112 どうせやるなら徹底的に 原田新吉
御所の騒動から三日。事態は急速に終息しつつある。
北の郊外に集結していた明智勢は離反者が相次ぎ、みるみる数を減らしていった。これはどうも、藤田(行政)殿の説得が大きかったらしい。
かつて明智殿は、織田筒横流しなどの罪を全て出奔した藤田殿にかぶせようとした。その時の釈明の文書が実にひどいもので、藤田殿のことをとことん卑劣漢であるかのように書かれていたのだ。監視役の爺様たちがその書面を見せたところ、藤田殿は激怒して明智殿への忠義を完全に捨て去り、明智勢調略への協力を引き受けてくれたのだそうだ。
そして、明智勢の数が減ったところに柴田(勝家)様が軽くひと当てしたところ、あっけなく総崩れになってしまったのだ。
──西の騒動にもあっさりケリがついた。明智側につこうとした丹波勢は、南から来る播磨勢と東からの羽柴勢によって、完膚なきまでに叩きのめされてしまった。
なにしろ羽柴には織田筒隊があるし、最近まで朝倉との国境で軍事演習を繰り返していたのだ。その研ぎ澄まされた連携の効果は凄まじく、戦功のほとんどを羽柴が独占してしまったほどだ。
もっとも、播磨衆はまだ織田家への忠誠が固まったとは言えないようなので、下手に大功を上げられてしまうよりは良かったのかも知れない。
──さらに東、美濃と信濃の国境で勘九郎様に合流すべく陣を張っている佐久間勢にも、そろそろ情報が届き、身の振り方に頭を悩ませている頃だろう。
ただ、佐久間(信盛)様には少し同情すべき点もある。そもそも佐久間様には、こたびの挙兵につき合う必要など全くなかった。順当にいけば勘九郎様が織田家を継ぎ、守役だった佐久間様が筆頭家老になることはほぼ確実だったからだ。
おそらく今回の計画を聞いた時、佐久間様は必死で反対しただろう。なにしろ失敗した時に失うものが大きすぎる。だが、勘九郎様の意志が変わらないのを悟り、やむなく参加したに違いない。失敗されるよりは、少しでも成功の可能性を高めた方がいいと──。
だが、挙兵は失敗に終わった。お館様の予想では、ご自身の切腹と引き換えに佐久間家の存続だけは許してもらおうとするのではないかとのことだ。佐久間勢は織田家と直接刃を交えたわけではないので、お館様もそれ以上の咎を負わせないだろう。
──それともうひとつ。実に呆れたことに、大和の松永(久秀)殿がお館様のもとへ戦勝祝いにやってきたのだ。
『いや、ただちに援軍に駆けつけたかったのですが、大和でもいささか不穏な動きがありましてな。そちらに忙殺されて参陣出来ませなんだ。まことに面目ない』
よく言うよ。本当は明智殿に加勢しようとしていたことくらい、調べはついているぞ。
それでもこのご仁は、畿内の家同士の複雑なつながりや利害関係を熟知しているし、その調整能力はずば抜けている。ご自分にまだ織田家にとっての利用価値があることをよくわかった上で、白を切ってみせているのだ。ほんと、したたかだよなぁ。
お館様も苦笑いでその謝罪を受け入れておられたが──まあ、いずれこのお方とは決裂する日が来るかもしれない。
今日、俺たち清涼殿での騒動に立ち会った面々は、お館様の命で近衛様の屋敷に集められていた。『記憶持ち』の秘密を知る藤吉郎様、与右衛門殿、堀次郎様もだ。
あの夜、本陣に戻ってお館様に顛末は報告したんだが、他の重臣方もいたので、どういうやり取りがあったかまでは詳しくお伝え出来なかったからだ。
簡単に状況の推移を説明し、最後に改心した勘九郎様が黒幕である明智殿と刺し違えたと伝えた時、お館様はかすかに表情を曇らせたものの、それ以上内心を表に出すことはなかった。あの自制心は大したものだと思う。
あと、俺が帝をお守りしたことを半兵衛殿が言ってくれたおかげで、柴田様たちからもずいぶんと褒めていただいた。
『正直、忍びなどは金で動く卑しいものだと思っていたが、いや、実に立派なものだ! わしも少し認識を改めるとしよう』
あれは嬉しかったな。これで少しは忍びへの偏見が減ってくれればいいんだけど。
「──な、何っ!? 帝と直々に言葉を交わしただと!?」
近衛様のお屋敷中に、お館様の驚愕の声が響き渡った。
まあ、やっぱり驚くよなあ。どう考えても身分的にありえないことだし。
「ええ、まあ。帝がそれを強くお望みだと、近衛様に言われたもので」
「ぐぬぬ、わしですらまだ、直に言葉を交わしたことなどないというのに──。
主君を差し置いて帝に拝謁するなど、不届き千万ではないか!
おい、小一郎っ。そんな機会を与えられておきながら、なぜわしを呼ばなかったのだ⁉」
──あ、これは拗ねていらっしゃるんだな。
「いや、それが本当に時間がなかったんですわ。
何しろ、他のお公家衆が清涼殿に戻ってきたら、わしらなぞ問答無用で追い出されるでしょうからの。
何とか一刻(2時間)ほど時間をとるのがやっとでして。誠に申し訳ございません」
小一郎様の弁明に、お館様は面白くなさそうに溜息をついて、続きを促した。
「ふん。で、わしを除け者にしての謁見で、少しは得るものがあったのであろうな」
「無論です! 帝は実にご聡明で、よくわしの話を理解してくれました。まずは──」
「ああ、小一郎だと話が長くなりそうだ。半兵衛、手短かに話せ」
半兵衛殿の説明はさすがに良く整理されていて、簡潔でわかりやすい。
まず帝にざっと徳川末期の混乱について語り、異国と付き合うことの利点と危険性の両方を理解していただいたこと。そのために織田家は、国をまとめ強くて豊かにするよう目指してきたと説明してきたこと、これから異国へ使者を出すことを考えていること、などだ。
「──やはり、脚病(脚気)対策や種痘の情報を無償で公開したことが大きかったですね。あれで織田家が日ノ本全体のことを考えていると、帝に強く印象付けたようでしたから。
そして、織田の方向性がよきものと考えるとのお言葉まで頂戴いたしました」
「ふむ、ならばこの先、色々とやり易くなりそうだな」
「はい。帝も日ノ本が良き国となるよう、ご自分に何が出来るか考えてみるとまでおっしゃられておりました」
満足げに頷くお館様に半兵衛殿が答えると、小一郎様がずいと身を乗り出した。
「それでですな、お館様。帝からお館様に、ぜひとも頼みたいことがあると言伝てを頼まれましてな」
「む、何だ?」
「帝は東宮(皇太子)殿下へ譲位し、上皇となられることをお望みでして。その手筈を任せたいとの思し召しです」
「何だと──!?」
お館様は、今度こそ驚きのあまり絶句してしまった。
これは、俺や三介様にはよくわからない話だったので、あの後で半兵衛殿に説明してもらったんだが──。
帝が日ノ本で最も偉いお方だということは間違いない。だが帝が思いのままに物事を進めていけるかというと、そうでもないらしい。
年中行事や祭祀などで一年の大半を拘束されるし、やたらとしきたりも多い。その最たるものが『かなり高位の者としか会うことが出来ない』というやつだ。
『帝』であるがゆえに、逆に行動に制約が多くなってしまうのだ。
そこでかつての帝たちは、若いうちに皇子に皇位を譲り、上皇や法王になって自在にまつりごとを行うようになったという。
ただ、その慣例も絶えて久しい。今の朝廷には即位の礼などにかかる費用が捻出できないし、代わって費用を負担していた幕府もまた、次第に衰退してしまったからだ。
以前、お館様はこの古来の慣習を取り戻して差し上げるべく、将軍・義昭公に譲位を上奏するよう進言したことがある。費用を織田が肩代わりしても良いので、朝廷の悲願である院政を復活させて差し上げてはいかがかと。
これは幕府の権威を上げるための献策だったんだが、義昭公は断固として受け入れなかった。どうやら、お館様が自分の意のままになる帝にすげ替えようとしている、実にけしからんなどと思い込んでしまったらしい。無知って罪だよなあ。
そして、こたび帝は幕府を介すことなく、直接お館様に費用負担を求められた。これは、足利将軍家ではなく織田家こそが天下の差配者であると朝廷が公言するに等しい、ということらしいのだ。
『──いや、ちょっと待て、半兵衛殿。前に元亀から天正に改元した時も、幕府に代わって織田が費用を負担したよな? それとこれと、どこが違うのだ?』
それを聞いた三介様がすかさず質問したのだが、半兵衛殿はすぐに答えず、質問を返してきたのだ。
『それとはまるで次元が違う話なのですよ。
公方様や織田を嫌う勢力は、依然として当てつけのように「元亀」という年号を使い続けてますよね。
しかし、今回のことはどうでしょう。同じようなことが出来ると思いますか?』
その問いに三介様は少し考え込んでいたのだが、すぐに答えにたどり着いたようだった。
『あっ、そうか! 帝のご身分に関わることだから、従わざるを得ないのだな?
織田が主導した譲位がどんなに気に食わなくとも、新たな帝のことを「東宮殿下」と呼び続けるなど無礼千万、断じて許されるはずもないからな』
『はい、ご明察です、三介様』
──なるほど。すぐに答えを教えるのではなく、自分の頭で考えさせることで成長を促すということか。こうやって羽柴の方々は、ずっと三介様の成長を後押ししてきたのだな。
「む、むう──確かに織田家が践祚(帝の代替わり)の差配をするとなれば、実に名誉なことではある。織田と朝廷との結び付きを日ノ本中に知らしめることともなろう」
しばらくして、お館様がようやく言葉を出された。あれ、あまり嬉しそうではないんだけど。
「しかし、関白殿下。誠に良いのであろうか。
不肖の息子が大逆事件を起こしてしまったばかりですぞ? 死んでしまったのでは、あやつを処断することも出来ん。わしが代わって何か罰を受けねば、世に示しがつかんのではなかろうか?」
お館様が重い口調で尋ねたが、近衛様がそれに答える前に小一郎様が口を開いた。
「あー、それなんですがな、お館様。実は帝からの頼み事がもうひとつありまして」
そう言って小一郎様が立ち上がり、おもむろに隣室に繋がる襖を開く。
そこには──傷ついた身を夜具に置き、上体だけ起こした勘九郎様が、ばつの悪い顔で控えていたのだ。
『か、勘九郎様──!?』
藤吉郎様や次郎殿たちが驚愕の声を上げるが、お館様は驚きのあまり言葉にならないようだ。
「なっ、こ──か──!?」
「ああ、お館様や兄者は初めてでしたな。ご紹介します、こちらは土方歳三殿です」
しれっと言い切った小一郎様に、藤吉郎様がすぐに噛みついた。
「な、何を馬鹿なことを言っとる! それはどう見たって勘九郎さ──」
「土方歳三殿です」
「なっ──!? おい、半兵衛、三介様、孫一──」
『土 方 歳 三 殿 です』
俺たち皆の声が綺麗に揃ったのを聞いて、近衛様が思わず吹き出してしまった。
「ああ、いや、実はこれは帝の思し召しでしてな。
やらかしたことは実にけしからんが、最後の最後でこの者が帝を身をもってお救いしたことは事実。
その者が処刑されるようなことになっては、いささか寝覚めが悪いと仰せられたのでおじゃるよ」
「──ふざけるな、小一郎」
お館様が、激しい怒りを押し殺すように険しい目で小一郎様を睨みつけた。
「どうせ貴様が帝にそのように吹き込んだのだろうが──!」
「はて、そうでしたかの? しかし、きっかけはどうあれ、帝の口から『命だけは何とかしてやれないか』と言われましては、もう断ることなどできますまい」
「こ、こ、この大うつけがっ──!」
お館様が怒りに身を震わせながらも二の句を継げないでいると、勘九郎様がおずおずと口を開いた。
「わしも、あの場で腹を切って詫びるつもりでいたのです。しかし、小一郎のやつが帝に『悪人とはいえ命の恩人、死なれては気分が良くないのでは』などと言い出しまして。
まったく、武士の切腹の意味もわからん百姓が余計なことを──おかげで死ぬこともままならず、このざまです」
言葉は辛辣だが、その言い方は少し毒気が抜けたようにも感じられる。小一郎様も軽口を叩くように言い返した。
「ふん、罪人が腹を切ったとて何の意味があるのやら、百姓上がりにはちっともわかりませんな。
わしのいくさ嫌いを舐めてもらっては困りますぞ。目の前で無駄な血が流れるのを黙って見てはおれんのじゃ」
「ちっ、小一郎と龍馬、ふたりのいくさ嫌いか。──厄介なヤツを敵に回しちまったもんだぜ、まったく」
ちょっと土方殿っぽい言い方で勘九郎様が溜息をつく。
そこで、小一郎様が居住まいを正してお館様に向き直った。
「ともかく! 帝がこれ以上の流血を望んでおられないとなれば、解決策はひとつです。
すべては奸臣・明智十兵衛光秀が仕組んだこと。織田勘九郎信重様はまんまとたぶらかされてしまったが、最後におのれの非を悟り、帝をお救いするために明智と刺し違えた。──こういう筋書きにするしかありますまい」
「悪いことは全部十兵衛に押しつける、か。浅井久政の時と同じだな。
しかし、ことがそれで収まるか? ここにおる者や帝の口から真相が洩れることはあるまいが、あらぬ噂が立つこともあろう。
例えば、わしが勘九郎を使って謀反を企んだ、とかだな──」
お館様の懸念はごもっともだ。しかし、小一郎様はにやりと笑ってこともなげに答えた。
「なあに、それくらい何とでもなります。何のための印刷機械ですか」
「──そうか! 変なうわさが立つ前に印刷を使って、こちらが望む筋書きを世に広めてしまえばいいのだな!」
さすがは三介様。すぐにその意図に気がつかれたな。
「そのとおりです、三介様。
与右衛門の嫁探しの時もそうでしたが、噂というものは実に厄介です。しかし上手く扱えば、こちらが広めたい情報をいち早く広める道具にもなるのです。
これからはいかに早く情報を掴み、自分たちに有利な情報を早く広めるかが世を治めるための重要な鍵となりましょう」
その小一郎様の言葉を聞いて、なぜか半兵衛殿の目が妖しく輝いた。
「ならいっそのこと、民が好みそうな美談に仕立ててしまうのはどうでしょう。
『奸臣に翻弄されて謀反を起こしてしまったものの、改心して帝を守り、奸臣と刺し違えて散った悲運の青年武将』──これならぐっと心を打ちそうですし、噂も広まりそうじゃないですか?」
「お、おい、半兵衛まで何を──」
「おおっ、そりゃあええ!
次郎殿、確か(中島)三郎助殿は和歌や俳諧もたしなんでおられたんじゃろ?
短くても心を打つ文章はお手のもんじゃないか?」
「それは面白そうですね、ぜひやらせてください!」
「いや待て、貴様ら──」
「なあ、最後に信長殿の様子も入れるってのはどうだ?
『報告を聞いた信長公の目にかすかに光るものが浮かんだ』とか、いいんじゃねぇか?」
「おおっ、意外に文才あるのう、孫一!」
お館様はその加熱するやり取りをもはや止められないと悟ったのか、頭を抱え込んでしまわれた。
本多(平八郎)殿や勧修寺様も唖然としておられるし──おや、意外にも三介様が話に加わらず、何やらじっと考え込んでおられるんだが──。
やがて、お館様が諦めたように大きく溜息をつかれた。
「まったく、揃いも揃ってこのうつけどもが──ええい、もういい、好きにいたせ」
「は?」
「こうなったらヤケだ。息子がやらかした罰だと思って、とことん恥をさらしてやるわ!
小一郎、どうせやるなら徹底的に、だ。読んだ者が必ず落涙するような感動的な話に仕立てよ!」
「はっ! ──あ、そういうことなら義姉上やお駒も混ぜた方が──」
「いや、それは断じて却下だ」
しばらくして、お館様が勘九郎様に向き直られた。その気配を感じてか、思い思いに意見を口にしていた皆も、口をつぐんで居住まいを正した。
「さて、勘九郎──いや、土方歳三。おぬしはそれでいいのだな?
織田勘九郎は死んだことになる。二度と織田家に戻ることは叶わぬが、それでいいのだな?」
お館様の静かで重い問いかけに、勘九郎様は迷うことなく頭を下げた。
「はい。元はと言えば、すべてわしの心の弱さが引き起こしたこと。
自分や父上が十兵衛に討たれ、藤吉郎に天下を奪われる──そんな未来を知って、何とかせねばと焦ってしまいました。それゆえ十兵衛に命乞いをし、羽柴の足を引っ張ることばかりを考え──今思えば、向かう方向がそもそも間違っていたのです」
そう語る勘九郎様のお顔は、憑き物が落ちたように幾分すっきりしたように見える。
「わしは、成り上がりの羽柴が気に入らなかった。その羽柴によって三介が急成長し、いずれわしを追い抜くのではないかと怯え始めていた。そこに突然『土方歳三』の記憶が蘇ってきたのです。
愚かにも、わしはせっかく手に入れた未来の記憶を、自分の立場を脅かす者を排除することに利用することしか思いつけなかったのです」
そう語りながらゆっくりと皆の顔を見回していた勘九郎様の目が三介様のところで止まった。
「ですが、はっきりわかりました。わしより三介の方がはるかに器が大きい。三介なら織田の跡目という重圧すらも糧として、立派に成長してくれるに違いありません。
わしより三介が跡目となった方が、織田家や天下万民のためになるでしょう。『織田勘九郎』はここで消えることにいたします」
「な、何を言われます、兄上──!?」
三介様が慌てて反論しようとするが、お館様が手振りでそれを遮った。
「うむ、委細承知した。織田勘九郎信重はあの日に死んだ。皆もそう心得よ。
以後は『織田勘九郎』を名乗ることを禁ずる。わしや三介の前にも姿を見せるな。あとは好きに生きるが良い。
──だがな、帝の思し召しがあるのだ。その命、軽々に捨てることだけは絶対に許さん。わかったな?」
そう最後に付け加えたお館様の言葉に、父親としての万感の思いが込められているのがはっきりとわかった。
「──お待ちください、兄上。本当にそれでよろしいのですか⁉
義姉上のことはどうされるのです。長いあいだ想い合って、ようやく結ばれたところではありませんか!」
「松(勘九郎の正室)のことか──」
三介様の問いかけに、勘九郎様の顔が苦しげに歪む。そうか、三介様が先ほどから気にかけていたのはそれだったのか。
勘九郎様と武田信玄の娘である松様は、元々が幼きころに親同士で約定を交わされた政略結婚だ。だがおふたりは、顔を合わせることもなしに文だけでじっくりと心を通わせてきた。一度は破談になりかけたものの、武田の降伏でようやく結ばれた、実に睦まじい夫婦なのだ。
「わしも本音を言えば、松と離れたくはない。だが、松を巻き込むわけにもいかぬではないか──」
その切ない声を聞いていると、こちらまで胸が絞めつけられる。
「──ふん、たわけめ。それを決めるのはおぬしではない、松自身だ」
お館様がそう吐き捨てるように言い、──なぜか俺に目を向けてきたのだ。
「新吉。おぬしの脚なら、武田勢より先に諏訪まで行けるな?」
「は? ええ、まあ」
「小一郎、新吉をしばし借りるぞ。
新吉、ひとっ走り諏訪まで行って、松に勘九郎が生きておることを密かに知らせよ。その上で、後家として武田家に戻るか、勘九郎とともに全くの別人として生きるか、好きに選ばせてやれ。
そして、まことに松が勘九郎とともにあることを望むなら、出奔して落ち合うところまで手助けしてやってくれ」
「ち、父上、そのようなこと──まことによろしいのですか⁉」
すると、お館様はにやりと笑みを浮かべたのだ。
「なに、『どうせやるなら徹底的に』だ。
──『夫の死を嘆き悲しんだ妻は、やがていずこともなく姿を消した』
こう物語を終わらせた方が、より涙を誘うであろう?」
おお、お館様、それはなかなかの名案ですな。
「新吉殿、勘九郎殿は傷が癒えるまでこの屋敷で匿っておくので、連絡は麿宛てで寄こしなはれ」
「義姉上のことを頼んだぞ、新吉殿!」
「おなごを案内するなら女手もあった方がええじゃろ。治部左衛門にカラスで連絡を取って誰か用意させておくかの」
皆が口々に俺に声をかけてくれる。何と、勘九郎様までがしおらしい顔で小さく頭を下げてきたのだ。
そして、締めくくるようにお館様が語りかけてきた。
「これが勘九郎にわしがしてやれる最後のことだ。新吉、くれぐれも頼んだぞ」
「は、お任せください!」
──さあ、ひと仕事だ。
この先、小一郎様が言うように情報が重要な時代になるのなら、俺たち忍びの仕事もますます増えてくることだろう。
そしてこの人たちは、俺たちのことを決して道具扱いになどはしまい。こんな俺なんかに、日ノ本で最も天下人に近いお方が『くれぐれも頼む』と頭を下げてくださったのだ。
──なら俺は命尽きるまで、この人たちのために忍びとして誇りを持って働いていこう。
そう、『どうせやるなら徹底的に』だ。




