017 武家の矜持(きょうじ) 浅井駒
悔しいっ──!
憎い仇を目の前にしながら、討ち損じ、あげく地面に這いつくばって見上げるしかない惨めさに負けぬよう、私は秀吉に激しい言葉をぶつけました。
「おのれ、羽柴秀吉! 百姓上がりの成り上がりが! 父上と兄上の仇、殺してやる!」
「──わしが仇……?」
それでも、当の秀吉はまるで関心がなさげです。
「すまんが、娘、心当たりがありすぎて、まるでわからん。
手にかけてきた木っ端武者のことまでいちいち覚えてられんでな」
「こ、木っ端──っ!? 無礼な! 父は浅井家の一門、浅井玄蕃允(政澄)だぞ!」
何と無礼な! 庶流といえども父上は歴とした浅井一門──本来なら百姓のお前なんか近づくことすら出来ないのだぞ!
「玄蕃丞殿? ──ああ、二年程前、六角の箕作城攻めでご一緒したかな?
そういや備前守(浅井長政)殿より聞いたな。側近の玄蕃允殿たち数人がご隠居(浅井久政)を処断することに最後まで反対して、あげく逃がそうとしていたのでやむなく斬ったと。
ならば、真の仇は備前守殿ではないのかな?」
空とぼけたように言いながら、秀吉が、私を押さえつけている男に目で合図を送ります。
すると、すっとその男が離れ、私はようやく上体を起こして大きく息をつくことが出来ました。
忌々しい馬鹿力め。手首がずきずき痛んで力が入りません。足もすくんだままです。鉄砲も短刀も取り上げられています。
でも、気持ちでは負けるものか!
「無論、長政は許さん! だが、もっと許せないのは秀吉、お前だ!
私の兄上と叔父上方は、横山城救援の部隊にいたのだ。──それを、味方のふりをして横山城に迎え入れた上で取り囲み、千人もの兵を皆殺しにしたのは、お前たち羽柴の軍勢ではないか!
誇りある武家には出来ない、まさに、卑しい百姓上がりらしい汚いやり口だな!」
──すると、細められた秀吉の目に、すっと冷酷な光が走りました。しまった、逆鱗に触れてしまったか……。
秀吉は、馬から降りると私の前で膝をかがめ、怒りのこもった顔で私を睨みつけました。
「確かにわしは百姓上がりの成り上がりだ。
そう言われても構わん、腹も立たん。まことの事じゃからな。
だが、百姓を『卑しい』だと? ──おぬし、何様のつもりだ?」
「それは──」
「おぬしが普段口にしているものを作っているのは誰じゃ?
誇りあるご立派なお武家様なら、卑しい百姓が汗水たらして作った米を、ろくな見返りも与えずかすめ取っても当たり前か?
ならば所詮、武家なんぞ毛並みがいいだけの野盗ではないか。本当に『卑しい』のはどちらじゃ?」
「ぶ、武家は百姓を守ってやっているのだ! 見返りを与えていないわけでは──」
「それを口にしてよいのは、戦に負けていない武家だけじゃ。違うか?
戦に負けた武家の者が、守ってやれなかった百姓を蔑むなど、恥知らずにも程があるわ」
──くっ、何も言い返せない……。
私が悔しさに唇を噛みしめていると、秀吉は、急に私に興味を失ったように視線を外して立ち上がりました。
「もういい、時間の無駄じゃ。おい、小一郎、さっさとこやつらを──」
「いやあ、皆殺しと言われても、横山城ではそこまで殺しちゃおらんぞ? そう一方的に責められても、ちと参りましたなぁ!」
その時、空気を変えるように、おどけたような声で秀吉の言葉を遮ったのは、間抜けそうな顔の長身の男でした。これが秀吉の懐刀、弟の小一郎……?
「あの時はちゃんと降伏勧告もしたし、降伏した者は全員助けた。どうしても抵抗を止めなかった者は斬らにゃならんかったが、せいぜい二割ほど──二百人足らずじゃ。
兄上や叔父上のことは気の毒とは思うが、それもご本人が自ら選んだ道ぜよ。違うかの?」
「そ、それは──それでも、あんな汚い手で……」
「戦なんぞ所詮はだまし合い、化かし合い、殺し合いじゃ。綺麗も汚いもない。
そもそも浅井のご隠居が、先に織田家との約定を破ってだまし討ちを仕掛けなければ、こんなことにはならんかったんと違いますかの?」
「そ、それは……」
それは確かにその通りなのですが──何なの、この変な話し方。
「──なあ、兄者。こんな子供を斬っても仕方ないですろ? 大目に見てはやれんかの?」
「おいっ、小一郎! おぬし、何を勝手に──」
な──っ! 命を狙った我らに情けをかけるつもりですか!?
敵の情けなど受けてたまるものですか。
こうなったら、私が暴れて血路を開いて、せめて虎松だけでも逃がして捲土重来を──って、虎松、何をめそめそ泣いて、敵に慰められているのですか!? しかも握り飯までもらって、かぶりついてますし。
「──なあ、娘さん。弟さんはまだ幼いし、始めから戦意などないようじゃ。ここは、弟さんのためにも一度引いてもらうわけにはいかんじゃろか?」
「──」
「わしらが横山城で二百人を殺したことは確か。それが正しかったとか、仕方がなかったなどと言い張るつもりはない。
ほんでも、ああしなければ、おそらく浅井家は二・三年のうちに織田家に一族郎党皆殺しにされていたはずじゃ。
何千人も死ぬところを、何とか最も少ない犠牲で事が収まるよう、わしなりに無い知恵を絞ったつもりなんじゃがな。
それでも、どうしても許せないというのなら──兄者ではなく、策を立てたこのわしを憎んでくれ。
長政殿の気持ちを降伏へと動かしたのも、横山城の件も、策を立てたんは全部このわし、羽柴小一郎長秀じゃ」
羽柴小一郎長秀──。
「わしはの、おんしらの様に戦で悲しむ者がいなくなるよう、早く乱世を終わらせたい。
そのために、お館様と兄者の元で働いておる。
出来れば、なるべく戦なんぞせずに、太平の世を作りたい。
そんなことが本当に出来るものかと思うじゃろ? だから、よく見ていてくれ。
ほんで、わしのやり方や、わしらの作ろうとしている新しい世が間違っていると思った時は、いつでもこの命、取りに来てくれてかまわん。
──ただし言っておくが、わしゃかなり強いからの。相当鍛えてからでないと難しいと思うぞ?」
そう言って、小一郎はからりと笑った顔を見せました。
やっぱり変な人──話し方も変だし。
でも、不思議とその話は私に深く、重く響きました。
「──まあ、いいじゃろ。小一郎の好きにすればええ」
秀吉が、諦めたように溜息をついて、馬に跨りました。
「娘、一度はともに戦うた玄蕃允殿と弟御とに免じて、此度だけは水に流してやる。ただし、次にわしの命を狙おうとした時は──」
「次にやる時は、弟の方を狙います」
「はは、気の強い娘じゃな。せっかく拾った命じゃ、あまり粗末にするなよ。
──よし、誰かに家まで送らせよう」
そう言って、さっきの馬鹿力の方をちらりと見ます。
うう、あいつは苦手なのに──。
「では、私がお送りしましょうか」
「ん、半兵衛殿、任せた」
こちらの物腰の柔らかそうな人ならまだマシかしら。
──あっ。
「すいませんが、その短刀は返していただけませんか? 父の唯一の形見なのです」
すると、ずっと虎松の面倒を見ていてくれた私より少し年下らしい若侍が、馬鹿力殿から短刀を受け取りました。
「今おわたしするわけにはいきません。家についてからお返しします。それでいいですか?」
私が頷くと、その少年は馬上の秀吉に声をかけました。
「義伯父上。わしにもこの二人を送らせて下さい」
「いや、三介殿、それはさすがに──まあ、弟の方なら大丈夫か。半兵衛殿、くれぐれも頼んだぞ」
「お任せください」
話がまとまって、私が半兵衛殿、虎松が三介殿とやらの馬に一緒に乗って歩き出します。
久しぶりに馬に乗って、虎松は少し嬉しそうです。
でも──本当にこれでいいのでしょうか?
あんな大それたことをしておきながらお情けで許されて、何事もなかったように家に帰る、なんて……。
「──すいません、少し止めて下さい」
そう言って、私は半兵衛殿に馬から降ろしてもらいました。
──今の私には、何もない。仇を討つだけの力も、頼るべき親も、兄も。
私にあるのは、まだ幼い弟と、そして武家の娘であるという矜持だけです。
でも、それだけは絶対に無くしてなるものか。
それを今一度、自分の心に深く刻み付けるために──私は遠くの三人に向かって、あらん限りの力を込めて声を張り上げました。
「羽柴小一郎長秀ぇっ──!!」
──胸を張れ。地を踏みしめろ。
武家の娘の矜持を、この身で示せ!
仇討ちに失敗し、秀吉に『毛並みがいいだけの野盗、恥知らず』とまで愚弄され、小一郎に説得されてすごすごと帰る──そんなみじめな小娘としてあいつらの記憶に残されてたまるか──!
「──私は、浅井玄蕃允政澄の娘、浅井駒だ!
そして、弟は浅井虎松だ!
お前の命、今しばらく預けておく!
われらは、お前のやることをずっと見ているぞ、そのことを決して忘れるな!」




