第五章 その9
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それにしても暑いものだと、リク・ダルスキイは白く輝く太陽をちらりと見上げ、校舎に逃げ込んだ。
校舎内も、廊下は暑い。
しかし職員室のなかは空調が効いているから、そこまで逃げ込み、リクは冷たい風に身体を晒してふうと息をつく。
「リク先生、ご苦労さまでした」
「いえいえ、生徒同士のちょっとした諍いで、もう仲直りしましたよ。それで、どう決まりました?」
「それがまだ、なかなか決めることができなくて」
三年以下の下級生は長期休暇に入っているが、四年以上の上級生は試験に向けた最終的な訓練を行っているため、当然教師も休みではない。
この日も職員室には教員ほぼ全員が集結していて、とある会議の真っ最中だった。
リクはソフィアのとなりに腰を下ろして、
「ユーキリスという魔砲師にどう対応するか、試験までに決めないといけませんからね」
会議の議題は、ユーキリスという魔砲師と、布島桐也というひとりの生徒についてだった。
「置き手紙が正しければ、ユーキリスは試験会場に現れる。おそらくはキリヤくんを狙って、でしょう。われわれは生徒を守らなければならない。しかし、場所が試験会場ですからね」
「試験当日は、教師のほとんどは試験に参加している生徒の世話で動き回ってますからねえ……試験に参加していない生徒まで気が回らないのが現実ですよ。かといって、もちろんユーキリスの脅威を放置するわけにもいきませんし」
教師一同は困ったようにため息をつく。
先ほどからこの議題で会議をしているのだが、議論は堂々巡りでなかなか解決を見ない。
というのも、試験当日は四年以上の上級生全員が試験に参加するから、毎年教師はその世話につきっきりになってしまう。
ただでさえ一年でいちばん忙しい日なのに、今年はそこにユーキリスという凶悪な魔砲師の襲撃が予想されるのだから、議論が尽きないのも無理はなかった。
「そもそも、ユーキリスの目的がわかりませんからな。ヌノシマ・キリヤだけが目的なのか、それともほかの生徒たちも危害を加えられる可能性があるのか……それによっても警備にちがいが出てくるでしょう」
「キリヤくんが言うには、ユーキリスの目的は革命だそうです」
リクもしずかに言った。
「ユーキリスはサルバドールが行ったような革命を、いま、起こそうとしている。もしそうだとしたら、危険なのはキリヤくんだけではないでしょう。うちの生徒はもちろん、この世界に暮らしている全員が危険だ。魔砲師も、そうでないひとたちも。王宮と連携して、もっと大規模な警備を立てられませんか?」
「なかなかむずかしいでしょうね」
とリクのとなりに座っているソフィアが言った。
「試験当日は光紀400年記念祭の真っ最中、王宮の警備はすべてそっちに向けられるはず。学校の警備までは無理でしょう」
「ううむ、そうか。それじゃあやっぱり、ぼくたち教員でなんとか生徒を守るしかないな。目下のところユーキリスの狙いはキリヤくんだ。キリヤくんを中心にすれば――でも、かといって試験に参加してる生徒をないがしろにするわけにもいかないしなあ」
全国魔砲師試験は年に一度の重要な試験だった。
生徒たちはみんなそこに賭け、一年間勉強と訓練に勤しんできたのである。
「ひとつ、解決法があります」
ソフィアの言葉に、全員の視線が向けられる。
「いちばん単純な解決法ですが、教員の注意を試験とキリヤくんの二箇所に分けるのではなく、一箇所に集中させられる方法です」
「そんな方法があるのかい、ソフィア」
「ええ、簡単なことだけど――」
*
空が青い。
今日も晴天。
しかし空の端にちらほらと雲が見えている。
もしあれがこちらまで流れてくれば、夕立ちのような雨が降るかもしれない。
桐也は背の低い草が生い茂った地面に寝そべり、空を見上げ、そんなことを考える。
「おい、キリヤ、もう降参か?」
「む、なんの――」
桐也は飛び上がるように起き上がり、再び剣をかまえた。
その先に、ふよふよと浮かぶ妖精王がいる。
別荘へきて二日目。
朝からの鍛錬は今日も続いているが、いまのところ桐也は、妖精王に指一本触れることができていない。
一応、この訓練は「妖精王に触れることができれば成功」ということになっているのだが、近づこうものなら暴風に飛ばされ、距離を取っていても水鉄砲じみた水の攻撃に全身ずぶ濡れになり、一歩踏み出そうと思えばその地面が急にごっそりとえぐれて落とし穴と化し、草に身を隠せばあたりの草ごと炎で焼き出されるという有り様だった。
とりあえず、いまのところ、勝てる気がまったくしない。
まさに格が違うということを一方的に見せつけられている気分だった。
「こんな調子では、もう一度ユーキリスに会ってもけちょんけちょんにやられるだけかもしれぬの」
妖精王はふわあとあくびをする。
むう、と桐也は眉をひそめ、その隙だらけにしか見えない妖精王にいつ飛びかかるか考えるが、いつどこから飛びかかられても大丈夫だと妖精王が確信しているからこその隙であり、実際、桐也は何度頭のなかでシミュレーションしても妖精王に軽くあしらわれる未来しか見えず、飛びかかることができなかった。
結局、それが自分の限界だということだと桐也は思う。
いまの実力では、どうあがいたところで妖精王には、ユーキリスには勝てない。
そのふたりに勝つためには、いまの自分の限界を超えなければならない。
「限界を超える、か――わくわくしてきたな」
「むう、ひとりでにやにやして気色悪いの……」
「行くぞ、妖精王!」
背後と取っても無意味、不意打ちなどそもそも不可能、ならば正面からの一騎打ち。
桐也は地面を蹴った。
持てるかぎりの速度で妖精王との距離を詰める。
妖精王は身体をまるめるように浮遊し、とくに防御体勢を取るでもなく、ぼんやり桐也を眺めていた。
距離が三メートルを切る。
桐也は剣を込める手に力を込めた。
最後の一メートルを跳ねるように――行こうとしたところで、
「え? わっ――!」
見えない手に急に足を引っ張られ、勢いそのままに前のめりで転がる。
桐也は一瞬天地がわからなくなり、なにかやわらかいものに抱き止められるまで受け身さえ取ることができなかった。
「がむしゃらにやるのも悪くはないが、ただ闇雲に突っ込むだけでは赤子の手をひねるより簡単にいなされるぞ」
と自分の後ろから妖精王の声が聞こえ、自分を抱きとめたやわらかいものの正体に気づいた桐也は弾かれたように距離を取った。
「う、落ち着け、おれ、心頭滅却、心頭滅却――」
「はじめのうちはもうすこし慎重に攻めておったはずだが、すこし休んだほうがよいかもしれぬな」
「い、いや、もうちょっと頼むよ、まだなんにも手応えも掴めてないし」
「ただ身体を動かすだけでは手応えも掴めぬ。ひとつひとつの行動をしっかり考え、なぜそのように動こうとしたのか、それが本当に正しかったのかを検証することで理想的な動きに近づいていくのだ。それにな、キリヤ、おまえはどうも、その剣の使い方がわかっておらぬようだの」
「剣の使い方?」
まあ、たしかに、と桐也は右手に持った剣を軽く振る――元の世界では竹刀しか使ってこなかったから、実際の剣の使い方に関しては素人同然ではある。
「その剣は、そんじょそこらの剣ではない。実体を持たぬ妖精王の剣だぞ。単に斬りつけるだけが攻撃でもあるまい」
「……斬りつける以外になにかできるってこと?」
「魔砲を打ち消せることは教えたな」
「ああ、うん、それは知ってるけど」
「魔砲とは、要するにこの世界に満ち、この世界を構成する四元素がいかに動いておるか、ということだ。その剣はエレメンツの流れを断ち斬ることができる。うまく使えば魔砲を打ち消す以上のこともできる。そもそも、魔砲で生み出された風と、自然に吹く風とではなにもちがいなどないのだ。魔砲の風が打ち消せるなら自然の風も打ち消すことができる。エレメンツの流れを打ち消すのだから、その剣は魔砲師にとって唯一といってもいい対抗手段になる」
「エレメンツの流れを打ち消す、か……」
「魔砲師なら、魔砲を使うときにそのエレメンツの流れを感じるのだが、おまえは魔砲師ではないからの。エレメンツの流れを読めといってもむずかしいだろうが、しかし不可能ではないはずだ。風を感じるように、空気の流れを感じるように、そこに満ちるエレメンツを感じるのだ――そしてそれを断ち斬る」
エレメンツとはなんなのか、桐也にはまだ実感としては理解できていない。
魔砲師にとってそれは空気のようなもので、自然と感じられるらしかったが、魔砲師ではない桐也にはそれがいまいちわからないのだ。
とにかく、目を閉じ、意識を集中する。
風の流れを肌で感じ、それをすこしずつ拡張していくように、頭のなかで世界を再構成していく。
風が吹き、草が揺れ、それが広い野原いっぱいに伝播して、また新しい風が吹いていく。
抜けるような青空。
視覚ではない感覚で桐也はそれを捉える。
再構成された世界は、現実とはわずかに時間感覚が異なる。
風はゆるくなり、色がつき、空気中に風が通った跡が赤く残る。
そうして世界が無数の風の軌跡に塗り替えられ、そのなかで風と同じように、この空気と同じように存在しているはずのエレメンツを感じようとした。
「エレメンツを感じることができれば、より深く世界を感知できるようになる。魔砲師ならだれでもできることだが、ふつうの人間でそれができる者はすくない。よほど感覚が優れていなければ見えぬ世界であろう」
妖精王の声。
それも一種の風である。
空気をふるわせ、桐也の耳に届く。
桐也にはその空気のふるえが視覚的に感じられる気がした。
目を閉じているのに視覚的というのはおかしな話だ、と桐也は自分で思い、しかしそうとしか表現できないような、感覚だけの世界なのである。
妖精王の姿。
銀色の髪が揺れている。
桐也はふと、吹き抜けるはずの風が妖精王の周囲にぐるぐるとうずまき、停滞しているような感覚を覚えた。
「そう、それが第一歩だ」
妖精王が軽く指先を動かした。
うずまいていた風が解放され、桐也に向かって吹いてくる。
「斬れ!」
妖精王が叫んだ。
桐也は反射的に剣を構え、目を閉じたまま、自分に向かって吹いてくる風を縦に斬った。
風がふたつに割れる。
剣先よりも奥の空間まで斬撃が伝わったように、妖精王とのあいだにあった空間がすっぱりと切断された――そんなふうに感じただけかもしれないと桐也は思ったが、実際、自分に向かってきていたはずの風はいつまで経っても桐也の身体には到達しなかった。
桐也の剣は、風を一刀両断したのだ。
「よし、それでいい」
妖精王は満足したようにうなずいた。
「まだ曖昧だろうが、その感覚を忘れるな。感覚に慣れていけばいまよりももっとはっきりエレメンツを感じることができる。エレメンツを感じることができれば相手の魔砲は封じたも同然、あとはどちらがうまく立ちまわるかという勝負になる」
「……いまのが、エレメンツ? なんか、ふつうの風みたいに感じたけど」
「いや、風ではない。いま儂が放ったのは風の元素そのものだ。そしておまえはそれを斬った。単に風を斬ったのではない、エレメンツから斬ったのだから、風は当然消滅する」
「エレメンツを斬る、か」
桐也は剣を握りしめた。
しっかりした手応えがあったわけではなかったが、しかしなにか、いままで感じたことがない新しい感覚に触れたような実感がある。
それがつまり、限界を超えるための唯一の道なのだ。
桐也は何度か剣を握り直したあと、言った。
「もう一回、頼む。いまの感覚を忘れないうちに身につけたい」
「よかろう、何度でもやってみるがいい」
剣を構える桐也に、妖精王は楽しげに笑った。
それはまさに、愛弟子の成長を見守る師匠のような笑みだった――伝説の妖精王が師匠だというのも贅沢な話ではあるのだが。




