第五章 その6
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なんという格差社会だろうか。
世の中は公平だといった詐欺師はどこのどいつだ。
公平どころか、自分ではどうしようもない不公平にあふれているではないか――。
レンは足先をプールにつけ、ひんやりとした水をばちゃばちゃとやりながら、横目でちらりと見る。
レンが座っているプールサイドから約五メートル。
最初はなかったはずの白い椅子を引っ張り出し、そこに座って麦わら帽子を目深に被りあまつさえサングラスまでしている女がひとり。
言うまでもなくフィアナ・グルランス・アイオーンである。
フィアナはギイ、ユイとともにレンたちから五分ほど遅れてプールにやってきたのだが、その格好はもちろん、先ほどまでの白いワンピースではない。
フィアナが着ているのは極彩色の真っ赤なビキニだった。
それも単純な肩を通すタイプのビキニではなく、首の後ろで結んで固定するホルターネック。
色白な肌に、その赤色がかっと派手に映えている。
まあ、ビキニの色などこの際どうでもいい――問題は、そのスタイルだ。
恐ろしく不本意だが、フィアナのスタイルが抜群だということはレンも認めざるを得ない。
ビキニに包まれた胸のふくらみは、むしろそんな布切れ程度では隠しようもないほど大きく、丸く盛り上がっていて、それほど締め付けがきついわけでもなさそうなのにくっきりと谷間ができている。
それだけではない。
胸が大きいなら腰も太いのが当然、のはずなのに、フィアナの腰はきゅっとくびれ、下手をすれば自分のほうが太いのではないかと思うくらいで、真っ赤な三角のビキニから伸びる両足もすらりとしていて直視できないほど眩しい。
もはや完璧なのだ。
これぞ完璧なスタイル、と拍手を送りたくなるような――悔しいから絶対にそんなことはしないが――完璧なスタイルなのである。
そんなフィアナがただサングラスをかけて椅子に座っているだけでなぜか絵になる。
雑誌の表紙にでもなればばかな男どもがいくらでも買っていくだろうというくらいで、それがまだ悔しい。
まあ、しかし、フィアナだけなら、そんなこともあるだろうと諦めることもできる。
世間には自分が逆立ちしても勝てないような相手がいることくらい、レンも理解していた。
しかし――しかし。
フィアナといっしょにやってきたギイのスタイルもまた、想像を絶している。
普段、それほど注目を浴びるほうではないギイだが、グワール族だけあり、背は人一倍高い。
その高い身長を支えているのがすらりと長い足なのは言うまでもなく、ギイは、フィアナよりは控えめな色使いの黒のビキニなのだが、そのスレンダーな体つきは思わずどこのスーパーモデルですかと聞きたくなるくらいだった。
胸は、当然フィアナのほうが大きい。
どちらかというとギイのそれはちいさいほうにちがいない――自分よりは大きいけど、とレンは思い、すこし落ち込む。
しかしとにかく身体が細いから、胸がちいさいことなどまるで気にはならず、それもまた嫌な痩せ方という感じではなく健康的で、均整が取れたフィアナとはまたちがう意味で完璧なスタイルをしている。
ギイの場合はそれを誇るでもなく、フィアナのとなりに椅子を並べて同じようにくつろいでいて、性格分ギイのほうがいいな、とレンは思ったりするのだが、ともかくこのふたりのスタイルはずば抜けたものがあった。
一方、ふたりといっしょにプールサイドへやってきたユイは、このふたりと比べると、さすがに標準的な体型ではある。
水着もどうやら玲亜といっしょに買いに行ったらしく、お揃いのフリルがスカートのようになったかわいらしいもので、それがまた似合うような照れた表情のユイなのだった。
ただ、同じ水着でも玲亜が着ているのとユイが着ているのでは明らかにちがう。
これはそれほどむずかしくない間違い探しのようなもので、まず、玲亜の胸には谷間など見えず、もしそこになにか見えるとすれば水着の影くらいのものだろうが、ユイの胸には多少控えめながら谷間が存在している。
また、玲亜はどうにも幼児体型というか、胸もなければくびれもなく、すとんと一直線に落ちるような体型をしているのに対し、ユイはさすがに女性らしい曲線を帯びた身体をしていて、くびれもあるし、足なんかもほっそりしている。
おそらくふつうに考えればユイでも充分スタイルがいいと言われるにちがいないのだが、いっしょにやってきた規格外ふたりのせいでどうにも損をしているらしかった。
でも、まあ、いいさ、とレンは拗ねたように思う。
レンの場合、玲亜のことをどうのこうのと言える立場にはないわけだし。
「水、冷たくて気持ちいいですね」
ユイはレンからすこし離れたところで同じように足だけプールにつけ、ときおり水を跳ね上げて楽しそうに笑う。
そのすこし奥では玲亜が仰向けになり、水面を漂っているのか泳いでいるのかよくわからないような体勢でじっと空を見上げていた。
「おい、レイア、起きてんのか? 寝たら沈むぞ」
「起きてるよー、こうやって泳いだら気持ちいいの――レンちゃんは泳がないの?」
「子どもじゃないんだから、そんながっつり泳がないっての」
そもそもこの面子の前で上着のパーカーとショートパンツを脱ぐ勇気なんかないし。
そういう意味ではまったく奥せず水着になれる玲亜はすごいが。
「ユイさんも泳ごうよー。水、浸かったら気持ちいいよ」
「そうですか? じゃ、わたしも泳ごうかしら――きゃっ」
ぴょんとプールサイドからプールのなかに下り、冷たい水しぶきに悲鳴を上げる。
ユイは冷たい水が全身に染みていくような感覚にぷるりと身体をふるわせると、壁を蹴り、するりと水中に泳ぎ出した。
「ほんと、気持ちいいですね――今日は天気もいいし、気温もちょうどよくて」
「だねー。ほら、レンちゃんもきなよー」
「う……」
たしかに泳いでいるふたりは気持ちよさそうだし、こうやってプールサイドに座っていると直射日光を浴びてどうにも暑いのだが――レンはちらりとフィアナを見る。
フィアナはサングラスをかけ、どうやら日光浴でもしているらしかった。
いまなら見られてないはず、とレンは急いでパーカーとショートパンツを脱ぎ、一思いに水に飛び込む。
一気に頭の先まで冷たい水に浸かると全身の毛穴がきゅっと引き締まるような感覚になり、それが徐々に慣れてきて、レンは水中で目を開けた。
水面はきらきらと輝き、そこに玲亜とユイの身体がぬっと水中に出ている。
そうだ、とレンは思いつき、そのまま潜水で玲亜の真下まで近づくと、水中から玲亜にきゅっと抱きついた。
「ひゃああっ!」
悲鳴を上げて玲亜が水中に降りてくる。
そこで身体を離し、浮上すると、玲亜も浮上してきて濡れた髪を掻き上げた。
その髪に水滴がすべり、爽やかな光り輝く。
「やったなあ、レンちゃん!」
「あはは、ぼんやり浮いてるのが悪いん――うわっ」
「ぐへへ、水かけ攻撃だ!」
「くそ、やったな、反撃だ!」
ばしゃばしゃと水を掛け合い、それでは埒が明かないとレンは水中に潜った。
同時に玲亜も身体を沈め、水中でふたりで見つめ合い、水面に上がって笑い合う。
なにが楽しいのかよくわからなかったが、なんだか楽しくて仕方がないような瞬間だった。
そうやって笑っていると、不意に背中をひやりと触られ、レンはびくりと身体をふるわせる。
振り返れば、こそこそと水中を逃げる影――ユイにちがいなかった。
「よし、レイア、挟み撃ちだ。おまえ、一回上がって待て。あたしがこっちから追い込むから」
「りょーかい!」
びし、と敬礼する玲亜に敬礼を返し、レンは水中でユイのあとを追った。
ユイがひらひらと足を動かしながら広いプールのなかを逃げていく。
まるで水中で踊っているような黒髪の動きが美しくて、レンはすこし自分の髪も長ければよかったのにと思ったが、赤髪と黒髪とではまたちがうだろうし、そもそもいまはそれどころではない。
レンは巧みにユイを追い、ユイを誘導していく。
そろそろ息が苦しくなってきただろうというところでプールサイドまでやってきて、レンは合図のために片手だけを水中から出した。
その瞬間、プールサイドから玲亜が飛び込み、ユイを前後から挟撃する。
「わっ、びっくりしたあ――」
「よし、レイア、身体は固定したぞ、やっちまえ!」
「いえっさー!」
「ま、待って、こ、降参――きゃっ、あ、あはははっ、く、くすぐったい、や、やめっ!」
レンががっちりと後ろから羽交い締めにしたユイを、正面から玲亜がくすぐっていく。
ユイは身体をのけぞらせ、大声で笑って、解放するとぐったりしたようにプールサイドにしがみついた。
レンと玲亜はそんなユイを見てハイタッチ。
「さ、さすがフィギュア、コンビネーションはばっちりなんですね……」
息も絶え絶えでユイが呟く。
もちろん、と胸を張ったあと、なんとなくコンビネーション抜群だというのが気恥ずかしくなって、レンはとんと壁を蹴って水中に逃げた。
そんな三人をプールサイドから眺めていたフィアナは、サングラスをくいと上げて、
「まったく、涼しいプールサイドでゆっくり休むこともできないのね、この子たちは……」
「でも、楽しそう」
「そう? じゃ、あんたも混ざってくれば?」
「フィアナは?」
「わ、私はそんなことしないわよ。そんな、プールではしゃぐなんて、子どもみたいなこと」
「……なーんて言いつつ、実は泳げなかったり?」
「ぎ、ぎくっ――な、なんのことかしらねー。そ、そそ、そういえば、あいつはどこ行ったのよ、キリヤは!」
「さあ、部屋にはいなかったけど。あと、妖精王も」
「いつもの変人ふたりね。いったいどこでなにやってんだか――って、ギイ、なんで私の腕を引っ張るの?」
「泳げるかどうか、プールに落として確かめてみようと思って」
「鬼畜!? あんた鬼畜なの!? や、やめなさい、そそ、そんなことしたら大変なことに――」
「大変なことって? たとえば、溺れるとか?」
「お、溺れるわけないでしょ、そんな、この年になって泳げないなんてこと、あるわけないんだから」
「じゃ、どうぞ」
ギイはすっとプールを指さす。
う、とフィアナは言葉に詰まり、ちらりとギイを見たが、ギイは泳げるならやってみろよとばかりに自分は先にプールへ入り、すうっと楽しそうに水面を漂った。
たしかに、この暑いなか、プールサイドにいるのは一種の苦行のようなものである。
冷たい水のなかに入れたらどんなにいいだろう。
しかしこのプールは無駄に水深が深く、ギイほどの身長ならともかく、女子の平均的身長なら直立してかろうじて首から上が出る程度だった。
そんなところに飛び込むのか。
しかし、ここで泳げないと正直に言うことはできない。
なにしろいままで散々自分がばかにしてきたレンや玲亜は自由自在に泳いでいるのである。
フィアナは背中にじっとりと汗をかく。
どうする、フィアナ・グルランス・アイオーン。
まさかこの自分が、あの子どもたちに「わ、いい年して泳げないんだ、やーいやーい!」とばかにされるわけにはいかない。
いっそ、死ぬ気で飛び込むか?
フィアナはプールサイドのぎりぎりまで歩み寄り、足元を見下ろして、ごくりと唾を飲んだ。
ばかにされるくらいなら、いっそ飛び込んだほうが――。
「フィアナ、危ない!」
「え?」
だれかの叫び声に顔を上げた瞬間、フィアナは背中から衝撃を感じた。
それほど大きな衝撃ではなかった。
しかし、あ、と思ったときにはもう、立て直すのが不可能なレベルで身体がプールの上に投げ出されていた。
ばしゃん、と豪快な音と水しぶきが上がる。
フィアナは一瞬にして水に包まれ、ああこれは死んだな、短いが悪くない人生だった、と諦めかけたとき、だれかの力強い腕がフィアナを水面まで抱き上げた。
「――っ!」
フィアナは顔が水面に出た瞬間、慌てて息を吸い、そして足元がまだ不安定なことに気づいて、とりあえず手が届く範囲にあったなにかにすがりつく。
それでようやく気分は落ち着いた。
冷たい水の感覚もようやく身体が感じはじめ、溺れずに済んだことにほっとしつつ、フィアナは長い金髪を掻き上げ、きっとプールサイドを見る――だれかが自分を突き落としたにちがいない、と思ったからだった。
しかしプールサイドにはだれもいない。
考えてみれば、それもそのはずだった。
プールにいたのはフィアナをふくめて全部で五人で、そのうち四人はもうプールのなかに入っていたのだ。
引きずり込まれたのならともかく、四人にプールサイドにいたフィアナの背中を押すことは絶対にできない。
じゃあ、いったいだれが。
それになにか、落ちる瞬間、危ない、と聞こえたような。
「……フィアナ、大丈夫?」
目の前にいたギイが、おそらくフィアナが落ちたときの水しぶきを浴びたのだろう、濡れた髪を掻き上げながらどこか呆然と言った。
「だ、大丈夫じゃないわよ、危なく溺れる――ごほんごほん、べ、別に溺れはしないけど、その、危ないとこだったわよ」
「……そう。フィアナ、ひとつ、助言だけど」
「助言?」
「早く、自分の姿、見下ろしたほうがいいと思う」
「なに言って――」
フィアナはゆっくりと視線を下げた。
なにかにすがりついているおかげで水面は胸の下あたりにあった。
しかし水面の位置など、フィアナにはどうでもよかった。
「え――」
胸。
その胸を覆っているはずの、燃え上がるような赤い水着が、ない。
フィアナは慌てて片手を首の後ろにやった。
そこで結んでいたはずの紐は当然のように外れ、しかし胸の下で固定しているほうは外れていなかったから、フィアナの水着はぺろんとめくれ、胸の下の水面でひらひらと揺れているのだった。
とっさに片腕で胸を隠す。
本当は両腕で隠したかったが、なにかにすがりついていなければ立ってもいられない――あれ、と思う。
そもそも自分は、いったいなににすがりついているのだ?
プールサイドではなかった。
そんな、固いものではない。
もうすこしやわらかく、暖かくて。
フィアナはまるでロボットのようにぎこちなく、自分が掴まっているものを見た。
いったいどこから現れたのか、頭までずぶ濡れになった桐也が、明後日のほうを向いてじっとしていた。
頭が回転する。
状況を理解する。
水着が外れ、自分はいま、桐也に正面から抱きつくような格好で掴まっていて。
少女の甲高い悲鳴が、のどかな夏の風景を切り裂いた。




