『本能寺の変』の時にお助けし、それが駄目なら三介殿を押し立てて、天下を統一していただき、太平の世を作る」
そこで言葉を切り、小一郎殿が確認するように皆の顔を見回しました。私が頷くと、他の二人もそれに倣います。
「そして、わしが最も警戒しとるのは無明殿と、そして徳川家康です」
これも、前もって少しだけ聞いています。羽柴家の内紛を煽って分断させ、最終的に天下を取るのは徳川様だと──。
「この『関ケ原の戦い』で、徳川の率いる東軍が勝利し、羽柴に代わって政治の実権を握ります。
まあしかし、そもそも羽柴の天下にするつもりはないんで、『関ケ原の戦い』はないとは思うんじゃがな。
ただ、その時に徳川が使ったのが、羽柴家中の人間関係の歪みを利用するような、実にいやらしい手口での。
おそらく、無明殿もその手口は知っているはずなので、まずはその歪みが起こらないようにしておきたい。そこを、義姉上にお願いしたいんじゃ」
「──え、私ですか?」
何か、すごく難しいことを求められてる気がするんですけど……。
「そろそろ兄者は将来の羽柴家の家臣とするために、遠縁の親戚の子らや近在の子らを集めて、育成を始めるはずです。しかしその子らが大きくなっていく中で、大きく二つの派閥に割れてしまう──実は、関ケ原の戦いの大元は、その派閥間の争いです。
義姉上には、その派閥が出来んようにしてもらいたいんじゃ」
「二つの派閥、ですか?」
「はい。槍働きが得意な武官と、領地経営に必要な読み書き算術が得意な文官です。
それぞれに、どうせあいつらは戦場では役に立つまい、あいつらに領地経営の事などわかるまい、などと密かに反目し合うようになってしまいましての。
乱世の間は武官が活躍するのですが、天下統一が近づくにつれ武官の役割が減り始め、代わって文官たちが台頭するようになります。
肩身の狭くなった武官たちは、兄者が突然言い出した大陸出兵に勇んで出ていきますが──前にも言ったように、結果は惨憺たるものでした。
──そこに徳川がつけ込むわけです。
『おぬしらの大陸での苦労、わしにはよくわかるぞ。しかし、ろくに戦も知らん青瓢箪どもが、おぬしらの働きぶりに細かいケチをつけ、ろくに恩賞も出させん。このまま、やつらに牛耳られたままでいいのか?』
などと武官たちをそそのかし、家中を分断させ、関ケ原の戦いを起こさせるのです」
そこで小一郎殿は言葉を切り、私の顔を真剣な目で見つめました。
「──義姉上、そこで、です。
これから集められる子供たちは、おそらく義姉上が世話を任されるはずです。
歴史上でもそうなっていましたし、今や義姉上は織田家屈指の育て名人ですからな」
「はぁ……」
私としては、正直、過大評価だと思うんですけどね。
「で、その子たちがお互い反目し合わないように、育てて欲しいんじゃ。
何も、全員同じように育てんでもいいです。得意なこと、苦手なことはそれぞれあるでしょうからな。
ただ──自分に出来ないことが出来る者に、ちゃんと敬意を払えるようになってほしい。それだけでだいぶ違うと思うのです」
「──私にそんなこと、出来るんでしょうか?」
「勿論です、わしには確信があります。
──実は三介殿は、後世での評価はかなり低いです。
それが、本来の歴史にはなかった義姉上との出会いによってどんどん成長を続けておられる。それこそ、わしらがいずれ将来を託しても良いかも、と思えるほどに。
それは、全て義姉上の教育の賜物です。義姉上ならば出来ます!」
「──わかりました。どこまでやれるかはわかりませんが──出来るだけやってみます」
「頼みます。
やはり、家中に不和の火種は作りたくない。無明殿や徳川に、いつその辺の弱みを突かれるかわかりませんからなぁ」
「──小一郎様は随分と徳川を警戒しておられる、というより嫌っておいでのようで」
しばらく聞き役に回っていた治部左衛門殿がぽつりと呟きます。
「いや、別に徳川殿が嫌いとかいう事ではないぞ。何しろ、ろくに話したこともないんじゃからな。
ただ、徳川幕府のまつりごとを評価しとらん、というだけじゃ。
──あれは、民のためのまつりごとではなかったからな」
「ん? それはどういう意味です?」
半兵衛様が訊ねます。
「徳川幕府が一番重視したのは、いかに徳川の世を永く続けるか、なんじゃ。
それゆえ、幕府を脅かしかねない戦や反乱の芽は、徹底的に潰していった。
大名家に無駄金をどんどん使わせて力を奪い、何か問題が起きればすぐに国替え、お取り潰しじゃ。
百姓からも、生きていけるぎりぎりまで年貢を搾り取った。
──国力を増やしていこうだとか、民の暮らしを良くしようという考えがほとんどないんじゃ」
そう言って、小一郎殿は年表の徳川の時代あたりを示しました。
「国力に余裕がないから、少し天候不順が続いたり、火山が噴火したりすると──ほれ、この年に『大飢饉』、この年にもこの年にも『大飢饉』じゃ。
しかし、そもそも国を災害や飢饉に強いものにしておく──それこそが、まつりごと本来の役目だと思うんじゃがな」
小一郎殿の言葉に、半兵衛様は合点がいったように手を打ちました。
「ああ、なるほど。小一郎殿が鉄砲の次に農機具の改良を始めたのは、そういうことでしたか。
かなり先まで見越して、ということなんですね?」
「その通り。今のうちから日ノ本全体の農業生産力を上げ、少しゆとりも持たせたい。
これから入って来るであろう異国の作物も色々試して、米だけに頼らない国にしていきたいんじゃ。
そのためにも、異国との付き合い方は、よくよく考えてみにゃならん」
小一郎殿はそこで言葉を切り、年表の終わりの方に目を向けました。
「──実は、わしが徳川幕府を評価しとらんというのは、それもあるんじゃ。
異国との付き合い方を徳川が大きく間違えたために、龍馬の時代にとんでもなく大きな国難が起こる。
──遠い未来の話で、皆に直接関わる事ではないんじゃが、たぶん、今から手を打たんといかんと思う。
皆、聞いてくれるか?」
今回、次回と少し歴史のダイジェスト的な話になります。
歴史に詳しくない人にもわかり易いように、かつ、あまりくどくなり過ぎないよう頑張ったつもりなんですが──上手く書けているでしょうか?
なお、ここで語られる歴史観や徳川などへの評価は、あくまでも『龍馬の立場からはこう見えるだろう、こう感じるだろう』という想像の元に書いています。なので、あまり本気で反論をするのはご勘弁下さいw




