第二章 その11
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しばらく、沈黙。
ユイは桐也のズボンのウエストあたりを掴んでいたが、その力がぐっと強くなる。
「化け物って――」
ふるえる声でユイが言うと、フィアナも同じような声で答えた。
「でかくて、凶暴そうな、化け物よ……この洞窟に住み着いて、迷い込んだ人間を食べて生きてるんだわ――ああ、ギイはいまごろ、あの化け物の餌になってるにちがいないわ、かわいそうに」
自分が見捨てて逃げてきたという記憶は抹殺しているようなフィアナの言い草だった。
三人は暗闇のなかで立ち止まり、一度立ち止まると、再び歩き出すには勇気が必要になる。
「ギイさんもいっしょ……だったんですか」
「そうよ、いっしょに洞窟へ入ったの。でもギイは……」
「じゃあ、あの絵とか、聞こえてた叫び声はその怪物の……」
「絵? あ、ああ、絵ね、そうね、きっと化け物を記したものよ、それは。私はどんな絵なのか知らないけど。叫び声も化け物のものでしょ。と、とにかく、これ以上こっちへ進むのは危険よ。引き返して別の出入口を探しましょう――そうよ、あんたたち、途中に天井に穴が空いた通路を通ったでしょ。あの湖の穴はちいさすぎて無理だけど、そこの穴からなら私の魔砲で出られるわ。そこまで引き返せば――」
「でも」
と桐也。
「そのギイって子は、まだ洞窟のなかにいるんだろ? 見捨てておれたちだけ逃げるわけにはいかないよ――なんとかしてその子を探そう」
「ちょ、ちょっと無茶よ! ギイはいまごろ化け物の胃袋のなかだわ!」
「まだ無事かもしれない。でもおれたちが見捨てたら、もし化け物から無事に逃げてたとしてもひとりで洞窟のなかを彷徨うんだぜ? そんなの、かわいそうだ」
「だ、大丈夫よ、ギイは暗いのとか大好きだし。たぶん。ちょっと、ユイ、あんたもなんか言いなさいよ、このままじゃ化け物退治しなくちゃいけなくなるのよ」
「う――」
ユイとしては、狭いところも暗いところも苦手だし、正体不明の怪物などもっと苦手だったから、一刻も早くこの洞窟から出たい気持ちはあった。
しかし、ここが不気味で危険な場所だとわかっているのに、そんな場所にクラスメイトを置き去りにするわけにはいかないとも思う。
いつもフィアナといっしょに行動しているギイ。
話したことはほとんどないが、大切なクラスメイトにはちがいない。
葛藤は一瞬だった。
ユイは桐也の濡れたズボンを掴み、言う。
「――ギイさんを、助けに行きましょう」
「ちょ、ちょっと、正気なの、あんたたち! あ、相手は化け物なのよ。しかもでかくて、凶暴で、牙とか生えてるかもしれないし、人間が好物そうな顔してたし――よく見えなかったけど――、絶対やばいやつよ、あれ!」
「やばいやつならなおのこと見捨てるわけにはいかないだろ。フィアナ、もし怖いなら、一回さっきの地底湖まで引き返すから、そこで待っててもいいよ。あそこなら通路が三つあるし、どれかから化け物がきてもほかの通路へ逃げられる」
「う……わ、私がびびってるっていうの? ど、洞窟の化け物ごとき、べ、べべ、別にびびってなんかないわよ――そ、そうね、ギイを助けに行きましょう。ほんとは最初からそのつもりだったのよ。あんたたちを外へ出して、私だけでも引き返してギイを助けるつもり――な、なんで笑うのよ!」
「いや、別に――じゃあ、作戦変更だ。まずギイを救出、余裕があればついでに化け物も倒して、洞窟から脱出。いいな」
「はい、わかりました」
「あ、あんたが威張ってるのは気に喰わないけど、ま、しょうがないわね」
「よし、それじゃあ――」
このまま進むぞ、と桐也が一歩踏み出した。
しかし後ろのユイが、ぐっと桐也のズボンを引っ張る。
「ちょっと、ユイ、あんまり引っ張られるとズボンがずれる――」
「き、き、キリヤくん――あ、あそ、あそこ――」
「ん?」
ユイがどこを指しているのかは、この暗闇ではまったくわからなかったが、暗い洞窟内をぐるりと見回し、桐也も理解した。
どうやらここは広い通路らしい。
桐也たちがいる向かって左側の壁から右側の壁までずいぶん距離があって、その右側の壁の一部が、ほんのりと発光していた。
いままでのような、外の光が差し込んでいるという様子でもない。
もっと淡く、光源が定かではない光である。
「あ、あれよ――」
声を潜め、フィアナが言った。
「あの光――あ、あの光のなかから化け物が出てきたのよ――」
「ふたりともここから動くなよ。ユイ、手を離して――壁に手をついて、フィアナとは離れないように」
「き、キリヤくんは?」
「いざとなったらおれが化け物を引きつける。ふたりはそのあいだに逃げるんだ」
「そんな――」
「しずかに」
桐也はズボンを掴むユイの手をゆっくり剥がした。
同時に足場を確かめる。
湿ってはいたが、滑るほどではない。
通路も広く、下手に動くよりはここで待ち構えたほうがよさそうだった。
淡い光が徐々に強くなる。
桐也は、それがいびつな輪郭を伴っていることに気づいた。
壁に、細い線のように淡い光が走っているのである。
どこかで見たことがある光景だ、と桐也は思う――そうだ、夜中、扉のすき間から光が漏れ出している様子に似ている。
あの壁の向こうに、光が差す空間があるらしい。
そして壁から光が漏れ出しているということは、あの壁は――。
「――っ!」
ユイが声にならない声を洩らした。
分厚い岩の壁だと思っていた場所が、石をこすり合わせるような重々しい音を立ててゆっくりと開いたのである。
光が強くなる。
桐也は自分たちが光に晒されたことに気づいたが、暗闇をにらんでいた目は強くなった光を捉えることができなかった。
目を細めた先。
なにか、人影のようなものがのっそりと洞窟内に出てくる。
光を背負い、その輪郭以外はわからないが――フィアナの言うとおり、人間にしては大きすぎる影だった。
人型だが、その身長は三メートル近くあるように見える。
光の錯覚ではない。
巨人は比較的広いこの通路でも腰をかがめなければ入れないようだった。
桐也は決断を迫られた。
逃げるか、戦うか。
こちらは光に晒されている。
向こうはおそらく、もうここに三人の人間がいることに気づいているだろう。
フィアナの証言が正しければ、やつは人間を喰らう化け物だ――やるしかない、と決めた瞬間、桐也の身体は動いていた。
「はあっ――」
巨人との距離を一気に詰める。
手元に武器はない。
剣ではない格闘は得意ではなかったが、いまできることをやるしかない。
「む――」
巨人が桐也の接近に気づいたが、その動きは緩慢で、桐也の早さを追いきれてはいない。
桐也は巨人の懐に飛び込んだ。
その腹めがけ、先制の飛び蹴り。
しっかり入った感触があった。
巨人がうめく。
しかしその巨体はびくともせず、反対に足を掴まれる。
「しまった――」
ものすごい力で引っ張られ、振り回される。
ぶん、と投げ飛ばされ、地面を転がった――地面に尖った出っ張りがなかったのは幸運だったと思いながら桐也は立ち上がり、呼吸を整える。
「くそ、こういう肉弾戦は苦手なんだ――」
せめてなにか武器があれば、と思うが、こんな洞窟に運良く棒状のものが落ちているはずもなく、再び距離を詰める。
正面から突っ込むと見せかけて、右へ。
巨人がぐるりと身体を回転させる。遅い。桐也は巨人の後方へ回り込み、その背中に飛びかかった。
「があ――」
首に腕をかける。
そのまま締め上げようとしたが、しっかり締まる前に巨人の長い腕が桐也を掴んでいた。
まるで鞭のように柔軟な腕だった。
桐也は背負投のように正面へ引っぱり出され、そのまま両腕を掴まれながら空中へ持ち上げられた。
「くそ――」
光を背中に、ぬっと巨人の大きな顔が近づく。
髭面で、牙はない。
巨人はそのまま桐也の腕を強く握った。
ぎし、と筋肉と骨が軋む。
岩でも砕けそうな、すさまじい握力だった。
桐也は腹筋を使って下半身を持ち上げ、巨人の髭面を蹴り、その勢いで離脱。
腕は痛んだが、骨までは折れていない。
巨人は低くうめいてよろめいたあと、体勢を立て直し、猫背で桐也を見た。
互いに呼吸は荒い。
こういうときこそ落ち着かなければと桐也は自分に言い聞かせる。
戦いは、呼吸である。
相手の呼吸を探り、相手の呼吸を読む。
巨人の呼吸は荒かったが、回数は多くない。
その呼吸に自分の呼吸を合わせることはできなかったが、相手の呼吸を探っているうちに心が落ち着き、いつもの剣道の試合のような集中力を取り戻した。
ここが暗闇の洞窟であることが気にならなくなる。
目の前の相手、巨人にだけ意識を集中させれば、その一挙手一投足がはっきりとわかる。
三度、桐也から距離を詰めた。
巨人が掴みかかる。
それをかいくぐり、巨体のわりには細い足首を横に払った。
「う――」
巨体がすべるように浮き上がり、どん、と洞窟全体を振動させるように倒れる。
桐也はそこに飛びかかったが、巨人は倒れながら桐也の腕を掴み、ぶんと振り回した。
背中から壁へ吹き飛ぶ。
一瞬、呼吸が止まる。
痛みはなかった。
アドレナリンが戦いに不必要なものをすべて遮断している。
相手が体勢を立て直すまで間を置くのは危険だった。
すぐに突っ込み、巨人も起き上がりながらそれに対処しようと長い手を伸ばしたとき、声が響いた。
「ふたりとも、待って!」
桐也と巨人はびくりと動きを止め、なんとなく、お互いに顔を見合わせる。
声はユイのものでもフィアナのものでもなかった。
巨人の後ろ、光が洩れるその秘密の空間から、新しい人影が現れる。
「……それ、敵じゃない」
「ぎ、ギイ!」
フィアナが叫んだ。
「あんた、生きてたの! てっきり化け物の餌になったかと――」
「なってない。生きてる」
「なんだあ」
と低く響く声で巨人が言って、のそりと立ち上がった。
「これがおまえの知り合いかい、ギイ」
「そう……みんな、クラスメイト」
「そりゃあ悪いことしたなあ。突然飛びかかってくるから、てっきり悪いやつかと思っちまったよ、がははは。おい、少年、大丈夫かあ? 悪かったなあ、怪我してねえか」
「い、いや、怪我は別にしてないけど……」
桐也は髭面をほころばせて笑う巨人と、光のなかから出てきた長身の少女、ギイを見比べて、困惑顔。
見たところギイは怪我もしておらず、眠たそうな表情で光が満ちた通路から洞窟へ出てくると、フィアナを見て首をかしげた。
「フィアナ、なんでびしょ濡れ?」
「う、いろいろあったのよ、あんたが出入口を破壊したせいで!」
「あれは事故。不可抗力――でも」
とギイはゆっくりほほえむ。
「会えてよかった。あれからフィアナ、探してたけど、なかなか見つからなかった」
「探してたって――そもそも、その巨人はなんなのよ? なんで仲よくなっちゃってんの?」
「このひと、いいひと。助けてもらった。同じ、グワール族だから」
「いやあ、まさかこんなとこで同族に出会うとは思わなかったからなあ」
巨人はひとのよさそうな顔で笑い、桐也たちを見て、うんうんとうなずく。
「人間ってのは変わってるなあ。なんでこんな、なんにもねえ洞窟にぞろぞろ入ってくるんだ?」
「いや、入ってくるっていうか、入れられたっていうか」
「ふうん、ま、よくわかんねえが、とにかくつもる話もあるだろ、こんな辛気臭い場所、さっさと出ようや。同族の友だちなら歓迎するでよ」
巨人はそう言って、元々出てきた光の通路へ戻っていった。
桐也たちは顔を見合わせ、どうしよう、と無言のうちに話し合って、ともかく、巨人のあとについて通路へ入った。




