第三章 その6
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妖精王が現れた――そのうわさはまたたく間に学校中を駆けまわった。
そのうわさの広がり方というのはまさに魔砲のようなもので、玲亜とレンが揃って教室に入ったときには、もうクラス全員が妖精王のことを知っているような状況だった。
玲亜とレンが登校するのに、妖精王はどこへ行くかというと、当然のように玲亜の後ろをふよふよとついていったから、教室に入ったとたん、騒がしかった教室内が水を打ったような静寂に包まれる。
そして、
「そ、それが妖精王!?」
「うおお、すげえ、本物だ!」
「え、なんかエロくない? 想像してたのとちがうんだけど」
「髭生やしたじいさんだってうわさだったのに!」
「おれはカエルみたいなやつだって聞いたぜ」
「あたしはちっちゃな猫みたいなのだって――」
わあわあといかにも騒がしく、玲亜はすぐにクラスメイトたちに囲まれる。
妖精王は騒がしい生徒たちの頭上に浮かび、自分を見上げてくる視線に支配者らしい堂々たる笑みを浮かべていたが、するりと輪から抜け出したレンは思わずため息をついた。
「まったく、いちいち騒がしいな……ま、気持ちはわかるけど」
そりゃあ、妖精王だもんなあ、とレンは席に座り、頬杖をつきながら教室内を浮遊する痴女、もとい美女を眺める。
銀色の髪は屋内でもきらきらと輝き、時折見える肌もダイヤモンドでも振りかけたように美しく、顔の造形にも威厳があって、たとえ頭のなかでどんな妖精王を想像していたとしても、そんな女がわれは妖精王であるといえばすぐに信じてしまえそうな姿だった。
妖精王といえば、この世界に住んでいる人間なら魔砲師でなくても知らない者はいない。
それは一種の女神であり、時代を動かす神であって、信仰の対象ですらあった。
そんな妖精王が目の前に現れれば、それは普段からかしましいクラスメイトでなくても騒ぎたくなるというもの。
「どうした、レンよ」
ふよふよ漂ってきた妖精王が小首をかしげる。
クラスメイトたちは「おお」と驚きの声を上げた。
「やっぱりフィギュアだけあって、レンとも知り合いなのか!」
別に知り合いってわけでもないけど、とレンは心のなかで呟きつつ、ひらひらと手を振る。
「向こう行けよ。あたし、ひとから注目されるの、嫌いなんだ」
「むう、妖精王を羽虫のように追い払うとは、怖いもの知らずだの……まあよい、儂は心が広いからの」
「ほんとに心が広いやつは自分で言ったりしないけどな」
「儂は例外だ。なにしろ儂は妖精王だからの、自画自賛してもなんの問題もないのだ」
そうだろうか、まあ、そうかもな、と思い、羽虫のように追い払っても遠ざかる気配がない妖精王を見上げると、妖精王はふと目を細め、笑みともしかめ面ともとれない表情を浮かべた。
「レン、おまえは、どうにも心が寂しいの」
「……だから、なんだよ?」
「おまえはどうやらまわりがよく見えておらんな。よく目を開いて見てみるがよい。おまえの抱えた寂しさは、もはや過去のもの。実在せぬ寂しさを抱いてもそれで寂寞が満たされるわけでもなし。目を開き、耳を澄ませることが大切だ。そうすればおまえの寂しさはすぐに消え失せる」
「……妖精王は、ひとの心まで読めるのか?」
「妖精王に不可能はない。儂はな、レンよ、世界のどこにも存在し、世界のどこにも存在せぬものだ。儂はおまえでもあり、おまえは儂でもある。それはすなわち、おまえは世界そのものでもあり、世界はおまえそのものでもあるということ。ま、おまえはまだそれを知ることはできぬだろうがの」
まったく意味深長な台詞だった。
妖精王は言いたいことだけ言うと、またふよふよと空中を漂って玲亜の頭上に戻る。
妖精王のその浮遊は、魔砲師から見てもふしぎなものだった。
風を使った浮遊でもなく、なにかに支えられて飛んでいるわけでもない、本当に重力の影響を受けないかのような自由な浮遊で、髪の毛の一本一本も身体と同じように空中を自由に漂っていた。
「――ふん、お節介だな、妖精王ってのは」
レンは顔の向きを変え、教室のなかから窓の外へと視線を移す。
――抱えている寂しさが過去のものなのは、言われなくてもわかっていた。
でもそれは過去に置き去りにしてきたものではない。
過去からずっと、現在まで抱いているものだ。
寂しさが過去のものになってしまえば、どれだけいいだろう。
そんなことは不可能だ。
生きているかぎり、この寂しさは必ずつきまとう。
たとえ妖精王でもそれをどうにかすることはできないにちがいない。
記憶でも消さないかぎり、この寂しさは消えないのだ。
授業のはじまりを告げるチャイムが鳴った。
それが鳴り終わらないうちに、珍しく担任ではない別の教師がやってきて、空中に漂う妖精王を見てわっと声を上げた。
「と、とにかく、授業をはじめますよ! みなさん席に着きなさい」
はーい、と渋々従う生徒たちに、妖精王は首をかしげ、
「そこの教師よ」
「は、はい!?」
「儂の席がないのだが」
「よ、妖精王さまは……そ、その、席に座りたければ、予備の椅子を持ってきますが、そこに漂っておられてもなんら問題はないわけでありまして」
「ふむ、そうか。ではこうしているとしよう。儂のことは気にせず、授業とやらをはじめるがよい」
「は、はあ、では……」
これじゃあさぞかし授業もやりにくいだろうな、とレンは教師に同情し、すこし笑った。
妖精王が現れようとなんであろうと、授業は授業として続くし、今日は今日として過ぎていくのである。
*
一年生の教室が妖精王の話題一色なら、三年生の教室もまた、口を開けば妖精王妖精王という有り様だった。
なにしろこれは世界的に見ても大事件であり、その現場になった学校の生徒がうわさをしないわけがない。
「すごいよな、妖精王を召喚するなんて。いったい何者なんだろ、その一年」
「転校生らしいぜ」
「ソフィア先生以来の天才とかなんとかって聞いたけど」
「はあ、そのうちおれたちを抜かして卒業しちまうかもな」
「ぐ、ぐぬぬぬ……みんなが私のこと以外の話をしているなんて……」
「フィアナ、かなり顔やばいよ。美人が台なし」
ギイことギギゴール=ゾンダがぼそりと言うが、顔など気にしていられるものか。
フィアナ・グルランス・アイオーンは、これ以上ないくらいに唇を噛み、眉をひそめ、全身全霊を込めて不快感を表現していた。
まったく気に食わない。
なにもかもが気に食わない。
ついこのあいだは転校生であるキリヤとユイが話題を独占していて、それがようやく落ち着き、再びフィアナは美人だ、フィアナは宇宙一かわいい、という話題が聞こえはじめた――ようにフィアナには思えた――ころだというように、また、こんなことになっている。
「妖精王ですって? ふん、そんなの、本物のわけないでしょ。どっかの妖精が適当に言ってるだけよ」
「いや、それが、本物みたいなんだよ」
「ちょっとキリヤ、勝手に会話に入ってこないで――って、なんであんたがそんなこと知ってるのよ?」
「実は、ここだけの話だけどさ」
とキリヤは声をひそめ、
「その妖精王を呼び出したのって、おれの妹なんだよ」
「な、なんですって? じゃあまたあんたの関係者が私の話題を横取り――ぐぬぬぬ! えいっ」
「あいたっ。な、なぜ蹴る?」
「不愉快だからよ!」
「フィアナ、とても理不尽。いつもどおりだけど」
「いったいなにが楽しくてあんたの妹は妖精王なんて召喚したのよ。迷惑なんだけど!」
「いや、ほんとは妖精王を召喚する気はなかったんだけど、まあ、いろいろあって……」
いろいろあったにしても、そんなことで伝説の妖精王を召喚されてはたまらない。
キリヤの妹にはまだ会ったことはないが、どうせろくなやつにちがいなかった。
しかし、なんにしても、このまま放っておくわけにはいかない。
妖精王ともなれば、下手をすればこの先しばらくは話題を独占されてしまう。
かといってさすがに妖精王を卑怯な手でやっつけるのはむずかしそうだし、とフィアナは考え、にやりと笑い、キリヤの横にするりと近づいた。
「ねえ、キリヤ、ちょっといいかしら?」
「な、なんだよ、猫なで声なんか出して。気持ち悪いぞ」
「あんた失礼なほど正直ね――いいから、聞きなさよ。授業が終わったら、あんたの妹に会わせなさい。それか、妖精王に」
「玲亜に? ま、別にいいけど、なんで?」
「そりゃあもちろん、挨拶のためよ。妖精王さまが現れたなら、一流貴族として、私も挨拶しなければならないわ。そういう決まりがあるの」
「妖精王さま、ねえ……なーんか、そんなにえらい感じには見えないんだよなあ」
「あんたみたいな低俗な人間には、妖精王さまのすばらしさがわからないのよ」
「う、低俗って言うなよ」
まあしかしこれでなんとか妖精王には取り入ることができそうだ、とフィアナはくすくすと笑う。
長いものには巻かれろ――勝てない勝負はするな。
これぞ四百年続くアイオーン家の家訓である。
しばらくすると授業のはじめのチャイムが鳴った。
妖精王のうわさをしていた生徒たちも自分の席に戻るころ、本当なら担任のリクがやってくるはずなのだが、この日はちがっていて、やってきた教師は挨拶の前に教室をぐるりと見回した。
「ええっと、キリヤ、なんでも校長先生が呼んでるらしいから、授業はいいからすぐ校長室に行きなさい」
「え、校長室?」
とキリヤはともかく立ち上がったが、なんとなく不安そうな顔で、
「やばいな、勝手に召喚魔砲使ったことでおれまで怒られるのかなあ……」
「用事までは知らないが、早く行ったほうがいいだろう。さあ、それ以外の生徒は授業の準備をはじめなさい。リク先生は別件で手が離せないそうなので、今日は私が代わりに授業をする」
生徒たちの曖昧な返事。
生徒たちはそれより、キリヤが校長室に呼び出された理由が気になっていた――王立フィラール魔砲師学校の校長、ヨルバ・ディスレイル・セレスタはあまり人前に姿を現さないことで有名だった。
その校長に、直々に呼ばれるくらいだから、なにかあるにちがいない。
野次馬根性たくましい生徒たちは好奇心いっぱいの目でキリヤを見送ったが、ユイだけはすこし心配そうに、キリヤの姿が見えなくなるまでその背中を目で追っていた。




