第二章 その10
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「きゃあああっ!」
「うおっ――」
突如響いた甲高い悲鳴に桐也とユイはびくりと身体をふるわせる。
いままでのように洞窟の奥底から響いてくる悲鳴ではない、すぐ近くから聞こえる、ほとんど反響もないはっきりとした悲鳴だった。
桐也はユイの肩に手を置いたまま、ユイもきゅっと身体を縮めるように緊張させたまま、しばらく停止する。
そしてふたりは足音を聞いた。
どたどたと、騒がしい足音が近づいてくる。
足音の数はひとつ。
桐也はすぐに立ち上がり、身構えた――この広い空間には全部で三つ、細い通路がつながっていた。
ひとつや桐也たちが進んできた道、もうふたつはどこへつながっているのかわからないが、足音は洞窟内を反響し、どこから聞こえてくるのかわからない。
「ユイ、気をつけろ、なにかあったらおれの後ろに隠れるんだ」
「は、はい――」
どこからかはわからないが、聞こえてくる足音は着実に大きくなっていく。
それに合わせて桐也の心臓の鼓動も早くなる――なにが現れてもすぐに対処できるよう、桐也は重心を落とし、三つの通路が一望できる位置に陣取った。
ユイも緊張した表情で桐也の服の裾をきゅっと掴んでいる。
やがて、ふと足音が聞こえなくなった。
と思った瞬間、通路のひとつから人影が飛び出してきた。
敵か、と桐也は身構える。
しかしその人影は通路から猛スピードで駆け出してくると、そのまままっすぐ湖のほうへ駆け抜け、どぼん、という間の抜けた音を立てて湖に飛び込んだ。
「……あれ?」
襲いかかってくるならまだしも、脇目もふらずに湖に飛び込むとはいったいどうしたのか――しかも、
「ぎゃっ、み、水!? な、なに、お、おぼれ、おぼれ――!」
静まり返っていた水面でばちゃばちゃと暴れ、どうやら溺れているらしいのである。
桐也とユイはしばらく意味がわからず、溺れている様子を眺めていた。
どうも、化け物ではない。
ひとりの人間――長い金髪が水面に広がり、白いシャツを着ていて――。
「……なんか、見たことあるなあ」
「き、キリヤくん! あのひと、フィアナさんです!」
「ふぃあな? ああ、昨日教室で挨拶した――って、なんでこんなとこに?」
「さ、さあ……でもあの、助けないと!」
たしかに、状況はよくわからないが、このまま放っておくと湖の底に沈んでしまいそうだった。
底も見えない地底湖に飛び込むのは危険ではあったが、この際仕方がない――桐也は乱暴にネクタイを外し、シャツを脱ぎ捨てる。
「きゃっ――」
後ろでユイが恥ずかしそうに視線を逸らしたのには気づかず、桐也は自ら湖に飛び込んだフィアナを助けるために冷たい水のなかへ入った。
ズボンがひやりと濡れ、足に張り付く。
湖は、最初の数歩は浅かったが、そこから崖のように突然深くなっていて、フィアナはその深みでもがいていた。
「フィアナ、掴まれ! 落ち着いて掴まれば溺れないから――わっ、あんまり引っ張るなよ、おれまで溺れたら助けられないぞ――」
「だ、だれか助けっ――わ、私泳げないのよっ!」
「わかったから落ち着けって! げっ、やばい――」
暴れていたフィアナの姿が湖のなかへ消える。
慌てて桐也も水のなかに潜り、まだ暴れているフィアナの身体を両腕で抱えた――地底湖は異常なほど澄み渡っていて、生き物はおらず、不純物も浮いていないような澄みきった青がどこまでも深い場所まで続いていた。
水のなかにいるというより、空のなかにいるようなふしぎな心地だったが、ともかくいまはそれを楽しむ余裕もない。
桐也は暴れるフィアナを水面まで引っ張りあげ、下から押し上げるように身体を支えながら水中を進んだ。
「フィアナさん、掴まって!」
深くなるぎりぎりまでユイも湖に入り、手を伸ばした。
フィアナはユイの腕を掴み、桐也もその身体を押し上げ、なんとかフィアナの身体を水から上げる。
「大丈夫ですか、フィアナさん――水、飲みましたか?」
「たぶん大丈夫だとは思うけど――」
と桐也も水から上がり、濡れた髪を掻き上げた。
フィアナはといえば仰向けになり、濡れた金髪が頬や首筋に張り付いているのもかまわず荒い呼吸を繰り返している――咳き込んでいないことを思うと水はほとんど飲んでいないだろうし、まあ大丈夫だろうと、桐也はそっとフィアナから視線を離した。
「フィアナさん、大丈夫ですか」
「だ、大丈夫じゃないわよ、ほんと、死ぬかと思ったんだから――はあ、はあ――あ、あんたらね、もっと早く助けなさいよ、わたしをだれだと思って――わ、わたしが死んだら世界中が悲しむのよ、もう、大世界恐慌よ」
「なんかよくわからんけど、大丈夫そうなのはわかった」
「ぜんぜん大丈夫じゃないわよっ」
「でもフィアナさん、どうしてこんなところに? いったいどこから入ったんですか?」
「え、う、へ?」
フィアナは顔を上げ、あたりを見回し、ここがどこでどういう状況なのかようやく理解したらしく、さっと顔色を変えた。
「え、ええっと、その、まあ、ね、いろいろ、そういう……そ、そうよ、私はあんたたちを助けにきたのよ」
「わたしたちを助けに?」
「そう、偶然あんたたちがここで進級試験をするって聞いて、どうせあんたたちの実力じゃ合格できないだろうと思ってこっそり手助けしにきたのよ。ま、一応、クラスメイトだし? その、手伝ってあげてもいいかなと思って」
「わあ、そうだったんですか――フィアナさんがそんなにやさしいひとだったなんて」
「ま、まあね、私のやさしさは宇宙一だから、ま、しょうがないわね」
ほんとにそうかな、と桐也は思わないでもなかったが、どうせ振り向けないことだし、ここはユイに任せておくことにした。
「でも、フィアナさん、どうやってこの洞窟のなかへ? 入り口はリク先生が閉めてしまったのに」
「別の出入口を見つけたのよ。そこにあんたたちを誘導してあげようと思ったの」
「わ、キリヤくん、出入口!」
「ああ、よかったな。時間はよくわからないけど、まだ一日も経ってないから、いま出れば余裕で合格だ」
「はい、よかった――って、キリヤくん、なんでそっぽ向いたままなんですか?」
「え、いや、まあ、その……服が、濡れてるし」
「へ――?」
「い、いや、別に見たわけじゃないけど! 服が濡れてる気がした瞬間に目ぇつぶったし! おれの反射神経は抜群だから網膜が光を捉える前にしっかり瞑れたからなんにも見てないし!」
湖に飛び込んだフィアナは王立フィラール魔砲師学校の制服を着ていた。
制服は白いシャツにチェックのスカートというもので、白いシャツというのは濡れて肌に張りつけば当然のようにその向こうが透けるようになっているわけであって、フィアナの見るからに高級そうな――いや、見てはいないが、と桐也は心のなかで否定する――下着が、透けて見えているわけであって。
あの傲慢なフィアナにそれがばれたらなにを言われるかわからない、と桐也はできればその話題は避けたかったのだが、こうなっては仕方がなかった。
まあ、たしかに、ちらっと見てしまったし、こうなったら変態でもなんでも謗りを受けよう、と覚悟を決めたのだが――そうした罵倒語は、一切飛んでこなかった。
代わりになにか、
「――っ」
と息を呑む声が聞こえる――フィアナは桐也の後ろで透けた胸を隠し、恥ずかしさに顔をまっ赤にしているのだった。
普段のフィアナらしくない、うぶなその反応に桐也は逆にどうしていいのかわからなくなり、しばらく気詰まりな沈黙が流れる。
「……ま、まあ、その、フィアナさんがきてくれてよかったです、ほんとに」
場をとりなすようにユイが口を開いて、
「これで洞窟から出られますね――はあ、よかった。わたし、ほんとにこういう狭くて暗いところは苦手で」
「そ、そうだな、フィアナは出口までの道を知ってるわけだし、さっさとこんなところ出ようぜ」
ふと、その場合試験結果はどうなるんだろうと思ったが、まあ、こうなってしまっては仕方がない。
せっかく助けにきてくれたらしいフィアナを追い返し、自分たちの力だけで脱出するというわけにもいかないし。
「フィアナさん、びしょ濡れですけど大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫よ、別に、濡れてるくらい――た、ただ、ヌノシマ・キリヤ! あ、あんた、振り返ったら殺すからね」
「わ、わかってるよ――振り返らないけど、できればその、服は着替えたほうがいいと思う。濡れた服をずっと着てると体温が下がるし、それに、まあ、濡れた服を着たままだといつまでもおれが振り返れないし」
「でも着替えなんて持ってきてないわよ」
「おれのシャツでがまんしてくれ。外に出ればいくらでもあるだろうから、それまではおれのでなんとかなるだろ」
「う――あ、あんたのシャツを、私が着るの?」
「そりゃ嫌だろうけど、背に腹は代えられんと思うぜ」
「た、たしかに……じゃ、じゃあ、着替えるから、そっち向いててよ!」
わかってる、というように桐也は肩をすくめ、ふたりから離れて暗い通路のほうを向いて座る。
その後ろでフィアナはユイに手伝われながら濡れたシャツを脱ぎ、桐也が湖に飛び込む前に脱ぎ捨てた白いシャツを羽織った。
桐也のシャツは、当然のようにフィアナにはすこし大きい。
ボタンをすべて留め、長すぎる袖はまくり上げて、濡れた髪をユイにまとめてもらってようやく準備完了。
振り返ることを許された桐也は、大きすぎるシャツを着たどことなく恥ずかしそうなフィアナにまた自主的に視線を逸し、暗闇を見た。
「あー、それじゃ、出口へ向けて出発するか。フィアナ、歩けそうか?」
「大丈夫よ――あと、気軽にフィアナって呼ばないでくださる? フィアナ様かフィアナお嬢さまにしてよ」
「う、めんどくせえ……気が向いたらそうするよ。で、たしか、あっちからきたよな。この先はまっ暗だから、ちゃんとだれかに掴まって移動するように」
「むう、あんたが隊長なの? 気に食わないわ……そもそも、なんでこんなまっ暗なところを進むのよ? ユイ、あなた、火の魔砲師でしょ。炎で明るくするくらいできるでしょう」
「そ、それがまだ、〈血の契〉をしてなくて……」
「はあ? まだやってないの? そんなのさっさとやればいいのに。めんどくさいわねえ――」
ぶつぶつ言うフィアナをユイがなだめ、桐也が先頭、その後ろにユイ、しんがりをフィアナが努め、神秘的な雰囲気に満ちていた地底湖からまた漆黒の通路へと戻っていく。
途中、シャツを脱いで上半身裸になっている桐也のむき出しの背中に触れてユイが悲鳴を上げたり、それに驚いてフィアナが腰を抜かせたりといったことはあったが、ふたりに比べると三人の道中は騒がしく、不安に思うひまもないくらいだった。
「このまままっすぐ進めばいいのか?」
「たぶん、そうだと思うけど――途中で曲がった記憶はないから」
「なんか頼りないな――そういえば、あの地底湖に出てくる前、悲鳴上げてたのってフィアナだったのか?」
「え、あ、ああ、そういえば――そ、そうだったわ、すっかり忘れてた。ね、ねえ、ちょっと、道を変えない? こっち以外にも出入口があるのよ」
「いや、この暗いなかで道を変えたらわかんなくなるぞ――どうしたんだよ、突然」
「そ、その、こっちにはあんまり行かないほうがいいわよ、その、危ないから」
「危ないって? 穴でもあるのか?」
「穴っていうか――そ、その、あんたたち、笑わないでしょうね」
「笑うって、なにを」
「私が言ったことに――わ、笑ったら後ろから思いっきり蹴るからね――その、私、見たのよ、この先で――この洞窟に住み着いた化け物を!」




