第二章 その9
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背中に張りついたユイがびくりと肩をふるわせる。
また、洞窟のどこからともかく、悲鳴のような声が響いてきたのだ。
「こ、今度のはなんか、甲高い感じでしたね……こ、ここにいるのはひとりじゃないんでしょうか?」
「さあ、反響した声だけではなんとも……そもそもひとりって言っていいのかどうか」
ふたりはまた暗闇のなかを進んでいた。
ユイは拒否したのだが、明かりが見える場所に留まっていても出口は見つけられないし、もし洞窟内になにかが潜んでいるとすれば、明るい場所にいるのは向こうに発見してくれと言っているようなものだと説得し、再び暗闇のなか進むことにしたのだが、もちろん出口の方向などわかるはずもなく、先ほどまでと同様、壁伝いに進んでいくしかなかった。
そうこうしているうちにも、洞窟の奥からは雄叫びとも悲鳴ともつかない声が響いてくる。
とくに最後に聞いた悲鳴はそう簡単には出せない堂々たるもので、聞いていると本能的にぞくりとくるようなものだった。
もはやその声は風鳴りと聞き間違えようがない。
この洞窟には、なにかがいるのだ。
しかしそうとわかれば、桐也としてはまだ気が楽だった。
なにが潜んでいるかはわからないが、潜んでいるものが生物ならどうとでもなるだろうと思う――うまくいけば仲よくなって出口を教えてくれるかもしれないし。
あの絶叫を聞くかぎり、仲よくなるのはどうにもむずかしそうだが。
「キリヤくん、もっと奥に行くんですか……?」
背中から不安そうにユイが言った。
桐也はむしろおのれの煩悩と激しい戦いを繰り広げつつ、答える。
「なんか、こっちのほうから水の音が聞こえる気がするんだ。もしかしたらさっきよりももっと大きな穴が空いてて、雨が溜まってるのかもしれない」
耳を澄ませても水の音はよくわからなかったが、濡れた壁に耳を当てると、その内側を流れる水音がかすかに聞こえる気がするのである。
もちろん、水を見つけたからといって出口が見つかるとはかぎらないが、あてもなく歩きまわるよりは、まだ特定の目標をもって歩いているほうが気も楽だった。
ユイは桐也の背中にしっかり張りつき、おぼつかない足取りであとをついてくる。
これだけ密着していると互いの鼓動が聞こえてくるくらいで、せめてこんな状況じゃなければ、と桐也は思わずにはいられなかったが、こんな状況でもなければユイが抱きついてくるなどあり得ないだろうと思うと、これはこれで役得な気もする。
「しかし無茶な学校だよな――こんなわけのわからない洞窟に放り込むなんて」
もしかしたら洞窟に潜むなにかを魔砲で退治することが試験の目的なのかもしれない、と桐也は思う。
しかし、だとしたらはじめから言ってほしいものだ。
そういうことなら、こちらもそれなりに心構えもするのに。
「あ――なにか見えてきたぞ」
洞窟はただでさえ暗いのに、おまけに曲がりくねっていて、もし光が差している場所があってもすぐ近くまで行かなければ見ることもできないということが何度かあった。
今回もまた、光が見えたときには、もうそれはすぐ近くまで迫っている。
洞窟はふたりの目の前で一度狭くなり、立って進むこともむずかしいくらいになっていたが、その向こうにまた広い空間があり、そこに光が差していた。
ユイが光に導かれるように進もうとするのを、桐也がしずかに制する。
「なにかいるかもしれない――ゆっくり、慎重に。おれが先に行くから」
湿って滑りやすい地面だった。
もしここで戦うことになったら足場は不利だと考えつつ、桐也は腰をかがめて狭い通路に入る。
そこから顔を出し、広い空間を窺うと、そこは一瞬呼吸も忘れるような美しい空間だった。
洞窟のなかの湖である。
青々として、波紋ひとつ立っていない鏡面のような水面に、天井に空いたちいさな穴から光が差している。
空間自体はとても広く、天井も五、六メートルはあって、差し込んでくる光はわずかだったが、そのわずかな光が水面に反射し、湖全体がうっすらと発光しているように見えた。
桐也は素早く空間の隅を窺い、どうやらなにもいないらしいと判断してユイとともに広い空間へ出る。
「わあ、すごい――」
ユイも洞窟へ入ってはじめて恐怖を忘れたように呟いた。
桐也は湖に近づき、覗き込む――水は恐ろしい透明度だったが、それでもすこし奥まで行くと底が見えないほど深い。
水に手を入れると、水はひんやりしていた。
「雨が溜まったわけじゃなさそうだ――たぶん、どっかから湧き出してるんだろうな。いやな匂いもないし、新鮮な水だ」
「こんな場所もあるんですね――わあ、水もきれい」
「奥のほうは深いなあ。どれくらい深いのかわからないけど、洞窟自体がとてつもなく深いところまで続いている可能性もあるし――」
しかしとにかく、すこし休憩するにはちょうどいい場所に覚えた。
桐也とユイは湖のほとりに腰を下ろし、ふうと息をつく。
「暗闇を進むのは体力がいるな――ユイ、大丈夫か?」
「はい、なんとか……でも、出口、見つかりませんね」
「先生は三日以内に出られたらって言ってたから、たぶん、ふつうにやると脱出まで三日くらいかかるんだよ。それか、三日が限界ってことかな――三日をすぎたら先生が助けにきてくれるとか。……さすがに見殺しってことはない、よな?」
「それは、さすがに……いくら厳しいとはいっても学校ですから」
「だよな、うん、ほっとしたよ。でも三日もここで過ごすのは困る。試験にも合格しないと」
そうだ、これは試験なのだ、とユイもようやく思い出し、こくりとうなずいた。
「出口は一箇所しかないんでしょうか?」
「わからない。何箇所かあればいいけど、わかりやすいところにはないだろうな。そもそも出口が近くにあっても、この暗闇じゃどうしようもないし。これだけ広い洞窟じゃ手探りで探してたら何ヶ月あっても探せない気がするよ」
おまけにわけのわからないものまで生息していそうだし、という言葉は飲み込む。
ともかくいまは、この一刻も早く洞窟を出る手段を考えなければならない。
「……火があれば、あたりを照らせますよね」
「ん、ああ、そうだけど、でも火なんて熾せない――いや、そっか、魔砲があるんだ、おれたちには。ユイ、火の魔砲師だったよな。だったら炎を生み出すとかは――」
「できる、と思います。でも――」
とユイはすこし不安そうな目で桐也を見る。
つい守ってあげたくなるような、そのうるんだ瞳に、桐也は心臓を射抜かれたようにどきりとする。
「いままで一度も魔砲を使ったことはありませんから、その、うまくできるかどうかはやってみないと……」
「そ、そうか、うん、ま、そうだよな。じゃあさ、試すだけ試してみよう。もしできなかったとしてもいま以下ってことはないんだから」
「はい、そうですね――ふふ、なんだかキリヤくんの前向きな言葉を聞いてると、なんでもできるような気がします」
「そうかな、おれはただ思ったことを言ってるだけだけど――でもとにかく、できそうなことはなんでもやってみよう」
はい、とユイはうなずき、それからふと気づいたように、
「そういえば、まだ〈血の契〉をしていませんでしたよね」
「え、あ――」
桐也もすっかり忘れていた――魔砲を使うには〈血の契〉と呼ばれる儀式を行わなければならないことを。
しかもその儀式というのは、フィギュア同士のキスによって成立する――らしい。
魔砲を使ってこの状況を打破するということは、つまり、いまここで〈血の契〉を行うということで、そうなってくると青々と輝く湖のほとりというのは妙にムードがあるような気もしてきて、しかしムードとは関係なく儀式としてしなければならないのだと桐也は自分に言い聞かせる。
この際、いやらしい気持ちの一切を捨て、心を無にし、儀式を遂行しなければならない。
相手もそういう気持ちならまだしも、ユイには――おそらく――そんな気持ちは皆無なのだから、こちらだけがそんな気持ちを持っているのはユイに失礼というものである。
「……その、い、いいのか、ユイは?」
「はい?」
「だからその、〈血の契〉っていうの、いまやっても……」
「はい――なんだか改まってやると、ちょっと恥ずかしいですけどね」
かすかに笑うユイは、もうその覚悟を決めているのだ。
これは、と桐也は思う――ここで男がためらうのは、おそらく許されない。
こういうとき、男はむしろ積極的にいかなければならないのだ――向こうがもうそのつもりなのだから、ここで引けば、相手に恥をかかせることになる。
ごくりと桐也は唾を飲み込んだ。
改めてユイを見る――天井からの薄明かりのなか、ユイはじっと桐也を見つめていた。
片側を編み込んだ黒髪、黒い瞳、白い肌、うっすらと桜色に色づいた唇。
これはいやらしい気持ちからなされる行為ではない――これは儀式なのだ、魔砲を使うために必要な。
桐也は意を決し、ユイの肩に手を置いた。
「え――」
ユイがすこし驚いた顔をする。
桐也はまじめな顔をし、すこしずつユイとの距離を詰めていった。
「え、あ、あの、き、キリヤくん――」
ユイはわずかに身体を引いたが、それは抵抗というにはあまりに微力だった。
青い湖を背景に、ふたりの距離が近づいていく。
一メートル、五十センチ、三十センチ、二十センチ――。
ユイの耳がぴくんと動く。
ほんのすこし開いたユイの唇からかすかに息が洩れる。
桐也はそこにゆっくりと自分の唇を――。
「きゃあああっ!」




