014 雪解け 羽柴藤吉郎秀吉
ふう、やっと着いたわ。久しぶりの小谷じゃ。
お館様から仰せつかるお役目は、いつも難しかったり面倒だったりするんじゃが、今回のは特にひどかった。
公方様や松永(久秀)、筒井(順慶)の動向を窺ったり、堺衆との商談、播磨方面の情報収集にめどがついたところで、もう一つ唐突に、追加の指示が届いた。
『織田領で新しく清酒というものを開発した、帝に献上申し上げるので手配せよ』
──言葉にすれば簡単なんじゃが、これが実に面倒くさい。
これまでになかった新しいものなので、何人もの公家衆を訪ねて味見をして頂き、根回しをしてようやく献上のお許しが出る。
しかし、公家衆も実に面倒くさい連中じゃ。
清酒の旨さに驚愕しているくせに、皆、判で押したように『ま、まあ、尾張の田舎者が作った酒にしては、まあまあ呑めなくもないでおじゃるな』とか言いおる。
そのくせ、『あ、その程度なら献上やめときますわ、これも持って帰りますんで』とか言うと、決まって血相変えて引き留めよるんじゃ。あれは笑えたな。
まあ、わし程度の身分で帝に直接会えるはずもなく、根回しを終えたあとは京都所司代の村井(貞勝)様にお任せしたんじゃが、帝は清酒の旨さに驚き、絶賛して下さったそうな。
で、お館様に事の次第を報告しに岐阜に戻ったんじゃが──。
そこでお館様から、清酒の製法を見出したのが実は小一郎である事、そしてその裏で、清酒の製法を使って他国に米不足を引き起こす策が密かに進められている事を聞かされたんじゃ。
「おね、今戻ったぞ」
「まあ、藤吉郎殿! ご無事で何よりです、お役目ご苦労様でした」
「うむ。茶筅ま──三介殿は?」
「今、小一郎殿と国友村に行っておいでですが」
「そうか。半兵衛殿はおるかな? ちと二人で話がしたい」
「はい、今呼んで参りますね!」
半兵衛殿とこうして二人で向き合うのは、いつ以来じゃ?
自分でこの状況を作っておいて何じゃが、やはり少し気恥しいのう……。
「藤吉郎殿、此度は帝への清酒の献上、上首尾とのこと。お喜び申し上げます」
「う、うむ──半兵衛殿。そのー、何だ、色々とすまんかったの」
「──?」
「そなたや小一郎を、このところ少し遠ざけておった事じゃ。
お館様にいささか──いや、かなり厳しく諫められてもうたわ」
お館様から清酒を使った策を聞かされた時、わしは内心ひそかに毒づいておった。
ち、小一郎のやつめ、わしに無断で勝手なことを……。
「──藤吉郎。大方、自分に無断で勝手なことをしおって、などと思っておろうがな、わしはこの件に関してはおぬしの方が悪いと思うぞ」
「は?」
「勝手にも何も、おぬし、ここしばらく、ろくに会ってもいないのであろう?」
「は、はぁ……」
「──なあ、藤吉郎。おぬし、もう少し弟や半兵衛を信じてやったらどうだ?」
お館様の言葉にはっと胸を突かれた。言われてみれば、確かに、わしはあの二人の事が少し信じられなくなってきている。
「実はな、おぬしら兄弟が少しぎくしゃくしているようなので、小一郎にわしの直臣にならんかと声をかけたのだ。
織田家の外交を担当させるのが、あやつの才を最も有効に活かせる道かとも思うたのでな。
だが、あやつは頑として首を縦に振らんかった。
『それがしはあくまで兄の補佐役。兄と離れて出世したいなどとは微塵も思っていません』などと言いおってな」
「──」
「此度の清酒の件も、手柄はいらんと断りおった。自分の手柄は兄の手柄、手柄はぜひ兄へ、とな。それゆえ、帝への献上の差配もそなたに任せ、華を持たせたのだ。
──なあ、藤吉郎。小一郎は、おぬしの上にいこうなどとは決して考えない男だ。
おぬしを補佐し、そして、もしおぬしが間違ったことをしようとした時には身をもって諫めてくれる、得難い忠臣だ。
半兵衛もな、わしの下にいるよりおぬしの下で働きたいと願い出たほど、おぬしのことを買っておる。そのこと、忘れたわけではあるまい」
「は、はぁ──」
「それでも、どうしても嫉妬を抑えられんというなら、わしの直参か──それも嫌なら、他の重臣の下に与力として付けてやっても良い。
だがな、もしおぬしらが決定的に仲違いして小一郎が織田家を離れ、その才が他の大名の元で振るわれるようなことがあらば──」
そこで言葉を切って、お館様はわしの前まで歩み寄ると、殺気のこもった笑顔を浮かべながら、扇子でわしの首筋を軽く二回叩かれた……。
「その時は──わかっておろうな?」
「──正直、寿命が十年は縮まったわ。
なあ、半兵衛殿。小一郎に、お館様から直臣にという話は……」
「ああ、私の知る限りでも三回はありましたね。全て断られておりましたが」
「そうか」
そこまでわしの事を大事に思ってくれておるということなのか。
つまらん嫉妬で、何だか悪いことをしてしまったかのう……。
「ああ、そういえば、三介殿のご様子はどうなんじゃ?
何でも噂では、嘘のようにまともになってきたとのことだったが──まことか?」
ふと、お館様から聞かされたもう一つの驚くべき話を思い出した。
教育係すら匙を投げた茶筅丸様──三介殿を当家に預け、どうもそれがなかなかに効果を上げているらしいという件じゃ。
小一郎が、またしても何やら奇策でも講じたか……?
「いえ、それに関しては私や小一郎殿より、むしろ凄いのはおね様ですね」
「──おねが?」
「ええ。世の噂では三介殿は大の勉強嫌いと言われてきましたし、実は私も、初めはそう思っていたのです。書物を読ませてもすぐに放り出してしまわれますしね。
ところが、おね様はすぐにそうではないと気づかれたそうです。
『あら、あの子ぐらい知識欲旺盛な子はそうはいませんよ』と」
──ふうむ、なるほどなぁ。
好奇心は強いが、実感が伴わないことには興味を持てない、か。その気持ちはよくわかるの。
わしも、足軽組頭になった頃は、少しは学も必要かと書物を読んだりしたが、全く面白くなくてすぐに止めてしもうたからな。
書物で無味乾燥な話を読むくらいなら、色々な者から話を聞いた方がよっぽどためになるし、面白い。
──案外、わしと三介殿は、似たところがあるのかも知れんな。
しかし、わしのような成り上がりならそれでもいいんじゃが、お武家の御子息ともなると、そういうわけにもいかんじゃろうからな。
そこは少し、気の毒じゃの……。
「──おそらく三介殿は、ずっと周りから『勉強嫌いな駄目な子』『出来の悪い子』と言われ続けて、ご自分でも学ぶことが苦手なのだと思い込んでしまっていたのでしょう。
でもおね様は、そんな三介殿が日々経験してきた話をじっくり聞き、大いに褒めてくれる。
書物から学ばなくても、民に聞いた話や、ご自分で体験したことから充分に学ばれている、三介殿はそういった『活きた学問』がちゃんと出来ているのですよ、と。
それがとても嬉しいのでしょうね。毎日、とても活き活きとしていらっしゃいます。
──まず興味を持たせたり、苦手意識を取り除いてあげるところから始める、そして良く誉めるという教え方が三介殿には合っている、ということなのでしょう。
それに最近では、少しずつ書物への苦手意識も薄れてきているようですよ」
「ほほう、それはすごい進歩じゃな」
「実は、これもおね様の考えたやり方なのですけどね。
『先ほどの村で聞いた話と同じ話が、何百年も前の書物に書かれているのですよ』などと言うと、少しは読んでみようという気になるようです。
おね様には、人を導き育てる才がおありのようですね。私も、此度は大いに考えさせられました」
あのおねが、のう。意外な一面があったもんじゃな。
「実は、私もおね様にだいぶ叱られたのです。
『どんな子にも同じ教え方で済まそうなどというのは、教える側の怠慢ですよ。何人も同時に教えるのならともかく、お一人だけ教えるのに、その子に向いた学び方を考えてあげなくてどうするのです』と。
──私までしっかり教育されてしまいました」
はは、その光景は少し見てみたかったな。
「やはり三介殿は、幼い頃に母親を亡くされてから、自分を理解して認めてくれる存在に飢えていたのでしょうね。
今では、おね様を実の母親のように慕われ、おね様も我が子のように可愛がっておられますよ」
──我が子のように、か。
やはり、わしが子を授けてやれとらんので、どこか物足りない、寂しい気持ちがあったんかのう。
──うむ、久しぶりじゃ、今夜はちと頑張ってみるとするか。
ふふふ、しばらく見ん間に、わし好みにずいぶん胸や腰回りの肉付きが良くなった気がするしの……。ふふ、ふふふ。
──ん!?
「半兵衛殿、そういえばそなた、しばらく見ん間に、何だかずいぶん体つきが良くなったんじゃないか?
それに血色も良くなって……」
「ああ、実は小一郎殿の勧めで、体を丈夫にするために軍鶏の肉や卵を多く食すようにしたのです。深酒も止めましたしね。
おかげで、私もおね様も、だいぶ丈夫になりました」
「ああ、それで庭が何だか騒々しくなっとるんか」
何か、知らん間に軍鶏が何羽も、我が物顔で庭を闊歩しとるしなぁ。
「──藤吉郎殿、言っておきますが、これも皆、藤吉郎殿のためなんですよ?」
「ん?」
「小一郎殿が言っておられました。
『義姉上には、早く羽柴の立派な跡取りを産んでほしい。半兵衛殿にも、長く兄者を支えるためにも、長生きしてほしい』と。
そのために、食事を見直すよう勧めてくれたのですよ」
「そうじゃったのか、小一郎が、わしのためにそんなことを──」
……ううう、またしても罪悪感が──。
「──なあ、半兵衛殿。
わしはこのところ、小一郎にとってあまり良い兄ではなかったな。
何か、小一郎に詫び代わりにしてやれることはないかの?」
「うーん、小一郎殿は、何かしてほしくて尽くしているわけではないとも思いますが……」
「それではわしの気が済まんのじゃ。うーむ、何か、あやつに足りていないものはないか──」
ん、待てよ──。そうか!
「そうか、嫁だな! うん、小一郎ももういい歳なんじゃから、嫁取りをさせてやろう!」
「──えっ!?」
「重臣のどなたかに、よい娘子はおらんかったかな? いや、浅井衆の機嫌取りに連中の娘を、というのも手だな。それとも──」
「お、お、お待ちください、藤吉郎殿!」
「ん、何じゃ、半兵衛殿。誰か、小一郎にいい相手の心当たりでも──」
「そ、それがですね、えーと、その、なんといいますか──小一郎殿には、心に決めたお相手がおられるそうなのです!」
「そうなのか? で、どの家の娘なんじゃ?」
「いえ、それが、私もそこまでは聞いておりませんでして……」
「何じゃ、つまらんの」
まあ、他に何かしてやれることはないか、考えておくか。




