102 教如殿 藤堂与右衛門高虎
織田との和睦を受け入れる──顕如上人のその発言に、後ろの坊官たちが大きく息をついた。
もっとも、全員が安堵の溜息というわけではない。少なくとも四人は不服そうな顔つきだし、特に刑部(下間頼廉)殿と一番若い僧侶がはっきりと憤りをあらわにしている。まだ少年の域を抜けきっていないくらいの若さだが、他の者より少しいい袈裟を着ているところを見ると、これが顕如上人のご嫡男、教如殿か。
「父上、織田の口車に乗せられてはなりませんぞ!
武器を捨てて石山を離れ、織田の用意した土地に移るなど──和睦ではなくただの降伏ではありませんか! それではいつ寝首を掻かれて根切りにされるか、わかったものではありませんぞ!
この石山なら、たとえ織田が本気で攻めてこようとも、何年でも持ちこたえられます。断じて石山を離れては──」
「うーん、そりゃ困ったことになるのう。籠城などやめてもらえんじゃろか?」
小一郎様の困り顔に、教如殿がしてやったりといったようにほくそ笑む。
「ふふん。羽柴の弟はいくさ嫌いの腑抜けと聞いていたが、どうやらまことであったようだな。
父上、いくら織田家が巨大になったとはいえ、周りにはまだ朝倉も上杉も北条も、そして毛利もおります。それらと手を結べば──」
「悪いですがな、いくさを続ければ困ったことになるのはそちらですぞ?」
小一郎様が教如殿の言葉を冷たくさえぎった。
「な、何を──?」
「確かに石山の守りは堅いし、兵の数も数万はおるでしょう。ですが、兵糧はどうされるおつもりかな?
去年は全国的に深刻な米不足で、門徒たちからの馳走(寄付)の集まりもさぞ悪かったですろ。
──まあ、そうなるようにわしが意図的に仕向けたんじゃがな」
あっけらかんと言い放ち、坊官たちが唖然とするのを尻目に、小一郎様が清酒を使った計略を語り始める。
他家にわざと製法を盗ませて清酒造りに奔走するよう仕向けたこと、米相場の暴騰と清酒相場の暴落を読み切り、多くの大名家に大損害を被らせたことなど──。
「──おまけに、武田が遠江侵攻の前に米を大量に買い漁ってくれたからの。どの家も損害の穴埋めのために、秋の実りを見込んでここぞとばかりに備蓄米をぎりぎりまで売り飛ばしたらしい。
そういうわけで、この秋の収穫はほとんどが大名たちの備蓄米となった。織田にいくさを仕掛けたり、本願寺に支援する余裕などないと思うぞ」
「な、なら売っているものを買い集めるまでだ!」
「今、市場に出回っとる米はほとんどが織田の余剰米でしてな。それを止めてしまえば──もうおわかりじゃろ?」
「な、ならば──」
「なあ、教如殿。いくさとは戦場だけで行われるわけではない。その前の、金や兵糧を用意するところから始まっとる。そこをこちらが押さえている時点でもう、勝敗は見えとるんじゃ」
「くっ──い、いや、こちらにも織田筒が──」
「教如様っ!」
刑部殿が慌てて制止したがもう遅い。今、はっきり『織田筒』の名を口にしたな。
ということは、どこからか密かに織田筒の情報を手に入れたか、現物を手に入れたか──。
抗戦派の強気はそこから来ていたのだろうか。
小一郎様は聞こえたのか聞こえなかったのか、身じろぎひとつしていないのだが──。
「ええい、どうした、頼廉、(下間)頼竜! お前たちもこの前まで、あれほど織田など叩き潰してやると息巻いておったではないか。このまま織田の軍門に下って、それでよいのか!」
教如殿がわめきながら立ち上がって周りを見回した。だがその姿は、なんだか癇癪を起こした幼子のようで、どこか哀れですらある。
「わしは友を織田に殺された! お前らも身内や近しい者たちを殺されたのであろう! それなのに戦いもせずに織田に降って、それで納得できるのか!?
織田の下で、織田に情けをかけられて生き永らえるなど、わしは真っ平だ! それくらいなら、いっそ死んだ方が──」
『教如様!』『どうか落ち着いてくださいませ!』
周りの者たちが慌てて鎮めようとするが、教如殿は視線で小一郎様を射殺そうとでもいうように睨みつけている。その視線を平然と受けていた小一郎様が、やがてぽつりとつぶやいた。
「──狭い。実に狭いですな、教如殿」
「な──なんだと?」
「まっこと失礼ながら、見ている範囲が狭すぎますな」
「どういう意味だ!」
それには答えず、小一郎様は坊官たちをぐるりと見回し、少し畏まったように口を開いた。
「方々にお尋ねしたい。
人は阿弥陀如来の御名を唱え、その慈悲にすがることで極楽往生を遂げることが出来る、ということでよろしいのですな?」
「──その通りです。それが何か?」
代表して顕如上人が答えると、小一郎様はふところから折りたたまれた紙を取り出して、教如殿からよく見えるように床に広げた。異人が持ち込んだ世界地図だ。
「これが世界の姿です。──そして日ノ本とはこんなちっぽけな島国でしかありません。
世界はとてつもなく広い。それこそ、日ノ本の何万倍もの人が住んでおるでしょうな」
「だから、それが何だというのだ!」
教如殿がすかさず噛みつくが、小一郎様は穏やかな口調で、しかしきっぱりと質問を口にした。
「おそらく、日ノ本以外の地に住む人のほとんどが阿弥陀如来の名すら聞いたこともないですろ。
ならば──それらの人々は誰ひとり極楽には行けんのですかな?」
その質問に、坊官たちが完全に言葉を失ってしまった。おそらく日ノ本の外のことなど、一度も考えたことすらなかったに違いない。
「それと、切支丹にも極楽の教えはありましてな。ええと、『ぱらいそ』とか言うたかの。
確か『でうす』に自らの罪を悔い改めることで『ぱらいそ』とやらに行けると説いておるらしいんじゃがな。
それは間違った教えで、切支丹は誰ひとり極楽に行けんということですかな?」
この問いにも誰も答えようとはしない。切支丹の教義についてなど、知ろうともしていなかったのではないだろうか。
「だ、だから何が言いたいのだ⁉ 貴様、切支丹の教えの方が正しいとでも言うつもりか!」
「そんなことは言うちゃおらんよ」
怒色を露わにする刑部殿に、小一郎様はのんびりとした口調で答えを返した。
「神仏ならぬ人の身で何が正しいかなどわかるはずもないと、先ほど言いましたじゃろ?
宗派や宗教ごとにそれぞれ別の極楽があるのか、あるいは同じ極楽のことを宗派ごとに違う言葉で言い表しているだけなのか──いずれにせよ、わしには確かめようもないですからなぁ。
だが、無学なわしと違って、貴殿らは永年の研鑽や学問を積み重ねた上で、阿弥陀の教えこそが正しい答えなのだとの確信に至った。違いますかな?」
「う、うむ、確かにその通りだ」
急に持ち上げられて、刑部殿の表情が緩む。あんがい単純だなこのお方は。
「ならば──」
小一郎様はそこで言葉を切り、坊官たちの顔を見回した後に、世界地図の大きな大陸あたりに掌を置いた。
「視野をもっともっと広げてみなされ。貴殿らの考えが正しいとするなら、その正しい答えを知らずに極楽往生できない人が、世界中には星の数ほどおるということになるのではないか?
ならば、それら全ての人々に正しき道を教え、導くこと。──それこそが、貴殿ら仏門の碩学がやらねばならぬ『天命』ではないのかな?」
「────か、考えたこともなかった。──こちらから異国に教えを広めに行くだと──?」
長い沈黙の中、教如殿がうめくようにつぶやいた。他の者はまだ、茫然自失といったところから脱け出せないでいる。
無理もない。もともと大陸から渡ってきた仏教を進化発展させてきたのが、日ノ本の仏教だ。それを逆に異国に広めようなどと、小一郎様以外の誰に思いつけるというのだ。
──三介様や近衛殿下、孫一殿あたりはそろそろ小一郎様の話術に慣れてきたのか、『ああ、また始まったよ』とでもいうような苦笑いを浮かべているのだが。
「──まあ、日ノ本の船で大海を渡るのは難しいですからな。そこに思い至らなかったのも無理ないですろ。
しかしな、織田は今、大海を渡っていける新型の船を造っておるんじゃ!」
空気を変えるように、小一郎様が明るい声で話を始めた。
「今後ますます異国との交流を深めるべく、おそらくは二・三年のうちに使節を送ることになります。それに便乗して、異国に布教に赴くというのはいかがですかな?」
「え、あ、いやそれはしかし──」
刑部殿が言葉を濁そうとするが、小一郎様が少し意地悪い顔で追い打ちをかけた。
「おや? 伴天連たちはもう実際にやっておりますぞ? それとも、伴天連には出来ても真宗の僧侶には出来ないということですかの?」
「そ、そんなことはないっ!」
教如殿が慌てて反対した。まあ、そう答えないわけにはいかないだろうなあ。
「織田に屈して、屈辱に耐えながら細々と生き永らえるくらいなら、異国での布教に行く方がはるかにマシだっ!」
「おおっ、その意気ですぞ、教如殿!
よろしいですか、何も『織田に屈した』などと思わんでもいいのです。
むしろ、『真宗の教えを世界中に広げるために織田などうまく利用してやる!』くらいに思っておきなされ」
「おお、『織田を利用してやる』か! それはいいな、気に入った!
──いいだろう、その話に乗ってやろうではないか!」
ああ、もうすっかり小一郎様の術中にハマってしまわれたな。
「す、少し落ち着きなさい! そんな重大なことを簡単に決めてしまっては──!?」
さすがに顕如上人が慌てて諫めようとする。周りの者たちも口々に良く考えるようにと諭し始めたが、こういう時にそれって逆効果だと思うんだよな。
「何を考えろというのです、御仏の教えを広めるのは我らがもっともやらねばならぬ務めではないですか!
今はっきりとわかったのです、父上。日ノ本以外の民にまで御仏の教えを説きに行く、これこそが私に与えられた天命なのだと!」
これはもう、完全に自分に酔ってしまったな。すると、さらに背中を押すように孫一殿が口を開いた。
「ご案じめさるな、顕如殿。その使節団はどうも俺が率いることになるようでな。
教如殿を無事に異国まで送り届けるよう、俺も最善を尽くそう。
──ただし、そこから先の途は、教如殿が御自ら切り開かねばなりませんぞ?」
「無論だ! 必ずや、異国の民に御仏の教えを広めてみせるぞ!」
そう息巻く教如殿の後ろで、刑部殿を始め何人かの坊官が真っ青な顔で凍りついているんだが、あれは立場上同行を余儀なくされる方々なのだろう。
これまで教如殿を抗戦派の神輿に担ぐために、さぞ威勢のいいことを吹きこんできたのではないか、『織田に降るくらいなら死んだ方がマシだ!』とか何とか。
それを、今さら『異国に行くのは怖い』くらいの理由で『やっぱり織田の下で生きることを選びます』とはさすがに言えんだろうからな。自業自得とはいえ──お気の毒に。
「──では、教如殿。しばらく奥志摩に来られませんか?」
そこで、話をまとめるように小一郎様が切り出した。
「奥志摩だと? あんなところで何を──」
「奥志摩で異国へ渡る船を造っておりましてな。異国の言葉を話せる者がおりますので、事前に少し覚えておかれると良いでしょう。
それと今、紙を大量に作る機械と、大量に印刷する機械を開発しておりましてな。この技術があれば、異国の言葉で経典を大量に作って配るなど、今後の布教に大いに役立つはずです。これも学んでいかれてはいかがですかな」
「おお、それはいいな」
「顕如殿、教如殿。真宗が他派に先駆けて武装放棄に応じてくれたとなれば、織田も真宗への助力は惜しみませんぞ。
──孫一、教如殿たちを奥志摩まで送り届けてもらえるか?」
「おう、心得た」
なるほど。血の気の多い抗戦派は、和睦の邪魔にならないようにさっさと遠ざけてしまおうということか。
あれよあれよと話がまとまっていくことに、刑部殿たちが何とか止めようと焦っている気配はあるが、うまく言葉が見つからないのだろう。何しろ、小一郎様が言った言葉は正論も正論。『何となく嫌だ』くらいでおいそれと反対できるものではないのだ。
──うーん、何て恐ろしい人なんだ。俺はこの先、何があっても小一郎様を敵に回すことだけは絶対にするまい。
さて、色々と話もまとまり、そろそろ話が終わりそうな気配が見えてきた。
──顕如上人は、教如殿が異国に行くことにずいぶん難色を示していたのだが、抗戦派がいくさ以外の結論に落ち着きそうだということと、今すぐに渡航するわけではないということで、何とか納得していただけたようだ。まあ、しばらくしたら気が変わるかもしれんからな。
和睦の条件についても、もう少し細かいところまで話し合われた。
正式な和睦合意は後日、包囲軍総大将の森(可成)様と柴田(勝家)様とのあいだで交わしていただくこととなった。
やはり無役の小一郎様が成し遂げてしまったのでは、御両所の立つ瀬がなくなってしまうからな。
そして石山本願寺の明け渡しはひと月後となり、その間に移転先をどこにするか考えるようだ。
本願寺から退去した後、主だった方々と希望する門徒たちは阿古丸様の興正寺とその末寺に寄宿し、新しい本願寺の建立を待つこととなる。
武装放棄についても、あくまで石山本願寺と織田領内の寺についてのみ、という形となった。
その他の地域では、今現在も領主と紛争を続けているところもあり、無理に武器を捨てさせてしまっては根切りにされてしまいかねないからだ。
ただ、織田と本願寺の和睦条件を伝えることで、なるべく穏便な形での講和を進めるよう促すということに落ち着いた。
──そして。
「ところで、武装放棄についてですがな。
教如殿。どうやら織田の新式鉄砲をお持ちのようですが──こちらにお渡しいただけますかな?」
やはり先ほどの一言を聞き逃していなかったか。
教如殿は刑部殿と目でやり取りを交わし、白を切り通すべきかどうか迷っているように見えた。
「持っておられるなら、隠し立てはしない方がよろしいかと。
貴殿たちにその気がなくとも、門徒の誰かが勝手にそれを持ち出して織田に危害を及ぼしたりしたら、それは真宗弾圧の口実にもなりかねませんぞ」
小一郎様がそう凄んでみせると、刑部殿が大きく溜息をついて、部屋の入口近くにいた坊官に取りに行くよう指示を出した。
「何丁お持ちですか? どこで入手されましたかな?」
「三丁です。戦場で拾いました」
「──それは嘘ですな」
刑部殿の答えを、小一郎様が一蹴した。
「織田筒のことは織田家でも最重要機密です。戦場で使ったのは三方ヶ原のただ一度きり。その後に数も確認しておりますので、戦場でなくした可能性はありません。
あと考えられるのは──織田家中のどこからか盗んだか、あるいは織田家中の誰かが横流ししたか、ですが」
「──ある方からいただきました。すみませんが、それ以上は──」
「ああ、別に答えていただかなくとも構いませんよ。どうせ口止めされておるでしょうし、あるいは御仏の名にかけて口外しないと誓わされてしまったのではないですかな?」
うーん、むしろそこが一番大事だと思うんだが。無明殿か明智様の仕掛け、ということもあり得そうだし。
やがて、先ほどの若い坊官が三丁の鉄砲を重そうに抱えて持ってきた。
「これで全て、ですな?」
「はい」
「なるほど。ちょっと失礼──」
そう言うなり、小一郎様が慣れた手つきで素早く織田筒を分解し始めた。
「え? いったい何を──」
その刑部殿の問いには答えず、小一郎様は黙って分解を続けていたのだが、やがてその手がぴたりと止まった。
「──なるほど。やはりそういうことでしたか」
「は、羽柴殿、いったい何が──?
「実は、前々から織田家中に良からぬことを企む者がおると睨んでおりましてな。
とあるところにちょっとした秘密の細工を施してあります。それによって、これがどの家に預けられたものか──どこから横流しされたものかもわかるというわけです」
「そ、それは──!?」
「まあ、わしとお館様しか知らんことですからな。貴殿らがその者との約束を破ったことにはなりませんので、お気になさらず」
そう言って、小一郎様は改めて織田筒の部品を眺めながら、凄みのある笑みを浮かべて呟かれたのだ。
「──さあて、ようやくしっぽを掴んだ。
そろそろ、ケリをつけさせてもらうとするかのう」




