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第6話 編集者②

 ――どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。


「……お口に合うかどうかわかりませんが」


 カチャリ、と軽い音を立ててテーブルにティーカップが置かれた。

 カップを置いたリカは、表面上は平静を装っているが、その耳を見る限りかなり不機嫌そうだ。

 不機嫌、というよりは警戒している、と言ったほうがいいかも知れない。


「これはご丁寧に、ありがとうございます」


 ヘレナはちょうど僕と向かい側のソファに座ったまま小さく頭を下げる。

 客間に来客を通すのは随分久しぶりのことだった。

 我が家を訪れる人はだいたいが仕事がらみだし、僕自身面倒で全て書斎で済ませていたからだ。

 だが今回ばかりは書斎で、というわけにもいかない。仕事の話でもなければ、簡単な話でもない。

 僕とヘレナを(へだ)てているローテーブルはリカの掃除が行き届いていてホコリひとつ無かった。

 落ち着かないのは、状況のせいか、座り慣れないソファが書斎の固い椅子とは違って柔らかすぎるせいなのか。


「――だいたいのところはわかりました。先生が私に彼女を隠していた理由も、理解出来ます」


 ヘレナは眼鏡を外し、僕の書斎に忘れられていたハンカチでレンズを拭く。

 紫色のハンカチは見るからに高級げで、それでいて嫌味なところのない趣味の良いものだった。

 眼鏡に繋がっている鎖が上下に揺れる。


「私だって先生の立場になれば、なるべく彼女を人前に出さないようにするでしょう」


 僕はリカがお茶を淹れる間に、簡単に事情を説明し終えていた。

 ここで嘘をつくのはあまり得策とは言えないし、またつき通せるとも思えない。

 ハイマン先生のことも含めて全てありのままに話したが、ヘレナはその間、まるで表情を変えなかった。


「ですが――」


 チャリ、と小さな音がして、彼女は眼鏡をかけなおした。


「失礼ながら申し上げますと、あまりにも不用心過ぎます。もちろん私にも至らない点がありました。ノッカーも鳴らさずに勝手に人様の家の扉を開けるなど、礼儀知らずと(ののし)られても致し方ありません。その点は深くお詫び申し上げます。――しかし、鍵を開けたまま玄関であのような行為に及ぶというのはいささか(たわむ)れが過ぎるのではないでしょうか。まさか先生にそう言った趣味がおありだとは思いませんでした」


 ヘレナの冷たい視線が僕を突き刺す。

 ――そうなのだ。よりによって見られた場面が最悪だった。

 これではどんな言い訳をしてもそう簡単に信じてはもらえまい。


「私も編集者です。作家の先生というのは色を好むと申しますか、随分と男女関係が派手な方も多いのは承知しております。ですが、この私もあのようなところに出くわしたのは流石に初めてです」


 ……僕は作家じゃなくて翻訳家なんだけどなあ。


遊興(ゆうきょう)(ふけ)るというのも貴族のたしなみかも知れませんが、なんと言いましても恩師の行方がわからないというこの時ですから、耽溺(たんでき)するのもほどほどになさったほうがよろしいかと――」


 その時である。予想外の方向から矢が飛んできたのは。


「――しゅ、しゅ、主人はそんな方じゃありませんっ!」


「……え?」「……は?」


 今、主人って言ったよね、このエルフ。


「ヘ、ヘレナ様は勘違いをしておられます。あれは、私の身体を心配してくれてのことです。そ、それに…………」


 僕もヘレナも呆然として彼女を見つめる。

 客間に昔からある時計の振り子の音がうるさく聞こえるほどに、場は静まり返っていた。



「――その、私と、しゅしゅ主人は、ま、まだ、その、そういう関係では、ありませんっ!」



「………………」


 思わず僕は両手で顔を覆う。

 何を言い出すかと思えば。

 この場から今すぐ消えてしまいたい。


「………プッ……フフフ……」


 ――ん?


「フフ、フッフ……いや、失礼、……ウフフ」


「な、何がおかしいのですか……!」


 二人の声に顔を上げる。

 目の前には世にも珍しい、肩を上下させて笑いを我慢するヘレナ。


「――ックク、あーおかしい。……リカさん、とおっしゃいましたね」


「は、はい」


「どうやら随分と先生に大事にされておられるようで」


「ど、どういう意味ですか、皮肉ですか?」


「リカ、やめなさい」


「いやいや、皮肉ではありません。本心からのことです。(うらや)ましい限りですわ。この歳で独り身の私には(まぶ)しすぎて、少々当てられてしまいました」


 まだヘレナの声は少し笑っている。

 が、その顔は随分と穏やかで、とてもリカを馬鹿にしているようには見えない。

 当のリカのほうはと言うと、ヘレナの真意を掴み損ねているのか、かなり困惑した表情だ。


「笑ったことは謝ります。少し、昔のことを思い出してしまいまして」


「昔のこと……?」


「ええ。――――先生は、『キュスロイドの魔女』という言葉をご存じではないでしょうか」


「キュスロイドの魔女、ですか……?すみません。寡聞にして存じません」


「まあ、昔のことですし、他の家の方が知らないのは無理もないでしょう。……『キュスロイド家には魔女が棲む』。古くから我が家に伝わる伝説のような――、いやもっと卑近(ひきん)ですね。どちらかと言えば醜聞(しゅうぶん)のようなものです」


「醜、聞ですか」


「ええ、実は、――私はその魔女に会ったことがあります」


 何でもないことのように語るヘレナ。

 僕もリカも、ヘレナがどこに話を持って行こうとしているのか掴めない。


「まだ、私の家に領地というものが残されていた頃、歳で言うなら十にも満たないぐらいの頃だったかしら。普段、家族が住む屋敷の他にも、いくつか離れがあったのですよ」


「その中の別宅のひとつが、とても趣味の良い造りでしてね。レンガでも石でもなく、木で出来ていて、私は一目見てその屋敷が大好きになりました。ですが、家の人は『そこには近づいてはいけない』と言うのです」


 ヘレナはそこで(くちびる)湿(しめ)らせるように、ほんの少しだけお茶を飲んだ。


「子供というのは、ダメと言われることほど気になるものです。ある日、私は親の目を盗んでこっそりその屋敷まで出かけました。そこで……魔女と出会ったのです」


 彼女の眼鏡が湯気でわずかに曇る。


「その時、魔女は私にお茶とお菓子をご馳走してくれました」


 魔女、お茶、お菓子。まるで童話のような話だけれど、ヘレナは夢見る少女ではない。

 彼女が思い出しているのは現実であった話なのだろう。


「……種明かしをすれば、何のことはないんですけれどね。要するにそこは妾宅(しょうたく)だったわけです」


「妾宅、ですか……?」


「その『魔女』は、百年もの間キュスロイド家にお世話になっていたそうです。……男の人と言うのは、本当にどうしようもないですわね。私の高祖父様の代から、4代に渡って歴代の当主の方々がそこに通い詰めていたと言うのですから」


「百年って…………、あっ」


 そこまで聞いてようやく、僕には察しがついた。

 多分、リカはうまく飲み込めないだろう。そのことは結局話さなかったのだし。


「百年の長きに渡り、キュスロイド家の財と精を吸い続けた魔女。あの人を知っている者はみんなそう言います。――しかし、私にとってはとても優しいお姉さんだった」


 その昔、貴族の間であった、下世話な流行。

 人間よりも遙かに長い時を生き、子が出来にくく、ずっと美しい見た目を保つ、都合のいい女。


「これが同族なら、本妻の子がひょっこり迷い込んで来たとしても、口も聞きたくないはずでしょう。……恐らく珍しかったんだと思います。ほんの小さな人間の娘が、無邪気に(なつ)いてくるのが。よく一緒に歌を歌ってくれたのを憶えていますわ。このハンカチも彼女がくれたものなんですよ」


 ヘレナの手にしているハンカチはそんなに古いものにはとても見えない。

 その柔らかげで美しい光沢は、人間の国ではあまり見かけないものだ。


「私にしても、もう少しその辺りの知識があれば素直に近づくことは出来なかったと思います。あの頃だったから、お互いの立場も、種族の差も忘れて楽しい時間を過ごすことが出来た。そう。本当に楽しい時間でした――」


 いつも厳しい表情をしているヘレナが見せる、穏やかな顔。

 もしキュスロイド家が貴族の地位を保っていたなら、彼女は普段からこのような表情を見せてくれる令嬢に成長していたのかも知れない。そう思うと少し勿体なくさえあった。


「……けれど、家が傾きはじめた頃、彼女はいつの間にかいなくなっていました。誰に聞いてもその行方を教えてはくれませんでした。私自身も、領地や官位を手放した父についていくのがやっとで、とても他のことに気を回す余裕もなかった」


 眼鏡の奥の瞳は、手の中のハンカチをじっと見つめていた。

 徐々に風化していく何かを見逃すまいとするような、真剣な眼差しだった。


「私が今、亜人文学の翻訳雑誌に携わっているのも、あの人のことがあったからなのかも知れません」


「ヘレナ様……」


 リカの表情には未だ戸惑いの色が見える。が、先ほどまでの警戒した空気はもうない。


「私には先生とリカさんの関係に口出しする権利はありません。――ですが、出来ることならば、お互いに不幸なことにはなって欲しくないと、そう願うばかりです」


「と、言うと……」


「ここで見たことを口外するつもりはありません。安心して下さい」


 ……僕自身、まだ軽く混乱していた。

 素直にほっとしていいものかどうかもよくわからなかった。


「――それと、リカさん」


「えっ、は、はい」


「このお茶はとても美味しかったわ。昔、あの屋敷で飲んだものを思い出しました。今度、何かお土産をお持ちしますので、またご馳走して下さい」


「………………はいっ」


 僕はそこでやっと気が抜けて、ソファに深く沈み込んだ。

 客間の時計が音を立てて時刻を刻んでいた。




 ――――その後……




 ……どうしてこんなことになっているのだろう。


「――ほんとに美味しい!これをヘレナ様が焼いたのですか?」


「ええ、子供の頃に仕込まれたもので。キュスロイド家伝統の味です」


「今度、作り方を教えて下さいませんか?私、お菓子の(たぐい)は苦手なもので……」


「構いませんよ。慣れれば案外簡単です。リカさんならすぐ憶えられますよ」


 あの日以来、ヘレナは仕事とは関係なく我が家を訪れるようになった。

 もちろん、僕に会いに来ているわけではない。

 今日も今日とて、客間のソファにまるで仲の良い姉妹のようにリカと二人並んで座っている。

 女同士と言うのは、あっという間に仲良くなってしまうのだから僕にはよくわからない。

 僕は彼女達の反対側に座って、小さくため息をついた。

 やっぱりこのソファは少し柔らかすぎる気がする。


「貴方様ももうひとついかがですか?こちらの蜂蜜入りのがおいしいですよ」


 リカは甘い菓子を手にとって僕に差し出してくる。


「い、いや僕はそろそろ仕事に戻らないと」


 そう断ってソファから立ち上がると、リカは恨めしそうな顔をした。


「そんなぁ、まだまだありますのに」


 もちろん、リカに人間の友人が出来たことは喜ばしい。

 あの大人しいリカが、ヘレナが来ている時は無邪気な声を上げて、少女のようにはしゃぐのだから驚きだ。もしかしたらこれが本来の彼女の性格なのかも知れない。

 ……だとすると僕としては少々複雑な気持ちでもあるのだが。


「リカさん、先生の邪魔をしてはいけませんよ」


「はあい」


 しかし、つい最近まで独りだった僕からすると、自分の家で女性が二人も楽しそうに声をあげているというのは、なかなかに落ち着かないものだ。


「……やれやれ。ヘレナの言うことは素直に聞くんだね」


 自分でもみっともないとは思うけれど、くだらない嫌味を言ってみたくなる時もある。

 しかし。

 僕の軽口に、リカは予想外の反応を見せた。


「ヘレナ様は、私に道を示して下さった方ですから……」


「へっ?」


 突然どこかの修道女のようなことを言う。


「実は私、ヘレナ様のお話を聞いて、少しだけ楽になれたのです」


「楽に?」


「少し前までは、同族でもない私がここにいて貴方様に迷惑をかけてよいものだろうかと、心のどこかでずっと思っておりました」


「あ……」


 あの、玄関での一幕が思い出される。


 ――嫁として迎えるのであれば、同族の方のほうが良いというのもわかります。

 

 考えてみれば当然のこと。

 彼女だって不安で、悩んでいたのだ。


「い、いや、でもそれは、構わないって言っただろ?」


「ですが……、あの時、ヘレナ様の思い出話を聞いて、思いついたのです」


 急に恥ずかしげな顔になるリカ。

 ……何だか嫌な予感がする。


「あの、……もし貴方様が、よければ、その、私は(めかけ)としてでもかまわ――」

「いきなり何言い出すのっ!?」


 このエルフは言葉の意味を理解しているのだろうか。

 客のいる前で何を言っているんだ。


 そんな僕達のやりとりを見て、笑いを堪えるヘレナ。


「フフ……リカさんはそれでいいのですか?――ならば私が本妻に立候補してみようかしら」


「っ!?」

「ヘ、ヘレナ様っ!?」


「ハハ、冗談ですよ。そんな怖い顔をしないで」


「………………」


 やれやれ。

 これ以上は付き合っていられない、とばかりに僕は客間を出たのだった。


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