姉と弟 (1)
弟なのに血がつながっていないのは、彼が父の再婚相手の連れ子だからだ。
父、恭一郎は、遙香が小学四年生のときに再婚した。再婚相手は、会社で彼の秘書を務めていたシングルマザーの女性。智基はそのひとり息子だ。
その再婚相手と父は、わずか五年ほどで離婚した。
この五年間の出来事は、遙香の心に消えない傷となって残っている。離婚に至るまでの顛末は、おそらく恭一郎と智基の心にも深い傷を残したことだろう。
何しろ、遙香は苛烈な継子いじめに遭っていた。にもかかわらず、彼女が命を落としかけるまで、二人はそのことに気づかなかったのだから。
恭一郎の再婚相手は、倉渕真由美という女性だ。彼の経営する中堅の音響機器メーカー、イデアで、彼の秘書を務めていた。すらりと背の高いモデル体型の華やかな美人で、少々きつめの顔立ちながら、朗らかでとても愛想がよい。ただし「恭一郎と智基の目のあるところでは」という前置きが付く。再婚するまでは、遙香にも優しかった。
後で聞いた話では、別に恋愛結婚というわけではなかったらしい。身も蓋もない言い方をすれば、子育てのための便宜的な再婚だった。
もともと恭一郎には、再婚したいという願望はまったくなかった。彼は子持ちではあるものの、まだ若く独身で、何と言っても大企業と呼べる規模の会社の経営者である。秋波を送ってくる女性にはこと欠かない。しかし心惹かれることがなかった。玉の輿狙いなのが透けて見えてしまうから、アプローチが露骨であればあるほど、気持ちが冷めていくばかりだったのだそうだ。
真由美からは、そうしたアプローチは一切なかった。ただ、二人は歳の近い子どもを持つシングルペアレント同士なので、仕事の合間に子どもの話をすることがよくあった。
その際、真由美は「女の子は特に、思春期を迎えると父親には相談しにくいことも多いだろう」などと、遙香を心配するような言葉をしばしば口にした。それはまさに恭一郎自身も気にかけていることだっただけに、気持ちが揺らぐ。
これが真由美の駆け引きであり、娘を思う気持ちにつけ込まれていたことには、離婚に至るまで彼は気づけなかった。
最終的には、仕事の上でそつなく立ち回る真由美に対する安心感から、再婚を決めたそうだ。要するに徹頭徹尾、娘のためを思っての再婚だった。
離婚の引き金となった事件が起きたのは、遙香が中学三年生のときのことだ。
夏休みにも、遙香には休みはない。真由美によって、隙間なく夏期講習の予定が詰め込まれていたから。
その日、遙香は胸のあたりが苦しくて、動くのがつらかった。我慢しようとしたが、どうしてもつらい。それで、真由美に講習を休みたいと訴えてみた。だが「熱もないのに甘えないでちょうだい」と、すげなく一蹴されただけだった。
「サボって帰ってきても、家には入れませんからね」
仕方なく塾に行ったが、やはり苦しい。顔色も相当悪かったのだろう。講師が気づいて、休み時間に声をかけてくれた。
「体調が悪いんじゃない?」
「熱はありません」
「熱がなくても、体調が悪いときに無理するものじゃないよ」
「でも、甘えたらいけないから」
ここで講師は、何かに思い当たったような顔になり、かすかに眉をひそめた。そして小さく嘆息してから、言い聞かせるような声色で続ける。
「具合が悪いときに休むのは、当たり前のことなんだよ。甘えじゃない。だから今日はもう帰りなさい。親御さんには、先生にそう言われたって言えばいいから」
講師の説得に、遙香は従順に「はい」とうなずく。救われた気持ちでホッとしながら、塾を出た。ところが家に帰って、玄関の鍵を開けてもドアが開かない。
(え。なんで?)
よく見ると、内側にチェーンがかかっていた。
(間違ってかけちゃったのかな)
不思議に思いながら、インターホンを鳴らした。だが、誰も出ない。おかしい。誰かしら家に人がいるはずなのに。だってチェーンがかかっているのだから。それをかけた人が内側にいるということだ。
(そう言えば、帰ってきても家には入れないって言ってた……。そういうこと?)
焦った遙香は、どこか開けられる窓がないかと家の周囲を回ってみた。だが、どれもしっかり鍵がかかっている。家の電話にかけてみても、留守録のメッセージが流れるだけ。真由美のスマホは圏外だし、智基のスマホも応答がない。
恭一郎にはかけなかった。会社で仕事中の父に「家のドアが開かない」などというつまらない理由で電話する度胸は、遙香にはなかったのだ。
途方に暮れた遙香は、玄関前に座り込む。
雲ひとつなく真夏の青空の広がる酷暑日だった。そのまま玄関前で、膝を抱えて悲しくうずくまっていた。
そうして、どれだけ時間が経っただろうか。じりじりと容赦なく照りつける日差しの下、うだるような暑さに、やがて遙香は気分が悪くなってきた。すっかりぬるくなってしまったペットボトルの麦茶を飲んでみても、少しもよくならない。
(気持ちが悪い。吐きそう……)
玄関先を汚したら、きっとまた叱られる。どうしよう、と切羽詰まった気持ちになったところへ、スポーツクラブから智基が帰ってきた。
「あれ。遙香、こんなとこで何してんの。今日みたいな暑い日に外にいたら、危ないよ」
「家に入れなかった」
「鍵忘れた?」
「鍵はあるけど、ドアが開かないの」
「なんで?」
智基は怪訝そうな顔で、玄関の鍵を開けてドアハンドルを引く。すると、何ごともなかったかのようにドアが開くではないか。遙香が開けようとしたときには、間違いなくチェーンがかかっていたのに。「え」と驚きに目を見張る遙香を、智基が首をかしげながら振り向いた。
「開いたよ?」
遙香はフラフラと立ち上がろうとした。だが少し体を持ち上げたとたん、どうしたことか、すうっと目の前が暗くなっていく。あわてて手をつこうとしたが、感覚がおかしくなっていて、どの方向が下だかわからない。「遙香!」と智基が焦ったように呼ぶ声を聞いたのを最後の記憶に、意識は闇にのまれてしまった。
その後のことは、まったく記憶がない。気がついたら、病院で点滴を受けていた。
「熱中症で倒れて、救急車で運ばれてきたのよ。まだしばらくは、安静にしててね」
処置室で目覚めたときに、看護師がそう説明してくれた。目の前で倒れるのを見た智基が、即座にその場で救急車を呼び、病院へ搬送されたのだと言う。
真由美はずっと家の中にいたようだ。救急車のサイレンに驚いて、飛び出してきた。そして「そこまでする必要はない」と救急車を帰らせようとしたと言う。だが、ぐったりと意識のない遙香を見た救急隊員は、「病院での救急処置が必要」と押し切った。
そこから後は、怒濤の展開だった。
まず、遙香の胸の痛みは、肋骨の骨折と診断された。前日、些細なことで怒った真由美に激しく突き飛ばされ、ダイニングテーブルの角にしたたか打ち付けたときに、骨折したものと見られる。
次に、背中を中心に打撲痕が複数あったことから、虐待の疑いがかけられた。そもそも病院に搬送された理由が、家から閉め出された挙げ句の熱中症なのだ。その上さらに骨折と打撲痕ありとなれば、当然、家に帰すのは危険との判断に至る。この判断により、遙香は数日の入院となった。
救急車で遙香に付き添ったのは、智基だ。彼は真由美を言いくるめて、留守番させた。大人の真由美がいるのに、中学生の智基が付き添いだなんて、通常なら救急隊員が難色を示しそうなものである。しかし彼らは、彼女が意識のない娘を前に救急車を帰そうとするのを目の当たりにしていたので、あえて口を挟もうとはしなかった。
父へは智基が電話で知らせた。父はすぐに仕事を切り上げ、病院に飛んできた。そして医師から状況を聞き、呆然としていたそうだ。青白い顔で点滴を受ける娘を見て、恭一郎は泣いて詫びた。
「こんなことになるまで気がついてやれず、すまなかった」
遙香はこのとき生まれて初めて、父の涙を見た。
さらに翌日には、児童相談員が病院に派遣される。虐待の疑いありと、病院から連絡が行ったのだ。遙香だけでなく、真由美と恭一郎も相談員の面接を受けた。
相談員は真由美に「遙香を家から閉め出したのではないか」と尋ねたが、彼女はそれを否定したそうだ。そして「智基には玄関ドアが開けられたのだから、遙香が何か勘違いしただけでしょう」と主張したと言う。
しかし、家にははっきりとした証拠が残っていた。遙香がインターホンを鳴らしたときの録画だ。
遙香の家のインターホンにはカメラがついており、インターホンが鳴らされるたびに玄関前の様子を自動的に録画する。インターホンに出たかどうかは関係ない。鳴らされればその都度、録画が残るのだ。そして録画の中には、彼女がインターホンを鳴らした後、ドアを開けようとしたものの、チェーンに阻まれて開けられずにいる様子が、はっきりと映っていた。
智基にドアが開けられたのは、スポーツクラブから帰る時間に合わせて真由美がこっそりチェーンを外していたからだろう。極めて悪質だ。




