019 六角の影 竹中半兵衛重治
「六角というのは、それほどに手強い相手なのですか?」
一様に顔をしかめた私たちの顔を見て、三介殿が心配そうに尋ねます。
「いや、強くはないのです。と言うよりむしろ弱い。兵力的には、今となってはどんなにかき集めても三千というところで、今、藤吉郎殿が率いる北近江の軍勢でも充分に対抗できるとは思うのですが──」
「面倒くさい! あいつらの相手はただひたすらに面倒くさいんじゃ!」
髪を掻きむしりながら小一郎殿が吐き捨てました。
六角家は、かつて南近江一帯に覇を唱える名門中の名門でした。
先々代の頃には、将軍家を援助して中央政界にも影響力を持ち、浅井家をも事実上の配下とするほどだったといいます。
しかし、息子の丞禎(義賢)、さらにその息子の右衛門督(義治)の代で、坂道を転げ落ちるように衰退してしまいます。
中央政界を牛耳る三好との戦にも敗戦が続き、永禄三年(1560年)、独立を目指す浅井長政殿との戦に、圧倒的大軍を率いながらも大敗。
さらにその後、右衛門督がある重臣をつまらぬことから誅殺したことで、有力国人衆から一気に信望を失うのです。
織田軍の攻勢も受け、ついには居城の観音寺城を失い、丞禎・右衛門督父子は甲賀郡の国人の元へ逃げ込みます。
かつては南近江八郡から伊勢・大和の一部にまで勢力を伸ばした六角家は、今や甲賀郡一郡をかろうじて抑えるだけに凋落してしまったのです。
「──夏に寝ている時に、耳元で蚊の羽音が聞こえるとうっとうしいじゃろ?
追っ払っても追っ払っても、しばらくしたらまた羽音が聞こえてくる、あいつらはまさにそれなんじゃ!」
「まったく、ちまちまちまちまと姑息な事ばかりしおって……」
私が三介殿に六角家のあらましを説明している間にも、小一郎殿と藤吉郎殿は与右衛門殿相手に、いかに六角が鬱陶しい相手なのかを愚痴り続けています。
与右衛門殿の口元が引きつっていますが──すいません、今しばらくお二人の相手をお願いしますね。
「──で、半兵衛殿、『面倒くさい』と言うのは?」
三介殿が、話の続きを促します。
「ああ、その六角丞禎・右衛門督父子は甲賀郡の国人衆の間を転々としていて、攻めようにもどこを攻めたらよいのかわからないのです。
さらに、小勢を率いて織田軍の荷駄を襲って奪ったり、行軍の列が細くならなければならない地形のところで弓矢や鉄砲を射掛けてきたり、とですね──。
一つ一つは、嫌がらせのようなものですから実害は少ないのですが、叩き潰そうにもするりと逃げてしまって、どうにも手の打ちようがないのですよ。
甲賀の国人衆は忍びとの関わりも多いですから、その辺りが手引きしているのだとは思いますが、まあ、逃げ足だけは早い早い……」
ああ、言っている間に、段々いらいらしてきました。
「甲賀衆も、表立っては『織田家に仇なす連中は必ず捕まえます』などと言ってますが、その裏で六角親子をこっそりかくまったりしているのですから、質が悪い。
──いっそ、横山の戦いの時の様に、ある程度まとまって立ち向かって来てくれると、まだ叩きようはあるのですけどね」
「うーん、よくわからんのですが……」
三介殿は首を捻って思案顔です。
「そのていどの兵力では、織田はおろか、羽柴にすらかなうはずもないのに、何の目的でそんなことをつづけてるんでしょうか?」
「まあ、織田がどこかの勢力と戦っている隙に騒乱を起こして、あわよくば旧領の一部を取り戻したい、くらいは思っているのでしょうけどね。
それよりは、由緒ある名門の六角が成り上がりの織田や羽柴の風下に立たされるのが気に食わないだけではないかと。
何しろ、血筋くらいしか誇れるもののないような連中ですから」
「ふうん、えらそうに名門とか言いながら、やっている事は野盗まがいではないか。呆れるな」
三介殿が、ちょっと怒ったように嘆息します。
「大体、かくまう奴もかくまう奴だ。そやつらをかくまうような奴らがいるから、そやつらも好き勝手できるのであろう?」
三介殿のその言葉を聞いた途端──。
羽柴兄弟の愚痴がぴたりと止まりました。
「そうか……。かくまう奴らがいるからいけないのか」
「かくまう奴らがいなければ──いや、連中がかくまえない状況を作り出すことが出来れば……」
「織田家が言っても聞かぬのなら、もっと上の──ふふふ」
「公方様か──いや、もっと上の──ふふふ」
「『野盗まがい』──そうじゃ、野盗を退治するなら、やはり皆で追い込まねばのう──ふふふ」
「そう、皆で──ふふふ」
「ふふ、ふふふ」
「ふふふふふ」
──むしろこちらの方が悪人のような、実に黒い笑顔ですねぇ。
何だかよくわかりませんが、どうやらお二人の間では意見の一致を見たようです。
「三介殿。何やらお二人には策が浮かんだようですし、あとは任せて、とりあえず飯にしましょうか」
狼狽している与右衛門殿には悪いのですが、ここはいったん離れた方がよさそうです。
「は、半兵衛殿、あれ放っといていいのか? 何だか、すごーく薄気味の悪いことになっとるんだが……」
「ああ、兄弟仲がよろしくて、大変結構なことではないですか。
──では与右衛門殿、後は頼みますよ」
「あああっ、こんなところに置いていかないで下され、半兵衛殿ぉぉっ!」
結局、お二人は兄弟水入らずで放置することにして、与右衛門殿とおね様も交えて夕餉を取ることにしました。
淡海の風で体が冷え切っていたのか、温かい汁が実に嬉しい。
「──まあ、そんな事があったのですか!?」
食後に三介殿が、暗殺未遂とその顛末について、おね様に身振り手振りを交えて説明します。
食事中につい話し出そうとして、行儀が悪いことに気づいて自重したあたりは、まあ、良しとしましょう。
途中で私が話を引き継ぎ、三介殿の成長ぶりについて話す間は気恥ずかしそうにしていましたが。
「──そうなのですか、その子たちもずいぶん苦労してきたのでしょうね」
「ええ。でも、菩提山城に行けば、多少は暮らしぶりも良くなろうかと──」
「──やはり、それがしはいまだ納得致しかねます!」
ふいに、ずっと仏頂面で聞き役に回っていた与右衛門殿が、耐えかねたように強い口調で言葉を発しました。
「あの娘は、不届きにも、御大将のお命を狙ったのですぞ! その下手人を許すどころか、金を与え、あまつさえ働き口まで世話するなど──。
小一郎様も半兵衛殿も甘い、甘すぎます。お人よしにも程があります!
一体何故、あの者たちにそこまでしてやらねばならんのです!?」
「いや、それはですね──」
「待て。──聞いてくれ、与右衛門殿」
その時、私が答えようとしたのを遮って、三介殿が静かに口を開きました。
その姿は毅然としていて、どこか威厳すら感じさせるものでした。




