030 浅井治部左衛門殿 竹中半兵衛重治
「うう、さすがに呑み過ぎたかのう……」
翌朝、足元のおぼつかない小一郎殿を支えながら、羽柴屋敷へと向かいます。
この長身の小一郎殿を支えて岐阜城の長い坂を下りるとは、私も随分と丈夫になったものですね。
「だから言ったじゃないですか、ほどほどにしておきなさいと」
「新九郎殿があそこまではしゃぐとは、思うてなかったんじゃ──やっぱり、お駒のことは言わん方が良かったかの?」
「言わなかったら言わなかったで、後で知れた時に面倒なことになりそうですからねぇ。
それに、小一郎殿も何だか楽しそうでしたよ」
「ああ、最近、無明殿のことでちと鬱屈が溜まっちょったからの」
やがて羽柴屋敷に戻ると、門の前で与右衛門殿が、何やら難しい顔つきで腕組をして待っていました。
「お帰りなさいませ。先程から小一郎様に面会したいと、御客人がお待ちです。
──いささか妙な雰囲気を漂わせておりましたので、念のためご用心を、と」
「客人?」
「浅井治部左衛門殿と名乗っておいででしたが──」
「──早っ!?」
「浅井治部左衛門でござる」
そう言って慇懃に頭を下げたのは、これと言って特徴のない、四十ほどの風采の上がらない男でした。
なるほど、忍びともなれば、あまり人に覚えられない風貌も大事な資質なのかも知れません。
「羽柴小一郎長秀じゃ。お待たせして──というか、驚くほど早かったの?
長政殿とはつい先ほどまで飲み明かしとったんだが、いつ話を聞いたんじゃ?」
「ああ、昨日の会話は全て天井裏より聞かせて貰っておりましたので」
──まさか、岐阜城に忍び込んでいたのですか? 当然、お館様の忍びもいるでしょうに、それを出し抜いて──?
これは相当な手練れのようです、敵に回したくはないですね。
「ほうか。で、昨日の会話を聞いてみて、どうじゃった? おんしの目から見て、わしはどういう人間に見えたかの?」
「はあ──小一郎様は人をいい気にさせて手玉に取る、なかなかの悪人かと」
──洞察力もなかなかです。さて、このご仁を、小一郎殿はどう味方に引き込むのか──?
「はは、そうか。では、単刀直入に訊くぞ。
わしは今、忍びを必要としておる。そこで、長政殿に仲介をお願いした。
しかし、おんしと久政殿の間に深い縁があったことも聞いておる。
──久政殿を死に追いやったわしからの仕事を引き受けることに、存念はないか?」
小一郎殿の問いに答える治部左衛門殿の言葉は、全く抑揚のないものでした。
「関係ありませんな。忍びはあくまでも金で仕事を請け負いまする。
ご隠居様(久政)には良くして頂きましたが、それもあくまでご隠居様がわしらを手離さんがため。それがしからそのような待遇を求めたわけではありませんので」
「なるほど。『縁』とか『恩義』など、忍びには関係ないということか」
「いかにも」
「ならば、わしからの仕事も、条件次第では引き受けることも厭わん、ということか」
「は」
おお、ならば、何も問題はなさそうですね。
「──何じゃ、つまらんのぅ」
え、小一郎殿、何でそんなことを──?
「は?」
「要は、金次第っちゅうことじゃろ?
なら、わしの依頼についても、より良い条件を出す者がいれば、ほいほい裏切るっちゅうことなんじゃな?」
「失敬な! 一度受けた依頼は、たとえそれ以上の条件を出されても反故にはしない。そこは勘違いしてもらっては困る!」
おや、少し感情的になって来ましたか? これが小一郎殿の手なんでしょうか──。
「そうか。では、依頼の遂行中は決して裏切らん、ということなんじゃな?」
治部左衛門殿が、不愉快そうに頷きます。
「それは済まんかったの。では、よく考えて答えを出してほしい。
わしの依頼内容は身辺警護、機密漏洩の阻止。あとは時々、情報収集してもらうこと。
依頼期間は──そうじゃな、わしの血筋が絶えるまで、ということではどうかの?」
「はぁっ!? ──何を馬鹿な。それでは雇うというより、召し抱えると言っているようなものではありませぬか?」
「そう言っているつもりなんじゃがな」
「……正気ですか? 我ら忍びなど、向背常ならぬもの、犬畜生や使い捨ての道具のように扱うのが世の常で──」
「誰がそんなことを決めたんじゃ!!」
小一郎殿が、治部左衛門殿の言を遮り、本気の怒声を上げました。
「人を犬畜生や道具のように扱う、そんなことが許されていいと思うのか!?
治部左衛門、おんしは自分がいつまでもそんな境遇で良いと、まさか本気で考えちょるんか!?」
「良い訳がないではありませんか! それがしとて、喜んで受け入れている訳ではありません! しかし、仕方がないではありませんか、それが世の常というものなのです!」
「『仕方がない、それが世の常』だと!?」
小一郎殿が憤然と立ち上がりました。
「おんしの目は節穴か!? 目を見開いて、目の前のわしが何者か、よーく見てみろ!
今でこそ偉そうに『羽柴長秀』なんぞと名乗っちゃいるが、もともとわしは尾張中村の貧乏百姓の小倅、ただの小竹と呼ばれた男じゃ!
貧乏百姓の身から、兄者とともにここまで登って来たこのわしの姿を見て、それでも『仕方がない、それが世の常だ』などと、まだ言えるんか!?
世の常などいくらでも変えられる! 織田も羽柴も、そうやって大きく、強くなってきた家じゃ!
おんしらの境遇が変わらんのはな、初めから出来っこないと決めつけて、本気で変えようとしてこなかったからじゃ! いい加減、そのいじけた思い込みを捨てろ!」
「──なるほど、これが羽柴小一郎という人の怖さ、ですか……」
しばしの沈黙の後、治部左衛門殿がぽつりとこぼしました。
「それがしはおだてになど乗せられないと警戒していたのに、逆にこう来ましたか……。
人を手玉に取る名人だとはわかっていたはずなのに、つい、そそのかされそうになってしまう──」
「そそのかしとるつもりはないぞ。わしゃ本気でそう思っとるからな。
おんし、伊賀の流れだという事だったな、服部家は知っとるか?」
「はあ、まあ」
「服部半蔵は、父親の代から松平家に仕え、今では徳川家でひとかどの武将と見なされとる。
滝川一益殿の織田家での出世ぶりも知っちょるじゃろ?
忍びが人として扱われない、扱われるはずがないなどと言うのはただの思い込み、身に沁みついたひがみ根性じゃ。そんなもん、とっとと捨て去ってしまえ」
「──」
「それにの、久政殿はどうじゃった? おんしは、先ほどああは言っておったが、充分、人として大事に扱ってくれていたように思うがな。
本当に、少しも嬉しい気持ちはなかったのか? 恩を感じることは全くなかったのか?」
「い、いや、しかし忍びなどというものは──」
まだ煮え切らない治部左衛門殿に、小一郎殿は少し語気を強めました。
「まだ言うか──。治部左衛門、おんし、久政殿の墓前でもその言葉を言えるんか?
『自分は貴方に犬畜生の様に、使い捨ての道具のように扱われた』と──」
「そ、それは──言えません!
そのようなことはとても言えません──!」
辛そうな顔でかぶりを振る治部左衛門殿に、小一郎殿は少し声の力を落として語り掛けます。
「──大名の当主が血縁の娘を娶らせ、自分の姓を名乗らせる──そんな待遇、家臣でもそうそう受けられんぞ?
忍びとしてのおんしを手離したくないだけなら、それなりの金を積めば済むだけの話じゃ。だが、久政殿は、重臣と言ってもいいほど手厚くおんしを遇した。何故だと思う?
──久政殿にとって、おんしが家臣以上の存在だったからじゃ。それほどに掛け替えのない存在だったからじゃ。
家臣という形には出来なかったかもしれんが、あのお方の心の中では、おんしは大切な重臣のひとりだったのだと思うぞ。
そのお気持ちをも、おんし自身が否定してしまったのでは、泉下(あの世)の久政殿が浮かばれんとは思わんか?」
「……」
治部左衛門殿の目に、明らかに動揺の色が見えます。
やはり、口では『縁だの恩義など関係ない』ように言ってはいても、大切に扱ってくれていた久政殿への思い入れは捨て去れないのでしょう。
怒鳴り合うほどに感情を高ぶらせておきながら、その後にしんみりと諭すような語りかけ──これほど大きな振り幅で感情を揺さぶられては、冷静さを保つのは相当に難しいでしょうね。
やがて、治部左衛門が揺らぎ始めたのを感じてか、小一郎殿は座り直して、唐突に話を変えました。
「治部左衛門、おんし、今、配下に何人おる?」
「え? ──忍び働きが出来る者が男女合わせて十二人、子供と引退した年寄りが十五人、鍛冶や木工を専らとするものが二人、里におりますが──」
「ざっと三十人か。元の浅井領に住んどるんじゃな?」
「はい。ただ、どうやら浅井家との縁もそろそろ切れそうなので、伊賀に戻るか、他に長期の雇い先を探して移住するか、と思っていたところでしたが──」
「よし。その三十人、丸ごとわしが召し抱えよう!
わしゃ、久政殿ほど偉い立場ではないが、その分ごちゃごちゃとうるさい重臣のしがらみがない。わしの裁量でそのぐらいはしてみせるわ。
──近々、北近江は羽柴家のものになることが決まっとる。その時に、おんしらの里の辺りもわしが貰うようにお願いして、その上でおんしに領地として正式に与えよう。
当座の手付金も出す、この条件でどうじゃ?」
「お、お待ち下さい、少し考えてみませんと──」
「──治部左衛門、躊躇っているうちに売り時を逃すのが一番悔いを残すぞ」
「『売り時』──ですか?」
「そうじゃ。わしは今すぐにでも、おんしらの培ってきた忍びの技と、そしておんしらの忠義が欲しい。
その対価として出せるのは、いくばくかの領地と金、武家の家臣としての立場、それと生き方を変える機会じゃ。これを与えてやれる。
──言っておく。今しかないぞ。
わしが他の忍びと渡りをつけた後では、こんな条件は出せん。
わしが、喉から手が出るほど忍びを欲している今こそが、おんしが自分らを最も高く売りつけられる好機なんじゃ。
──選べ、治部左衛門。
これまで通りの犬畜生とさげすまれる忍びの生き方を細々と続けるのか、自分を最も高く評価するわしの元で、人として新しい生き方が出来るよう挑むのか──。
今、この場で決断せんと一生後悔するぞ!」
「──く、くくく」
しばらく黙っていた治部左衛門殿が、低い笑い声を漏らしました。
「まんまとそそのかされ、その気にさせられてしまいましたなぁ……。
──それがしの負けです。我ら浅井党一同、小一郎様に賭けてみましょう」
そう言って、治部左衛門殿は深々と頭を下げました。
「この浅井治部左衛門、以後、羽柴小一郎様に心より忠誠を誓いまする」
「うん、良く決断してくれた。歓迎するぞ。
──ところで、今、おんしらが請け負うとる仕事は多いか? それは今からでも断れるか?」
「今は小さな案件が二つほど──無論、依頼主は明かせませんが。
まだ着手前ですので、違約金を払えば断ることは出来ます」
「いかほどじゃ」
「合わせて四十貫、といったところでしょうか」
「──よし。その分も合わせて、とりあえずの手付として三百貫出そう」
「さ、三百貫、ですと!?」
それはかなり破格の好待遇です。藤吉郎殿の家臣でも、そこまでもらっている者はほとんどおりません。
「こ、小一郎殿、そんな約束してしまっていいんですか? 今、手元にそんな大金は……」
「ああ、お館様に貰う。
実は、春に売り出す清酒は前評判が高まって、もう売り先がほとんど決まっていての。二割の手付金を取っただけで、とんでもない額が集まっとるそうなんじゃ。
羽柴の取り分を少しだけ先渡しで下されと言っても、さほど問題はないじゃろ」
「それはそうでしょうが──」
「半兵衛殿。人に出来ない仕事が出来る者には、人よりいい待遇を与えるのが当たり前じゃ。
治部左衛門、わしゃ人使いは荒いかもしれんが、その分、仕え甲斐のある主人になる、なってみせる。
──いつか、おんしらが子や孫に『羽柴小一郎があの大仕事を成し遂げたのはわしらの働きがあってこそじゃ』と胸を張って自慢できるような、そんな未来を目指そうではないか。
おんしらの働きに、大いに期待しとるぞ」




