第二章 その2
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フィアナ・グルランス・アイオーンは朝から不機嫌だった。
いや、正確に言うなら、数日前からずっと不機嫌が続いていた。
その理由はもちろん、自分でもよく理解している。
気に食わないのである。
数日前から、気に食わないことがずっと続いているのである。
なにが気に食わないか?
無論、自分が世界の中心にいないことが、気に食わない。
フィアナ・グルランス・アイオーンは古い貴族の血を継いでいた。
先の大戦で活躍し、爵位を叙された「なりたて」の貴族とはわけがちがう。
このヴィクトリアス王国が建国された四百年前、すでにフィアナの先祖は貴族だったのである。
四百年前から脈々と受け継がれた貴族の血は、この金髪の美貌にもたしかに受け継がれ、兄弟がいないということもあって、フィアナは子どものころから宝のように育てられた。
おまえは世界一かわいい女の子だ、おまえは世界一かしこい女の子だ、おまえはすべてにおいて世界でいちばんなんだよ――と言われて育ては、それはもう、そうか、私は世界でいちばんなのか、と思う子どもになっても仕方がない。
フィアナはごく当然のように親の愛を受け止め、自分があらゆる意味で世界でいちばんであることを自認していた。
当然、世界の中心は自分であり、世界中の人間は無条件で自分のことを好きなのだと思っていたし、なんなら世界中のひとびとは毎日自分のことについて話し合い、自分がいかにすばらしいかを語っているのだと信じて生きてきたフィアナだったから、ここ数日、王立フィラール魔砲師学校の三年生のあいだで、どうやら転校生がくるらしいぞ、といううわさがまことしやかにささやかれている状況は、フィアナにとっていかにも気に食わない状況だった。
転校生? 知ったことか。そんなことより私の話をしなさいよ。
フィアナは心中そう思っていたが、転校生のうわさがどうやら本当らしい、そしてそれは、今週よくうわさされていたある少年――学校中を逆立ちして走り回っていたとか、大噴水の上に朝から晩まで指先一本で逆立ちしていたとか、うそか本当かよくわからないうわさばかりが聞こえてくる例の少年らしいぞ、ということになり、クラスの話題はそれ一色になってしまった。
フィアナとしてはなにもかもが気に食わない。
そもそも、なんだ、そのへんな少年の話は?
そんなわけのわからないやつにクラスの話題をさらわれるとは、世界の中心であるところの自分としては決して寛容にはなれない。
しかし転校してくるという日が近づいてくるにつれ、クラス内のうわさは日増しに盛り上がっていった。
やれ、転校生は超人らしいとか、やれ、転校生は学校はじまって以来の天才魔砲師らしいとか、やれ、いやいや本当は化け物みたいに凶暴なやつらしいとか、それはもう、クラスメイトたちは楽しそうにうわさしているのである。
気に食わない。
実に気に食わない。
だからフィアナはここ数日、ずっと不機嫌だった。
その不機嫌は、今日がピークだ。
うわさでは今日、転校生がやってくるのだから。
「……フィアナ、転校生って、どんなひとなんだろうね」
フィアナのとなりに座っているギギゴール=ゾンタ、通称ギイは、そんなフィアナの心情を知ってか知らずか、呟くように言った。
ギギゴール=ゾンタという少女は、フィアナにとってはただのクラスメイトではない。
この学校に入ってすぐに出会った、世界でひとりしかいないというフィギュアの相手――それが彼女だった。
最初、フィアナはどうしてギイが自分のフィギュアなのか納得がいかなかった。
あらゆる意味で世界一である自分のフィギュアだから、男にしても女にしてもさぞかし華やかで自分の次くらいに魅力的な相手なのだろうと思っていたのだが、実際にフィギュアとして選ばれたギイは、いかにも地味なグワール族の少女だった。
グワール族らしく背は高いが、動きはいつもとろとろしていて、口調も眠たいのかしらんと思うくらいゆったりしている。
なんでこんな女の子が、と思っていたのも、もうずいぶん昔――いまではフィアナもギイが自分のフィギュアだと認めていたが、だからといって丁重に扱うということはなく、このときもギイにきっと睨みを効かせる。
「知らないわよ、そんなの。ふん、どうせ、ブサイクで、無能そうで、実際に無能なやつなんでしょ」
「男の子、みたいだよね」
「男でも女でもいっしょよ。みんななにを期待してるのか知らないけど、実物を見たらがっかりするに決まってるわ」
――しかし本当に、転校生とはどんなやつなんだろう。
うわさはいろいろと、聞きたくもないのに聞こえてくるが、どれもうそか本当かわからないような話ばかりであてにならない。
この広い学校中を逆立ちで走り回っていたとか、そんなの、もはや怪談である。
事実のはずはないが、似たようなうわさはほかにもいくつかあって、そのうちのひとつでも真実なら転校生はよほど変なやつにちがいない。
いまどき――とくに魔砲師を育てるこの学校で、身体を鍛える人間などいやしないのだ。
騒がしかった教室がぴたりとしずかになる。
だれもがうわさ話をやめ、教室の入り口を振り返っていた――転校生がきたのか、とフィアナも無意識のうちにそこに視線を向けたが、立っていたのは転校生ではなく、同じクラスの一員、ユイ・モーリウス・スクダニウスだった。
ふん、とフィアナは鼻を鳴らし、再び前を向く。
転校生ではないし、よりによってユイとは――フィアナはユイ・モーリウス・スクダニウスというクラスメイトが嫌いで、その理由は単純、ユイはまだフィギュアも見つからない魔砲師未満でありながらなぜかクラスメイトや教師から一目置かれているから、フィアナとしては気に食わないのだった。
たしかに、ユイの素質の高さはフィアナもよく知っている。
三年前の入試試験最終日――受験生たちがずらりと並ぶなか、そこまでの厳しい試験を突破した人間だけがペアリングをはめて魔砲師としての素質を測るのだが、その場でユイのリングの輝きは明らかにずば抜けていた。
フィアナが唯一、自分よりも素質がある、と認めざるを得ない相手がユイだった。
しかし、素質は素質である。
フィギュアが見つかり、一人前の魔砲師になり、はじめて素質が花開く。
素質だけではどうにもならないのに、ほかのクラスメイトはただ素質が高いというだけでユイに一目置いているのだ。
言うなれば、ユイはフィアナの唯一のライバルだった。
ほかのクラスメイトはライバルにもなり得ない――ただひとり、自分と正当に争えるとしたらそれはユイだろうとフィアナは思っていたのだが、ユイにはフィギュアが見つからず、いまでは争うまでもなくなっている。
クラスメイトたちも転校生が入ってくることを期待したのだろう、ユイだとわかるとまたうわさ話を再開しかけたが、それがまたぴたりと止まった。
今度はフィアナは振り返らなかった。
ただ、ギイに服の袖をくいと引っ張られ、仕方なく顔を上げる。
「フィアナ、転校生、きたよ」
「ふん、興味ないわよ、そんなの」
「ユイといっしょに登校してきたみたい」
「……ふ、ふうん、そう。別に、偶然そこで会っただけじゃないの?」
「でも、なんか、仲よさそうに話してるよ」
フィアナがそれとなく横目で見ると、たしかに見知らぬ男子生徒がユイと並んで教室に入り、となり合って座って、なにか話をしていた。
あれが、うわさの転校生らしい。
クラスメイトの視線も集中する。
見知らぬ男子生徒はすこし緊張したような表情だった。
ふうん、ま、思ったよりはマシだけど、ふつうなやつね、とフィアナはまず男子生徒の横顔を冷静に確認する。
とくに、可もなく、不可もなく。
髪は黒く、短く切っていて、目つきにはすこし鋭さがある。
しかしこれといって話題になるほどの容姿でもなく、やはりうわさはうわさで真実からかけ離れたものだったのだろう。
これですぐにクラスメイトたちのうわさも収まるだろうと、フィアナは転校生を確認してすこし機嫌を直した。
明日になれば、またこのフィアナ・グルランス・アイオーンがいかに美しく、いかにすばらしいかを話し合うようになるだろう――あの転校生もまた、はじめて見る美少女に驚くにちがいない。
「……なんか、あのふたり、付き合ってるみたいだね」
「は、はあ?」
ギイの言葉に思わずフィアナは勢いよく顔を上げた。
ふたりが座っているほうを見てみれば――たしかに、転校生と話しているユイの横顔は、なんとなく、普段とちがうような気がしないでもない。
ユイはどちらかといえば普段からにこにことやわらかい表情をしている少女だった。
年上、年下関係なく、だれにでも敬語で、乱暴な言葉も聞いたことがない。
そんなユイが会話をしながら笑っていること自体はおかしくもないのだが――その笑顔の質が、普段とはすこしちがう。
なにがどうちがうとは指摘できない。
しかしなにかがちがう――強いていえば、あれは、女の顔だ。
「……ま、まさか、あの奥手そうなユイが、さっそく転校生に手を出してるってこと?」
「だって、今日転校してきたのに、あのふたり、もう仲よさそうだよ」
「それは――」
これはまずい、とフィアナは唇を噛む。
ユイがだれと付き合おうがそんなことは知ったことではないが、転校生とユイの恋仲など、そういう話題がことさら大好きなクラスメイトたちには大好物ではないか――そんなうわさが広がったらまた自分の話題が減ってしまう。
「……ギイ、行くわよ」
「行くって、どこへ?」
フィアナが椅子を蹴って立ち上がり、転校生とユイが座っている席に近づいた。
まず、転校生が顔を上げる。
それからユイが顔を上げ、おはようございます、といつものように頭を下げた。
フィアナはそれには答えず、じっと転校生を見下ろして、
「……あなたがうわさの転校生ね。名前は?」
とごく自然に女王のような態度で言った。
転校生はすこし面食らったような顔をしながら、しかし怒った様子もなく、
「キリヤ。ヌノシマ・キリヤだ。えっと、きみは同じクラス――なんだよな」
「フィアナ・グルランス・アイオーンよ。言っておくけど、あなたが軽々しく話しかけていいような相手じゃないから、そのつもりで」
「え、あ、ああ、うん、よくわかってないけど――」
いかにも愚鈍そうなやつだった。
もし本当に恋仲ならユイの趣味もずいぶん変わっている、とフィアナは思い、そう言ってやろうかと思ったが、口を開く前にチャイムが鳴って、担当教師であるリクが入ってきた。
リクはいつものように着席を促し、出席を確認したあと、ちらりと転校生、キリヤのほうを見て、なにかを確認するようにうなずいた。
「ええっと、今日はもうひとつ、言っておくことがあります。ま、もうみんな知ってるとは思うけど、珍しく転校生ってやつがいるんだ。みんな仲よくするように――ってことで、自己紹介、よろしく」
「う、適当だな、やっぱり……え、ええっと、ただいまご紹介にあじゅかりました――あー、ごほん。いまのはなかったことに。えー、その、ヌノシマ・キリヤです。魔砲のことはなにも知りませんが、よろしく」
しばらく、沈黙。
それからぱらぱらと拍手が上がった。
キリヤは照れたように何度か頭を下げ、着席。
鳴り物入りの転校生にしては、どうにも締まらない、どう評価していいのか迷うような自己紹介だった。
しかし次のリクの一言で、クラスの空気ががらりと変わる。
「キリヤくんはとある事情で遠い国からやってきたから、この国のことやいろいろ知らないこともあるとは思うけど、全員で手助けしてあげるように。ああ、それから――キリヤくんはユイさんのフィギュアだから、そういうことで」




