第六章 その10
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確実にユーキリスに傷を負わせている。
しかしそれはこちらも同じだ。
桐也は全身に痛みを感じながら、荒く息をついている。
ユーキリスもまた、背中の深い傷が痛むのか、わずかに背中を丸め、肩を上下させていた。
明らかにユーキリスからも余裕がなくなっている――いままで無表情だったものが、いまははっきりと敵意を込めて桐也を、そして妖精王をにらんでいた。
まだ勝利は掴んでいない。
しかしその影は見えていた。
桐也は痛みを押し殺すように呼吸を整える。
そして全身を軋ませ、ユーキリスに飛びかかった。
「邪魔をするな!」
ユーキリスは短く叫び、息もできないような猛烈な風を生み出す。
桐也はまっすぐに剣を振り下ろした。
風を、エレメンツを切り裂き、開いた道を駆け寄る。
「くっ――」
ユーキリスは空中へ飛び上がった。
それは明らかに、桐也から逃げるための行動だった。
基本的に桐也は接近戦の手段しか持っていない。
空中へ逃げられれば手も足も出ない、と歯噛みするが、ふと、ユーキリスがなぜ空を飛べるのか考える。
風の魔砲ではない。
おそらくはエレメンツそのものを使って空を飛んでいるのだ。
エレメンツを硬め、それを足場にして立っているのかもしれない――だとすれば。
桐也は剣を背中まで振りかぶり、握る手に力を込めた。
相手は空中十メートルほど。
斬撃が届くかどうか。
物理的な距離ではない、イメージの問題だと自分に言い聞かせ、すさまじい速度の一閃を放った。
鋭い剣先が空を斬る。
斬撃がエレメンツを切り裂き、空中へ打ち上がって、ユーキリスの足元までたどり着いた。
ユーキリスの身体がぐらりと揺らいだ。
高所から飛び降りるようにユーキリスは落下をはじめ、地上すれすれで勢いを殺し、着地する。
桐也はその瞬間を狙っていた。
「これで、終わりだ!」
ユーキリスの背中から斬りかかった。
振り向きざま、ユーキリスの手には短剣が握りられ、刀身が鋭く交差する。
密着したつばぜり合い。
力と力の勝負だった。
桐也は両腕に力を込め、真上から力で押し込んでいく。
ふたりの距離は一メートルもなかった。
剣とともに視線が交差する。
「――私は負けられない」
ぎん、と甲高い金属音。
桐也の剣が、ユーキリスの短剣をへし折った。
白銀の刃がユーキリスの右肩を深くえぐる。
やったと、桐也は確信した。
この深い傷では動けないだろうと、勝利を得たと確信したのだ。
それは間違いだった。
ユーキリスの目は肩に傷を負いながらも死んではいなかった。
「私は負けられないのだ、布島桐也」
剣の柄を握りしめていた握力が、ふと抜ける。
桐也は呆然と自分の身体を見下ろした。
ユーキリスの持つ折れた短剣が、桐也の心臓を深く貫いていた。
「な――」
声が出ない。
呼吸ができなかった。
痛みより窒息するような苦しさを感じる。
桐也の手が剣から離れた。
後ろに二歩、よろめき、倒れる。
ユーキリスは右肩に食い込んだ妖精王の剣を引き抜き、吹き出す血を片手で押さえながら、よろめくように立ち上がった。
「キリヤくん!」
ユイが飛び出そうとするのを、ユーキリスが睨みつける。
ユイはそれを睨み返したが、妖精王はユイの肩を押さえ、それ以上近づけさせなかった。
「離してください、離して!」
「儂はおまえを守るように言われておるのだ。いま近づけば、あいつはためらいなくおまえを殺すぞ」
「それでもキリヤくんが!」
「――私は負けられない。だれにも、邪魔はさせない」
ユーキリスは仰向けに倒れた桐也を見下ろした。
桐也の瞼は開いている。
その目は空を見ていた。
なにも浮かんでいない、青い空を――いや、そこに浮かんだ、白い月を。
桐也の胸から次々と血があふれ出してくる。
ユーキリスはその胸に手を当てた。
心臓はまだ動いている。
強く脈打ち、生きたいと叫んでいる――それでいいとユーキリスはうなずいた。
「もっと強く脈打て。生き残りたいと叫べ。おまえの体内にある〈ワーズ〉を活性化させろ――そうだ、それでいい」
桐也の身体が熱くなりはじめていた。
体内でなにかが猛烈な熱を発生させているのだ。
ユーキリスはその胸に置いた手から、まるで噴水のように力が湧き出すのを感じた。
桐也の身体と一体化した〈ワーズ〉の力――魔砲師の力を著しく増強させるその力を、ユーキリスは手のひらから吸収する。
「この力だ、この力さえあれば――」
ユーキリスは自分と桐也の血で赤く染まった手を空に掲げた。
その腕が小刻みにふるえている。
ユーキリスは目を見開き、全身にじっとりと汗をかきながら、空の一点を睨みつけた。
青空に浮かぶ、青白い月。
ユーキリスのふるえる手はその月を捉えた。
瞬間、ユーキリスの手のひらから、光の柱のようなものが放たれた。
それはすさまじい勢いで空を駆け上り、青空を突き抜け、成層圏を超える。
「――そん、な」
ユイは空を見上げた。
見上げた空にユーキリスが放った光がまっすぐ走り、それがついに、月へ到達した。
音はない。
ただ、いつでも空に輝いていたいびつな月が、ゆっくりと傾きはじめる。
まるで夢でも見ているような光景だった。
月がじりじりと動き、その周囲になにかが散らばる――月の破片だと気づいたのは、月の外周から巨大な破片が剥がれ落ちたときだった。
月が壊れていく。
ばらばらに砕けて、空の向こうへ落ちていく。
無数の流れ星が空に走った。
ふつうの流れ星とはちがい、ゆっくりと、空の端から端まで横断するような光の軌跡。
月の欠片が大気圏に触れて摩擦熱で燃え尽きようとしているのだ。
月の本体が半分に割れた。
そこからさらに細かい破片へと砕けていく。
たったひとりの魔砲師が、月を破壊したのである。
王立フィラール魔砲師学校の外、光紀400年記念祭のために世界中から集まっていたひとびとは、はじめ、そのことには気づかなかった。
しかしだれかひとりがふと空を見上げ、月の崩壊に気がつくと、すぐにすべてのひとびとが呼吸も忘れたように空を仰いだ。
「――月が、落ちる」
月そのものが大気圏へ落ちてくる。
昼間の空は数えきれないほどの流れ星で埋め尽くされた。
しかしだれも、それを美しいとは思わなかった――そこにあって当たり前だった月が、流れ星となって消滅しているのだ。
「これでいい――」
ユーキリスは荒い息とともに言葉を吐いた。
「〈ルナ〉は落ちた。すべての魔砲師は本来の力を取り戻す。枷は、もうないのだ」
空を埋め尽くしていた流れ星がすこしずつ減りはじめた。
大気圏で燃えるものが減ったということは、月そのものが完全に消滅してしまったということにほかならない。
しかしそれですべてが終わったわけではなかった。
ユーキリスは両腕を空へ掲げようとし、傷つけられた右腕がすこしも動かないことに気づいて、左腕だけを掲げる。
「すべてを破壊する――ここに新しい魔砲師の世界を作るのだ。いままでの世界など、すべて破壊してくれる。人間が魔砲師を支配する世界は終わったのだ――世界の終わりにふさわしい騒乱を」
遠くから地鳴りが響いていた。
その地鳴りが徐々に近づくにつれ、地震が起こりはじめる。
はじめはほんのちいさな地震だった。
しかしかすかな振動は徐々に大きな縦揺れに変わり、地鳴りと轟音を響かせながらヴァナハマの町を襲った。
ただでさえ光紀400年記念祭ですき間なく人間が集まっていたところに、立っていることもできないほどの猛烈な地震である。
町の至るところで悲鳴が上がり、建物が衝撃に耐えきれず崩壊をはじめる。
ヴァナハマには古く狭い路地が多かった。
そうした路地のほとんどは幅が五メートルもなく、左右の建物が倒れてくれば逃げ場はない。
ひとびとは広場を目指して殺到し、しかしただでさえ自由に歩くこともできない混雑で、後ろからだれかに押されても前へ進むことが許されないような状況だった。
そんな、密集した人間たちのなかに、崩れた建物の瓦礫が落ちてくる。
煉瓦造りの家々はまるでおもちゃのようにばらばらに崩れ、砂埃と破壊音を立てながら跡形もなく崩れ去った。
川にかかる橋は落ち、背の高い建物は崩れるよりも早く傾いて、あたりを建物を下敷きにしながら倒れていった。
悲鳴と怒号は土埃と地鳴りにかき消される。
それでもまだ地震は終わらなかった。
まるで永遠に続く終焉のように揺れ続け、町のすべてを、そこに生きる人間もろとも破壊し続ける。
「これが魔砲師の力だ。人間が恐れ、封印した力なのだ」
ユーキリスは揺れ続ける地面に膝をついた。
出血が多すぎる。
まるで他人の身体のように力が入らない。
「――こんなことを望んでおったのか、おまえは」
妖精王は跪いたユーキリスを見下ろし、冷酷に言った。
「くだらぬの、まったく。このようなことをしてなにになるか――月を、あの古代の制御装置〈ルナ〉を破壊したことはよいとして、そうして得た力をなにに使うかと思えば、ただ町を破壊するだけか。ユーキリスよ、儂はおまえを買いかぶっておったのかもしれぬな。このようなくだらぬ目的とは思わなかった」
「黙れ。これは革命の一歩だ――人間の町を破壊し、魔砲師の世界を作る。魔砲師は人間に縛られることなく本来の力を取り戻す」
「そして、今度は魔砲師の力で人間を縛るか? そんなことをしてなんになる。一瞬の優越感以上に得られるものはあるか?」
「貴様にはわからんだろう。魔砲師は、私たちは何千年と人間に枷をはめられ、封じられてきた。人間は自らが無力であるがゆえに魔砲師の力を恐れ、同じように無力にしてしまった。なぜ魔砲師というだけで自ら生まれ持った能力を制限されなければならないのだ。私は魔砲師として生まれ、魔砲師として生きた。人間の指図など受けない。私はただ私として生き、死ぬだけだ」
「ならば勝手にするがよかろう。なぜ他人を巻き込む――聞こえるか、ユーキリス。おまえの魔砲で多くの人間が死んでいく。悲鳴と怒号が、絶叫とすすり泣きが聞こえるか?」
「われわれ魔砲師もまた声のない悲鳴を上げ続けてきた。人間はわれわれを封じ、自らがこの世界の主のように振る舞っている。しかし本来はその資格を持っているのはわれわれ〈アース〉だった」
「要するに、おまえはただ他人に崇められたいだけだ。おまえはすごいやつだと、他人からほめられたいだけのこと。まるで幼児だの、ユーキリス」
「だまれ――貴様になにがわかる。妖精王などと称してこの世界を眺めるだけの貴様に、生き、そして死にゆくわれわれ人間の苦痛が、ただ生きて死にゆくだけの苦しみがわかってたまるものか。貴様とちがい、われわれ人間は、存在そのものが消えゆくのだ――永遠に存在し続けることもできず、私という人間は年老いて消滅する運命から逃れることはできない。ならば――」
「ならば、せめて生きているあいだに自分ができることをする、か。なるほど、ユーキリス。おまえは人間なのだな。だれよりも人間らしく生きようとしたのだ――たしかに、儂には理解できぬよ、そのような人間という存在は。しかしおまえが生きたことにより、死にゆく人間もいる。おまえが殺した人間の憎しみや無念はどこへゆく?」
「ならば、おれを殺せばよいのだ。おれに殺されたくないというなら、憎しみをもっておれを殺せばいい。単純な話だ。戦い、敗れれば、死ぬ。勝てば生き残る。ただそれだけのことだ」
「ふむ――おまえは野生の人間だな、ユーキリス。しかし世の中の人間はおまえのように覚悟を持ったものばかりではないだろう。かつて、力を持たない〈グール〉はそれゆえに結束し、力を持つ〈アース〉を倒した。〈アース〉はみなおまえのような人間だったよ、ユーキリス。歴史は繰り返すものだ」
「〈ルナ〉もなくなったいま、だれが私を止められるというのだ。妖精王、いまの私はおまえ以上の力を持っているのだ。なんなら試してみるか」
ユーキリスは不敵に笑い、立ち上がろうとしたが、よろけた格好のまま地面に倒れた。
妖精王はそれを見下ろし、しずかに言った。
「〈グール〉は狡猾で慎重だった。やつらは〈ルナ〉を打ち上げたが、〈ルナ〉計画は〈アース〉の妨害で完全には達成されなかった。魔砲師の力は弱まったが、完全にその力を奪うことはできなかったのだ。だからこそ、〈グール〉は計画を続行した――〈ルナ〉計画は失敗、今度こそ目的を達しようと、新たな計画を立てたのだ。おまえは知らなかったのか、ユーキリス」
「……〈ルナ〉計画の次?」
「〈ソル〉計画だよ。宇宙へ打ち上げるのではなく、地中で作動し、魔砲師の能力を完全に奪う装置だ。ある一定の振動数によってエレメンツが乱れ、使用不可能になることは〈ルナ〉計画で実証済みだった。〈グール〉にとってはさほどむずかしいことでもなかっただろう」
「〈ソル〉……そんなものが、実在するのか? 偉大なる太陽が――」
「感じるか、ユーキリス――地中の太陽が動き出したようだ」




