103 謀反(むほん)の兆し 竹中半兵衛重治
小一郎殿からの報せが届きません。近衛殿下が合流されてこれから大坂に向かうという文が今浜に届いてからは、全くなしのつぶてです。本願寺との交渉が、そんなに難航しているのでしょうか。
塩津浜で布陣中の私や藤吉郎殿はもちろん、今浜のお駒殿やおね様も、さぞ気を揉んでいることでしょう。そんなある日──。
「な、何!? お館様がこちらに向かっておられるじゃと!」
治部左衛門殿が、驚くような報せを持って駆けつけてきたのです。
「はっ。兵二万を御自ら率いて、関ケ原から近江に入られるとのこと。
到着予定は二日後。しばし羽柴領に留まるので、兵たちを泊まらせる手筈を整えよとの先触れがございました」
ざああっ。自分の血の気が一気に引くのがはっきりとわかりました。
「殿、これはまずいです! 軍勢が二日後ということは、お館様ご本人は小勢で今日にも来るやもしれません。何しろせっかちなお方ですから」
「こ、こうしちゃおれん、すぐに戻るぞ!」
後のことを(蜂須賀)小六殿に託し、私たちは急いで丸子船に飛び乗りました。
岸まで声が届かないあたりまでくるなり、藤吉郎殿が声を潜めて私と治部左衛門殿に話しかけてきます。
「どういうこっちゃ。お館様が直々にご出馬されるなど、前の評定でも全く聞いておらんぞ。
そもそも、いったいどこへ向かうというんじゃ? こちらに来るということは、朝倉攻めに加勢か、あるいは──」
「朝倉はないでしょう。それならもっと早くに連絡が来るでしょうし、正直言って朝倉など我らだけでも難なく叩き潰せますから」
「とすると──まさか本願寺か」
藤吉郎殿の声が少し暗さを帯びます。もしそうだとするなら、それは小一郎殿の和睦交渉が不調に終わったということを意味します。そして、いまだ小一郎殿から何の連絡もないところをみると、その身に何かが起こってしまったのか──。
「いや、それもいささか考えにくいですな。小一郎様には新吉、三介様にもひとり忍びを配しています。ふたりの忍びが揃って不覚を取るとは思えません」
私の懸念に治部左衛門殿が異を唱えます。
しかし、そうなるともう全く見当もつきません。ただでさえ軍旅を動かすのには不向きな季節、しかも雪深い関ケ原を越えてくるなど、よほどのことです。しかし、今そこまで喫緊の状況にあるところなどないはずですが──。
「まあ、今は判断するだけの情報がない。まずはお館様のお話を伺ってから、じゃな」
そんな会話をしているうちに、船が今浜に到着しました。
城に入って急いで中広間に向かうと、案の定そこにはすでにお館様が苛立ったように待ち構えていました。なぜか、小一郎殿に同行していったはずの新吉殿も一緒です。
その前にはおね様とお駒殿も座っているのですが、おそらく話は私たちが着いてからとでも言われているのでしょう、不安げな青白い顔をしています。
「藤吉郎、半兵衛、遅いっ!」
「は、申し訳ありません!」
──そう思うなら、もっと早くに報せをくれませんかお館様。
我らが着座すると、まず新吉殿が口を開きました。
「手短に報告いたします。本願寺との和睦は問題なく合意に達しました。むろん、皆様もご無事です。
ただ、いささか面倒な事情がありまして、小一郎様の判断で情報を伏せていたのです」
「事情? そりゃあいったい──?」
その問いに答えようとする新吉殿を身振りで制して、お館様が不機嫌そうに口を開きました。
「本願寺の武器庫から三丁の織田筒が見つかった。明智家から横流しされたものだ」
なんと。織田家の最重要機密の横流しとは、許されざる大罪です。皆が息を呑んで絶句する中──お駒殿が真っ先に我に返って反論を試みました。
「で、でもそれが明智家からのものだという確たる証拠はあるのですか⁉」
「証拠ならある」
お館様がそう答えると、横の新吉殿がふところからなにやら紙を取り出しました。これは、何かの拓本でしょうか。
「これは織田筒の着火部分の部品です。分解しないと見えないところなのですが──ここに小さな傷があるのがおわかりですか?」
たしかにうっすらとした三角形のような傷が見えます。
「これは小一郎様とお館様、一部の鉄砲鍛冶しか知らぬことなのですが──。
織田筒は百丁単位で諸将に預けられていますが、百丁ずつに同じ印を刻んであります。
これを見れば、その織田筒がどの陣営に預けられたものかがわかるということなのです」
うーん、なるほど。これは言い逃れのできない証拠になるでしょうね。
「──養父上(十兵衛)様ではなく、家臣が横流ししたという可能性もありますよね」
お駒殿もあきらめが悪い。お館様も少し苦い笑いを浮かべます。
「その可能性はあるし、おそらく十兵衛もそう言い張るだろうが、──仮に家臣がやったことでも監督不行き届きは厳罰ものだ。
それよりもっと問題なのが──おい、新吉、次だ」
「は。これも武器庫で見つけたものなのですが──」
次に新吉殿が見せてきた紙には、旗振り通信の指示のようなものが書かれています。旗を三つだけ使ってどう振るかが書かれているだけですが──。
「これは、織田の公式の暗号にはない組み合わせですな。これでは全く意味を成さない」
横から覗き込んだ治部左衛門殿が訝しげな声を上げますが──いや、これはまさか。
「いや、これは特定の者にだけわかる合図なのかもしれませんよ。
旗振りの意味する内容は、途中の中継点のものには知らされていません。おそらく本願寺でこのように旗が振られても、近くの旗振り場の者は包囲軍からの合図だと思って次の旗振り場に伝達し、そして一日もあれば織田領中に広まります。
ほとんどの者には意味がわからないでしょうが、事前に打ち合わせた者にとっては意味のある合図となるということでしょう」
「ふむ、さすがは半兵衛。ならば何の合図なのか、想像はつくな?」
お館様が試すように訊ねてきます。
「はい、この場合に最も考えられるのは──何人かで示し合わせての一斉蜂起、すなわち織田への謀反です」
なるほど、色々と読めてきました。小一郎殿が和睦成立の情報を隠そうとしていたのは、これがあったからですね。
「──お館様、もしやわざと旗を振らせて、謀反に加担している者をあぶりだすおつもりでは──?」
治部左衛門殿が尋ねます。
「うむ、確かにそれも考えた。だが、どれほどの者が加担しているかもわからんし、規模も想像がつかん。下手に火をつけてしまって収拾がつかなくなってしまっても困る。
それより──まずは十兵衛だ」
そう言って、お館様は近江周辺の地図をふところから出して広げました。
「十兵衛は本願寺と和睦交渉をしていることを知らんはずだ。そこで兵を宇治槙島まで進め、いよいよ本願寺攻めを本格化させるものと見せかける。その上で十兵衛を京に呼び出し、証拠を突きつけて詰問するつもりだ」
お館様はそう言って、地図の坂本あたりを指差しました。
「場合によっては坂本城(明智家の居城)を攻めることになる。攻略はわしの連れてきた兵で行うが、藤吉郎も二・三千ほど連れて塩津浜から湖西を南下し、明智の退路を断て」
「は、承知しました」
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
物騒な話がまとまり始めるのを見て、お駒殿が血相を変えて止めようとします。
「まだ家臣が勝手にやってしまったという可能性もあるのに、坂本城を攻めるというのは、あまりにも──!」
「気持ちはわからんでもないがな、駒。よく考えてみろ」
お館様が、むしろ穏やかな声でそれを制します。
「旗振り通信を謀反の合図に使おうという考えは誰にでも思いつくかもしれん。だが、その合図が織田で使われている暗号と重複してしまっては意味がないのだ。
旗振り通信の暗号をすべて把握しているのは、織田家中でも十指に入るほどの有力者のみ。ならば、十兵衛本人も加担していると考えた方が自然だ」
「で、ですが──」
「駒。この件に関しては、もはや口出し無用。よいな」
こうも強い口調で言われては、お駒殿もさすがに口を閉ざすしかないでしょう。
「しかし、お館様。明智殿はそれでいいとして、謀反に加担しようとしていた者は放置しておいて良いのですか?」
しばしの沈黙の後、藤吉郎殿が問いを発しました。
「何か手当は講じておいた方がいいような気もしますが──」
「確かにそうだが、まるで心当たりがないのだ。自分で言うのも何だが、今の織田家はなかなかに良いまつりごとを行っていると自負している。謀反を起こすほど不満を募らせている家臣がおるのか? 藤吉郎、お前に心当たりはあるか?」
「いえ、わしにもさっぱり──。
半兵衛、おぬしはどうじゃ? ほれ、小一郎からこの先に謀反を起こした者とか、聞いておらんのか?」
おっと、私にお鉢が回ってきましたか。
「そうですね。本来の歴史では、明智殿の前に何人かの家臣が謀反を起こすそうです。その名前も聞いてはいますが、今のその者たちが謀反を考えているとは思えないのです。──ひとりを除いては、ですが」
「ひとりを除いて──? 誰だそいつは」
「うーん、私がそのお方を讒言したようになってしまうのは困るのですが──」
「なに、おぬしの話だけで処罰したりするわけではない。その可能性もあると留意しておくだけだ。半兵衛、申せ」
まあ、この人の名前は出しちゃっても大丈夫でしょう。
「──大和の霜台殿(松永久秀)です」
その名前に、皆が納得したように頷きます。なにしろこの方は、向背常ならぬお方としてとても有名ですから。
かつて天下人に最も近かった三好修理太夫(長慶)殿の側近として頭角をあらわし、(足利)義輝公(13代将軍)とも近しく接していながら、修理太夫殿の死後はその義輝公の暗殺に加担したり、三好三人衆と対立したり。
金ケ崎の退きいくさで絶対的な窮地に立たされたお館様を献身的に援けたかと思えば、義昭公(15代将軍)と組んで反織田包囲網に加わったりと、立場を目まぐるしく変える方です。あそこまで行くともう、裏切ること自体が生き甲斐なのではないかとすら思えます。
それでいて、茶の湯や骨董品の鑑定に精通した当代きっての文化人だというんですから、訳がわかりません。
「まあ、霜台殿はああいうお方ですからね。
ただ、他の方はちょっと名前を挙げるのもはばかられると言いましょうか──。
正直言って、織田家に敵対することで今以上に利を得る可能性など全く思い至りませんし、それなりの立場にいるほどのお方なら、そのぐらいのことがわからないとも思えないのですが──」
皆が首を捻って考え込んでいると、お駒殿がおずおずと手を上げました。
「あ、あのう……」
お館様が、さすがに苛立ちのこもった目で睨みつけます。
「駒、口出し無用と言ったはずだが」
「いえ、養父上を擁護するつもりはないのです。ですが少し違和感が──。
この謀反の計画、養父上がたてたにしてはあまりに杜撰、というか稚拙だとは思われませんか?」
「杜撰──稚拙だと?」
意外な言葉に、お館様が目を丸くされます。
しかし、その表情から少しは話を聞く気があると見てか、お駒殿が一気に口を開きました。
「本願寺や門徒たちに厭戦気分が蔓延していることは、養父上ほどの方なら充分にお分かりのはず。なのに、自分たちの命運を分けかねない最初の合図を本願寺の抗戦派にゆだねてしまうなど、ちょっと杜撰ではないかと思うのです」
うーん、それは確かに。
「それと、横流しされた鉄砲がたった三丁だけというのも解せません。
新吉、他に複製が作られた様子はなかった?」
「え? ──いえ、作ろうとした形跡はありましたが、早々に諦めたのではないかと。
その三丁はかなり使い込まれていたようでしたので、三人の狙撃手を育てようとしていたのではないでしょうか」
新吉殿が慌てて答えると、お駒殿は満足げに頷きました。
「戦局を変えようとするには三丁ではあまりに少なすぎます。
これはあくまで私の印象ですが、その裏に何だか『稚拙な思い込み』があるように思えるのです」
「思い込みだと?」
「はい。『織田筒の現物さえ渡しておけば、すぐにでも複製がどんどん作られるに違いない』という思い込みです。まあ、鉄砲作りの現場を知らない者が考えそうなことですよね」
「ううむ──」
お館様が腕を組んで考え込まれます。
「それと、この謀反計画そのものもそうです。
本来の歴史でのお館様は、家臣たちにたいへん恐れられていたと聞いています。いつ、どういう理由で粛清されるかもわからないという恐怖心で家臣たちを縛っていたのだとか。
確かにそれなら、一部で謀反が起きれば連鎖的に広がることもあるでしょう。
でも、今の状態で誰かが謀反を起こしたとして、それほど同調する動きがあると思いますか?」
お駒殿が、今度は藤吉郎殿に問いかけます。
「うーん、確かにそれは考えにくいのう。今、恐怖心からお館様にかしづいとる家臣などおらんのじゃないか?」
「義兄上様もそう思われますよね。
でも、この計画からは『皆がお館様に不満を募らせているに違いない』という思い込みが感じられるのです。
でも、私が気づく程度の杜撰な計画を、知将と言われる養父上が立てたとも思えない。
私が思うにこの計画は、本来の歴史の知識を持った者が、この歴史でも同じような途を辿るに違いないという稚拙な思い込みの下に立てたもの──すなわち、無明殿の立案ではないかと」
「──結局、お前は何が言いたいのだ?」
お館様が苛立ちをあらわにして低い声で問い質します。
「無明殿が立てた計画だから、十兵衛は関与していないとでも言いたいのか」
「いいえ。さすがにそこまで養父上のことを妄信しているわけではありません。
養父上が関与していることは、残念ながらもう疑う余地はないでしょう。
ただ、無明殿の計画の杜撰さに気づいていながら、あえて看過しているようにも思えるのです」
「看過している? ──何のために?」
「ひとつ目の可能性として、無明殿に協力するふりをしながら阻止するために動いているということが考えられます。
そして、もうひとつの可能性として──」
そこまで言っていったん言葉を切り、お駒殿は覚悟を決めるように唾を呑み込んで口を開いたのです。
「養父上にとって、無明殿の計画の成否などどうでもいい──むしろ失敗させて、その混乱に乗じて別の何かを成そうと企んでいるのかもしれません」




