003 織田家の使者(二) 木下藤吉郎秀吉
浅井長政殿相手に弁舌を振るい始めた小一郎を見ながら、わしはあの日の小一郎の事を思い出しておった。
「お館様、この際、悪いことはぜーんぶ一人に押し付けてしまうってのはどうですかいの?」
「何!?」
小一郎の意見に、お館様は、完全に意表を突かれたようだった。
「裏切りはあくまで隠居の久政殿が独断でやった事。長政様は、それを抑えきれなかっただけなので、久政殿の首を差し出せば万事解決、という形にしてはどうですろ?」
「……」
「悪いのは全部あいつ、ということにするなら目をつぶってやるよ、と吹き込んでやるのです」
軽口を叩くような小一郎の言葉に、当然の事ながら重臣方は猛反発した。
『何を馬鹿な!?』
『裏切り者を許せというのか!?』
『わしは、身内を浅井に殺されたのだぞ!』
『百姓上がりにはわかるまいが、裏切り者には一族の死をもって償わせるのが武家の習いというもので──』
「では! 方々にお尋ね致しますがの!
ここで強く出て、歯向かう浅井を討つのは容易いことでしょう! しかし、浅井が徹底抗戦を選んだ場合、お市様や姫様方にまで累が及ぶ可能性がございます。
それでも良いと思われますのかっ!!」
小一郎の語気に、重臣の方々が一様に口をつぐむ。
「──それに、『武家の習い』? ふん、それこそ、何を今更、ですのぅ。お館様が、世の習いなどに縛られぬお方だということは、皆様がよくご承知の筈では?」
『──』
「かつて、魏の武帝(曹操)はこう言っていたそうです。『自分の役に立つのならば、たとえ自分の親の仇であっても重用する』と。
浅井長政殿の『武』がお館様にとって役に立つのなら、せいぜい織田家の役に立つよう、こき使ってやりましょう」
──驚いたな。小一郎のやつ、漢籍の知識もあるとは。
わしが、あまり乗り気ではない小一郎を無理やり部下にしたのは、何も特別な才を見出したからという訳ではない。
弟ならばまずわしを裏切らないだろうし、他の部下には聞かせられぬような愚痴も聞いてくれるのではないかと思ったからだ。
実際、兵の調練に混ぜてみても、武人としてはおよそ役に立ちそうにもない。
ただ、実直な人柄からか、他の部下たちをそれとなくまとめるのは不思議と上手かった。
これで、部下の掌握を小一郎に任せて、自分は得意の調略や雑事の処理に力を入れられる。
思っていたよりは多少役に立ちそうか、程度に思っていた。
それが、先だっての金ケ崎での武功といい、今、重臣方を黙らせるほどの気迫のこもった弁舌といい……。
こいつ、いつのまにこれほどの能力を身に着けたんじゃ──?
「──要は、恩を売りつけて、逆らうだけの牙を抜いて、織田家にとって便利な手駒にしてしまえば良いのです。
まあ、さすがに朝倉相手の戦に使うのは、またしても良からぬことを企む家臣が出るかも知れんので、止めておいた方がいいかとは思いますが……。
それでも今後、長島、石山、加賀の一向門徒や叡山(比叡山)など、皆様があまり相手にしたくない厄介な勢力にぶつけるなど、使いどころはいくらでもありましょう。
さらに、お市様やお子たちを人質として差し出させれば、その安全も確保できます。
……ああ、嫡男の万福丸様も預かって、将来、織田の忠臣となるべく、染め上げてしまうのも手ですな。
──さて、これで織田家にとって、一挙何得になりましたかの?」
『なるほど──!』
小一郎の弁舌に、重臣の方々の何人かが納得の声を上げたところで、ただ一人、お館様が低い声で尋ねられた。
「──ひとつ訊きたい」
「は」
「何故だ? ──わしの知る限り、これまで木下は浅井と何の関りもなかったはずだ。それが、何故、そこまで浅井の肩を持つ?」
「──ほうですの、強いて言えば、『もったいない』から、ですかな」
「『もったいない』──だと?」
「はい。お館様の覇業に役立つかもしれない人材を、『武家の習い』とやらに従って捨ててしまうのはあまりに『もったいない』し、お館様らしくもないかと」
「──ははは! 面白い! ならばやってみよ、浅井との交渉、そちと藤吉郎に任せる!」
「は、有難き幸せ!」
──さて、長政殿は、小一郎の説得にかなり心を揺さぶられているようだった。
それはそうだろう。
そもそも、名門の誇り高い越前朝倉家は、新興の浅井家の事を、自領の南を固める従属国くらいにしか思っていない節がある。
北の加賀の一向一揆勢にも備えの兵を割かねばならず、雪深い時期には軍を動かせない。そういう致命的な弱点を持った朝倉家が、防波堤くらいにしか思っていない浅井家の危機に果たしてどれほど本気で援軍を出してくれるものか……。
場合によっては、たかだか動員兵力数千の浅井家単独で、時期を問わずに数万の兵を動かせる織田家に立ち向かわなければならないのだ。
いくら小谷城が難攻不落の堅城であったとしても、援軍もなしに永遠に籠城を続けられる訳もない。
織田を本気で怒らせてしまった以上、いずれは皆殺しになるより他はない。そうも覚悟していたはず──。
そこに降って湧いたかの様に、織田家の方から浅井家存続の可能性が示されたのだ。
──小一郎は慎重に言葉を選んで、あくまでお館様が長政殿に好意的な見方をしており、また、心ならずも結盟時の約束を反故にしてしまった引け目もあるので、此度の裏切りを不問に処したいとの意向を示している、と硬軟織り交ぜて語り掛けている。
──まあ、さすがにあの時のように『こき使う』『手駒にしてやる』などの本音のところは言えんわなぁ。
しかし、知勇兼備の長政殿であれば、これが単に浅井家にのみ利がある話ではないと、察する筈だ。
その上で、この提案を呑むかどうか──。
「──わかり申した。父上を処断し、市と子供らは義兄上にお預け致しましょう」
『──殿!』
『さすがにそれではご隠居様の一派が黙っていませんぞ!』
「黙れ! もはやこれしかないのだ!!
──先程までそちたちも『どうせ殺されるのならば、敵わぬまでもせめて一太刀』と覚悟を決めて、抗戦派とも折り合いをつけておったろう。しかし、なまじ助かる道を知ってしまった以上、その覚悟が、厳しい戦の最中でも揺らがぬと言い切れるか? 今からでも父上を殺して許しを請いさえすれば、と考えるものも出てこよう。そんな、結束の揺らいだ状態で、まともに戦えるか?」
『それは──』
「仮にその状況で降伏したとしても、今示されているほどの条件が認められると思うか?
今ここで木下殿の話に乗ることが、浅井家を存続させ、なおかつ最も良い条件を得られる唯一の好機なのだ。
異論がある者は申し出るがよい! それほど滅びたいのなら、織田軍の手によってではなく、今この場でわしがあの世に送ってくれよう!」
『──異論ございません』
家臣一同が、長政殿に平伏する──何人かは不服そうな顔じゃったが。
──さすがは長政殿。そこに気づいたか。
そう、この話を蹴ったとしても、家中には『もしかしたら死なずに済んだかも知れない』というかすかな後悔の火種がくすぶり続ける。
その火種が戦の最中に発火すれば、どれほど固い結束の軍であっても、もはや内部崩壊しかない。
この話を家臣たちの前で聞いてしまった時点で、長政殿には、わしらが使者である今受け入れる以上の手はないのだ。
──この交渉、わしら兄弟の勝ちだ!




