第二章 その6
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同じ寮なのだから、別段外で待ち合わせる理由はないといえばないのだが、人混みを避けるように寮を出たところでキリヤとレイアを待っているユイだった。
鞄を両手で持ち、寮の前にある花壇に咲いた花を眺めながら、ふたりが出てくるのを待つ。
すでにほかの生徒たちもちらほらと寮を出てきていて、いつもの混雑する時間まではもう数分だろう。
「はあ――今日はキリヤくんに〈血の契〉のこと、話せるでしょうか」
そもそも、別に隠すことでも、恥ずかしがることでもなんでもない。
魔砲師ならだれでもすることだし、そこに色っぽいものは皆無なのだから、ひとつの作業として〈血の契〉を行うことはなんら自然なこと、なのだが。
なんとなく、やっぱり、改まってそういうことを言うのは気恥ずかしいように思えて、なかなか言い出せないユイだった。
しかし今日は、なんとか〈血の契〉しなければならない。
今日も実技の授業はあるだろうし、ユイ個人としても、いままでずっと使えずにいた魔砲を早く使ってみたいのだ。
だから今日こそ、キリヤに〈血の契〉を切り出し、本当の意味でフィギュアにならなければ――。
「おはよ、ユイさん!」
「ひゃああっ――お、おはようございます」
「どうしたの、そんなにびっくりして?」
「い、いえ、別に、その、ちょっと考え事を――」
ふうん、とレイアはなにか探るようにユイの顔を覗き込む。
そのすこし後ろに、キリヤが立っていた。
ユイがキリヤに視線を向けると、キリヤもちょうどユイを見ているところで、目が合う。
「あ……」
「う……」
なぜか――どちらかともなく目を逸し、もじもじ。
「付き合いたてのカップルか」
「だ、だれがカップルだ!」
「そそそうです、キリヤくんとはそういうんじゃ――」
「いや、わかってるけど。まったく、ふたりとも、ほんとにうぶなんだから」
年下のレイアに言われるとすこし情けなくなる。
しかしたしかにこのまま恥ずかしがっていては不審に思われると、ユイは顔を上げ、できるだけ平静を装って挨拶をした。
「お、おはようございます、キリヤくん」
「あ、ああ、おはよう……」
昨日までふつうだったキリヤも、今日はまるでユイの挙動不審が移ったようにぎこちない。
どうかしたのかな、とユイも首をかしげるが、ともかく三人はほかの生徒たちに流されるように校舎へ向かって歩き出した。
「ねーねーユイさん、昨日ね、あたしにもフィギュアが見つかったの!」
「わ、おめでとうございます。同じ一年生ですか?」
「うん、レンちゃんって女の子。かわいくていい子……だと思うんだー」
「レイアちゃんは素質もあるから、これからどんどん伸びるかもしれませんね。勉強とか、わからないところがあったら聞いてくださいね」
「わ、ありがとー。字がわかんないから、まだ授業もぜんぜんわかんないんだー。ちょっとずつレンちゃんに教えてもらおうと思ってるんだけど」
ううむ、どうにも割り込みづらい会話だなあ、と桐也は楽しそうに話し込んでいるふたりを眺めつつ、頭を掻く。
しかし、それにしても――。
魔砲師になるためには、〈血の契〉が、つまり、キスが、必要になる――。
昨日玲亜に教えられるまでまったく知らなかった桐也だが、ユイは当然、はじめからそのことを知っていたのだろう。
つまり、魔砲を使うためには、この自分とキスをしなければならないということを――なんといっても、あのぷるんとした、薄紅色の唇なわけで、と桐也は無意識のうちにユイの唇を見つめていることに気づき、慌てて自分の腹を殴って気合いを入れた。
心頭滅却、煩悩退散。
煩悩すなわち剣の道を阻む悪敵なり。
「そういえば――」
玲亜がちらりと桐也のほうを伺い、口元にいかにも悪そうな笑みを浮かべながら言った。
「ユイさんは、もうお兄ちゃんの〈血の契〉、したの?」
「お、おい玲亜――!」
「それがまだ――ですよね?」
「う――」
ユイがほんのすこし恥ずかしそうに桐也を見る。
その視線が、なにかを期待しているような視線に感じるのは、あまりに自意識過剰な妄想だろうか。
「ふーん、そうなんだー」
兄がほかの女とキスしたかどうか聞くというほとんど悪魔的な所業をやってのけた玲亜は、にやにや笑って桐也の脇腹を突きつつ、校舎の前でふたりから離れた。
「じゃ、また放課後ね」
「早く行け、早く!」
追い払うような仕草の桐也に舌を出し、ユイには手を振って、玲亜は生徒たちのなかに消えていった。
ふたりはそれからしばらく無言。
校舎のなかに入り、靴を履き替えたところでユイがぽつりと、
「〈血の契〉のこと、聞いたんですね」
「あ、ああ、その、玲亜が昨日、ちょろっと」
「わたしも説明しようと思ってたんですけど、なかなかタイミングがなくて……」
「いや、うん、わかるよ。たしかにタイミングがむずかしいよな」
魔砲師にとってはなんでもないことなのかもしれないが、こと思春期の男女にとってこれ以上に重大な問題はないのではないかと思われるような問題である。
ユイと桐也はフィギュアであり、ユイが魔砲を使うためには、ふたりで〈血の契〉をしなければならない――要するに、キスを。
そんなことできるか、というのが桐也の正直な感想だった。
いや、もちろん、ユイとキスするのが嫌だというのではなく、そういうことではまったくなく、単純に儀式としてのキスなのだから、それは手を合わせるとか剣を交えるとかとまったく変わらないことではあるのだろうが、しかし。
「その――今日も実技、ありますよね」
ユイはちらりと桐也の顔を覗き込んだ。
こうなってくると、その、実技、という言葉すら、なにやら卑猥な響きを帯びてくるような気がする。
「実技になったら魔砲を使わなくちゃいけませんし――その前に、〈血の契〉をしておいたほうがいいかもしれませんね」
「え、う――そ、そう、かな、うん、まあ、たしかに、でも――」
と桐也が続けてなにかを言いかけたとき、それを遮って、ふたりを呼ぶ声が聞こえた。
まだ靴を履き替えたところ、その昇降口で、どうやらふたりを待っていたらしい眼鏡の担任教師リクが手招きしている。
ふたりは顔を見合わせ、ともかく、人混みをかき分けるようにしてリクのほうへと進んだ。
「どうしたんですか、先生」
「きみたちを待ってたんだよ。実はきみたちに言わなくちゃいけないことがあってね、ほんとは昨日言うつもりだったんだけどすっかり忘れ――ごほん、ま、いろいろあって、今日になったんだけど」
「言わなくちゃいけないこと?」
「そう、進級のことなんだけれど――」
リクはくいと眼鏡を上げ、あまり生徒が多くない職員室のほうへふたりを導いた。
「きみたちはいま三年生だろう。キリヤくんは転入だけど、ユイさんは一年から毎年進級してきた――その進級は、特例的なものだってこと、覚えてる?」
ユイはどうやらリクの話に思い当たったらしく、すこしむずかしい顔をしてこくりとうなずいた。
「わたしはフィギュアがいなくて魔砲を使えなかったから、本当は進級できなかったところを、特例的に進級させてもらって……」
「うん、まあ、一年以上フィギュアが見つからないっこと自体例外的な出来事だったから、どうするべきか学校でも話し合ったんだけどね。ユイさんも努力しているし、座学の点では毎年成績トップで次の同じ学年をやったところで学ぶべきことはないだろうから、特例的に進級させてたんだ。でも無事、こうしてフィギュアも見つかったことだし、それを特例的な進級じゃなくて、正式な進級にするべきだと思ってね」
「正式な進級?」
「そう――突然だけど、きみたちには今日、進級試験を受けてもらう」
リクはそう言って、にやりと笑った。
「進級試験はなかなか特殊でむずかしいから、覚悟するように」
*
フィアナ・グルランス・アイオーンがその話を耳にしたのは、まったくの偶然だった。
いつもどおり登校し、下駄箱で靴を履き替え、さて教室へ、と階段を上がろうとしたとき、それとは反対の職員室のほうへ歩いていくユイとキリヤ、そしてリクを見つけたのである。
三人を見た瞬間、ぴんときた。
あれは、なにかある。
フィアナは階段を上がることはやめ、その陰に身を潜め、耳を澄ませた。
そして聞こえてきたのが、
「進級試験を受けてもらう」
というリクの言葉だった。
これだ、とフィアナは直感した。
まさに、これだ。
いまクラス中の話題をさらっているユイとキリヤを、いっぺんにクラスから葬り去る方法、それはまさにこれしかない。
ユイが特例的に進級しているということはフィアナも、ほかの生徒たちも知っていることだった。
いままではフィギュアがおらず、魔砲が使えなかったから特例の進級だったのだろうが、フィギュアが現れたいま、特別扱いはされなくなる。
先延ばしにしてきた進級試験を受け、もしそれに落ちれば、二年か、それか一年からやり直す、ということ。
フィアナはさらに耳をそばだて、試験がこの町、ヴィクトリアス王国の首都ヴァナハマから列車で一時間ほど行ったところにある洞窟で行われるというところまで聞き出し、スカートの裾がひらひらと舞い上がるのも気にせず階段を駆け上がった。
ギイはすでに教室にいた。
いつものように眠たそうな顔で座っていたが、その腕を引っ張り、教室を出る。
「どうしたの、フィアナ。もうすぐ授業、はじまるよ」
「授業なんかどうでもいいのよ。行くわよ」
「行くって、どこ?」
「洞窟よ」
「……洞窟?」
「邪魔しに行くのよ、そしたらやつら、試験に落ちるにちがいないわ。試験に落ちればこのクラスからいなくなるわけで、また私を中心としたクラスに戻るのよ!」
「フィアナ、なんの話かまったくわからない」
「いいから、きなさい」
「授業は?」
「腹痛で欠席!」
フィアナは近くにいたクラスメイトに、ふたりとも腹が痛いから休む、と大きな声で宣言し、いかにも活き活きとした表情で階段を駆け下りた。
そのまま校舎を出て、だれにも見つからないよう、こっそり学校敷地の端のほうへ移動する。
ユイたちはおそらく正門から外へ出るだろうが、通常、正当な理由もなしに生徒が学校内へ出ることは、一部の時間を除いては許されていない。
そのため、フィアナは王立フィラール魔砲師学校をぐるりと囲っている壁の前に立ち、高さ四、五メートルのそれを見上げ、腰に手を当てた。
「ここから出るわよ。ギイ、なんとかして」
「……フィアナの風で外に出れば?」
「それでも出られるけど、そんな強風使ったらだれかにばれるかもしれないし、なによりスカートがめくれるでしょ」
いまさら気にするところか、とギイは思わないでもなかったが、ともかく口答えはせず、こくりとうなずいてその場に座り込んだ。
下は舗装路でもレンガ敷きでもなく、土の地面。
土の魔砲師であるギイにはちょうどいい条件だった。
「ギイ、〈血の契〉、する?」
「いい……しなくても、できると思う」
ギイは両手を地面に当てた。
しっとりとした土の感触――と思うと、ギイの前の土がぼこんと盛り上がりはじめる。
ちょうどギイとフィアナがいる周囲だけ、土が三十センチほど盛り上がった。
ギイが力を込めるとさらにそれが高くなり、一メートル、二メートルと刺のように立ち上がって、最後には壁の高さを超える。
さらに、その足場がぶるぶる震え出したかと思うとぐにゃりと折れ曲がり、壁を超えて橋のように向こう側の地面と一体化した。
ふたりは土の橋を超え、悠々と壁を突破して、急ぐ。
「列車に乗り遅れたら元も子もないわ。ギイ、急ぐわよ!」
「……フィアナ、楽しそう」
その理由がクラスメイトを貶めるため、というのはどうかと思うが、まあ、楽しそうなのはいいことだと、ギイはフィアナの背中を追いかけた。




