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第9話 旅人

「あ、待って!そこはダメ!」


「えっ?」


 リカの声に思わず手が止まる。

 またか。……もうこれで何度目だろう。

 「待って」「ダメ」「もっと手加減して」「それは無しで」「やり直してください」

 何度聞いたかわからない。


「でも、ここまで来てそんなこと言われても……」


「だって、だって…………、私気付いてませんでした!」


 僕は、客間のローテーブルの向かいで顔をしかめている彼女を見て、小さくため息をついた。


「あのね、リカ。チェスというのは、相手の戦略に気付かなかったらそれは自分のせい。相手がズルいわけでもなんでもないの。それは駒の動かし方なんかと一緒で最低限守るべきルールのひとつだよ」


「でも……」


 叱られて納得のいかない子供のような、困り顔の上目づかい。

 正直言ってリカにこんな顔をされると、だいたいのことは許してしまいそうになるのだが、こういう事は最初が肝心だ。甘やかすと上達は望めない。


「まだ初心者だから勝てないのは当たり前なんだよ。でもその度に相手の人に手心を加えて貰ってたら、それははっきり言って楽しくないだろう?」


「あうぅ……」


 リカがチェスを覚えたいと言い出したのは、家の補修が終わってからのことだった。

 どうやら僕と左官屋のボブルムクス氏が毎日楽しげにしているのが羨ましかったらしい。

 リカと共同生活を初めてからしばらく経つが、確かに二人で何かをして遊ぶと言うことは、ほとんどなかったように思う。僕はこの突然現れたエルフの女性にどういう距離で接してよいものか戸惑ってばかりだったし、リカはリカでまるで奉公人のようにとにかく家のことばかりしていたので、あまり余暇を楽しむ余裕もなかった。

 いざこうやって二人で盤を挟んでみると、普段の彼女からは想像出来ない意外な側面が見られたりと、これはこれでなかなか新鮮なものだ。


「しかしなかなか勝てないものなのですねぇ。上手くなるにはどうすればいいのでしょう?」


 湯気の立つお茶のカップを両手で持ち、しょんぼりと(つぶや)く彼女。

 そりゃ駒の動かし方を覚えて一日や二日で上手くなれるのなら誰も苦労はしない。

 負けず嫌いで子供っぽくワガママを言うリカも、見ている分には楽しいものなのだが……。

 僕の想像を越えて勝ちに貪欲な彼女に付き合うのはなかなかに骨が折れる。


「こういうのはじっくり時間をかけて定跡(じょうせき)を覚えていくのが一番だよ。慌てない慌てない」


 苦笑しながら諭してみるが、どうもお気に召さない様子だ。

 長い耳がヒクヒクと動いて、むずがっているのがわかる。


「むー。貴方様も、初心者の頃があったのですか?」


「え?僕?……そりゃもちろん、誰だって最初は初心者さ」


 と言うか、正直に言えば今でも熟練者と言えるほど上手いわけでもない。


「では貴方様はボブルムクス様に教えてもらって上達したのでしょうか?あの方がお見えになるのは、冬支度の時期だけと聞きましたけれど、あの短い間だけで上手くなれるというのは、やはり才能と言うものなのでしょうか……」


 狩人の駒を手にもてあそびながら、肩を落とすリカ。

 いつものエプロン姿にチェスの駒という取り合わせが妙にミスマッチで、そのしおらしい姿はどことなく微笑ましいものがある。


「いやいや。それだったら凄いけどね。もちろん子供の頃から駒を並べることはしてたからだよ。確か最初に教えてくれたのは父上だったかな。それから――」


 そこまで思い出して、ふと懐かしい顔が頭に浮かんだ。

 子供の頃、毎晩のようにチェスの相手をしてくれた、とある旅人。

 そういえば、彼がここに来たのもちょうど冬の少し前だった。

 丁度いい。リカを少しからかってみてやろう。


「――あのね。僕にはチェスの師匠と呼べる相手がいたんだ」


「そうなのですかっ?その方に教わったから貴方様はこんなに上手いのですねっ?」


「顔が近いよ。……うん、まあチェスの基本的なことは師匠に教わったかな」


「一体誰なのです?私もその方に教わってみたいです!」


 いや今、僕が教えてあげているんだけど……。

 まあいいや。


「実はね、僕のチェスの師匠は、」


「師匠は?」


「――猫だったんだよ」


「…………え?」


 狙い通り彼女は驚いた顔をする。


「うん、実はね、」


「貴方様も、動物とお話が出来るのですかっ!?」


 興奮して僕に詰め寄ってくるリカ。

 最近の彼女はやけに距離が近いのでこっちとしては心臓に悪い。

 彼女のサラサラの髪や、透き通った碧眼や、柔らかそうな唇に目がいってしまう。

 ……ん?

 ……ちょっと待て。「も」?


「人間の方は動物と会話が出来ないと聞いていたものですから、少し驚きましたけれど、そうですか、それは盲点でした。さっそく最近私が餌をあげている猫さんに聞いてみます!」


 おいおい。勝手にそんなことしてるのか。

 ってそれよりも。


「い、いやちょっと待って。リカ。君は動物と話が出来るの?」


「…………え?はい。貴方様も出来るのでしょう?」


 さも当然のことのように言ってのける。

 もしかして、エルフなら誰でも出来ることなのだろうか。


「私がこの家に辿り着いたのも、鳥さんに教えて貰ったおかげですし」


 そういやそうだ。前からなんとなく不思議には思っていたのだ。

 人間の文字が読めなかったリカがどうやってここまでやってこれたのか。

 場所を教えてもらっていたとしても、見知らぬ土地で目的地に辿りつくのはそう簡単なことではない。

 地図を持っていたとしても、そこに書いてある文字が読めなければ役に立たない。

 誰か親切な案内人でもいたのかと思っていたが、まさか人じゃなかったなんて。


「まだまだ知らないこともあるもんだなぁ……」


 エルフ語の翻訳家として研鑽(けんさん)を積み、本物のエルフであるリカと暮らし始めてそれなりの時間を過ごしてきたつもりだったが、こんなことも知らなかったとは。

 確かにいくつかのエルフ詩の中には動物と会話をしているような描写が出てくるが、あくまで比喩のようなものだと思っていた。


「それよりも、猫さんはチェスが上手いのですね?そろそろいつもの方が我が家を訪れる時間なのですが、その、良かったら家に上げても構いませんでしょうか……?」


 もしかして、自分の上目使いがかなりの威力を発揮することを理解しているんじゃないだろうな。

 なんだかそれは末恐ろしいぞ。


「い、いや、別に猫を家に上げるぐらいは構わないけどね。……その、なんというか、猫なら誰でもチェスが出来るというわけじゃなくてね」


「あっ、それはそうですねっ。猫さんにもチェスが得意な方とそうでない方がいらっしゃるのですね?」


「いやそうじゃなくて……」


 普通の猫は駒の動かし方すらわからないと思うんだけど。


「まあとにかく聞いてみることにします!」


 参ったなぁ。

 ちょっとからかってみるつもりが変な話になってきた。

 そう、その時は思っていたのだが……――



 ◆◇◆◇◆



「――この度はお招きに預かり有り難う。クロキと言うものだ。奥方にはいつも世話になっている」


「……いえいえ、どうぞゆっくりなさって下さい」


 ……参ったなぁ。

 客間のソファにちょこんと座ったその相手の声は、随分と低かった。

 黒くツヤのある上品な毛並み。ピンと立った耳に尻尾。

 前足で顔を洗う仕草はどう見ても黒猫そのもの、だが。


「やっぱり、話が出来るじゃないですか!」


 そういって嬉しそうに僕を見るリカに、僕は冷静に答えた。


「……違うよ。この方は猫じゃない」


「えっ?」


 低く、落ち着いた声で彼は告げる。


「奥方が勘違いをされるのも無理はない。人間ならすぐ気付くのであろうが、エルフの民は我々と猫の違いが判断出来ぬ者も居ると聞く」


 あげるつもりなのだろうチーズのかけらを手にしたリカは全く話が掴めないとばかりに、僕とクロキ氏を交互に見る。


「申し遅れた。我々の種族はケット・シーと言う。一族の掟に習い、見聞を広める旅の最中だ」


 後ろ足だけで立ち上がり、深くお辞儀をするクロキ氏。


「けっと、しー?」


 やっぱりリカは知らなかったようだ。


「……すみません。彼女は訳あって多くの物事を忘れてしまっているのです。他の種族の知識もほとんど無いような状態でして」


 彼女はダークエルフのことも、ドワーフがコーヒーを好むことも知らなかった。

 その知識を忘れてしまったのか、それとも元々知らなかったのかは判断しようがないが。

 僕の言葉に、彼の緑色の目が大きく見開く。


「ほう。なんとも珍しい。人間の国にエルフが居るというだけでも珍しいというのに。……だが、近頃似たような話をどこかで聞いた気もするな」


「あ、あの、どういうことなのでしょう……?」


「れっきとした亜人種だよ。この方は。エルフやドワーフと同じさ」


 もっとも、「亜人」という括りも人間が勝手にそう言っているだけで、最近では一部の先進的な論者達の間では、その言葉を使うのは不適切ではないかという議論も持ち上がっているらしいが。


「え、ええっ!?」


「ケット・シーの国は亜人諸国の中でも代表的な国のひとつだよ。失礼のないようにね」


 まだ信じられないという顔をする彼女。


「無理もないだろう。我々も自分達の見た目が猫のそれとほぼ同じであることは自覚している。むしろそれを利用して腹を満たすことも多い。知識のないものには奇異に映ることもあるだろうさ」


 そう、こともなげにクロキ氏は短めのヒゲを前足で撫でる。


「ここのところずっと猫の真似事をして旅を続けてきたものでね。言葉がわからないフリをするというのは、それはそれで気楽なものだが、まさかこのような場所にエルフが居るとは思わなかったよ。もの珍しさと会話に飢えていたこともあって、ついついこの屋敷に通ってしまっていた。……たとえそれがノロケ話ばかりだったとしてもね」


 ニヤリとした微笑は猫のそれとは明らかに違う表情。


「あっ、ダメです!クロキ様!それ以上はいけません!」


「ん?どうした顔を赤くして。昨日はあんなに嬉しそうに話していたじゃないか。ご主人がチェスを教えてくれたことを(とろ)けた表情で延々と聞かされて少々辟易(へきえき)したものだが」


「わーッ!ダメーッ!」


「ム、モガッ」


 リカは慌てて彼を抱きかかえ口にチーズのかけらを突っ込む。

 失礼のないようにと言ったばかりだろうに……。

 僕は思わず片手で顔を(おお)ってため息をついた。


「ムグ、ムグ、……ふぅ。なかなかいけるチーズだが、もう少し優しく食べさせてくれると有り難いな。あと、早めに下ろしてくれると嬉しいのだが」


 口の周りを舌でなめとりながらそう言うクロキ氏に、リカはやっと我に返る。


「あっ!すみません!」


 リカの手からソファの上にそっと降りたクロキ氏は耳の付け根を後ろ足で気持ちよさそうにかきながら、低い声で本題に入った。


「で、そのチェスの話のようだが。私がここに呼ばれたのは」


「あ、ああ、はい。偶然なんですが、僕が幼い頃この屋敷に逗留(とうりゅう)していたケット・シーの方にチェスを教えて貰いまして、それで彼女が猫はチェスが出来るものと勘違いを……」


「ふむ。なるほど」


「とう、りゅう……ですか?」


 リカの疑問にクロキ氏が説明を加える。このケット・シーはどうやらかなり喋るのが好きなようだ。


「そう、我々の一族は若い頃に各地を放浪して見聞を深めるという風習があるのだよ。その旅は長く、何年にも及ぶことも多い。暖かい季節は問題ないのだが、冬になるとどうしても旅を続けることが難しくなるのでね。そこでその場所の人達の厚意にすがって冬を越させてもらうというわけさ」


「僕達人間は昔からケット・シーに冬の間だけ居場所を提供して、その代わりに旅で得た情報を聞かせてもらったり、ネズミを捕ってもらったりすることがあるんだ」


「ネズミ、ですか」


「冬のネズミは人にとって危険だからね。腹を空かせていて、家に入ってきて冬越しの保存食をあればあるだけ食い荒らしてしまう。そうなると飢えるのは僕達だ」


 それにネズミは家もかじるし、病気を運ぶこともある。

 その昔、魔王が復活した証だと言われ、国が傾くほど大流行した病が、ネズミから人に感染したものだったというのは有名な話だ。


「まあその習慣も最近では少なくなっているらしいがね。人は鉄道なるものを造り、厳しい冬でも南から食料を運び、新聞とやらで遠く離れた土地の情報をも得るようになった。ネズミも整備の行き届いた市街地では減っていく一方だ。年々落ち着く先がなくなっていると先輩方が嘆いていたものだよ」


 典型的な猫座りをして、尻尾を左右にゆらしながら語るクロキ氏はどこか物憂げな表情に見える。

 その表情の細やかな変化は、普通の猫と比べるとやはりどこか違和感がある。


「で、ではクロキ様も滞在する家を探してらっしゃるのですか?」


「ふむ。そうだね。そろそろ寒さも厳しくなってきた。いい加減お邪魔する場所を探さねばなるまい」


 キラキラとした瞳が、僕のほうを向く。

 両手を胸の前あたりでぎゅっと握って、前のめりになる彼女。……だから近いってば。


「貴方様!ぜひ我が家に逗留してもらいましょう!」


 まあ、何となくそう言い出す予感はしてたけど。


「それは、まあ、クロキさんの都合もあるからね」


「だって、こんなに可愛いんですよ!」


 ……一応れっきとした亜人なんだけどなあ。

 可愛いと評されたクロキ氏はリカの言葉に苦笑してみせる。


「フフ。奥方はなかなか面白い方のようだね」


「見ていて飽きないのは事実です。失礼でなければいいのですが」


「なに、さっきも言ったが自分達の容姿が他の種にどう見えるかは把握しているつもりだ。こういう反応は慣れているよ」


「そう言って貰えるとありがたいです。……で、どうでしょう。もし不都合でないのなら我が家に逗留するというのは。リカも喜びますし、僕としても久しぶりにケット・シーの話を聞かせて貰えるのは、冬ごもりの楽しみが出来るというものですが」


 特に渋る理由もない。あまり裕福とは言えない暮らし向きだけれど、亜人の二人ぐらい養うことが出来なくては貴族を名乗るのもおこがましいだろう。

 クロキ氏は緑色の目を薄め、何かを考え込むように上を向いた。

 その姿は上品な黒猫が伸びをしているようにも見えた。


「ふむ。これも何かの縁だろう。厄介させて貰えると言うのであれば、私も家を探す手間が省けると言うものだ」


「では……」


「むしろ私からお願いするよ。――ハーメル将軍と偉大なる猫の王との契りと等しく、主殿(あるじどの)と一冬の契約を結びたい。いかがか?」


 ソファの上から後ろ足で立ち上がり、伝統的な文句とともに右前足を差し出すクロキ氏。

 その昔、ケット・シー達と契約を結び、その諜報能力で持って版図(はんと)を広げた古い将軍の逸話は人間達の間でもよく知られている。


「将軍の威光に習い、契約を受け入れます」


 僕は差し出された前足を柔らかく握り、にっこりと微笑んだ。


「やったぁ!」


 人とケット・シーが握手する横でエルフの娘が無邪気な声をあげる、不思議な光景。

 それこそまるでペットを飼うことを許された子供みたいだ。

 リカに客人を迎えるという意識があるのかどうかは非常に怪しいところだが、その辺りはちゃんと教えておけば理解出来ない彼女じゃないだろう。


 …………と、思ったのだが。


「じゃ、じゃあ、一つお願いがあるのですけれど……」


「ん?なんだね?」


 なんだか凄く嫌な予感がする。


「夜、一緒に寝てもらっても構いませんでしょうか?」


「いきなり何を言ってんのっ!?」


「え?ダメ、ですか?」


 思わず出てしまった大声に、きょとんとした顔をするリカ。

 やっぱり何もわかっていない。


「ふむ。奥方よ。私はそういう反応に慣れているし、他の種の(メス)に発情したりはしないがね。考えてもみたまえ。客人を、居候先の嫁と寝床を共にするような不逞(ふてい)の輩にするつもりかい?」


「あっ……」


 クロキ氏本人に言われてようやく理解したらしい。

 ケット・シーは立派な亜人だ。もちろんエルフやドワーフ、ニンフやトロル等の人型とは見た目からして違うけれど、いわゆる愛玩動物のように扱って良い相手ではない。

 ……まあそれに、僕としてもあまり気分の良いものじゃないし。


「それに、そんなことをするとご主人が嫉妬するんじゃないかね?」


「っんぐ!」


 見透かされたような流し目に妙な声が出る。

 このケット・シー、なかなか食えない性格のようだ。


「で、では……」


 そこでリカは突然顔を赤くして僕に向き直った。


「ん?」


 ためらいがちな、少し震えるような声。


「あの、……貴方様も、一緒に、寝ますか?」


 その一言に、固まってしまう。

 彼女の表情を見ているだけで理性が飛びそうになるのを、唾とともに飲み込む。


「その、貴方様が、嫌でなければ、の話ですが」


「あ、い、いや、その、べ、別に嫌と言うわけでは……」


 僕が動揺していると、向かいのソファの上から低い忍び笑いが聞こえてきた。


「クックック。なんとも妙な夫婦だ。一生を添い遂げようと誓った男女が夜を共にすることに何のためらいがあるのかね?」


「い、いや、あのですね。僕達は実は、」


「い、いいいいや一緒に寝ると言っても、ですね、そ、そういうつもりではなくて、その、そもそも私達はまだ、」


 リカまで混乱して余計なことを言おうとしている。

 僕とリカの関係を説明するのはなかなかに難しい。


「まあ、余計な詮索をするつもりはない。それぞれの家にはそれぞれの事情がある。だが私はその場に居るのは遠慮させてもらうよ。他人の交尾を見て楽しむほど無粋ではないつもりなのでね」


「あ、あぅぅ……」


 クロキ氏の獣っぽい直接的な物言いに、エプロンをぎゅっと掴んで固まったリカは耳の先まで真っ赤になっている。


「…………」


 その姿を見てかえって冷静になった僕は小さく苦笑いをして、口を開いた。


「あまりからかわないでくれると助かります。クロキさんの言う通り、僕達には僕達の事情があるので」


 僕は今日、初めて彼女が動物と会話出来ることを知った。

 まだまだ彼女についてはわからないことがたくさんある。

 少なくとも彼女の記憶が戻るまでは、そういった事は抜きにしていたい。

 なんだかそれはフェアじゃない気がする。


「ふむ……。失礼した。余計な事を言う悪い癖があってね。確かにあまり見ない組み合わせだ。色々とあるのだろう」


 そう言ってクロキ氏は猫のように前足で顔を洗った。


「ところで、主殿。昔、ケット・シーにチェスを教えて貰ったと言ったね。その者の名を覚えているかね?」


 突然の質問に、僕は幼い頃の記憶を引っ張り出す。


「え?……ええと確か、シャルドと名乗っていましたが」


「やはりそうか。話を聞いた時、もしやと思ったのだが」


「まさか、ご存じなのですか?」


「直接の面識はないが。我々の間でチェスをやる者など限られているのでね」


 鼻をヒクヒクとさせながら、彼は告げた。


「そもそもケット・シーの民はチェスをやらない。少し考えればわかることだ。なにしろ駒が持てないんだから」


「あ……」


 先ほど握った、彼の前足を見る。猫のそれと同じ、小さな丸い前足。肉球のやわらかい感触はまだ手の中に残っている。

 そう言われればそうだ。当時はそれほど不思議に思わなかったが、師匠は口で僕に指示を出して駒を動かせていた。

 たしかにケット・シーだけでは駒を並べることすら困難だろう。


「どの種にも変わり者はいるものでね。旅先で人間相手にチェスを教えるなんて、シャルド宰相ぐらいのものだろう」


「え?」


 最初、何かの聞き間違いかと思った。

 宰相、だって?


「シャルド・デュノス。ケット・シーのくせにチェス狂いで有名な宰相の名だよ。国政のかたわら、駒遊びばかりやっているとのことだ」


「……!」


 言葉を失うとはこのことだ。

 まさか、僕の師匠がそんな人物だったなんて。


「フフ。シャルド宰相が逗留した先に、エルフが居て、さらに私までか。どうやら君は亜人に縁のある星のもとに生まれたみたいだな」


 不吉な予言をする魔女の使いのような笑みに、思わず冷や汗が出た。

 さすがにこれ以上は勘弁してもらいたいものだ。主に経済的な理由で。


「あ、あの……」


 そこで、リカがおずおずと話に割って入った。


「と言うことは、クロキ様もチェスはおやりにならないのですか?」


「あ」

 

 言われてみれば。


「うむ。呼ばれておいて何なのだが、残念ながらそのことではお役に立てそうにないね」


 …………。


 僕とリカは顔を見合わせて、小さく笑った。

 どうやら、リカを教える役は取られなくて済みそうだった。

ちょっとしたエピソードのつもりが意外と難産でした。小説を書くって難しい。

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