第三章 その5
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白銀の女は宙に浮かんでいた。
まるで重力など存在しないかのように地上から五メートルほどのところに浮遊している。
白銀に見えるのは女の髪である。
女の身長以上に長い髪が細かく広がり、女の身体を包み込んでいた。
女はかすかに微笑む。
その瞬間、タコのような怪物の姿がふっと消滅し、その場に桐也たち四人だけがぽかんとした表情で取り残された。
「実に愉快だの」
女は唄うように言った。
ぞっとするほど美しい女だった。
その顔は年端もいかない少女のようでもあり、妙齢の美女のようでもあり、髪のすき間から見え隠れする身体は女の豊満さを多分にふくんでいる。
「まさかこの世に現れるとは思いもせなんだが――呼び出したのはおまえか、娘よ」
「え、あ、あたし?」
玲亜が自分を指さすと、女はにいと笑い、うなずいた。
「よろこべ、娘。おまえはこの世ではじめて儂を召喚した魔砲師である」
「あ、あの、色っぽいお姉さんは、どちらさまで……?」
「儂は妖精王。妖精世界を束ねる王である」
*
「よ、よよよ、よ、よ、よ……」
「先生、落ち着いて」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、まだ落ち着けない。ちょっと深呼吸を。すー、はあ……よ、よ、妖精王だって!?」
普段ならまだ夢のなかにいるはずの早朝。
パジャマのまま演習場に現れたリクは髪の至るところを寝癖で跳ねさせながら、何度も確認するように眼鏡を上げた。
しかし何度確かめても現実は変わらない。
もはやいつもの四人組といってもいい、桐也、ユイ、玲亜、レンの後ろ、その空中二メートルほどのところに、ふよふよとひとりの女が漂っていた。
まず目につくのはその銀髪。
髪の長さは身長以上あり、空中にまっすぐ立っている女の周囲にそれが漂っている。
そしてその美貌――と、髪に隠れてさほど目立ちはしないが、どう見ても布を着ているようには見えない女の身体。
リクは思わず自分の頬をつねった。
痛い。
痛みを感じる夢だってあるかもしれない。
リクはまだ自分は夢から覚めていないのではないかと疑った。
今朝、リクは電話が鳴っていることに気づいて目を覚ました。
時間はまだ四時すぎ、いったいだれがこんな時間に、とベッドのなかで通話ボタンを押したリクに聞こえてきたのは、教え子である桐也の声。
『あ、先生? 寝てました?』
「がっつり寝てた……いまも半分寝てる……」
桐也にはなにかあったときのために連絡先を教えていたから、電話がかかってくること自体はふしぎではなかったが、しかしこの時間である。
さすがにリクもなにかあったのかとベッドのなかで目をこすり、起き上がった。
「どうしたんだい、なにか問題が?」
『問題っていうか、なんていうか……』
どうも歯切れが悪い。
それに後ろがなにかがやがやとうるさい。
「キリヤくん、いまどこにいるんだい」
『演習場です。それが、まあ、いろいろあって、その――わ、ちょっと待って、え、これ? これは携帯っていって、あとで説明するから! あ、先生、聞こえてます? その、ちょっとこっちで問題があって、いますぐきてほしいんですけど』
「なにがあったんだ? なんか、ずいぶん後ろがうるさいけど」
『いや、ちょっと……その、玲亜がちょっと、召喚魔砲を試したいって言い出して』
「はあ、召喚魔砲ねえ……召喚魔砲? そんな上級魔砲を、入ったばっかりのレイアちゃんが? そりゃ無理ってもんだよ、ぼくくらいの天才でもないかぎり成功するはずない」
『そうなんです、結果的にはまあ失敗したんですけど、代わりにタコが出てきて』
「はあ?」
『いや、そのタコはもう一刀両断にされて消えたんですけど。タコっていうか、もっと足がいっぱいある気持ち悪いやつで――とにかく、そいつはもういいんです。そいつはもう解決して、いまはまた新しい問題があって――妖精王とかいうやつが出てきたんですよ、今度は』
「よーせーおー? なんだ、それ」
『さあ。自分は妖精王だって言い張ってる、全裸の痴女――ぎゃっ、う、後ろからのしかかるな、当たってる当たってる! ち、痴女じゃないです、全裸の美女がですね、出てきまして』
「なにを言ってるのかまったくわからないけど、とりあえず、大変そうなのはわかったよ――どこの演習場だって? いまからそっちに行くから」
電話を切り、ベッドから出て服を着替えようとして、ふと、よーせーおーという言葉の意味が妖精王に変換された。
妖精王。
それは神と同じような意味で使われている言葉だった。
この世と重ね合わされているもうひとつの世界、妖精界を支配する絶対的な王――それが妖精王だといわれている。
しかし未だかつて妖精王の姿を見たものはいない。
ではなぜそのような存在がまことしやかに語られるかといえば、過去の英雄譚には妖精王が必ずといっていいほど現れるのだ。
曰く、伝説の英雄たちは、みな妖精王を夢に見るのだという。
それとは逆に、夢に妖精王が現れたものはみな歴史に名を残すともいわれる。
それは勝利の女神のようなものでもあるし、必然の神でもあり、ともかく、実在する可能性はあっても、日常で出会うことは絶対にないであろう存在だった。
桐也はよく妖精王などという名前を知っていたなあ、そういえば妖精王だって自分で言い張ってるとかなんとか言ってたっけ、と考え、リクは胸がざわめくのを感じた。
なにか、嫌な予感がする。
まさか――まさかとは思うが、本当に妖精王が現れたのか?
タコがどうのこうのと言っていてよくわからなかったが、たしか、玲亜が召喚魔砲を使ったとも言っていた――そしたら妖精王を自称する存在が現れた、と。
「……まさか、ねえ?」
はは、とリクはから笑いしてみるが、なんともいえない不安な気持ちは消えなかった。
リクは着替えるのをやめ、パジャマのまま部屋を出て、ともかく桐也がいるという演習場へ向かった――そしてそこで、見たのである。
白銀に輝く、見るからに神々しい雰囲気をまとった女を。
「そ、そちらさんが、妖精王だって?」
「そう自称してるんだけど……」
桐也はなんともいえない顔でちらりと後ろを、女を振り返った。
女は整いすぎている顔でにやりと笑い、いかにも、とよく通る声で言った。
「儂は妖精王である。おまえはなんだ?」
「ぼ、ぼくはリク・ダルスキイ、この学校の教師だけど……ほ、本物なのか? だって、妖精王だぞ、そんなの、いや、実在するとしても、なんでこうやって現実に」
「儂は召喚されたのだ。この娘に」
この娘、と女が指さした先で、玲亜がいやあと照れたように笑った。
「き、きみが? 妖精王を召喚したって? ど、どうやって?」
「いや、それが、よくわかんないけど、なんか、召喚しちゃったみたい」
「いやいや! いやいやいや! 召喚しちゃったみたい、とかそういうノリで召喚できるもんでもないし、召喚していいもんでもないから! よ、妖精王って言ったら妖精界の王で、もうとんでもない存在なんだよ。妖精界の王ってことはこの世界の王でもあって、つまりなんでもできる全知全能の存在であって……!」
「……おねーさん、そんなすごいの?」
と玲亜が振り返ると、女はまあなと自慢げに胸を張った。
「儂は妖精王であるからな、無論、すごいのである」
「……どうもそういうところがすごいとは思えないんだよなあ」
桐也がぼやくように言うと、む、と自称妖精王はうなり、桐也の背中にのしかかった。
「ぎゃあっ、あ、当たってる!」
「なにか言ったかの、うぶな少年よ」
「な、なんにも言ってないですっ」
「ふむ、ならばよかろう。しかし、儂もこうして現実に出てきたのははじめてだが、なかなかよいものだの、この世界も。ちょうど夜明けか」
「あ、あの、妖精王さま?」
とリクは恐る恐る話しかける――もし本物の妖精王だとしたら、その力は想像を絶するほどすさまじいはずだ。
ほんの気まぐれで町ひとつ消滅させることくらい、妖精王ならなんでもないことのはずなのである。
「い、いったいなにをしにこの世界へいらっしゃったので……?」
「む」
女は眉をひそめ、玲亜を見下ろした。
「そういえば、娘、なんのために儂を呼び出したのだ?」
「え? なんのためって言われても……ねえ?」
「あ、あたしに振るなよ!」
とレンが迷惑そうな顔。
「別に、理由はなかったんだけど。っていうか妖精王さんを呼び出す気もなかったし。ほんとはフェンリルちゃんを呼びたかったんだけど」
「聖妖精フェンリルか。やつを呼び出すには媒介が必要だが」
「ちゃんと集めたよ? でもなんか、タコが出てきちゃって」
「晨妖精クラーケンか」
「く、クラーケンだって?」
リクは眩暈を覚え、思わず目を閉じた。
「く、クラーケンっていえば、大昔の戦争で使われて敵側の軍隊をめちゃくちゃに倒しまくったっていう、あ、あの、クラーケンか?」
「それ……かな? なんかぬるぬるした気持ち悪いやつ」
「ああもうそれだよ、絶対それだもんなあ、なんでそんなの呼び出しちゃうんだよ」
「いやだから、ほんとはフェンリルちゃんを……」
「これがその媒介か?」
妖精王はふよふよと浮いて地面に並べられた媒介を眺め、首をかしげた。
「これのどこが、フェンリルの媒介だ?」
「え、だって、まず、バラネラの葉を伝う朝露でしょ?」
「バラネラ? これはバラネラの朝露ではないが」
「へ? だってバラネラって……」
「どんな形の葉だった? 細長く、赤みがかった葉がバラネラの葉だが」
「……そんな葉だっけ?」
「いや、ふつうの葉だった、な」
「……そういえばたしか、そんな感じの葉っぱ、となりにあった気がする、よね?」
「……する、なあ」
「……ま、そういうこともあるよね! 結果的にフェンリルちゃんは出てこなかったけど、エロいおねーさんが出てきたわけだし! あのタコみたいなのも別になんにも悪さはしなかったし!」
それでいいのだろうか、とリクは戸惑うが、まあ、クラーケンはもう消えたようだし、被害はなかったからいいとしよう。
しかし問題は、妖精王である。
「話を総合すれば――儂は、なんの用もないのに呼び出された、ということでよいのか?」
妖精王がじろりと玲亜を見た。
玲亜はあははと笑う。
すかさずリクが頭を下げて、
「よ、妖精王さま、この小娘が失礼な真似を! し、しかし、悪意があってのことではないでしょうから、どうかお許しを……!」
「まあ、別に、怒ってはおらんが。しかしなんの用もないとは、では、儂はどうするかの。せっかくこの世界に出てきて、すぐに消えるのも興がなかろう」
「い、いや、でもあんまりこの世界でゆっくりするのも……」
「じゃ、しばらくのんびりしていく?」
「れ、レイアちゃん! 余計なことは――」
「うむ、そうするかの。儂はこの世界のことはよく知らぬ。案内頼むぞ、娘」
「ばっちり任せてよ!」
ああもうだめだ、とリクは絶望する。
妖精王が現れるなんて、絶対、ろくなことにはならない。
うまくいってもこの町が消滅するくらいの惨事になるかもしれない、そうなったらとりあえず自分ひとりでも逃げよう、と心のなかで考えていると、それを見透かしたように妖精王はにやりとして言った。
「そう恐れるな、人間よ――儂はそれほど凶暴ではない。それほど、な」
無論、安心することなどできないリクだった。




