111 帝のお言葉 竹中半兵衛重治
「な、何をする、十兵衛殿っ! まさか乱心したか!」
小一郎殿ばかりか他の者も、それこそ勘九郎様も愕然としています。つい今しがた、帝のことを『絶対に不可侵の存在』とまで言っていた明智殿が、まさかその帝に銃口を向けるなど──!?
「いえ、私はいたって正気ですよ。私なりに日ノ本が将来どうあるべきかを充分に考えた上で、こうしているのです。
──やはり私には、民百姓が正しくまつりごとを判断できるようになるとは思えない。
愚民は愚民のまま、大人しく支配されていればいいのです。身分の低い者が力ずくで天下を奪ってしまうなどという悪しき前例があったからこそ、徳川末期のような馬鹿げた動乱が起こったのです。
だからこそ──お館様や藤吉郎殿の天下獲りの物語は残してはならない。ここで確実に終わらせねばならぬのです」
明智殿の声はかすかに震えています。よく見ると顔も青ざめ、銃を構える手もかすかに震えているのがわかります。そこまで畏れおののきながら、いったいなぜ──?
「──ですが、私はお館様を敵に回すのが心底怖い。
あのお方はこれまでに何度も、絶体絶命の危地を乗り越えてこられた。桶狭間や金ヶ崎、そして織田包囲網でさえも──いえ、むしろそういう状況に追い込まれてからの方が手強いのかも知れない。
このまま帝を押さえ、お館様を朝敵にすることが出来たとしても、あの方は何か思いも寄らぬ方法でその危機を乗り越え、私の前に立ちふさがるのではないか。──そういう悪い予感が、どうしても頭から離れてくれないのです」
そう語る明智殿の表情が、少しずつ険しさと禍々しさを増していきます。
「だからこそ、お館様を確実に表舞台から退場させるには、こうするしかないのです。
──勘九郎様、貴方には日ノ本で最も重い罪を被っていただきましょう。『帝の弑逆』という、決して許されざる大罪をね。
織田の跡目が日ノ本一の大逆人ということになれば、もはやお館様に味方する者などおりますまい。
今、東宮(皇太子)殿下は武田兵が押さえ、足利一門の赤子も密かに押さえさせてあります。あとは新しい帝から新しい公方様に織田信長追討の宣旨を出していただければ、お館様は終わりです。もはや再起など出来ないでしょうからな」
「そ、そんな馬鹿な──初めからわしを利用するつもりで──?」
勘九郎様が絶望的な表情で喘ぎますが、明智殿は冷淡な声で突き放します。
「本当に嫌になるくらい愚かですね。当初の計画通り、さっさと帝を連れ去るのが最善だったに決まっているではないですか。
ところが羽柴兄弟に早々に計画を見破られてしまい、脱出が叶わなくなった。ならば、せめて小一郎殿を説得して羽柴だけでも味方につけてくれれば良かったのですがね」
──実はそれを真っ先に見抜いたのはお駒殿だったんですけど。
「逆に説き伏せられて、土方歳三からただの腑抜けに戻ってしまった貴方には何の価値もありません。せいぜい新しい足利将軍家のための捨て石になってください」
あまりの言い草に、勘九郎様と敵対していたはずの小一郎殿も声を荒げます。
「ふざけるな! 自分で帝を手にかけておきながら、その罪を勘九郎様になすりつけるだと!?
わしらや近衛殿下も見ておるんじゃ、そんな嘘がまかり通るとでも思っちょるのか!」
「通りますよ。ここにいる皆さんに死んでいただければ済む話です」
そう言って、明智殿はふところに手を入れ、短筒をもうひとつ取り出しました。
「二丁あれば、そこの忍びあたりが身をもって帝をかばったとしても、二発目で帝を撃つことが出来ます。
そして銃声が鳴り響けば、武田の二百の兵がここになだれ込んで来るというわけです。
前もって吹きこんでおきましたからね。『勘九郎様はどうやらいささか乱心しているらしい』と。
乱心した勘九郎様に付き従っては武田家も巻き添えを喰う。もし勘九郎様が帝に何か仇なすような事あらば、それを討つ方がむしろ武田家存続のためではないか、とね」
な、何という悪辣さですか、お家存続を願う武田家の弱みにつけ込むとは──!?
「さあ、もう終わりにしましょう。小一郎殿や本多殿、勘九郎様がいかに強くとも、二百もの武田兵に勝つことなど出来ますまい。
あなた方の持つ未来の記憶は惜しいですが、私の意のままにならぬくらいなら消えてもらった方がありがたい。では──」
明智殿が短筒の引き金にかけた指に力を込めます。新吉殿がかすかに腰を屈め、瞬時に帝の前に飛び出そうと身構えるのがわかります。いけない、このままでは帝が──!
その時。
「そこまでだ! もはやおぬしに勝ち目はないぞ、明智十兵衛!」
お館様によく似た鋭い声が、清涼殿前の庭に響いたのです。
「さ、三介様──!?」
庭に現れたのは三介様と、その横ですでに織田筒を構えた孫一殿です。その銃口は明らかに明智殿へと向けられています。
「おいっ、明智、動くんじゃねぇっ! 引金から指を外せ、ゆっくりとだ。
俺は雑賀の鈴木孫一、名前ぐらいは知っておろう? 何ならその指だけ吹き飛ばしてやってもいいんだぜ?」
「雑賀の孫一だと? なぜこんなところに──」
日ノ本一の鉄砲撃ちとも言われる孫一殿の恫喝に、さすがに明智殿も動揺を隠せません。そちらには振り返らず目だけを左右に走らせ、何か打開策を探しているようでしたが──その一瞬の隙を見逃さなかったのは新吉殿です。
ガガッと鈍い金属音が聞こえ、明智殿の手から二丁の短筒が床に転げ落ちました。どちらの銃口にも新吉殿が投げた苦無が深々と食い込み、拾ってもすぐには発砲出来そうにありません。お見事っ!
「くっ──!」
明智殿は一瞬、苦々し気に顔を歪めましたが、やがて観念したかのように棒立ちになりました。
「ふう、まあ、いいでしょう。撃てるものなら撃ってくれてかまいませんよ。
ただし、それを合図に武田の兵が──」
「武田兵なら来んぞ。わしがそう説得してきた」
三介様が事も無げに答えますが──いや、それは大したものですよ。
「心ならずも兄上に従わされとるようだったからな。これ以上この企てに関わるなと説いてきた。
ここで手を引くなら、武田家の罪が重くならぬようわしが必ず取りなしてやる、ともな。
四郎(武田勝頼)殿はすぐに納得してくれた。今頃は人質たちを解放しとるじゃろう。無論、東宮殿下もな」
「なっ──!?」
明智殿が絶句します。無理もありません、武田兵が来なければ明智殿たちは孤立無援。私たちを相手にして、さらに御所の包囲を突破せねば味方と合流すら出来ないのですから。
「──なあ、十兵衛よ。おぬしはいったい何を見ていたのだ?」
少し場を落ち着かせるように静かに語る三介様の声には、どこか憐れむような響きがにじんでいます。
「武田が、喜んで兄上やおぬしに従っているとでも思ったのか? 今の武田家が何を一番に望んでいるのか、考えたことはなかったのか?」
「──」
「三方ヶ原で重臣のほとんどを失った武田家には、もはや天下をどうこうしようという野心などない。お家の存続こそが一番大事なんじゃ。
こんな大それた企てに巻き込まれてしまって、四郎殿たちは本当に迷惑に思っておったぞ。だから、こんな未熟なわしの説得にも応じてくれたんじゃ」
──いえ、それは違います、三介様。貴方が心の底から武田家の行く末を案じていることが伝わったからこそ、武田兵たちは説得に応じる気になったのでしょう。やはり、貴方のその大いなる優しさは、これからの織田家にとって──いえ、これからの日ノ本にとって大きな宝になるはずです。
私がそんな感慨にふけっていると、同じように感じていたのか、小一郎殿がいつものように飄々とした様子で口を開きました。
「やれやれ、三介様にすっかりお株を取られてしもうたの。
──なあ、十兵衛殿、そろそろ諦めんか。東宮殿下も解放された。武田兵が動かねば、もはやおんしに打つ手はなかろう?」
その問いかけに明智殿はじっと考え込んでいたのですが、やがて観念したように脱力しました。
「──ふう、どうやらここまでのようですね。三介様、見事なお手並みです。勘九郎様がご自分の立場を危ぶんだ気持ちがよーくわかりましたよ」
そう言って、明智殿がゆっくりと脇差に手をかけました。これはもしや、自害を──?
同じことを予想したのか、孫一殿も動きを制止しようとはせず黙ったままです。
そして、明智殿は抜いた脇差をご自分の首筋に近づけ──突然、三介様に向かって投げつけたのです!
「──っ!? 馬鹿野郎っ!」
孫一殿がすかさず発砲。飛んでくる脇差に見事に命中させ、弾き飛ばしたのですが──。
「動くな!」
今度は明智殿の怒声が皆の動きを止めました。その手には三丁目の短筒が握られ、銃口が帝に向けられていたのです。
「雑賀孫一、鉄砲を地面に置け! そこの忍び、両手を上に上げたまま十歩退け。早く!」
そう命令し、明智殿は周囲を警戒しながら慎重に帝の側へと歩を進めました。
「かくなる上は、帝を盾に脱出するしかないようですね。なに、帝の身柄を押えて我が家臣たちと合流すれば、まだ勝ち目は充分にあります」
「くっ──」
「さて、勘九郎様はどうされますか? ともに来るなら、その腕前もまだ使いどころはあるでしょう。ここで降りてしまえば、貴方はただの罪人です。どちらを選ぶかは、決めさせてあげますよ」
その人を馬鹿にしたような言い方に、三介様がついに怒りを爆発させました。
「いい加減にしろ、十兵衛っ! 兄上のことをいったい何だと思っている! 一度見捨てておきながら、また利用しようというのか!
おぬしはしょせん、人のことを手駒か頭数としか見ておらんのだ!」
その言葉を聞いても、明智殿はまるで意に介した様子もありません。次に三介様は、勘九郎様に向き直りました。
「兄上も目を覚ましてくだされ! 十兵衛は兄上を始末しようとしていたではないですか、今さらあいつと運命を共にして、何になるのです!」
「し、しかしわしはもう父上に弓を引いてしまったのだ、ここで降りたとしても──」
「そうです、勘九郎様。もはや貴方に降りる選択肢などないのですよ。そろそろ覚悟を決めて下さい。
ここは帝を盾に御所を抜け出し、さっさと織田信長追討の宣旨を出していただいて──」
「その宣旨に従うものなどどこにもおらんぞ」
明智殿の言葉を小一郎殿が鋭く遮りました。
「な、何ですと──?」
「勘九郎様が御所を不当に占拠したことの詳細は、すでに文書にして全国に広めておる。
仮に宣旨を出していただいたところで、それが広まるより先に事の次第を広めればええだけのことじゃ。それがまことに帝の御英慮によるものではない、とな」
「馬鹿な! そんなことが出来るはずが──」
「出来る。大量に印刷する未来の技術をすでに実用化したからな」
それを聞いて、勘九郎様が訝しげな声を上げます。
「どういうことだ、坂本や左之(原田左之助)の知識でどうやったらそんなものが──いや、まさか──⁉」
「気づいたようじゃな。そう、未来の記憶持ちは他に何人もおるんじゃ」
「何だと──!?」
「龍馬や土方が死んだ後の知識を持っとる者もおってな。すでに織田筒をはるかに超える新型武器も作ったし──ああ、土方歳三の戦い方をよーく知っとる者もおるぞ。誰がそうなのかは、絶対に教えてやらんがの。
蒸気船も作ったし、瞬時に全国に文を届ける『電信』という仕組みも完成間近なんじゃ」
──あとのふたつは完全にハッタリですけどね。蒸気船は実験段階ですし、『電信』なんて専門家がいないから、まだ研究を始めたばかりじゃないですか。
「さあ、おんしらの悪だくみは既に日ノ本中に知れ渡っとる。さらに、こちらにはおんしらの知らん未来の技術が山ほどあり、そちらの手の内もよくわかっとる。それでも勝ち目があると思うのなら、やってみたらよかろう」
「お、おのれ──」
明智殿は呪い殺さんばかりの形相で小一郎殿を睨みつけました。
「なぜだ、なぜ貴様のところにばかり人が集まる!? なぜ『記憶持ち』がそんなに──!?」
「簡単なことだ、十兵衛」
それに答えたのは三介様です。
「小一郎殿は未来の知識を、人々を豊かにするために使ってきた。だから周りの者も小一郎殿を助けようとするんじゃ。
おぬしらはこそこそと陰で策を弄することしかしてこなかった。だから誰も集まらなかった。それだけのことだ」
そう語る三介様のお姿には、うっすらと威厳すら感じられます。
「なあ、十兵衛。わしはかつて、おぬしのように民を数字でしか見ていなかった佐吉(石田三成)に言ってやった言葉がある。
まつりごととは、民の暮らしや幸せのために行うものだ。──断じて誰かひとりの自己満足のためにするものではないのだぞ」
──その言葉を聞いた勘九郎様の表情が、明らかに変わりました。顔つきがきっと引き締まり、手にした刀の切っ先を、我らではなく明智殿に向けたのです。
「銃をおろせ、十兵衛。やはり我々が間違っていたのだ。もはやこれ以上抗っても無意味だ」
「何を馬鹿な──!? 勘九郎様、今さら怖気づいたのですか?」
「そうではない。口惜しいが、今さらながらに思い知らされたのだ。わしの器は、父上どころか三介にもはるかに及ばんのだと。
そして、わしやおぬしの自己満足を押し通したとて、誰も幸せになどならんのだ、とな」
「黙れ、小僧っ! 大罪人になってもいいのか!?」
「是非もない。おぬしをここで始末するのが、わしに出来るせめてもの償いだ。──十兵衛、覚悟っ!」
「やめろっ、来るなぁぁっ!」
ふたりの姿が一瞬重なるように見え、銃声が響き渡り──。
少し遅れて鈍い音とともに明智殿の身体が床に崩れ落ちました。勘九郎様は、御自分が撃たれるのと同時に、袈裟懸けに明智殿を斬ったのです。
「兄上っ!」
三介様が慌てて殿上に上り、勘九郎様に駆け寄ります。そして、小一郎殿と私、本多殿は虫の息で横たわる明智殿に歩み寄りました。
「舅殿、もはや助からん。何か言い残すことは──?」
「ふ、織田が作る、下らん、世など、見たくもない。愚民は、愚民のまま、だ──」
「いいや、人は変わる。わしがそう信じる最大の根拠があそこにおられる」
「三介、様、か……ふ、やは、り、貴様、は、甘い、や、つ、だ──な」
そう切れ切れに言いながら、かすかに浮かべた弱々しい笑みにどういう意図があったのか──。
それに答えることもなく、明智殿はそのまま目をつぶってこと切れました。
「舅殿──せめて奥方たちには累が及ばんよう、手は尽くしちゃるきに」
小一郎殿が胸の前で手を合わせて呟き、私たちも合掌します。
すると、三介様とともに勘九郎様の様子を見ていた新吉殿の声が聞こえてきました。
「勘九郎様はご無事です! 傷は深いですが、弾丸は抜けてますし、お命には支障なさそうです!」
それを聞いて皆が安堵の息をつきます。さて、後は──。
「畏れながら言上仕ります!」
小一郎殿が皆を代表して帝に向かって深々と平伏し、皆もそれに合わせて平伏します。
我々の中で官位持ちは小一郎殿だけです。三介様はまだ叙任前ですし、勘九郎様は傷の手当中ですし、それにまあ、さすがにねぇ。
「民部少丞・羽柴小一郎秀長にございます。危急の事態ゆえ、身分もわきまえず殿上に上がりたること、深くお詫び申し上げ奉ります!
御宸襟を悩ます不逞の輩は成敗いたしましたゆえ、どうぞご安心くださりますよう。ただちに亡骸を片付け、下がりますゆえ──」
「いや、それは後で良い。しばし待たれよ」
そこに近衛様の声がかけられました。
「誠に異例中の異例ではあるのだが、畏れ多くも、お上が直にその方らと話をしたいと強くお望みでおじゃる。特に『未来』についての話をお聞きになりたいと」
な、何と──! まあ、あれだけ帝の御前で未来の話をしていれば、さすがに事情に察しもついたでしょうからね。
やがて、勧修寺様に手を伴われ、帝がゆっくりとこちらに歩み寄って来られました。
──もっとも、深く平伏してますので、見ることなど出来ないのですけど。
「まずは朕を助けてくれたこと、深く礼を申す。
そして、朕はその方らの話に大いに興味を覚えた。この日ノ本がこの先どのような国になるべきなのか、ともに考えてみたいと存ずる」
深く柔らかく、唄うかのような独特の抑揚で帝がお声をかけてこられます。
「は、まことにその、畏れ多きお言葉にて──」
さすがの小一郎殿もかなり緊張して縮こまっているようですが、近衛様がからかうように言葉を挟んで来ました。
「そう固くならんでもよろし。小一郎殿の言葉遣いが滅茶苦茶なのはお話してある。お上はそれも聞いてみたいとお望みでおじゃるよ。
今なら小うるさい者もおらん、こんな機会など二度とないからの。
遠慮せずに、貴殿の考えをいつも通りの言い方で余さず伝えたらよろし」
「ま、まことによろしいので──?」
その仰せに、小一郎殿は目を丸くして唖然としていたのですが、帝が大きく頷かれたのを見て少し姿勢を崩し、我々に策を語る時のようなふてぶてしい笑みを浮かべたのです。
「さて、では何から話しましょうかの。
いささか長い話になりますが──お覚悟はよろしいですかな?」




