第二章 その7
7
この世界へきてはじめて王立フィラール魔砲師学校の敷地から出た桐也は、見るからに日本とはちがう異国の風景に思わず感嘆を洩らした。
「はあ、きれいな町だなあ……」
学校に正門、天使のレリーフがついた巨大な鉄製の門を出るとすぐ、町中を流れているとは思えないきれいな川があった。
川には橋がかかり、その橋を超えると町中へ入っていくのだが、この町というのがまた美しい。
地面は一面石畳。
通りの一本一本は狭く、すぐ左右には民家か商店かわからない煉瓦造りの家が立ち並び、その家々に使われている煉瓦が一色ではなく赤や青、黄色や緑と色とりどりで、町全体が華やかな極彩色に彩られている。
そうしてきらびやかな通りを抜けるとひときわ大きな円形の広場に出るのだが、この広場がまたとてつもない規模で、サッカーグラウンドが十個でも二十個でも入りそうな広さのなか、何百人、下手をすれば何千人という人間が右へ左へと行きかっている。
こんなところに解き放たれたら間違いなく迷子になるなあ、と桐也がぼんやり考えているうち、先行するユイとリクに置いていかれそうになって、慌てて追いかけ、人混みのなかを抜ける。
耳が混乱するくらいの足音とざわめき、どこからか聞こえてくる汽笛の音。
まったく見たこともない町の、しかし地球とはまったくちがう異世界というには地球の文明に近すぎるその風景に、桐也はなんともいえないようなふしぎな気分になった。
リクとユイは迷いなくひとつの方向へ歩いていく。
見ると、ほかにもその方向へ進むひとの波があり、その波はどうやら大きな建物のなかへ飲み込まれていくようだった。
「あそこが駅だよ。ここから汽車で一時間くらい南へ行く」
「へえ、この世界にも汽車があるのか――」
言われてみれば、たしかに地球の駅にも近い建物で、入り口は広く、その奥はすぐホームになっていて、黒鉄の巨大な車両がひとつの生物のように出発の時間を待っていた。
桐也たちはその列車に乗り込み、しばらくすると甲高い汽笛を響かせながら汽車が動き出す。
はじめはゆっくりと、しゅ、しゅ、と音を立てながら徐々に速く、駅を出てしばらくは町中を進んでいたが、町を出るとまた速度はぐんと上がった。
あれだけ栄えていた町の外は、すぐなだらかな傾斜をふくんだ草原になっている。
その草原に敷かれたレールの上を、汽車が気持ちよさそうに風を切って進む。
桐也は流れていく風景を眺めながら、ようやく自分はまったく知らない世界へやってきたのだと実感できた気がした。
汽車は走っていく。
なにもない草原を、ゆるやかにうねりながら。
時折草原には野生の動物も見えたりして、それは桐也には牛か馬のように見えた。
おそらくこの世界には地球には存在していない動物や植物もあるのだろうが、一方で地球とよく似た動物や植物も多いにちがいない。
「魔砲っていうから、もっと町中のひとたちが空飛んでたりするのかと思ったら、結構町はふつうなんだな。こういう汽車とかはないと思ってたよ」
「世界的に見れば魔砲師はそれほど多くはないからね」
とボックス席で向かい合って座るリクが言う。
「魔砲師としての素質が大なり小なりある人間は、たぶん全体の半分くらいだ。そのなかで実際に魔砲師になるのはさらにその半分、全体の四分の一くらいかな。それでもずっと昔に比べれば魔砲師はぐんと増えたんだ――昔はそれこそ、何万人にひとりって規模だったからね」
「へえ、魔砲師は増えてるんですか」
「魔砲師とそうじゃない人間の血が混ざり合って、魔砲師としての素質を持つ人間が増えてるんだよ。もしかしたらそのうち、全員が魔砲師の素質を持つような世界になるかもしれない――そうなったらこういう科学的なものは減ってしまうかもね。全員が魔砲師なら、これほど大掛かりなものを作る必要はないわけだから」
「それはそれで残念な気もするけど――それにしても先生、進級試験ってなんなんですか?」
「ふふん、それは現地に着いてのお楽しみ」
リクはにやりと笑い、もったいぶる。
桐也はそれほどでもないが、ユイはそんなリクの態度にすこし不安を覚えた――なにしろ、進級試験である。
もしこの試験に落ちれば、また二年生、あるいは一年生からやり直さなければならなず、それは卒業して一人前の魔砲師になるまでにかかる時間が増えるということで、ユイが焦りを感じるのも無理はなかった。
それに、進級試験に挑むというのに、ユイはまだ一度も魔砲を使ったことがない――〈血の契〉さえまだ行っったことがないのである。
汽車は走る。
乗客と、その様々な思いを乗せて。
乗客のなかにはユイ、桐也、リク以外にも、そのとなりの車両に無事乗り込んだフィアナとギイがふくまれていることは、三人ともまったく知らないままだったが。
*
汽車に揺られ、いくつかの駅を通過すること約一時間。
ユイ、桐也、リクの三人――そしてこっそりあとをつけてきたフィアナとギイが降り立ったのは、田舎町のちいさな駅だった。
そこは周囲を畑に囲まれたのどかな町で、駅舎もなく、ホームを出るとすぐ目の前が牧場、というよくわからない立地であり、ひとの気配はまったくなかった。
その状況に困ったのはフィアナとギイであり、ヴァナハマではひとに紛れて気づかれることはなかったのだが、ここでは紛れるべきひともなく、仕方なくふたりは汽車が発車する寸前に飛び降り、看板の陰に身を潜める。
「先生、もしかして進級試験って、牧場の手伝いですか?」
「だとしたら愉快だけど、ちがうんだな、これが。目的地はここじゃないんだ。もうちょっと歩かなくちゃいけない。さ、こっちだよ」
三人は駅を出て、畑なのか町なのかよくわからないあぜ道を進んでいく。
しばらく歩くとちらほら見えていた民家もなくなり、すぐ目の前には森が迫り、どこまで行くのかわからないまま、ユイと桐也はリクについて森へ入った。
それほど鬱蒼としている森ではない。
木と木の距離も適当で、陽が差し込み、おだやかな雰囲気がある森だった。
森のなかに入ったとたん、鳥の声が三人を歓迎してくれる。
一種類ではなく、鳴き方も様々な鳥たちで、頭上を見上げると木の枝にちいさく色鮮やかな鳥たちがぽつぽつと休んでいる様子も見ることができた。
「はあ、いい場所だなあ」
「心が癒やされますね」
「そんなこと言っていられるのもいまのうちだよ。これは進級試験だからね――ほら、その試験会場が見えてきた」
こんな森のなかにいったいなにがあるのかといえば――三人の前に現れたのは、地面にぽっかりと空いた大きな穴である。
ちょうどそのすこし前からあたりに岩が増えてきたと思っていたが、ぽっかり空いた穴はどうやら巨大な岩、あるいは固い地盤に空いているものらしく、急な傾斜をのぞき込むと、その奥は暗く、どこまでも続いているように見えた。
なんとなく、不気味な雰囲気がある穴ではある。
覗きこんでいると、足元にすっと冷たい空気が絡みついてくる。
おまけにあれだけ鳴いていた鳥たちもいなくなり、森は耳が痛むほどの静寂に包まれていた。
「あの、先生……」
恐る恐る、できれば否定してくれ、というように、ユイが震える指先で穴を指した。
「も、もしかして、試験会場って、このなか……?」
リクはいかにもうれしそうににっと笑い、うなずいた。
「大正解。さ、入ろうか」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。ほ、ほんとですか? ほんとに入るんですか? こ、このなかに?」
「そうだよ。それが試験だからね。ほら、ふたりが先に行きなさい。大丈夫、入り口からしばらくは光が差し込んで明るいから」
「そ、それってちょっと奥に行ったら――」
「もちろん、まっ暗」
「な、なんでそんなにうれしそうなんですか!」
「あっはっは、いやあ、生徒たちが怖がってるのを見るのは実に心苦しいけれど、これも教師の仕事だから仕方がないねえ、あっはっは」
「笑ってるじゃないですかあ!」
「ほらほら、早くしなさい。それとも試験は棄権するってことでいいのかな? そうすると、進級できないけれど」
「う――」
だれに対しても決して悪意など向けないユイにしてはめずらしく、ちょっと睨むようにリクを見て、そっと桐也のシャツの裾をつまんだ。
「あ、あの、キリヤさん、先に行ってください」
「ああ、うん、いいけど――もしかして、ユイ、こういうとこ、苦手?」
「に、苦手です……暗いところも、狭いところも」
「そいつは愉快――じゃない、残念だねえ。でも試験は変えられないしねえ」
実に憎たらしい眼鏡だった。
しかし試験を受けずに帰るわけにはいかない。
桐也が急な傾斜をゆっくりと下る。
その後ろからユイも続き、リクは傾斜の上からその様子をにたにたと笑いながら見下ろしている。
「せ、先生、なかに入りました! それで、なにをすればいいんですか?」
「よし、じゃあ、ようやく試験内容を説明しよう」
穴の外から叫ぶリクの声が、穴のなかにはまるで幻聴のように反響する。
「試験内容は単純だ。これから三日以内に、この洞窟から脱出せよ。手段は問わない――以上」
「へ――? 洞窟から、脱出って」
あの眼鏡はなにを言っているんだろうというようにユイは首をかしげた。
洞窟から脱出といっても、ここはまだ穴の入り口、出ようと思えばいつでも外に出られるわけで、それを、三日以内に脱出せよとはどういう意味なのか。
その理解は、桐也のほうが早かった。
「まさか――!」
「わーっはっは! そのまさかだ! じゃ、ふたりとも、がんばって試験を突破するように!」
リクがばっと両腕を上げた。
その瞬間、穴の左右にあった巨岩がぐぐと持ち上がる。
それはまるで、太陽が夜に飲み込まれる瞬間を見ているような気分だった。
穴のなかから見上げるふたりの目の前で、ふたつの巨岩が先ほど自分たちが降りてきた急な傾斜に覆いかぶさる。
「ちょ、ちょっと待っ――」
光が細くなる。
細くなった光に桐也とユイが群がるが、逆光のなかでリクの笑い声が響き、巨岩はぴたりと閉じた。
どすん、と重たい音が聞こえ、それから、ほんのかすかにリクの高笑い。
ふたりの周囲はまったくの暗闇だった。
自分の鼻頭さえも見えず、あまりの暗闇に、自分が立っているのか座っているのかさえわからず、脳みそがぐらりと混乱する。
「ま、マジか、あの眼鏡……!」
桐也の声が穴のなかに反響した――と思うと、
「わああっ!」
背中にどっと衝撃を感じ、思わず声を上げる。
その衝撃はそれほど強くはなかったが、腹のほうになにかがまとわりつき、ぎゅう、と締め付けられる。
「ゆ、ユイ!?」
「き、キリヤくん、ですよね、これ――あああのわたし、ほ、ほんとにこういうのだめで――」
「お、落ち着け、大丈夫だ。まっ暗でなんにも見えないけど、たぶん暗闇に目が慣れてきたら多少は見えるようになる……かもしれないし。まずは落ち着いて、状況を確認しよう」
「じょ、状況って――ひゃああっ!」
「ど、どうした?」
「つつつ冷たいものが首筋に!」
「お、おれじゃないぞ!? そ、そうか、たぶん天井から水滴が落ちてるんだ。そういえば、地面がちょっと濡れてる気がする――ゆ、ユイ、あの、もうちょっと離れてもらっても大丈夫かな。その、いや、別に、抱きつかれるのが嫌とかじゃなくて、壁がどこにあるのか探そうかと思うんだけど」
反応なし。
代わりに、身体を締め上げる力が強くなる。
要するにユイが背中からぎゅっと抱きついているのであり、桐也は今度は自分に落ち着けと繰り返さなければならなかった――落ち着け、落ち着け、心頭滅却、煩悩退散。
ふたりがなにも喋らなければ、この洞窟のなかはまったくの静寂だった。
耳がきいんと鳴る。
桐也は背中にユイの体温を感じながら、ゆっくりと壁際まで移動し、暗闇に目が慣れるのを待った――が、いつまで待っても暗闇は暗闇であり、ほんのかすかな光さえないこの場所では目が慣れるということがなかった。
――この洞窟から三日以内に脱出せよ。
それが、進級試験。
「ま、マジかよ……」
桐也の絶望したような呟きが、洞窟のなかにこだました。
*
「あー、愉快、愉快。これだから教師はやめられないね。さーて、ふたりが出てくるまで町に戻るか」
リクはひとしきり笑ったあと、くるりと踵を返し、森の外へ、町のほうへと歩いていく――それを木の影から見ていたフィアナとギイは、リクが充分遠ざかったことを確認し、ぽつりと呟いた。
「あの先生、ろくでもない性格してるわね」
「うん……フィアナに言われるくらいだから、よっぽど」
「でもまあ、たしかに愉快な状況ではあるわ。これであのふたりは洞窟に閉じ込められたわけだし」
木の影から出て、ふたりはリクが魔砲によって塞いだ洞窟の入り口に近づいた。
いま見てみると、たしかにふたつの巨岩が完璧に塞いでいて、そこに洞窟の入り口があったとは想像すらできない。
フィアナは軽く岩を踏み、蹴ってみたが、びくともしないことを考えると、この巨岩を退けて、あるいは破壊して脱出することは不可能に思えた。
「進級試験って、こんな感じなのね。わたしたちが受けたのはもっとまともだったけど、まあ、ユイの場合は三年分の進級試験を一気に受けるわけだし」
「フィアナ、どうする?」
「どうするって、そりゃあ、このまま帰っちゃ意味ないでしょ。さっきの先生の話、聞いてたでしょ。試験の合格条件は、三日以内にこの洞窟から出てくること。ってことはつまり、三日以内に出られなかったら失格ってことよね」
三日。
長いと考えるか、短いと考えるか。
しかしある意味、試験としてはわかりやすい。
教師側としては、生徒でも三日あれば洞窟から脱出できるだろうと考えているということになる。
要するに、三日前後で発見できるような出入口が、いま塞がっている入り口とは別に、あるのだ。
「ギイ、ここ以外の出入口を探すわよ。洞窟がどれくらい広いかわからないけど、たぶんこの森のなかにあるはず」
「探して、どうする?」
「探して、私たちもそこから洞窟に入りましょう――で、暗闇で怯えてるふたりをもっと怯えさせてやるのよ。そうすればふたりともまともな判断ができなくなって、三日以内の脱出なんてできなくなるはず――うふふ、見てなさい、ユイ、転校生。このフィアナ・グルランス・アイオーンを敵に回したらどうなるか、身を持ってわからせてあげるわ」
「……完全なる八つ当たり、ある意味、すごい」
しずかな森に、フィアナの高笑いが響き渡った。
ギイは、フィアナとリクはよく似た性格だな、どちらも最悪に近い、と思いながら、ともかく、フィアナの言うとおり洞窟の出入口を探しはじめた。




