第7話 焼き菓子
この生活に慣れてきていた、ということもあったのかも知れない。
どれほど新鮮な食べ物も、時が経てばじょじょに鮮度は薄れ、その風味は失われていく。
感情だってそうだ。
いつの間にか、そこに居ることが当たり前だと感じるようになり、最初の頃の初々しさはどこかにいってしまう。
それが小さなほころびとなって、知らぬ間に取り返すことのできない場所まで行ってしまうこともある。
「――すみませんでした。……もう、いいです」
目に涙を浮かべてそう言った彼女の顔がちらついて、まったく仕事に集中出来ないでいた。
きっかけはくだらない、本当にくだらないことだったのだ。
ヘレナが我が家を訪れるようになってからというもの、いつものお茶に焼き菓子が付いてくることが多くなった。彼女がお土産に持ってくる分もそうなのだが、何よりリカが自分で菓子を焼くようになったからと言うのが大きい。
ヘレナに作り方を習ったリカは、新しい玩具を見つけた子供のように嬉しそうに度々菓子を焼いてみせた。
彼女の物事に対する順応の早さには何度も驚かされたが、その飲み込みの良さは菓子作りにもいかんなく発揮されていた。みるみるうちに腕を上げ、焼き菓子一つにも様々な創意工夫が懲らされるようになっていた。
僕だってもちろん甘いものは嫌いではないので、この彼女の新しい趣味は歓迎だった。材料に少々お金はかかるが、おいしい菓子が食べられるなら安いものだ。
それに近年では遠方の植民地から良質で安価な砂糖が入ってくるようになったので、僕みたいな没落貴族でもそれほど高い買い物というわけでもない。
そこまでは何も問題は無かった。
ある日のこと。
僕がドワーフ炭を買いに遠くまで出かけて、帰ってきた日のことだった。
季節は、秋がだいぶ深まってきていた。冬支度を始めねばならない頃だ。
ドワーフ達が加工した炭は、少量でも火力が高く火持ちが良い。
さらに煙が少ないので使いやすい。
聞くところによると、この炭は木から作るのではなく地中を掘り返すと出てくるそうだ。
最近では人間の国でも採掘されるようになり、あちこちに炭鉱が出来ていると聞く。なんでも、蒸気機関の燃料などにも使われているのだとか。
アルウィンという口の悪い旧友なんかは、彼らのことを「地底に住むモグラども」なんて言うが、僕達の生活はその「モグラども」との技術交流によって急激な進歩を遂げたのだ。
「――リカも喜ぶだろうな」
肩に担いだ革袋の重みを確かめながら、小さく独りごとをつぶやく。
彼女はどうやら煙が苦手らしい。
エルフが全体的にそうなのかどうかは知らないが、匂いが身体に付くのを恥ずかしがるのだ。
この間までは趣味の庭いじりのせいでよく香草の匂いをさせていたが、最近では彼女が近づくと菓子の甘い匂いがすることが多くなった。
だが、それをからかうと顔を真っ赤にして怒ってくる。
いつも穏やかで、どこか幸薄そうで遠慮がちなリカが怒るのは、匂いの事を言った時と好き嫌いをした時ぐらいのもの。
菓子の匂いですらそうなのだから、煙になんて近づきたくもないはずだ。
この石のような炭なら煙が少ないのでリカが使うのにも問題ないだろう。
そう思って寒さが増す中、朝早くから遠出をしてきたのだ。
革袋は結構な重さがあるが、彼女が喜ぶのならなんということもない。
「――おかえりなさいませ」
いつものように玄関で出迎えるリカ。
どんな時でも僕が帰ると必ず彼女が玄関で待っているのはちょっとした不思議のひとつだ。
やはりエルフと言うのは耳が良い種族なのだろう、と彼女のピンと立った長い耳を見る。
どうやら随分と嬉しそうだ。何か良いことがあったんだろうか。
「遠いところまで出かけられて、さぞお疲れでしょう。甘いものを用意しておりますので」
「いいね。ありがとう」
僕はにこりと笑ってみせ、炭の入った大きな革袋をひとまず玄関に置き、コートを脱いだ。
コートを受け取ったリカはニコニコとしながら、
「今日は変わったものが手に入りましたので、お菓子に混ぜてみました」
と言う。
「なんだろう?楽しみだな」
そう言いながら、いつもは食事を食べる食堂に入った僕は――、
思わず絶句した。
食堂のテーブルの上には、口から湯気の立つティーポットの横に、リカお手製の編みかごに盛られた大量の焼き菓子。どうやら焼きたてで、甘く香ばしい匂いが漂っている。
しかし。
その菓子に入っている黒い粒。しわの入った、小さな果実。
「これって……、もしかして……」
「はいっ!干したトロルベリーが売られていたので買ってみたのです!甘酸っぱくて滋養がありますよっ」
トロルベリー。その名が示す通り、小トロルが好んで食べることからその名が付いたと言われている、ブドウに似た果物だ。
ドワーフ炭のように、人間は亜人達の技術や文化を次々と吸収して発展させ、今の繁栄を築いた。
食べ物に関してもそうだ。トロルベリーは人間の国でも栽培方法が確立されていて、それほど珍しい果物と言うほどでもない。このあたりではあまり手に入らないが、干したものなら市場でも見つけることは難しくないだろう。
ちょうど冬支度の時期だ。長く厳しい冬に備えて、干したり漬けたりした果物が多く市場に出回る頃なので、その中にトロルベリーがあったとしてもおかしくはない。
けれど、問題はそこではない。
「ごめん」
「えっ?」
僕は軽く息を吸い込んで、その事を彼女に告げた。
「――実は、干したトロルベリーは食べられないんだ」
「……えっ?」
リカは、信じられないと言う顔で僕を見る。
「い、いや、冗談ですよね?とても美味しいですよ?」
「リカにそんな冗談は言わないよ。干し果物の中でも、ブドウとトロルベリーだけは無理なんだ」
食べ物の好き嫌いに関して、彼女に冗談を言うほど僕は物好きじゃない。
「だ、だって、先日買ってきたブドウは美味しそうに食べていたじゃありませんかっ」
珍しく焦った表情になるリカ。信じられないと言うか、信じたくないと言った様子だ。
「ブドウにしてもトロルベリーにしても生なら美味しいよ?でも干すと食べられない。見た目も気持ち悪いし、味が全然違うじゃないか」
「そんな……」
悲しげな、と言うよりも失意に呆然としたような顔。
僕は彼女のこの顔が苦手だった。あまりこんな表情はさせたくないが、だからと言って好き嫌いが治るわけでもない。
だいたい他人の食べ物の好き嫌いひとつでここまで大袈裟に落ち込まなくてもいいだろうに、とちょっとだけ思う。
「で、でも、お菓子に入っているものでしたら、食べられるんじゃないですか?ひとつ食べて見たら案外食べられると言うことも」
「……しつこいな。無理なものは無理だよ」
遠出をして、重い荷物を担いで帰って来て、少し疲れていたのかもしれない。
いつもよりいらついていた。面倒で、乱暴な口調になってしまっていた。
「しつこいだなんて……。そんなつもりは……」
彼女はうつむいて、けれどそれでも負けずにすぐに顔を上げる。
「さしでがましいようですが、貴方様は少し好き嫌いが多すぎるのではないでしょうか?豆パンにしろ、マッシュルームにしろ、海竜草の酢漬けだって……」
「仕方ないじゃないか。嫌いなものは嫌いなんだから」
「でも、でもですね。食べ物は身体にとって大事なものですよ?味だけを見るのではなく、薬と思って克服されたほうが貴方様のためになるのです」
僕はあからさまに大きくため息をつく。
「母様みたいなこと言わないでくれるかな。だいたい君はいつもあの手この手で僕に嫌いなものを食べさせようとするけどね、いつ僕がそんなこと頼んだ?頼まれもしないことをわざわざやらなくていいよ」
僕とリカでは、リカのほうが立場が弱い。共同生活を送っているとは言え、家主は僕だ。
だいたいこういう時、引くのは彼女のほうになる。
「…………はい、すみません」
立場をかさにきて上から物を言うのは、世界中の男の悪い癖だろう。
「身の回りのことをやってくれるのは有り難いけどね、好き嫌いは僕の勝手だろう?別に君が損するわけじゃない。余計なことまで干渉してこなくていいんだよ」
「そんな、余計なことなんて……」
沈んだ顔のままのリカを励ますように、僕は「それ」を口にしてしまう。
彼女にとっての、よりどころを。
「まあ、君は他に行く当てもないし、仕方なく僕の世話をしてるんだろうけど、別に無理することはないじゃないか。前も言っただろ?安心してここに居て――」
そこまで言ってしまってから、彼女の顔を見て言葉を失った。
失言と言うのは、いつだって気付いてからでは遅いものだ。
リカの顔から表情が消える。
そして、みるみるうちに目に涙が溜まっていく。
「――貴方様は、そう思って、らしたの、ですね」
彼女の震えた声が、何かの予兆のように小さく食堂に響く。
「私が、仕方なく、貴方様の、お世話を、していると」
「あ……、いや、ごめん、違うんだ」
リカの泣き顔は何度か見たことがある。
けれど、これは良くない。
今まで目にしたことのない、秘めた希望を失ったような表情。
「――すみませんでした。……もう、いいです」
「あ、待ってっ」
彼女は顔を見せまいと言う風に食堂を出て行く。
慌てて後を追いかけるが、階段を上った先で、古い樫のドアによって阻まれる。
それは、僕の両親が使っていた寝室のドアだった。
さらに言うなら、彼女が突然我が家にやって来て困った僕がとりあえずとしてあてがった、リカの寝床でもある。
僕はそのドアを激しく叩く。
「リカ、聞いてくれっ。すまない。さっきのは言い過ぎた」
返事はない。
冷たいドアに耳を当てる。古い木材の匂いが鼻につく。
中からは何の物音も聞こえてこない。
「言い方が悪かった。僕はただ、無理に頑張らなくてもいいと――」
ガタリと、小さく音が聞こえた。
僕はその音に耳を澄ませる。
しばらくの後、彼女の声が固い樫の板の向こうから聞こえてくる。
「すみません。……少し、独りにさせていただけないでしょうか」
か細い、ともすると聞き逃してしまいそうなか細い声だった。
しばらく逡巡したが、女性に対する経験の少ない僕に上手い言葉は出てきそうにない。
「……わかった」
僕はそれ以上何も言わずに食堂に戻る。
焼き菓子の盛られたカゴの横にあるティーポットからは、まだ湯気が出ていた。
僕はそれをカップに注ぎ、ゆっくりと時間をかけて飲む。
気持ちを落ち着けたかった。
僕らの関係はとても曖昧なものだ。
夫婦でもなければ、恋人同士でもない。ましてや主従関係でもない。種族さえも違う。
まだ温かい茶がのどを通り過ぎてゆく。
独特の香りが、昂ぶった神経を少しだけなだめてくれる。
「――初めてだな、こんなこと」
リカはあまり我を出さない。だから、喧嘩らしい喧嘩になったこともない。
それが当たり前なのだと、いつの間にか油断していた。
曖昧なままの関係に甘えていた。彼女が僕の世話をすることが当然のことのように感じてしまっていた。
彼女があんな顔をした理由。
それについて深く考えるには、まだ時間が欲しかった。
気が付くと、いつものように書斎の机の前に座っていた。
――それからどれくらい時間が過ぎただろう。
机の前に座ってはいたものの、何も考えられなかった。
少し眠ってしまっていたような気もする。
いつのまにか窓の外は暗くなっていた。灯りを点けなければ、すぐ何も見えなくなる。そんな時刻だ。
それに随分と寒い。最近は朝晩冷え込むので、暖炉に火を入れる日も近いだろう。
と、そこまで考えて、玄関にドワーフ炭を置いたままなのを思い出した。
革袋に入っているとは言え、あまり放っておくと湿気で悪くなるかもしれない。
保管は普通の炭と同じで構わないのだろうか。
そんなことを考えながら書斎を出る。
僕の書斎は、両親が使っていた寝室と階段を挟んで向かい側にある。
階段を降りる前に寝室のドアを軽く叩いてみたが、返事はない。
あまりしつこくするのも良くないだろうと思い、諦めて炭を取りに行くことにした。
暗い中、手すりを掴んで足下に気を使いながら階段を降りる。
古い階段なので、一歩降りる度にきしんだ音が鳴る。
あまり上等とは言えない屋敷だが、それでも、家と官位を遺してくれただけでも親に感謝しないといけないだろう。
世の中には、官位を売ってしまった貴族もいるし、帰る場所も記憶も無くしたエルフもいる。
階段を降りきって、ふと、廊下のほうから灯りがこぼれてきているのに気付いた。
「……?リカが降りてきたのかな?」
灯りは食堂からのものだった。
さっきのことを思い出すとあまり気が進まない場所だが、そうも言っていられない。
「リカ、居るのか?」
ランプの灯りに照らされた食堂には、テーブルの上に突っ伏した彼女がいた。
「――っ!」
何かあったのかと慌てて駆け寄るが、近づくと規則正しい寝息が聞こえてくる。
彼女の小さな肩がわずかに上下している。
「何だ、寝てるのか……。――ん?」
彼女の頭の横。形の良い、ピンと尖った耳が指す方向に小さな壺があった。
「これは……」
大きめのインク壺のような、丸くて口が広い陶器には蓋がしてある。
僕はこれを見たことがあった。
昔、母親がこれに蜂蜜などを入れて食卓に出していたことを思い出す。
いわゆるジャムポットというやつだ。
そっと蓋を開けると、中には濃い紫色のジャムが詰まっている。
「まさか」
自然と指が伸びた。
まだ少し温かいジャムを人差し指ですくって口に運ぶ。
甘酸っぱい風味が口の中に広がる。
間違い無い。
「干しトロルベリーのジャム、だ」
けれど、僕の苦手な独特の風味はかなり抑えられ、柔らかな甘さの中にわずかな酸味が効いていて、食べやすく仕上がっている。
「いつの間に……」
僕が書斎で何も考えられずに時間を過ごしている間、彼女はこれを作っていたのだ。
あんなことを言われた後に。
「………………」
僕は寝ているリカに近づき、その美しい髪をそっとなでた。
穏やかな寝顔を、目を細めて見つめる。
彼女の髪はさわり心地が良く、まるで犬や猫のようになでる度に耳がピクピクと気持ちよさそうに動くので、僕は飽きずにしばらくそれを続けていた。
「…………ん、ん?」
そうしているといつの間にか彼女の目が開いていた。
とても自然な目覚めだった。しばらく気が付かなかったぐらいだ。
頭で状況を理解するまで、お互いにぼうっと見つめ合っていた。
彼女はまだ夢の中にいるような顔をしていたし、僕は僕で彼女が目を覚ましたと言う事に反応できずにいた。
「あっ」
が、すぐに我に返り、僕はさっと手を引っ込め、リカは慌てて起き上がり髪を整える。
「あ、いや、これは、その……」
「い、いえ。あの……」
お互い、どうしてよいのかわからないまま不器用にあたふたする二人。
「す、すみませんっ、はしたないところをお見せして……」
「い、いや、か、可愛かったよ」
自分でも何を口走っているのか。
「ふぇっ!?……あ、あああありがとうございます」
机に突っ伏して寝ていたため顔に手の跡が残っていたリカは、その跡がわからなくなるぐらい顔を赤くする。
僕だってどんな顔をしているかわかったものじゃない。
しばらくの気まずい沈黙の後、意を決したようにリカが喋り始めた。
「――先ほどは、失礼いたしました。取り乱してしまいまして」
「いや、あれは僕が悪かった。配慮が足りなかった」
僕はリカに頭を下げるが、彼女は小さく首を横に振った。
「……確かに私は、ここに居させてもらいたいと思っております。それは間違いありません」
「ただ、そのために貴方様のお世話をしていると、見返りを求めて仕方なくやっていることだと思われていると思ったら、何故か突然寂しくなって……」
僕はゆっくりと頷いた。
「最初は確かに、住まわせて頂くのだからせめてものお礼にと、家のことをしていたような気がします。ですが、ここで貴方様と暮らすうちに、何かこの方のためにしてあげたいという想いが、その、」
彼女はそこで口ごもる。
「うん。――ありがとう」
リカを安心させるために、僕は精一杯感謝の気持ちを口にした。
あまり気の利いたことは言えそうにない僕が、なんとか言葉にしたのはそれだけだった。
けれど、彼女の顔は随分と満足そうに見えた。
いつまでも新鮮なものなんてない。
しかし、干した果物のように時間をかけて熟成していくものも、あるのかもしれない。
「貴方様……。ジャムを、食べて頂けたのですね」
「えっ?どうしてわかったの?」
「だって、口に、トロルベリーの皮が付いてらっしゃいます」
そう言って、彼女はその白い手を僕の唇に伸ばし――、
「ふふっ」
その指についたジャムを舐めて、はにかんだような笑顔を見せたのだった。
何かもう爆発しろ。(作者が言うな)




