第四章 その6
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男は三日三晩眠り続け、四日目の昼過ぎ、ようやく目を覚ました。
そのときちょうどアカネは昼食の後片付けをしていて、ベッドのほうで物音が聞こえた気がして寝室へ行ってみると、男がベッドから立ち上がろうとしているところだった。
「――ま、まだ、寝ていたほうがいいと思います」
アカネが恐る恐る言うと、男は長い髪の下からアカネをじっと見上げた。
「……だれだ、おまえは」
「う――あ、アカネです。アカネ・ナガワ。その、あなたが海から上がってきて、それで、倒れたから――こ、ここ、わたしの家です」
男はゆっくりあたりを見回した。
それは、言われてはじめてここがだれかの家だと意識したような仕草だった。
「ひとりか。親は?」
「いません――ひとり、です」
「世話になったようだ。私のことは忘れるがいい。覚えていてもおまえに得はないだろう。私はおまえになにも返すことはできない」
「あ、あの! もうすこし、休んでいかないと身体がだめになると思います――それに、その、おなか、空いてませんか。三日もずっと寝てたんです」
「いや――」
男は立ち上がろうとしたようだが、それも満足にできないと気づき、かすかに首を振った。
「なにかもらえるものがあるなら、もらいたい」
「すこし、待っててください」
はじめてコミュニケーションが成立した気がして、アカネは慌てて台所に戻り、すぐに食べられるものを探して、干し芋と魚の塩漬けを皿に載せた。
男はそれを、かなりの時間をかけ、しかしすべて平らげた。
なにかを食べることは男にとって苦痛でしかないようだったが、それでも食べたのは、生きることに対する執念が苦痛を上回っているせいなのだろう。
アカネは皿を片付け、それからまた寝室を覗き、男がベッドに寝ているのを見ながら、ベッドサイドにあるちいさな椅子に腰を下ろした。
「……あの、眠ってますか」
「起きている。三日も眠ったらしばらくは眠れないだろう」
「……聞いてもいいですか」
「なにを」
「あの、いろんなことを……あなたは、何者なんですか」
「私は――ユーキリスという、魔砲師だ」
魔砲師。
やっぱりそうだったのだとアカネは思う。
魔砲を直接見たことはなく、あれはもしかしたら魔砲ではないのかもしれないと思ったが、あんな奇跡を起こせるのはやはり魔砲しかない。
「魔砲師だった、というべきか」
「だった――?」
「私は魔砲師の資格を剥奪された」
「……犯罪者、なんですか?」
「そう言ってもいい。そう言われても仕方がない。しかし彼らのいう罪と、私が抱えている罪は別のものだ」
「罪……それは、どんなことなんですか」
「罪とは犠牲のことだ。私のために、私の目的のために犠牲になった人間たちがいる。それが私の罪だ。後悔はしていない。犠牲は必要だった。私は罪を背負う必要があった。ただそれだけのことだ」
「……あの、海から上がってきたあと、自分で自分の腕を、その、ちぎって、別の腕をつけました、よね。あれは」
「この腕か」
ユーキリスと名乗った男は右腕をすこし上げた。
「この腕は私の腕ではない。そうか、あのとき見ていたのはおまえだったか――目がよく見えていなかった。この腕は、私のフィギュアだった男の腕だ。フィギュアはわかるな」
「はい、聞いたこと、あります。魔砲を使うために必要なパートナーだって」
「魔砲はフィギュアとふたり一組でなければ存分に使うことはできない。古いひとびとは、そうではなかった。いまの魔砲師は極端に力が弱まり、そのようにして魔砲を使うしかなくなったのだ。私も例外ではなかった――しかしふたりでは不可能だった。私はひとりで進む必要があった。だから私はフィギュアだった男を殺した。この腕を奪うためだ。私はフィギュアの腕を手に入れたことで、ひとりでもふたりのときと同様の魔砲を使うことができるようになった」
ひとを殺したと告白するときもユーキリスの口調は変わらなかった。
あくまで淡々として、感情が見えない。
感情というものがそもそもないのかもしれないとアカネは感じた。
ユーキリスの口調にはよどみがなかったが、それは話したい、会話をしたいからしゃべっているのではなく、機械がスイッチによって録音を再生するように、求められたことを自分の意思など関係なくしゃべっているようなものだった。
そこにユーキリスの意思や感情は介在していない。
それが不気味であり、同時にどこか、哀れでもある。
「……あなたは、これからどこへ行くんですか」
「決めていない。この世界のどこか、だろう」
「なんのために、そこへ?」
「世界を変えるためだ」
その瞬間にだけ、口調が変化する。
単なる返答ではなく、ユーキリスという男の放った言葉だった。
「世界を、変える?」
「私はこの世界のあり方は間違えていると考えている。そのためにこの世界を変えなければならない。革命を、起こす」
「革命――聞いたこと、あります。昔、革命を起こしたすごい魔砲師がいたって」
「サルバドール。彼は偉大なる魔砲師だった。私は彼の意思を継いでいる」
「その、サルバドールってひとは、どんなひとだったんですか」
「個人のことはわからない。しかし彼がやろうとしたことは、わかる。彼は魔砲師による革命を起こそうとした。彼の時代、魔砲師は虐げられていた。奇妙な力を使う鬼人だと忌み嫌われ、人間によって抑圧されていた――古い、とても古い話だ。はじまりはいまから千年以上も昔のこと。人間と、われわれ魔砲師との歴史だ」
「……人間と魔砲師は仲が悪かったんですか?」
「いろいろな時代があった。共に手を取り合い、進んでいけると信じられた時代もあった。互いに殺し合った時代もある。いまは、ゆるやかな共同体になりつつある。能力を持たない人間と魔砲師の混血が多く生まれ、さらに混血同士が新たな血を生む。そうしてゆるやかに魔砲師はこの世界から消えようとしている。あるいは、ただほんのすこし便利な能力を持つ者に成り下がりつつある。そのような形は本来のものではない。サルバドールはそのような状況を変えようとした。虐げられていた魔砲師を救い、魔砲師による世界を作ろうとした」
それが挫折したであろうことはユーキリスの話しぶりから理解できた。
サルバドールという大魔砲師は、おそらく自分の革命を成し遂げることができないまま死んだのだ。
では、そのあと、世界はどうなったのか。
サルバドールという大魔砲師の革命が挫折した世界、それがこの世界だというなら、いったいこの世界はどうなったのだろう。
「サルバドールの意思は、一度は消えた」
ユーキリスはかすかに目を開け、虚空を見つめながら続けた。
「それも、人間ではない、同じ魔砲師によって、その革命は妨げられた。彼らは人間と魔砲師は必ず共存できると主張した。そう、おそらく、そのとおりだった。人間と魔砲師は共存し、こうして世界に平穏がもたらされた。しかしその平穏は魔砲師という存在を犠牲にして続いているものだ。魔砲師は人間と交わることによって力を弱め、もはや魔砲師と呼べぬほどに成り下がっている。それは、共存ではない。吸収だ。魔砲師は人間に吸収されつつある。私は吸収されたくない」
「……それで、魔砲師の革命をもう一度起こすんですか。あなたが、サルバドールというひとに代わって」
「そうだ。しかしまだ、時期ではない。私にはまだ力が足りない。足りない力を見つけ出せば真の革命をはじめることができる。それまでは――それまでは生き延びなければ」
アカネは言葉を失った。
ユーキリスという男は、自らの命を生存ではなく革命と捉えているのである。
ただ生きていくだけではない。
ある目的のために生き、その目的なくしては生きていく意味などなく、目的がある以上は生きることにどんな苦痛が伴おうと生き続ける――それがユーキリスという男の命の使い方なのだった。
アカネは、うらやましい、と思う。
アカネには目的などなにもなかった。
ただぼんやり毎日を過ごし、すこしずつ年を取り、やがて目的もなく子どもを産み、時期がくればなんのためでもなくただ病や老衰、あるいはなにかの理由のためだけに死んでいく。
みんなそんなふうにして生きているのだと思っていた。
みんなそんなふうにしか生きられないのだと思っていた。
自分で自分の生き方を決めるなんて、できないと思っていた。
「……あの、わたし、ただの人間です。魔砲師なんかじゃ、ないです。でも、あの、なにかお手伝いがしたいです」
ユーキリスはベッドの上でゆっくりと頭を動かし、アカネを見た。
「わたし、あなたがなにをしようとしてるのか、よくわかりません。でも――」
「私がしようとしているのは、ある意味ではこの世界の完膚なきまでに破壊することだ。破壊して、再構成する。そのとき人間がどうなるかはわからない。魔砲師がどうなるかさえ、わからない。私はただ、私というものを縛る鎖を断ち切りたいだけだ。千年の昔から私を縛りつける鎖を。もし私の言う革命が世界のため、人民のためなどと思っているなら、そのような夢を見るのはやめたほうがいい。これは私の個人的な革命であり、戦いであり、宿命だ」
「……それでも、いいんです。だってわたし、なんにもないんです。こうやって生きていく以外になにもできないんです。この町はそういう町だから――ただ生きて、ただ死んでいくだけの、町だから」
なにが悲しいのか自分でもわからなかったが、涙があふれてくる。
いままで無意識に押し殺していた感情が胸の奥からせり上がって涙となってあふれてくるようだった。
「……名前は、なんといったか」
「アカネです――」
「私を手伝うということは、おそらく世界的な犯罪者になるということだ。それでもいいのか。時期がくればこの町を去らなければならない。二度とは戻れないだろう。おまえ自身もまた危険になる。なにも成し遂げないまま死ぬこともある。私にしても、それは同じだ」
「もしそうなったら、あなたが先に死んだら、わたしがあなたの意思を継ぎます――あなたがサルバドールの意思を継いだように」
そうか、とユーキリスはかすかにうなずいたようだった。
しばらくして、呼吸が寝息に変わる。
アカネは涙を拭き、台所に戻って、夕食の準備をはじめた。
夕食はなるべく食べやすく、栄養があるものにしなければならない。
まだ起き上がって動けるようになるまではしばらくかかるだろう。
そのあいだ看病するのが自分の使命で、もし自由に動けるようになったら、そのときはまた別の使命を見つければいい。
そう考えてみれば、いままでと生活自体はなにも変わらなかった。
でも、もう海岸には行かなかった。
あれこれと想像して自分を慰める必要はもうなくなった。
諦める必要のない現実が、いま目の前にあるのだ。
アカネの看病の甲斐あってか、ユーキリスは数日のうちに起き上がれるようになり、食事も食卓に座って取れるようになった。
アカネは幼いころに死んだ父のことはほとんど覚えていなかったが、父が着ていたはずの服を着たユーキリスはまるで父親のようだった。
そう言うとユーキリスはかすかに笑い、父親には若すぎるだろう、とめずらしく軽口のようなことを言ってアカネを喜ばせた。
そしてアカネがユーキリスと出会ってから一週間ほど経ったころ、ユーキリスはアカネを呼び、おまえには魔砲師の才能がある、と告げた。
「もっとも、それは才能と呼べるほどのものではないかもしれない。どれだけ鍛えても私のようにはなれないだろうし、多くの魔砲師にも劣るだろう。しかしおまえにも魔砲師の血が流れている。古代、この世界を支配した魔砲師の血が」
「それじゃあ、わたしも魔砲師になれますか? がんばって訓練すれば、わたしも」
「ある程度の魔砲は使えるようになるだろう。おまえが望むなら私が魔砲を教えてやってもいい――この町にはほかにも魔砲師の才能を持つ者がいるかもしれない。ときがくるまでそのような魔砲師を鍛えるのも悪くはないだろう」
その「とき」がいつなのかは、アカネは尋ねることができなかった。
それはこの生活の終わりを意味していたから。
その日からアカネは魔砲師の訓練をはじめ、その次の年、ユーキリスとアカネは自宅近くの小屋を借り、ちいさな魔砲師学校をはじめた。
学校、というにはあまりに規模もちいさく、生徒は十人もいなかったが、それでもこんな港町にも魔砲師の才能を持つ人間がいるということが驚きだった。
はじめ、町のひとたちはいい顔をしなかった。
町のひとたちは魔砲師というものを軽蔑していたし、そんなものにならなくても生きていけるという自負があったから、たとえ自分の子どもにその才能があっても魔砲師にさせようとは思わなかったが、アカネの説得と子どもたち自身の希望で何人かの子どもが学校に通いはじめると、その数は毎年すこしずつ増えていった。
十年経つころには、生徒数も十人を超え、いよいよ学校らしい雰囲気になってきた。
アカネはこのままこの町で魔砲師学校をして暮らすのも悪くはないと思っていた。
しかしユーキリスは目的を忘れてはいなかった。
ユーキリスは頻繁に町を出た。
どこへ行くのか、行った先でなにをしているのかはアカネも聞かなかったが、何事もなく帰ってきたときは、おそらくユーキリスの目的が達成できなかったときなのだろうと推測していた。
あるとき、ユーキリスはいつものように町を出ていき、数日経って帰ってきたが、普段のようになにも言わず日常生活へ戻るのではなく、ユーキリスはアカネにだけ告げた。
「ようやく見つけた――時がきた」
その日、ユーキリスの革命ははじまったのである。




