第五章 その8
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「――では、そちらはそのようにしてくれ。ほかになにかぼくが指示すべきことは?」
「いえ、いまのところは――ご苦労をおかけいたします、ガルダさま」
「仕方ないさ、王族だからね」
「しかし――いえ。では、失礼いたします」
文官が出ていった部屋のなかで、ガルダはようやくふうと息をついた。
今日は朝から激務だった――ここへきて光紀400年記念祭に出席できないという国王が現れ、その調整をしなければならなかったのである。
結局、空いた席には、別の国王を呼ぶことに決まった。
しかしそれは出席できなくなった国王にも、その穴を埋めるために呼ばれる国王にも失礼がないように秘密裏に話を進めなければならず、多方面への根回しやちょっとした賄賂などもあり、神経を使う出来事が今朝から昼までのあいだに立て続けに起こっていた。
それが一段落つき、ガルダも王子からひとりの人間になってため息をついたのだが、もちろん今日の仕事がこれですべて終わったわけではない。
光紀400年記念祭の準備はいまがまさに佳境で、町の出店許可や式典の時間決め、食事会のメニューまでガルダが決めることになっていたから、仕事はといえばほとんど無限に積み重なっていた。
これはそのあいだのわずかな休みであり、本当ならわずかな時間でもベッドに入って休むべきだったが、ガルダは寝不足と疲れで重たくなった身体を椅子から持ち上げ、肩を鳴らす。
「さて――リリス、ぼくはちょっと書庫へ行ってくる。もしなにか用ができたら書庫まで呼びにくれ」
「は、はあ、あの、ガルダさま――」
魔砲師としてのガルダのフィギュアであり、王子としてのガルダの召使でもあるリリスは、比較的人目につきにくい部屋の奥で手紙の分別をしていた。
というのも、リリスは極度の人見知りであり、報告やら相談でガルダの部屋を訪れる人間とはまともに言葉を交わすこともできないから、あえて一見しただけではわからないような本棚の陰で仕事をしているのだった。
そのリリスも、ガルダだけには人見知りせず、しっかり顔を見て、あるいは自分の顔を見せて話すことができる。
リリスは本棚の陰から心配そうに顔を覗かせる。
「あの、昨日から働き詰めですし、すこし休まれたほうが……」
「大丈夫、まだ倒れちゃいないよ」
「た、倒れられたら困りますっ」
「だから大丈夫だって。時間は有限なんだ、すこしでも空いた時間があるならそれを有効に利用したい」
「でも、どうして書庫へ? なにか探しものなら、わたしが」
「うん、まあ、探しものといえば、探しものなんだけれど――」
ガルダには珍しく歯切れが悪い言葉だった。
リリスがいよいよ首をかしげるから、ガルダはリリスも連れて部屋を出る。
「書庫の奥に、もう何十年も使われてない古い本棚があるの、知ってるだろ」
「はあ、あの、埃まみれの」
「そう。あのなかにもしかしたらぼくが探している本があるかもしれない。もちろん、そんなものはない可能性もあるけど、探してみないことには見つかりっこないからね」
「それはあの、いったいどんな――ひいっ」
奇声を上げ、リリスはさっと廊下に置いてあった大きな壺を掴み、それで顔を隠した。
前方から別の召使が歩いてきたのである。
召使はガルダに挨拶し、自分では隠れているつもりらしいが完全に身体が見えているリリスにも挨拶をして通り過ぎた。
その姿が充分見えなくなり、リリスはふうと壺を置いて汗を拭う――年はガルダよりも上で、もう子どもではないリリスだったが、なかなか困った性格だった。
「あ、あの、どんな本なんですか?」
「失われた歴史書、だよ」
王宮の書庫は地下にある。
地下室への階段を下りていくと、足元からひやりとした空気が上がってきた。
ガルダは部屋の入り口にあった蝋燭に松明から火を灯し、それを持って書庫のなかへ入る。
リリスもなんとなく怯えたような足取りでそれに続いた。
王宮の書庫は広い。
召使のあいだでは地下迷宮と称されるくらいで、奥に行けば行くだけ古い本が並ぶようになっていて、ガルダは迷いなく本棚のあいだを抜けて書庫の最深部へ向かった。
「この世界の歴史には、大きな空白がある」
ガルダの息遣いで蝋燭の炎が揺れる。
本棚の影が大きく伸び、あるいは歪み、リリスはそれにいちいち肩をふるわせながら、それでもガルダから離れないようについていった。
「このヴィクトリアス王国の前進、ヴィリア王国が成立した前後の時代だ。あるいは、それよりも古い時代――ぼくたちが知る歴史は、ヴィリア王国が成立したあと、どのようにしてほかの小国を取り込み、巨大なヴィクトリアス王国になったのか、というところからはじまる。しかしそれが歴史の、人類の、この星のはじまりだったはずはないんだ。それ以前にも人間はいた。その時代の遺跡はいくつか残っている。でも遺跡の主たちがどうやって暮らしていたのか、なぜ滅びたのかは、だれも知らない」
「それは、暗黒時代だから、ではないんですか。世の中が乱れていて、歴史を記述するどころではなかったから――」
「うん、それもある。ぼくが知りたいのは、その歴史を記述するどころではないくらい世の中が乱れていた暗黒時代とはなんだったのか、ということなんだ。なぜ世の中はそんなに乱れたんだろう? そのころの人類は野蛮だったんだろうか。でも、たかだか二千年、三千年くらい前のことだ。いまの人間とそれほど大きくちがっていたとは思えない――よし、このあたりの本を探してみようか」
書庫のほとんど最深部に近い場所で、ガルダは埃をかぶった机の上に蝋燭を立てた。
周囲の本棚も、本たちも、もれなくすべて灰色に化粧し、何十年と人間が触れていないのがわかる。
いまの時代、王宮の書庫を探って古い時代の勉強をしようなどという文官はいないのである――だれもがみんな、まるで魔砲にかけられているように、歴史の空白を気にしていない。
「なにがあるのか、ということを調べるのは、さほどむずかしくない」
ガルダは近くの本棚から本を抜き取り、表面の埃を払いのけた。
「しかし、なにがなかったのか、ということを調べるのはとてもむずかしい。現代にあって、過去にはないものを探すのはね。現代にはなく、過去にあったものを探すのは、しっかり書物を読みこめばわかる。現代に馴染みがないものが記述されているとしたら、それがお目当てのものなんだから。でも、記述されていないものを探し当てることは、まっ白な床に落ちた砂糖の一欠片を探すようなものだよ」
「……ガルダさま、どうして突然、歴史を調べようと?」
「もちろん、きっかけは学校の地下にあった遺跡だ。本当にあんなものがあるとは思わなかった――ソラリアの魔砲師たちがどんなつもりであれを探していたのかはわからないけれど、あの発見はぼくらにとっても重要なものだった。一応、あのあと学者を入れて調べてみたけど、床に刻まれた文字を解読するには相当時間がかかるそうだ――時間をかけても解読できるかどうかはわからないとも言われている。きっとあれは、ぼくたちが知らない失われた歴史を記した文章なのだと思う。でなければあれだけのものを書き記す理由がない。だれかが、失われた歴史を記そうとしたんだ。それはあの遺跡を作った人間ただひとりではないと思う。ほかにも同じ意思を持ち、歴史を残そうとしたひとがいて、そのひとは遺跡ではなく本にそれを記したかもしれない。ぼくたちはそれを興味もなく読み過ごしていたかもしれないけれど」
「でも……もしその歴史がわかっても、いまのわたしたちにはどうすることもできない、ですよね」
ガルダはちらりとリリスを振り返った。
リリスは別の本棚から本を抜き取っていたが、ガルダの視線の気づくとそれを慌てて本棚に戻す。
「いや、いいんだ、きみも手当たり次第に調べてくれ。歴史書か、それに似たものを。もし読めない文字で書かれた本があったら机に置いておいて。あとで学者に持っていくとしよう」
「はい、わかりました――でも、ガルダさま、本当に休まれたほうが」
「いまベッドに寝かされても気になって眠れないよ。余計に心が疲れる。それならまだ、こうやって行動しているほうが楽なんだ」
ガルダは二、三冊の本を一度に引っ張り出し、それをぱらぱらとめくった。
あたりに埃が舞う。
まるで灰色の煙のようだった。
歴史は煙のように立ち上り、消えてしまったのだ。
「――たしかに、歴史について学んでもぼくたちにはなにもできない。もう二千年以上前に終わってしまったことだ。でも、ぼくは王子として、この世界でなにが起こったのかを知りたいんだ。知る責任がある、といえば大げさだけれど、なにかあったかもしれないと思いながら調べもせず知りもしないのはよくないと思う。歴史は、それがたとえ何千年前であろうとも、ぼくたちから切り離された異世界の話じゃない。その歴史があり、いまぼくたちがここにいるんだ。失われた歴史がなければぼくたちはいまこうして生きてはいないだろう――ヴィクトリアス王国も、こんな形では存在しなかったはずだ」
魔砲師と人間。
それが失われた歴史の鍵だとガルダは考えていた。
あのとき、あの遺跡で何者かに襲われた桐也が、そう言っていたのだ。
ユーキリスという魔砲師が、魔砲師と人間の歴史について語っていたと。
細かい部分までは桐也も覚えてはいなかったし、ガルダも詳しく聞き出す時間はなかったが、魔砲師と人間には敵対した歴史があるらしい。
そしておそらく、そのときは、人間が勝った。
現在のような人間が主導的な立場を取っている社会ができたのはそのためなのだろう。
しかし過去、魔砲師と人間はなぜ争わなければならなかったのか。
そして現在、ユーキリスという魔砲師は、その時代の争いをもう一度現代に巻き起こそうとしているのか。
その答えが失われた歴史に残されている気がした。
しかしこの書庫から見つけ出すのは大変だな、とガルダはすこし息をつき、何万冊という蔵書を誇る書庫を見回した。
一冊一冊確かめていけば、古い本だけに限定しても、いったい何年かかることやら。
もしかしたら桐也に詳しく聞くか、人類の歴史よりも長い時間を生きているという妖精王に聞いたほうが早いのかもしれない。
桐也は覚えていなくても、妖精王は決して忘れないだろう――それを簡単に教えてくれるかどうかはともかくとして。
「そういえば、キリヤたちはいまごろフィアナの別荘にいるんだったっけ。楽しんでいるといるかな。面子を聞くかぎり、きっと静けさとは無縁な旅行になりそうだけど」
「……ガルダさまも無理をすれば三日くらいは行けたのに」
「王子が仕事を放り出して旅行するわけにはいかないさ。ああしかし、これは途方もない作業だな。こんななかから正しい一冊を見つけ出すなんて――ん」
本棚から順番に本を抜き取っていると、濃い青色の表紙の本が見つかった。
表紙にはなんの文字もない。
紙は古く黄ばんでいて、何気なく開くと、なかの文字は現在使われている文字ではなく、二百年ほど前まで使われていた古い文字で記されていた。
古い文字だが、学校の地下遺跡にあったような古代文字ではない。
学校の座学でも習う文字で、ガルダも完璧ではないにせよ読むことができた。
「これは――」
ガルダは指先で文字をなぞりながらゆっくり視線を滑らせる。
「……ガルダさま?」
「リリス、見つけた――いや、まだわからないけど、もしかしたらこの本に古い歴史が記されているかもしれない。いまでは失われてしまった、本当の歴史が」




