第一章 その8
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まず簡単な地理と歴史の話だ、とリクは切り出した。
「面倒なことは覚えなくてもいいし、いま理解できなくても生活しているうちに必要なことは理解できると思うから、そう構えなくてもいいけれど――まず、この世界の地図がこれ。真ん中にある大陸が、いまぼくたちがいる大陸だ。海は左右にふたつ、言い方を変えればひとつの海を大陸が二分しているわけだね。で、左右にはそれぞれひとつずつ大きな島があるんだけど、まあそのへんはいま急いで知る必要はないから――この大陸で、ぼくたちがいるヴィクトリアス王国があるのがここ」
「わ、広い」
「そう、世界でいちばん広い国なんだ。で、この広いヴィクトリアス王国の首都、ヴァナハマがここで、ぼくたちはまさにこの首都ヴァナハマにいる」
その地図も、地図に記された文字も、桐也や玲亜にはまったく見たこともないものだった。
作り物にしては手が込みすぎているし、そこまでしてたったふたりの子どもを騙す理由などないだろうから、やはりここは自分たちの知らない世界なのだと、ふたりは改めて実感する。
「ヴィクトリアス王国が成立したのはいまから四百年前。そこから暦がはじまって、いまは光紀四百年と呼ばれている。今年はちょうど四百年目の記念すべき年でね、冬には光紀四百年祭も控えていて、国全体がちょっとしたお祭りムードになってるんだ」
「はあ、四百年――」
「ま、それも追々知ることにはなると思うけど――とにかくこの世界の状況はこんな感じだね。なにか質問は?」
「あの!」
と玲亜が手を上げる。
「あたしたち、言葉は通じてるのに、この文字、まったく読めないんですけど」
「ああ、それは仕方ないんだ。言葉が通じているのは魔砲によるものだけど、それは意思疎通するための魔砲だから、文字が読めるようにはならないんだよ。文字はすこしずつ覚えていくしかないね」
「えー、一から?」
「でも言葉は通じるんだから、そうむずかしくないよ。文字の意味を教えてもらえばすぐに使えるようになる――さて、これ以上質問がないなら、次だね。次はこの学校、王立フィラール魔砲師学校についてだ。これが入学のパンフレットなんだけど、ま、文字が読めないから、一から説明しよう。まず王立フィラール魔砲師学校っていうのは、世界でいちばん優れているといわれる魔砲師の養成学校だ。もちろん優れているだけじゃなくて、伝統もある。もともと四百年前、ヴィクトリアス王国が周囲の小国を取り込む形で成立できたのは、この王立フィラール魔砲師学校に優秀な魔砲師が集まっていたからだといわれてるくらいなんだよ」
「じゃあ、この学校は国よりも古いんですか?」
「そういうこと。そして王立フィラール魔砲師学校といえば、世界中どこにいっても通じる。要するにエリートばかりが集まる学校というわけだね、うん。自画自賛するようだけど」
自画自賛にはちがいないが、それが真実であることもまたたしかだった。
はあ、と桐也は息をつき、ちらりとユイを見る。
「それじゃあ、ユイ……さんもそのエリートの一員?」
「呼び捨てでもいいですよ、ユイ、で」
「いや、怒られるかと思って……」
「そう、彼女もここの学生のひとりだよ」
そう言ってリクはちらりとユイを見たが、ユイがどこか悲しげに目を伏せた理由を、桐也や玲亜は知らなかった。
「うちの学校は六年制になってる。ただ、六年間通えば卒業できるわけじゃないんだ。むしろ六年で卒業できる生徒は稀でね、ちなみにぼくは五年で卒業したんだけど、ま、それはどうでもいいとして、ほとんどの生徒はどこかで留年するんだ。だから、入学する年も、卒業する年もばらばらで、なかには年齢は下だけど学年はふたつ上、なんてこともある」
「進級するのもむずかしいんだー」
「そう、それを五年で卒業したのがなにを隠そうこのぼくなわけだけども――ごほん。ええっと、ほかにはそうだな、細かい学校の決まりについてはまあそのうちってことで、なにか質問は?」
「せんせー、まほーしってなんですか?」
「うん、いい質問だ」
「やったー」
「魔砲師っていうのは、体内にあるエレメンタリアという物質を使い、自然界の物質、エレメンツを操る者、と言い換えることができる――ま、要するにふしぎな力を使っていろんなことができるってことだね」
きょとんとした顔のふたりを見て言い直したあと、リクは軽く指を鳴らした。
すると、その人差し指の先にぽっとちいさな炎が灯る。
ごくごく初歩の魔砲だったが、それだけでふたりはおおっと声を上げた。
リクはいかにも気持ちよさそうに目を細めたあと、
「とまあ、こんな感じで魔砲を使うことができるんだけど、これにはちょっとした決まりがあってね、だれでも魔砲を使えるってわけじゃないんだ」
「素質がいるってことですか?」
「うん、素質も必要だし、もうひとつ必要なものがあるんだけど――その話をする前に、きみたちに言っておくことがある」
とリクはすこし表情を引き締めて、
「昨日の夜、あれから学校として話し合いがあったんだけど、やっぱりきみたちをすぐにもとの世界へ帰すことは、いまの時点では不可能なんだ。それでね、学校から、きみたちにひとつ提案がある――ふたりとも、もとの世界へ帰るまで、この学校に通ってみないか?」
「え――」
桐也と玲亜は顔を見合わせた。
「それって……えっと、魔砲師になるってこと?」
「そう、その素質があればね。っていうのも、実はここの生徒はみんな、衣食住を国から保証されてるんだ。一人前の魔砲師になるために修行することが、将来国にとって大きな財産になるって考え方だね。だからこの学校の生徒になれば、住む場所や食べるものには一切困らなくなる。もしふつうに暮らそうと思うならそうはいかないだろう」
「そりゃ、住む場所とかを提供してもらうのはありがたいけど、でもおれたち、ふつうの人間ですよ。魔砲とか、使えないし」
「素質があるかどうかは、実は簡単にわかるんだ」
リクはいたずらっぽく笑い、ポケットからふたつのちいさな指輪を引っ張り出した。
銀色の、装飾もないシンプルな指輪である。
桐也と玲亜はそれをひとつずつ受け取り、手のひらに置いて眺めた。
「それはペアリングといってね、ある特殊な鉱石でできていて、それをはめるだけで魔砲師の素質があるかどうかがわかる。もし素質があれば文句なしで学校に通えるってこと。反対に素質がなければ、なにか特別な名目でもないと学校に通うのはむずかしいけど――」
「これ、はめるだけでいいの?」
「うん、どの指でもいいから、できるだけぴったりはまる指にはめてみて」
「わーい、じゃ、あたし薬指!」
玲亜が何気なく指輪をはめるのを、ユイは自分のときのことを思い出しながら眺めていた――このペアリングをはめるという作業は、王立フィラール魔砲師学校を受験した生徒にとっていちばんの緊張の瞬間だった。
座学は自分の努力でどうにもなる。
しかし魔砲師としての素質があるかどうかは、実際にリングをはめてみなければわからない――どれだけ勉強をしても、そこで素質なしと判断されれば、王立フィラール魔砲師学校の一員にはなれないのだ。
ユイは、自分には素質があるはずだと信じていた。
祖父がそうだったように、自分にも魔砲師の血が流れていると――そして、ユイには素質があった。
「んー、はめたけど、なんにも――あっ」
玲亜の薬指にするりと収まった指輪が、うっすらと発光をはじめる。
はじめはかすかに、それが鼓動と呼応するように眩しく――緑色の光が医務室を満たしていく。
「おお、これはまた――」
「わ、すごいすごい、光ってる!」
「ペアリングの光の強さは、そのまま素質の高さを表すんだ――これはなかなかの素質だよ。もしふつうに受験していても合格できるくらいだ。光が緑ってことは、きみは風の魔砲師だね」
「風の魔砲師?」
「そう、魔砲師には四つ、自然界のエレメンツと呼応する種類があるんだ。赤なら火、緑なら風、青なら水、白なら地、ってね――きみの光は緑だったから、きみは風の魔砲師ってことになるんだよ」
「へー、風かー」
「もうリングを外してもいいよ――さて、次はキリヤくんだね」
「うーん、なんか、ちょっとどきどきするな」
ベッドの上ですっと背筋を伸ばして座っている桐也は、豆だらけの手のひらでリングを転がしてから、それを人差し指にはめた。
銀色の指輪がするりと人差し指の根本まではまり込む――そして。
そして、
「……あれ?」
なにも、起こらなかった。
桐也はもちろん、ほかの三人も固唾を呑んで見守った。
桐也は人差し指をぴんと立て、玲亜のときのように光り出すのをじっと待ったが――指輪は、ほんのかすかにさえ、輝かなかった。
「……えっと」
「うーん、これは……」
リクはぽりぽりと頭を掻く。
「光の強さが、そのまま魔砲師としての素質、なんだけど……」
「……それが光らなかったってことは?」
「やーいやーい、お兄ちゃん魔砲師の素質なしだ! だっせー!」
「う、うるさいやい! い、いいもん、おれ剣士だし! ま、魔砲とか使わないし! 男は黙って剣だし!」
「とかいってほんとはちょっと期待してたくせに! 魔砲剣士もかっこいいかも、とか思ってたくせに!」
「おおおお思ってねえし! ぜんぜん思ってねえし! お、おまえなんかあれじゃん、風の魔砲師じゃん! 火のほうが断然かっこいいね! 風なんかちょっと離れたところからスカートめくるくらいしか使い道ないし!」
「そのスカートめくりもできない素質なしさんはだれかなー?」
「く、くそう――!」
「ま、まあまあ、魔砲師としての素質はあるひとのほうが珍しいくらいだから、別になくたって恥ずかしいことじゃないよ。ま、ぼくは素質ありまくりで五年で卒業したけど」
「先生、フォローになってないですよ」
まったく、とユイがため息をついた、そのとき――ユイは自分のポケットがほんのりと熱くなっていることに気づいた。
なんだろうと取り出してみれば――それはいつも持ち歩いているペアリング。
もちろん、素質の検査は三年前に済ませているが、ペアリングには素質を測るほかにもうひとつ使い方がある。
その「もうひとつの使い方」のために、ユイは常に肌身離さずペアリングを持ち歩いているのだ。
――まさか。
ユイは取り出したペアリングを手のひらに載せる。
心臓がどくんと高鳴った。
手のひらに載せたペアリングは、明らかに熱く発熱している。
「もーいいですよ! おれは魔砲なんか絶対しないもんね! 魔砲なんか全部おれの剣で叩き斬ってやる!」
「あーはいはい、がんばってね、お兄ちゃん」
「ぐ、ぐう、適当にあしらいやがって――ん? あれ、なんだ、これ」
「どうかしたの、魔砲師の素質なしさん」
「なんか、指輪が熱くなって――」
「あー、だめだめ、お兄ちゃん、そんなうそついても素質なしは素質なしだよ。まずはそれを認めるところからはじめないと」
「ち、ちがう、ほんとに熱いんだって! ほら――」
「外さないで!」
突然声を上げたユイに、ほかの三人が驚いたように振り返る。
しかしリクはすぐその理由に気づいて、
「ユイさん、まさか――」
「たぶん、そうだと思います――わたしの指輪も熱くなって――」
「あ、あの、いったいなにが……」
「指輪をはめたままにして――」
ユイも自分の指輪を薬指にはめた。
とたんに指輪がひときわ強く、玲亜のときよりもはっきりと赤く輝く。
それは目を開けていることもできないほど強い光で、それだけユイの高い素質を示しているのだが、ユイ自身もリクも、その光には見向きもしなかった。
ユイは指輪をはめた薬指を、ゆっくりと桐也の人差し指に近づけていく。
とくん、とくん、と心臓が早まる――もしかしたら、もしかしたら。
三年間探し続けたパートナーが、見つかったかもしれない。
ふたりの指輪がかすかに触れ合った。
瞬間、きいん、と耳をつんざくような甲高い音が響いた。
「きゃっ――」
玲亜が慌てて耳を塞ぐ。
金属が反響し合うようなその音――間違いない。
ユイはきょとんとした顔の桐也を見た。
その少年こそ――世界でただひとりの、ユイのフィギュアなのである。




