第三章 その9
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雨。
雨が降っていた。
なのに、まっ暗な空には信じられないほど巨大な月が浮かんでいる。
まんまるの左上がすこし欠けたようないびつな月。
炎が上がっている。
夜を照らすように煌々と、蛇のように長細い車両の至るところから赤い炎の舌が覗き、黒い煙が空へ向かって立ち上っていた。
レンはすこし離れた場所からそれを見ていた。
いくつも聞こえてくる悲鳴。
だれかの泣き声。
自分の泣き声だと気づくまでしばらくかかった。
ちいさな少女が泣いている。
なにもできず、車両からすこし離れた暗がりでただ泣いている。
レンは幼いころの自分を眺め、いまもこうして眺めていることしかできない自分に気づき、しかしその足は一歩も動かなかった。
「これは――うそだ。現実じゃない」
あの日は雨なんて降っていなかった。
雨が降り出したのはだれもいない家に帰った日。
泣いていた少女が顔を上げ、レンを見上げた。
うるんだ目を拭って、言う。
「ここがおまえの中心だ、レン」
「……だれだ、あんた」
「だれでもあり得るし、だれでもない」
「妖精王だな。ここはどこなんだよ」
「ここはおまえの記憶のなかだ。しかし正確な記憶ではない。いくつかの記憶が入り混じった、おまえという人間を構成している意識の中心――列車事故か」
大勢の客を載せた汽車が脱線、炎上した事故。
過去最悪の被害を出したといわれていたが、レンにはそんなことはどうでもよかった。
被害者が百人いても、たったの三人でも、レンには同じこと。
両親と姉がいなくなったのだから、レンにはそれがすべてだった。
「……家族で、旅行してたんだ。家に帰るところだった。でも、帰れたのはあたしひとりだった」
「その寂しさがおまえの中心にある。自分はこの世界でひとりきりだと、この夜、おまえは痛感した」
「前向きになろうとしたんだ。魔砲師の学校に入ったのも、魔砲師になれば、もしもう一度同じ状況に出くわしたら家族を助けられるようにって」
でも心のどこかが空っぽなのは変わらなかった。
いつ、だれといても、孤独が胸のなかを支配している。
となりにいるだれかもいつかは自分の前から消えてしまう。
最後に残るのは自分ひとりだけなのだと思うと、だれかといっしょにいたいとは思わなくなっていた。
「おまえは失うことを恐れて他人を拒絶している。だから、このときに感じた強い寂しさを消すことができない」
「いいんだ。あたしはひとりでも生きていける」
「たったひとりで生きていくというのは、もはや生きているとは言えない。生きるということは他人と関わるということ。こと人間においては、そうだ。他人と一切関わることなく生きている人間は、ほかの人間にとっては死んでいるのも同じこと。おまえはこのまま死人のように生きていくのか?」
「じゃあ、どうすればいいんだよ。寂しさは、消えないよ」
「これは本当におまえが望んだ生き方ではないということだ。もし自分が望んだとおりに生きられたなら、そんなふうに悩みはしないだろう」
幼い自分は他人事のように笑った。
「あたしは……どんな生き方をしたいかなんて、わかんないよ」
「おまえはまだ若い。生きながら、考えればいい。その時間はいくらでもある。その場しのぎの付き合いでもいい。いつかいなくなってしまうかもしれない人間を受け入れてみればいい。案外、死ぬまでおまえのそばにいてくれるかもしれない」
「いまさら他人を受け入れるなんて――」
「他人のほうが強引におまえの殻を叩き割って入ってくるかもしれないがな――ほら、見てみろ。だれかきたぞ」
「え?」
夜の果てからかすかに白い光が放たれていた。
だれかがライトでも持って歩いてきているのだと思ったが、ちがう。
歩いている人間自体が光をまとい、その人間が歩いた道は眩しい光で照らされていた。
光は闇を打ち消す。
光が近づいてくるにつれ、レンの周囲の闇も薄くなり、燃え上がる車両も、そこで泣いている自分の姿も見えなくなって、レンはいつの間にかまっ白な世界に立っていた。
歩いてきたのは人間は確かめるまでもない。
レンがまっ白な世界で待っていると、そいつはようやくレンに気づき、駆け寄ってくる。
「レンちゃん! わあ、やっと会えた! ずっと探してたんだよ」
「レイア……おまえ、どっからきたんだ?」
「え、わかんないけど。なんか、まっすぐ歩いてたら、レンちゃんがいて。でもよかったー。ここ、ずっと歩いても景色変わんないし、なんにもないから、もう退屈で死にそうだったんだー」
玲亜はレンの手を掴み、ぶんぶんと左右に振る。
その表情はいかにもうれしそうで、レンはなにか言おうと心に決めていたのに、なにを言いたかったのか忘れ、まあいいかとため息をついた。
「レンちゃんはここでなにしてたの?」
「ん……別に、なにも。まあ、強いていえば、おまえがくるのを待ってた、のかな。なんとなく、おまえがきそうな気がしたから」
「ふうん、そっか。でも合流できてよかったねー。あとはユイさんとお兄ちゃんだけど、どこにいるんだろ?」
「さあ、案外どっかそのへんにいそうな気もするけどな。とりあえず、歩いてみるか」
「うんっ」
ふたりは並んで歩き出した。
道は直線に続く一本道で、レンは、もしかしたらこれは線路なのかもしれないと思った。
線路の果てにはなにがあるんだろう。
なにもないのかもしれない。
なにかを探すために歩いているわけではないのだ。
ではなんのために、ずっと死ぬまで歩き続けるのか――ほんの一瞬でも、だれかと並んで歩きたかったから、かもしれない。
「レイア」
「ん?」
「……いや、なんでもない」
「そっか」
まあ、いいか、とレンは思う。
別に、深く考える必要はないのかもしれない。
そのときやりたいことをやって、そのとき行きたい方向へ行けば、自然と自分が望んでいるものが見えてくるだろう。
考えるのは、それからでも充分間に合う。
*
「とりゃああ――!」
跳びかかりながらの袈裟斬り。
鋭く輝く刃は確実に人影の肩から腰へと抜け、桐也はその人影を蹴って距離を取った。
視覚上は、確実に決まった。
しかし手応えはまるでなかった。
まるで刃が接近するのに合わせて人影のほうが自分で分離しているのではないかと思うような手応えのなさで、実際、袈裟斬りにされたはずの人影はむくりと起き上がってまた刀を構える。
「ああくそ! 何回倒しゃいいんだよ、こいつ!」
頭をがりがりと掻いて、ともかく桐也も刀を構えた。
正体不明の黒い人影と出くわしてから、桐也はもう何度もそいつを倒していた。
すくなくともふつうの人間なら立ち上がれないくらいの傷を負わせてきたはずなのに、人影はたとえ袈裟斬りにしても、首をぽんと飛ばしても、まったく無頓着に立ち上がってくる。
しかし人影が繰り出してくる攻撃は本物だった。
いまも一瞬にして間を詰められ、一撃必殺を狙った猛烈な突きを弾くと、ぎいん、と刃同士が共鳴したように鳴った。
桐也は人影の腹を蹴り、後ろに飛ばして距離を取りつつ、どうすりゃいいんだとぼやく。
「何回斬っても立ち上がってきやがって――もしかして、あいつの攻撃もおんなじなのか?」
袈裟斬りにされてもなんともないかも、と思うが、その鋭い刃を見ていると試してみる気にはなれなかった。
うまくいけばいいが、失敗すれば間違いなく死ぬ。
そんな危険な賭けはできない。
人影が跳ね上がる。
駆け寄りながらの胴抜き。
剣道の動きだと思いながら桐也は最後の踏み込みのタイミングを見計らい、刀で防ぐ。
同時に刀を振り上げ、反対に胴を横一線。
人影は腹を一刀両断され、一瞬よろめいたが、ただそれだけだった。
「おまえも苦労しとるようだの」
不意に笑い声が聞こえ、桐也は頭上を仰いだ。
地上十メートルほどのところに銀色の女が浮いている。
「あ、妖精王! おい、なんとかしてくれよ、こいつ、ぜんぜん死なない――わっと危ねえ!」
ぎりぎりのところで相手の一撃を回避し、桐也はとりあえず逃げる。
「なんなんだよ、こいつ!」
「それはおまえ自身だ。無論、おまえは死んでおらぬから、そやつが死ぬはずがあるまい。そやつを殺したくばおまえが死ねばよいのだ」
「そんなことできるかあ! こんなわけのわからんとこで死にたくはない――っての!」
人影が追いかけてきたところでくるりと踵を返した。
腰をかがめ、反対に相手の懐に飛び込む。
そのまま体当たり。
馬乗りになり、頭部目がけて刀を突き立てる。
人間相手には絶対できない戦法だと思いつつ、しかしこんなことで死ぬような人影ではなく、当然のように起き上がり、軽く首を鳴らすような仕草をした。
「きりがねえよ、これじゃあ!」
「おまえはどうも血の気が多いの」
上空の妖精王はのんきに言った。
「おまえはいつも敵を探しておる。だから、そやつは何度でも立ち上がる。おまえが望んでおることだ、キリヤ。戦いを望むおまえの心が、そやつを何度でも蘇らせておる」
「おれは別に戦いなんて――ただ、強くなりたい、だけだ」
「強くなる、ということがどういう意味なのか、おまえもわかってはおらぬ。強さとはなんだ? なにをもって強くなったという? 筋肉がつくことか。剣技が上達することか」
「それは――」
答えられない。
考えているひまもなかった。
「しまった――」
人影に飛びかかられ、押し倒される。
手から刀が離れた。
人影の持つ刀の刃がぎらりと光った。
死。
桐也はとっさに両腕で頭をかばう。
あの刀なら両腕を貫いて頭まで到達するだろうと思ったが、身体は反射的に防御態勢を取っていた。
刀の鋭い痛みは、いつまで待ってもこなかった。
あれ、と腕を外してみれば、人影は刀を振りかぶったところで動きを止めている。
まるで時間が止まったようだと思いながら人影の下から抜け出すと、妖精王がふよふよと降りてきて、人影に触れた。
瞬間、人影は消滅し、黒い塵のようなものがあたりに舞う。
「ひとを大勢殺すことが強さの証明か?」
「……いや、ちがう。おれは、そんなこと望んでない」
「ではなにを望む。強さとはなんだ。さあ、その答えが見つからぬかぎり、出口は開かぬぞ。ここには時間などない。答えが出なければ、永遠におまえはここに留まる。ま、儂はそれでもよいがの」
妖精王は笑いながらぱちんと指を鳴らした。
すると一度は黒い塵として消えたはずの人影が、時間を逆再生するように出来上がり、その手にはまた刀が握られている。
げ、と桐也は声を洩らしたが、桐也の手にも刀が戻っていて、また戦いを続けなければならないのは明らかだった。
「ちょ、ちょっとなんとかしてくれよ!」
「なんとかできるのはおまえ自身しかおらぬよ。儂はここで見物しておるから、ま、死なぬようにがんばれ」
「そ、そんな無責任な! うおっ――」
ぶんと頭上を刃が通る。
立ち上がった桐也にもう一撃。
ぎいん、と刃が鳴り、力勝負のつばぜり合いになる。
「くそ――」
つばぜり合いといっても相手は影である。
そのくせ、力は強い。
全力で押している桐也を、なお押し返してくる。
じりじりと押し込められながら、いったい自分が望んでいることとはなんだと桐也は自問した。
強くなりたい。
ちいさいころからそう思っていた。
でも、どうして強くなりたかったのか。
強くなってなにがしたかったのか――それが思い出せない。
幼いころからちょっとしたケンカや争いには負けたことがなかった。
だから、だれかに負けて悔しい、あいつに勝つために強くなりたい、と思ったわけではなく、もっと根本的に強くなりたいと願う理由があったはずだ。
案外、テレビでヒーローものを見てそれに憧れただけなのかもしれない。
桐也はつばぜり合いで打ち勝つことを諦め、相手の足を払う。
どうと倒れた相手にとどめを刺すことはできたが、それをしても勝負が終わるわけでもなし、それよりも桐也は距離を取った。
「おまえは特殊な境遇にあるのだ、キリヤ」
妖精王は剣戟を楽しむように言った。
「儂にはわかる――おまえはやがて、この世界の中心となる。そのとき、おまえがなぜ強さを望むのか、なぜ、なんのために戦うのか、それが重要になる。下手をすれば、世界はおまえのために滅ぶだろう――ま、それも一興ではあるがの」




