第二章 その13
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溺れる夢を見て目を覚ました。
桐也はなんとなくぼんやりする頭で、滝の音が聞こえているからそんな夢を見たんだ、と思い、もう一度眠ろうとしたが、目が冴えて眠れなくなる。
寝そべったまま、茶色い天井を見上げ、ここはどこだったっけ、と思い出す。
そう――ここはグワール族の暮らす地下都市だ。
宴会が終わったあと、いくらでも空いている部屋はあるからと広場に近い部屋に案内され、そのまま泥のように眠ったはずだった。
時計は持っていない。
部屋のなかは常に昼間のような明るさだった。
地下都市を照らすふしぎな光は部屋のなかにも入ってきていて、三つ四つ、寝そべる桐也の頭上でふよふよと発光体が浮かんでいた。
「……ふしぎなとこにきたもんだな」
この地下都市も、この世界自体も。
桐也はむくりと起き上がり、部屋を出た。
あの騒がしかった宴会がうそのように地下都市は静まり返っている。
明るさは変わらなかったが、グワール族には夜がわかるのか、それとも単にいまが寝る時間というだけなのか、出歩いている人影も見えず、都市全体が遺跡のような静謐さに包まれていた。
頭上を見上げれば、見えないほど高い位置から大量の水が流れ出している。
その真下に行ってみようと歩き出し、ちょっとした林を超えると、木が生えていない一帯があり、そのあたりがちょうど滝壺にあたる場所らしかった。
たしかに涼しい霧のような細かい水滴が波を打って落ちてきている。
そしてその場所には、先客がいた。
「よっ。寝られないのか?」
「あ、キリヤくん」
桐也はユイがちょこんと腰掛けていた横に座り、かと思うとそのままばたりと仰向けに倒れ、落ちてくる水が霧に変わる瞬間を眺めた。
「ふしぎなとこだよな、ここ」
「そうですね。すごく古いのに、未来みたいな感じもして――えい」
ユイもすこしためらったあと、桐也と同じように寝そべった。
ふたりの頭上にも無数の発光体が浮かんでいる。
それがふよふよと移動すると、光源の位置が変わり、降り注ぐ水滴が虹のようにきらめいた。
「フィアナとギイは寝てるのか?」
「たぶん――あのふたり、お酒飲んでましたよ、絶対」
「だよなあ。ギイは無言でずっと飲んでたけど、フィアナは明らかに酔っ払ってたし。おれもちょっと飲んだよ」
「酔っ払ってるんですか?」
「どうかな、自分ではわからん――それにしても、いま何時なんだ? これじゃあまったく時間がわからんな。三日は経ってないはずだけど」
「……そっか、いま、まだ試験の最中なんですよね。いろいろあってすっかり忘れてましたけど」
「そうだよ、大事な進級試験だ。落ちたら二年からやり直しだぜ。ま、おれはそれでもいいけど、ユイは大変だろ?」
「そう――ですね。もう三年間も足踏みしてましたから」
ユイはゆっくりと桐也のほうに顔を向ける。
「あの、キリヤくん。こんなときに、なんなんですけど」
「ん?」
「その、〈血の契〉、しませんか?」
「え――い、いま?」
「はい。結局、あの地底湖でもできなかったし……」
「た、たしかに――」
桐也は一瞬にして酔いも眠気も覚め、ちらりとユイを見る。
ユイの瞳はまっすぐ桐也を見ていた。
お互いに寝そべっているという状況が、またなにか思わせぶりである。
「しても、いいですか?」
「う――ま、まあ、うん、そうだな。おれたち、フィギュアだし、遅かれ早かれやらなくちゃいけないし、いや、もちろん儀式的な意味でだけど」
「じゃあ、手、貸してくれます?」
「手? あ、ああ」
桐也は右手を差し出した。
ユイは身体を起こし、桐也の右手にそっと触れ、その手のひらに爪を立てる。
「ちょっと痛いと思いますけど、がまんしてくださいね」
「ああ、別に――」
ユイの爪が桐也のマメだらけの固い手のひらをすっと走った。
ほんのすこしの痛み。
手のひらから、じわりと血が染み出してくる。
ユイはそれを確認すると、自分の手のひらにも同じことをして、血を滲ませた。
「じゃ、いきますね――」
ユイはまっすぐ桐也の目を見ながら、自分の手のひらを、桐也の手のひらに重ねた。
ふたつの手がぴたりと触れ合う――もちろん、桐也の手のひらのほうがすこし大きい。
ユイはそれを見てすこし笑った。
お互いの手のひら、そこに滲んだ血が重なり、混ざり合った瞬間、ふたりは同時に身体をふるわせる――ぞわりとなにかが腕から這い上がってくるようなふしぎな感触があり、ユイは耳をぴんと立て、桐也は手のひらから体温よりも高い熱が徐々に自分の体内へ広がっていくような感覚を覚える。
「なんだ、これ――」
「ん――」
ユイの手のひらから伝わった熱はやがて桐也の身体中をめぐった。
同じように、ユイも桐也の熱を感じ、それが身体の隅々まで行き渡ると、ふうと息をついた。
すこし汗ばんだ手のひらを離す。
ユイは満足そうに自分の手を見下ろし、うなずいた。
「これで〈血の契〉は終わりです」
「……へ? こ、これでいいの?」
「はい、ふつうはちいさなナイフで傷つけるんですけど。こうすることによって魔砲師の力が増幅されて魔砲が使えるようになるんです。最初は魔砲を使うたびにこうやって血を合わせなきゃいけないんですけど、慣れればある程度の魔砲はひとりで使えたりもできますし――どうしたんですか、そんなきょとんとした顔で? キリヤくんも〈血の契〉、知ってたんですよね?」
「え、あ、うん、そ、そうだよ、これが〈血の契〉だよなー、うん、いやあ、ちゃんとできてよかったよ、あっはっは」
と桐也はユイから視線を逸し、くそう、あの小悪魔め、といまごろ寮でぐっすり眠っているであろう玲亜を呪う。
いま、ようやく、桐也は玲亜からうそを吹きこまれていたことに気づいたのだった。
もう、あれだ、玲亜は今世紀最大級に怖い夢を見ればいいんだ、そしてひとりで眠れなくなって明日寝坊すればいいんだ。
こんなことならなにも緊張する必要なんてなかったのに。
「で、でさ」
桐也は取り繕うように言った。
「これでユイも魔砲が使えるようになったわけだろ。なんか、簡単なやつでいいからやってみてよ」
「う、で、できるかなあ、はじめてやるんですけど……じゃあ、炎を出してみます」
ユイは緊張した顔で立ち上がり、ふうと呼吸を整えた。
いままで、他人が魔砲を使う場面は何度も見てきた――実技ではそれをしっかり見学し、自分が使えるようになったときの参考にしようと思っていたのだが、いざこうして使えるようになってみると、本当にうまくできるかどうか不安だった。
そもそも魔砲とは、感覚の技術であるといわれる。
一度使えるようになれば次も簡単に使えるが、最初に使えるようになるまでがむずかしい。
炎。
ユイは空気中に漂っているはずのエレメンツ、四元素を意識する。
そのなかから赤い元素、火の元素だけを探し出す。
はじめ、四つの元素は区別もつかないほどに混ざり合い、空間中を高速で飛び交っていた――ユイはそれを視覚とは別の感覚で見て、感じ、はじめて魔砲師が体験している本当のこの星のあり方というものに触れた気がした。
ぞわりと鳥肌が立つ。
これが魔砲――これが魔砲師の世界。
無数に入り交じる四つの元素は、宇宙に広がる星々のメタファーにもなり得る。
そのままでは特定の元素を見つけ出すことなど不可能に思えたが、さらに意識を集中させると、赤い尾を引いて飛び交う火の元素を見つけた。
ユイが手を差し出すと、まるで誘われるように、火の元素だけが集まってくる。
「ありがとう――力を、貸してください」
火の元素がユイの手のひらでうずまく。
すさまじい回転を続けるうち、元素同士がぶつかり合い、ちっ、と火花が散る音が聞こえた。
次の瞬間、ユイの手のなかでこぶし大の炎がぼうと上がる。
「おお、すげえ!」
「できた――」
炎はユイの手のなかで燃え上がっていた、ユイ自身はそれを熱いとは思わなかったし、まるで自分の一部のように感じられた。
炎をぽんと投げれば、炎はその形状のまま空中に舞い上がり、またユイの手のなかに落ちてくる。
桐也は赤い炎に照らされたユイの横顔を見て、よほどこの瞬間を待ち望んでいたにちがいないと気づいた――なにしろ三年、この瞬間を夢見てきたのである。
こんなことだったらさっさと〈血の契〉をしてあげればよかったと思うが、まあ、いまになってはそれもいらぬ後悔だろう。
ユイがありがとうと炎にささやくと、炎はぱっと消えた。
安心したように息をつくユイに、桐也は拍手を送る。
「おめでとう、魔砲師への第一歩は無事成功だな」
「はいっ――キリヤくんのおかげです」
「おれはなんにもしてないけど、ま、おれのおかげっていうならそういうことにしとこう、うん」
「あはは、そうですよ、ほんとにキリヤくんのおかげですから――本当に、ありがとうございます」
「いいよ、他人行儀だなあ――さて、じゃ、もう一眠りするか。朝かどうかわからないけど、起きたらランドルウが地上まで連れてってくれるって言ってたぜ。どうせまた歩くんだろうから、ユイもいまのうちに寝といたほうがいい」
「はい、わかりました。――おやすみなさい、キリヤさん」
「おやすみ」
桐也は背中で手を振りつつ自分の部屋へと戻っていった。
ユイはまだしばらくその場に残り、すこし傷ついた自分の手のひらを見下ろし、うれしそうにほほえんで、その手をしっかりと胸に抱いた。
*
この巨大な空間を歩いて昇るだけでも大変そうだと桐也は思い、フィアナは実際に歩いていくなんてごめんだと言っていたが、幸いこの地下都市にはエレベーターなるものがあるらしい。
「さすがにおれらでもいちいち歩いては登れんわな、がはは」
ランドルウは豪快に笑いながらそのエレベーターへ四人を案内した。
一夜明けた地下都市はまた昨日のような活気を取り戻し、あちこちでひととすれ違ったし、なかには昨日の宴会で言葉を交わした相手もいて、たった一晩にせよ名残惜しいような温かい雰囲気が出来上がっていた。
エレベーターは地下都市の最深部にあり、林のようになった広場の奥にその入り口があったが、その外見は桐也が想像していたエレベーターとはまるでちがっていた。
「これが……エレベーター?」
ランドルウが開けた扉の先にあったのは、ただの狭い空間である。
なかに入ってみると天井だけが異様に高く、そのはるか頭上でかすかに光が見えている――どうやらそれが地上らしいのだが、桐也には吹き抜けになった狭い空間にしか思えなかった。
「全員入ったか? じゃ、閉めるぞ――またそのうち遊びにこいよ」
四人がその狭い空間に入ったことを確かめると、ランドルウは扉をしっかり閉め、その横にある岩が飛び出しているような突起に手を当てた。
「じゃ、またな、がはは!」
ランドルウが岩をぐっと壁のなかに押し込んだ瞬間、扉の向こうで驚いたような悲鳴が上がった。
どこからともなくすさまじい強風が吹き出し、行き場のなくなった風に巻かれるように、四人の身体がふわりと浮き上がる。
「こ、こういう仕組みか! う、うわああっ」
風はさらに強くなり、四人の身体はもみくちゃになりながら一気に狭い空間を駆け上がった。
「きゃあっ、ちょっと、下からの風はスカートが――ちょっ、ど、どこ触ってんのよ!」
「おれじゃないって!」
「……フィアナ、胸、でかい」
「冷静に言っとる場合かあ!」
何十メートルかの距離を一気に飛び上がった四人は、やがてぽんと地上の穴から飛び出した。
受け身など取れるはずもなく、四人が四人、べたりと地上に倒れると、ごうごうと吹いていた風の音が収まり、やがて聞こえなくなる。
「う、な、なんちゅー無茶なエレベーターだ……昔の人間はすごいのかすごくないのかよくわからん……全員、無事か?」
「な、なんとかー……」
えらい目に遭った、と桐也は頭を振りながら立ち上がった。
まわりを見ると、そこは洞窟へ入る前に連れてこられた森に似た場所だった。
正確な位置はわからない。
桐也は地面を見下ろし、このずっと下にあの大都市があるのだと考え、ふしぎな気持ちになる。
「とにかく、まあ、外には出られたみたいだ。洞窟から脱出するってのもクリアでいいだろ――問題はここがどこか、だけど」
「洞窟があったのと同じ森みたいですね――太陽があっちだから、たぶん、向こうが出口だと思います。いまはまだ朝ですね」
「じゃあちょうど夜のあいだを地下で過ごしたってことか――うう、まったく、とんでもない進級試験だったな。とりあえず先生を探して、学校に帰ろう」
「そうですね、フィアナさんたちも――って、あれ、フィアナさんたちは?」
「ん?」
ついさっきまでいたはずなのに、気づくとフィアナとギイの姿がなくなっている。
桐也とユイですこしあたりを探したが、見つからず、まあ洞窟からは出られたことだし、ふたりともなにか事情があるんだろうということにして、ともかくふたりは森の出口を目指して歩き出した。
森はそれほど深くはなく、歩くのも苦痛ではない。
しかしいろいろあったせいか身体は疲れていて、桐也でも早く寮に戻って休みたい気分だったのに、並んで歩くユイはにこにこと笑って楽しそうだった。
桐也がそのことを言うと、ユイはちょっと恥ずかしそうにして、
「だって、わたし、魔砲師になれたんですよ。そう思ったらなんだかうれしくて」
「ああ、そっか……じゃあおれは偉大な魔砲師が誕生した瞬間に出くわしたわけだな」
「う、偉大かどうかはわかりませんけど……でも、がんばります。いままで立ち止まってた分、これからはもっとがんばらなくちゃ」
「そうだな、おれもがんばろう――よし、こっから走って学校まで帰るか!」
「え、ええっ、走って!? 丸一日以上かかっちゃいますよっ、ちょ、ちょっと、キリヤくん!」
「とりゃあああ!」
「ま、待ってー!」
ばたばたとかけ出した桐也を、ユイが追っていく。
そのふたりの足音が遠ざかっていくと、森はまたしずかになり、鳥の鳴き声だけが軽やかに響き渡っていた。




