106 総力戦 竹中半兵衛重治
私が今浜に駆けつけたのは陽が落ちる直前。すでに城内のあちこちで篝火が焚かれ、武器弾薬や兵糧を運ぶ兵たちが行きかうなど、ものものしい空気で騒然としています。
「殿、ただいま戻りました」
本丸に入って中広間に行くと、そこには小一郎殿のあの秘密を知っている面々が集まっていました。初めて見るお公家の方は──察するに『記憶持ち』の勧修寺様ですね。
「え、半兵衛殿⁉ 先ほど塩津浜に使いを出したところなのに、どうしてこんなに早く──!?」
小一郎殿が唖然とした様子で訊いてきます。
「今浜から見たことのない色の狼煙が上がったのが見えました。ちょうど勘九郎様が到着する刻限くらいでしたので、何か無明殿がらみの事態が起こって、治部左衛門殿が部下たちに緊急の招集をかけたのだと推測したのです。
どうやら、当たりだったようですね」
「さ、さすがは半兵衛殿じゃ。これはお駒の見立てなんじゃがな──」
──なるほど、さすがはお駒殿。確かに私も、未来に起こったという『禁門の変』の話は聞いていたのですが、それを今の人が実行に移すという発想は浮かびもしませんでした。
そのお駒殿が、焦ったように私に迫ってきます。
「半兵衛殿からも言ってください! もし私の推測が当たっていたら、すぐにでも動かなければ手遅れになります!
なのに、義兄上様はなかなか動こうとしませんし──」
「いえ、お駒様。まだ謀反の確証が得られたわけではないのです。
もしかしたら、勘九郎様は本当に御礼の言上のためだけに上洛しているという可能性もあります。
それなのに、お館様の許可もなく勝手に兵を動かしてしまっては、殿のお立場が危うくなりかねませんぞ」
ふむ、確かに治部左衛門殿の懸念ももっともです。
「今、配下の者が急ぎ情報を集めています。今しばらくは待つべきかと」
「で、でも──!」
その時、天井の辺りから張りのある声が聞こえてきました。
『報告いたします! 京方面への旗振り場は全滅! 係の者たちはみな討たれたか行方知れずで、旗も全て持ち去られております!
それと、新吉殿が先行してお館様のもとへ報告に向かいました』
京との旗振り通信が遮断されてしまった──これは最悪の報せです。
各旗振り場には三・四人の係が常駐していて、いくさで体に障害を負った者や年老いた者たちの再雇用の場になっています。それらの者たちでは、敵が少数であったとしても襲撃に抗うことすらできなかったでしょう。何てむごいことを──。
「義兄上様、これで確定ですよね⁉ すぐにでも出兵して──!」
「いや、まだじゃ」
藤吉郎殿は、まだ腕組みをしたまま難しい顔を崩しません。
「それを、勘九郎様の兵がやったという証拠がない。与右衛門のところに来たような武田の忍びの仕業だという可能性もある。軽々には動けん」
「で、でも、そんなことを言っている間に、無明殿の企みが成功してしまったら──!?」
「──仮にそうだとしても、じゃ!」
まだ食い下がろうとするお駒殿に、藤吉郎殿が厳しい声を上げました。
「無明殿の動きがあの二百だけということはなかろう。東から誰かが援軍を率いて、京へ進軍してくるやもしれん。
佐久間(信盛)様か河尻(秀隆)殿、滝川(一益)殿も怪しいし、三河殿(徳川家康)も油断ならん。これを機に、朝倉や上杉、松永あたりが動く可能性だってある。
この北近江は、それらの動きを食い止める最後の砦。ここを奪われたら、織田領は完全に東西が分断されてしまう。今浜を手薄にするわけにはいかんのじゃ」
「でも──!」
その時、お駒殿の声をさえぎるように、それまで黙って話を聞いていたおね様がふいに立ち上がりました。
「治部左衛門殿、旗振り場の場所と数、どのような色の旗が必要かを教えてください」
「は? お方様、何を──?」
「旗を振るだけなら女子供や年寄りにも出来ます。兵を動かせないのなら、私がそれ以外の者を率いて旗振り通信を復旧させてまいります」
「た、たわけたことを言うな! まだ敵が残っておるかもしれんのだぞ!」
藤吉郎殿が慌てて止めようとしますが、おね様はひるんだ様子もありません。
「敵はわずか二百。わざわざ旗振り場に兵を残すとも思えません。そうですよね?」
天井に向かって声をかけると、すぐに忍びの者から返事が返ってきます。
『は、確かに敵の姿は見当たりませんでした』
「無明殿のこの策は迅速さが命です。一時的に羽柴の動きを止めれば何とかなると思っているのでしょう。
ここで我らが慎重になり過ぎては、向こうの思うつぼですよ。すぐにでも出来ることはやっておかねば」
おね様のこういう決断力はさすがです。
「そんな、義姉上様が行かれなくとも、私が代わりに──!」
「身重のお駒殿を行かせるわけにはいかないでしょう? これは、私のなすべき仕事なのです」
「あ、いや、お方様、旗振り場に行っても振る旗がありませんぞ? そう急には用意できませんし──」
お駒殿だけでなく治部左衛門殿も止めようとしますが、おね様はむしろやる気に満ち溢れた表情を浮かべます。
「そんなもの、おなご衆から似た色の小袖でも集めて、間に合わせで作れば済むことです。
いいですか、これは総力戦です。無明殿の企みが成功してしまったら、織田家や羽柴家の存続すら危ういのですよ。今こそ羽柴家の持てる全てを振り絞るべきです!」
その高らかな宣言に、少し戸惑いがちだった小一郎殿の目に力が戻り始めます。
「持てる全てを、か。──ならば人脈もじゃな。他の方面への旗振り通信が使えるのなら、伊勢の三介様や三十郎様に連絡を取って、今浜に入っていただくというのはどうじゃ?」
「美濃や尾張にも情報を伝えて、連動した謀反に警戒するよう呼びかけねばなりませんね」
皆が少しずつ前向きな声を上げ始めたところに、藤吉郎殿が大声で待ったをかけました。
「お、おい、ちょっと待て! 皆、落ち着け!
まさか『勘九郎様ご謀反』とでも広めるつもりか? それこそ誤報だった日にゃ、わしの首くらいでは済まされんぞ!」
そう言って、藤吉郎殿は少し肩を落としたように声を弱めました。
「それに、今から追いかけても御所襲撃には間に合わんじゃろ。京の村井(貞勝)様はいくさの強いお方ではないし、手持ちの兵も少ない。武田の兵相手にどこまで持ちこたえられるか──」
ああ、そうか。京の警護担当は村井家と明智家でしたが、明智家は十兵衛殿の謹慎とともにお役目を外されてたんでしたね。
「もし、勘九郎様が御所を占拠して帝を脅し、お館様追討の宣旨を出させてしまったら──もはや打つ手などないのではないか?
なら、ここで下手に勘九郎様に敵対するより中立を保っておいた方が、後々の羽柴家にとって──」
「何を言っているのです! 大恩あるお館様を見捨てるおつもりですか!」
煮え切らない態度の藤吉郎殿を、おね様が一喝しました。
「そんな人の道に外れたやり方で家を守ったとして、何になるのです!
そんな卑屈な生き様を無双丸に見せてもよいのですか!」
その言葉に、藤吉郎殿がはっと息を呑みます。
無双丸様たちが生まれて以来、藤吉郎殿にとって出世よりもお子たちが生き甲斐となっていたのです。そのためにどこか守りの姿勢になっていたことは否めません。
しかし藤吉郎殿の一番の武器は、大胆な戦略とここぞという時の行動力です。ここは、是が非でもそれを思い出していただかねば。
「そうです、義兄上様! ここは、無双丸様に格好いい父親の姿を見せてさしあげるところですよ!」
後押しするようにお駒殿が声をかけます。
「い、いや、しかしここでうかつに動いて、羽柴家まで朝敵にされてしまうようなことになってしもうたら──」
「追討の宣旨が出されたとしても、それが何だというのです? 宣旨など、世に広まらなければただの紙きれじゃないですか!」
──いや、お駒殿、さすがにその言い方はあんまりじゃないかと。
ほら、勧修寺様が口をあんぐり開いて凍りついちゃったではないですか。
「宣旨などというものは、誰かの手に渡って初めて意味を持つのです。ならば──」
そこでひと呼吸を置き、お駒殿は不敵な笑みで秘策を口にしました。
「その宣旨が誰の手にも渡らないようにしてしまえばいいのです」
「な、何じゃと? ──あ、そうか! 御所の周囲を厳重に封鎖して誰も外に出さなければ──」
「そうです。それならどんな宣旨が出ようが、まったく無意味です。
こちらも御所に弓引くわけにもいかず、向こうも打てる手がない──なら、それこそ交渉の余地も出てくるのではないかと」
「──そうか、そこでわしの出番ということじゃな」
合点がいったのか、小一郎殿も不敵に笑みを浮かべます。
「そういうことね。
義兄上様、だからこそ一刻も早く行かなければならないのです。こちらから手出しをせずに周りを囲むだけなら、万一こちらの思い過ごしだったとしても、さほど重い罪には問われないと思います。
何なら私の早合点だったということで、私の責任ということにしていただいても──」
「ええい、たわけ、そんなことが出来るか!」
藤吉郎殿が強い口調でお駒殿の言葉を遮りました。
「よし、わしも腹をくくるぞ! おなごたちにここまでの覚悟を見せられて、尻込みなんぞしておれるか!」
そう言って立ち上がった藤吉郎殿の全身に、覇気がみなぎっているのがわかります。
「全責任はわしが負う! 織田と羽柴の命運はこの一戦にかかっておる。皆、やるぞ!」
『はっ!』
皆が一斉に返事する中、勧修寺様だけは疲れ切ったご様子で脱力され、何やら呟いておられます。
「こ、これが噂に聞く『羽柴の嫁たち』でおじゃるか──何というか──とんでもない肝の太さやのぅ」
ああ、お気持ちはよーくわかりますよ。
さて、いざ覚悟を決めたとなれば、藤吉郎殿の判断は早くて的確です。
「よし、与右衛門。織田筒隊百と騎兵百を率いて今夜のうちに先発せよ。
おそらく我らの足止めのために、瀬田の唐橋が焼き落されとるじゃろう。橋を架ける大工どもも連れて行き、復旧を急げ。時間がかかるようなら渡河の船を集めてもいい。金に糸目はつけるな」
「はっ。お任せください!」
そして、旗振り通信が届く範囲にまず『京・謀反・要警戒』の暗号を発信させ、詳細をしたためた文を各地に早馬で送らせます。伊勢の三介様と三十郎様には、今浜に兵を入れていただく要請を含めて、ですが。
「三介様はまず間違いなく来てくれるはずじゃ。なら、今浜の守りは考えんでもよかろう。
物資の集積や情報収集に必要な──五百ほど残していくか。
臨時の城代には──そうじゃな、塩津浜から善祥坊(宮部継潤)を呼び戻す。
それと、猪右衛門(山内一豊)の織田筒隊百があれば、少数でも当分は守れるじゃろ。
駒殿、何かあれば参謀として助言してやってくれ」
「へっ? え、ええまあ、私に出来ることでしたら」
──何か最後にさらっと、どえらいことを付け足したような気がしますけど。
「ところで半兵衛殿、塩津浜の軍勢はすぐに動けるか?」
「は、その手筈は整えてきました。すぐにでもこちらに──あ、いえ、湖西を南下して坂本へ向かわせる、ですか?」
「そのとおり。この機に乗じて明智も当然動くはずじゃ。又左(前田利家)が監視しとるそうだが、明智の家臣が一斉に蜂起したらさすがに抑えきれんじゃろ。
そのまま坂本を拠点として確保しとるか、勘九郎様に合流しとるか──いずれにせよ、坂本は抑えておかにゃならん。抗うようなら潰すまでじゃ」
そう凄むように言った藤吉郎殿でしたが、暗い顔のお駒殿に気づいたのか、ふと口調を和らげました。
「駒殿、もし十兵衛殿の家族が残っているなら、なるべく無体なことをせぬよう言い含めておこう。お館様に助命嘆願もしてやる。だが、それ以上は約束できんぞ?」
「はい、それで充分です。ご配慮ありがとう存じます」
あ、それともうひとつ確認しておかねば。
「朝倉への手当はどうされますか? 停戦の交渉などは──」
「いらん。停戦も何も、まだいくさを始めとらんのだからな。
抑えの兵も無用、全兵力を坂本に向かわせる。今の朝倉にいくさをしかける余裕などなかろう」
なかなか大胆ですね。ようやく昔の藤吉郎殿らしさが戻ってきた、というところでしょうか。
「それと、おね。本隊が通過した後なら敵も潜んではおらんだろう。旗振り場の復旧の指揮、任せてもよいか?」
「もちろんですとも。──あ、旗を作るのに使った小袖とかは、羽柴家で買い取りという形にしておきますけど、お金に糸目はつけなくてもいいですよね?」
おね様のちょっと冗談めかした言い方に、ふっと皆の緊張がゆるみます。
「うむ、任せる。他に何か意見のある者はおるか?」
藤吉郎殿が皆を見回すと、小一郎殿が手を上げます。
「松永はどうする? 大和から北上すれば、お館様のいる宇治槙島まで一直線じゃ。
さすがにお館様が松永ごときに遅れはとるまいが、この流れで裏切られたら、ちと面倒だしの」
「そこはお任せください」
ちょっと得意げに答えたのは治部左衛門殿です。
「我らに与したいと言ってきている伊賀の者たちに、松永の後方を攪乱させましょう。
信用できるとは確信しておりますが、まあ、召し抱えてやるための最終試験みたいなもので」
「よかろう。上手くやってくれたら仕官は保証すると伝えよ」
翌、早朝。
羽柴家のほぼ全兵力が、淡海の東と西それぞれを南下し始めました。
湖東を行く本隊は約二千。藤吉郎殿が直に率い、小一郎殿と私は騎馬の精鋭五百を連れて先行します。
湖西の部隊は三千五百。主将は小六(蜂須賀家政)殿で、副将は将右衛門(前野長康)殿。どちらも尾張時代から藤吉郎殿とともに戦ってきた、信頼のおける方です。
もし明智家が坂本城の奪還に成功して、全兵力を温存していたら三千五百では心もとないのですが、おそらくは少数の抑えの兵だけ残して勘九郎様に合流しているでしょう。
この作戦は時間との勝負です。すでに何人かの忍びが先行して京に入っていますし、お館様の軍勢の方が我らより早く京に到着するでしょう。
あとは、宣旨が出されるより先に御所の包囲が完成するかどうか──。
「──なあ、本当に荒事にはなりゃしまへんのやろうな?」
緊張感のない声でしきりに話しかけてくるのは勧修寺様です。占拠された御所から脱け出してくるだろうお公家衆が、本物のお公家様かどうか確認する必要があるので一緒に来ていただきましたが──愚痴ばかりでちょっと閉口します。
「せっかく血生臭い夢にも少し慣れてきたところやのに、目の前で斬り合いなんぞ起こった日には──ああ、考えただけで恐ろし恐ろし」
これで名うての人斬り集団の一員だった記憶を持っているというんですから──わからないものですねぇ。
さて、瀬田の唐橋は落とされておらず、無事に瀬田川を越えたところで陽が落ち切ったので石山寺で一泊します。
翌日は朝から馬に速足と並足を繰り返させ、一刻ほどで御所が見えてくるはずです。
山科を抜け、蹴上の坂を降りていく途中で、前方から新吉殿が馬を駆って近づいてきました。
「申し上げます! 昨日の夕刻、勘九郎様の一行が御所を占拠、それとほぼ時を同じくしてお館様の軍勢と藤堂隊が京に入られ、御所を包囲いたしました。今のところ衝突は起こっておりません」
「お上は──!? 近衛殿下はご無事であらしゃるのか⁉」
勧修寺様が血相を変えて尋ねますが、新吉殿は首を横に振りました。
「御所から脱出した方々の中にお二方はいらっしゃいません。おそらくまだ御所に──」
「何てことや。何て恐れ多いことを──」
「それで、お館様の手勢はどれほどおるんじゃ?」
「柴田隊、佐々隊と藤堂隊を合わせて五千、といったところでしょうか」
明智家の兵力は総勢四千ほど。もし坂本城を捨て、全軍でこちらに向かってきているのならかなり厳しいですね。こちらは御所の包囲にかなり兵を取られますし、別動隊で明智軍の合流を阻止しようとしても数は互角──いえ、むしろこちらが劣勢でしょうか。
「よし、新吉! 急ぎ兄者に報告! 出来るだけ早くこちらに来るようにと伝えよ!」
「はっ!」
新吉殿が駆け去ると、我らも馬の歩みを早めて御所へと向かいます。
「こちらには織田筒がありますが、遮蔽物の多い市街戦となると──苦しい戦いになるかもしれませんね」
そう語りかけましたが、小一郎殿から返事がありません。
「小一郎殿──?」
小一郎殿はなぜか少しずつ馬の速度を落とし、やがて完全に止まってしまいました。勧修寺様もご一緒です。
「──こ、こういうことか……」
「ま、まさか、この時代にこんなものを見ることになるとは──」
うわごとのように呟くおふたりは、まだ遠くの御所の屋根にはためく大きな旗を茫然と見つめたままでした。
──たった一文字、『誠』とだけ大書されたその旗を。
年内最後の更新になります。
来週はお休みをいただき、次回更新は1/10午前中の予定です。
今年もたくさんの応援、心より感謝いたします。
皆様、どうぞよいお年をお迎えください。




