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第5話 編集者①

「――では今回の原稿は確かにいただきました」


 チャリッ、と眼鏡の鎖が軽い音を立てる。

 いつ見てもヘレナのカテーシーは完璧だ。

 原稿を抱えているのでスカートの端を持つようなことはしないが、ひざの角度も背筋の伸ばし具合も、何よりその所作の優雅さも、見ていてほれぼれしてしまう。

 後頭部でまとめられたサンディブロンドが、書斎の窓からの光を浴びて金色に輝いている。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 僕もつられて椅子から立ち上がり、深く頭を下げる。

 この編集者に変わってから、僕はいつもより身だしなみに気を使うようになった。

 亜人文学の翻訳物専門なんていう地味な雑誌の編集にこんな女性がいるのかと、最初はかなりビックリしたものだ。


「おやめ下さい。先生は官位をお持ちです。私のような者に頭を下げる必要はありません」


 女性にしては低く、硬質な声。


「いやいや、ヘレナ氏だってキュスロイド家の出身でしょう。本来ならば僕より序列は上のはずだ」


「申し訳ありませんが、その話は。父はとうの昔に官位を売り払ってしまいました。今の私はデミノ・マガジンの編集者ヘレナ・キュスロイドです。ただの平民に過ぎません」


 彼女は眼鏡の位置を直し、無機質な目でこちらを見る。

 着飾って夜会に行けばダンスの誘いを断るだけで一晩かかりそうなほどの美貌の持ち主なのに、固く結ばれた表情からは女性らしさを微塵(みじん)も感じさせるものかという決意のようなものすらうかがえる。

 服装も厳格な家庭教師かなにかを思わせる黒っぽい地味なドレスで、たしか僕より幾分若いはずなのに、年上と言われてもおかしくない。

 女性が、しかも元貴族のご婦人が仕事に就くと言うのは、そう楽な道ではないというのはわかっているつもりだが、それでも彼女を前にすると気圧(けお)されてしまいそうな自分がいるから情けない。


「――ところで先生。前の担当から聞いたのですが、先生はハイマン翁のお弟子さんでいらっしゃるとか」


「えっ?ええ、まあ、学生の時分に数年教えを受けただけで弟子を名乗れるのなら、そうですね」


「我がデミノ・マガジンでは亜人文学の研究者を特集するページがあるのをご存じですよね」


「ええ、もちろん。毎号楽しみにしていますよ。前号のカーマイト卿の特集は素晴らしかった。卿のニンフ歌に対する情熱は見習うべき点が多数ありました」


「それでですね。次の号ではハイマン翁に焦点を当てて特集を組もうと考えていまして」


「ハイマン先生の?」


「ええ。エルフ文学の研究者から誰か選べと言われた時、我が編集部では満場一致であの方の名前が挙がりました。ハイマン翁の業績から考えれば当然と言えます」


 それについてはあなたのほうが詳しいのでは?という表情でこちらを見てくるヘレナ。

 僕は顔に出さないよう、心の中で苦笑いする。


 確かにあの老人の業績はとんでもない。翻訳の腕もさることながら、どこから見つけてくるのかと思うぐらい対象となる作品が素晴らしいのだ。

 翻訳者というのは、実を言えば目利きが大事な職業だ。他国の文章を輸入し紹介する橋渡し役となるわけで、センスさえ良ければ金脈を見つけることも出来るが、そうそうそんなうまい話はない。

 それを胡散臭い山師のようにポンポン見つけてくるのだから同業者としてはたまらないものがある。

 僕が学生の頃にはもう下火だったが、彼が本国に紹介したいくつかの作品のおかげで一時的にエルフ詩の人気が再燃したほどだ。業界では伝説的な人物なのである。

 けれど普段の彼を知っている僕からすれば、あの爺さんを特集してどんなページになるのかと思うと不安のほうが勝ってしまう。


「それで、もしよろしければ先生にも一筆、寄稿(きこう)して頂きたいと考えているのですが……」


「僕が、ですか」


「はい。先生も今や新進気鋭の翻訳者の一人です。うちの雑誌にも毎号訳詩を掲載させていただいておりますし、ハイマン翁のお弟子さんでもある。名前が挙がって当然かと」


 当然お世辞ではあるだろうけれど、ここで仕事の依頼を断る理由もない。


「それはもちろん、僕のような者でよければ。――ただ、あの人の業績だけを見ている方からすれば少々刺激の強い文章になるかも知れませんが」


 僕の言葉に、ヘレナは上品にクスリと笑う。


「ええ。むしろ望むところです。エルフ翻訳の大家の意外な一面があるとしたら、私としても興味深いですわ」


「ハハハ……。――で、ハイマン先生を特集すると言うことは、当の本人には連絡がついているのですか?」


 僕としてはこれは非常に気になるところだ。

 リカをこの家に寄越(よこ)して以来、ハイマン先生とは連絡が取れていない。

 もし出版社を通して彼の所在が明らかになるのなら聞きたいことは山ほどある。

 けれどヘレナの顔を見る限り、ことはそう簡単では無さそうだ。


「それなのです。実は私どもとしてもどうにかしてハイマン翁と連絡を取りたいのですが、数ヶ月ほど前にエルフ国に入国して以来、消息が掴めていないのです。先生ならば師弟のよしみで何か知ってらっしゃるのではないかと思ったのですが……」


 最初に寄稿の話を持ち出したのはこの為だったのだろう。

 しかし。


「数ヶ月前……?」


 何か妙だ。

 リカがこの家に来てからまだ2ヶ月も経っていない。

 となるとハイマン先生はエルフの国から手紙を送ったことになる。

 その業績の高さから、彼はかなり前からエルフ国への渡航許可を得ていて、すでに何度も行き来している。もちろんあの人のことだからエルフにも知人は多いに違いない。数ヶ月ほど連絡が取れなかったところで心配するほどのことではないのは学生時代からわかっている。

 ただ、わざわざエルフの国から「このエルフを嫁にしろ」と言って手紙と本人を寄越してくるというのは、どうにも()に落ちない。

 

「エルフの国で何かあったのか……?」


 僕の独り言を聞いたヘレナが、小さく頭を下げる。


「……心中お察しいたします。私どももあちらの領事(りょうじ)に連絡を取って確認してもらっているのですが、どうにも情報が集まらず、もしかしたら先生なら何か(つか)んでらっしゃるのではないかと思いまして。ここ最近、ハイマン翁に関して何か聞いておられませんでしょうか?」


 何かも何も、2ヶ月前に本人から嫁を世話されている……とはここでは言えない。

 「実は我が家にハイマン先生から託されたエルフの娘が居るんですよ」なんて言ったらただ事では済まなくなる。

 恐らくリカはしかるべきところから呼び出しを受け、質問攻めにあうだろう。

 無事に帰ってこれるかどうかも怪しい。記憶喪失なのが分かれば医療機関に送られる可能性もある。


「申し訳ありませんが……、力になれそうにありませんね」


「そうですか……。では、何か新しい情報が入りましたら、先生にも一報を入れさせていただきます」


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


「ところで先生。全く話は変わるのですが」


「はい、なんでしょう?」


「もしかして、新しく使用人を雇われましたか?」


「えっ?……い、いやそんなことはありませんが」


「そうですか。こういうことを言うのも何ですが、以前と比べて随分とお庭やお屋敷が綺麗になっていると思ったもので」


「あ……、ああっ、あまり書斎に閉じこもっているのも身体に悪いですからねっ。最近は気分転換に家のことをやるようにしているんですよっ」


「?……それは、良いことですね。家が美しく保たれていると気分も良くなりますから」


「そ、そうですよね。は、はは……」



 ◆◇◆◇◆



「――それでは、失礼します」


 ヘレナの声とともに、ゆっくりと玄関の戸が閉まった。


「ふう……」


 自然と身体が弛緩(しかん)する。

 家のことを聞かれた時には思わず冷や汗が出た。


「確かに不自然だよなぁ。急に家が綺麗になってたりしたら」


 ポリポリと頭をかく。

 ヘレナは編集者だ。売れない翻訳家のふところ具合なんてよく知っているだろう。急に使用人を雇ったと言ったら妙に思うに違いない。

 もちろん嫁をもらったなんて言えるはずもない。


「何だか変に緊張して(のど)が渇いたな……」


 水でももらおうかと、後ろを振り向くと、


「…………綺麗な方でしたね」


「っ!リ、リカ、いつから居たの?」


「大丈夫です。見られてはいません。言いつけどおり、奥に隠れておりましたから」


 にっこり、と微笑んで見せるエルフの娘。


「でも、折角のお客様ですし、お茶ぐらいはお出ししないと失礼ではないでしょうか?」


 何故だろう。引いたはずの汗がじわりと滲んでくる。


「いやいやいやいや、ダメだって。前にも言っただろ?エルフだってバレると面倒なことになるかも知れないって」


「それなら頭巾か何かで耳を隠しましたのに」


「それでもだよ。女性と一緒に住んでるってことが知れたら必ずどこの娘さんだって聞かれるに決まってるじゃないか」


 当然、全く説明しないわけにはいかない。

 嫁をもらったと言えば、いくら僕が冴えない零細貴族とは言え、相手の家はどこだという話になる。貴族の世間というのは案外狭い。嘘に嘘を重ねないといけなくなるのは目に見えている。

 かと言って今まで食っていくのもやっとだった男が急に使用人を雇ったというのも不自然だ。


「……あら、せっかく念入りに選んだお召し物ですのに、少し乱れてらっしゃいますわ」


 リカはそう言って僕の首筋に手を回して(えり)を整える。

 僕より少しだけ背の低い彼女の頭が目の前にあって、銀に近い金色の前髪が顔に当たりそうなほどだ。

 ……うーん。何だろうこの空気。

 もしかしてエルフは縄張り意識の強い種族なんだろうかという純粋な学術的興味が湧いたけれど、あまりそのことについて深く考えるのはよしておきたいところだ。


「そう言えば、ハイマン様と連絡が取れないとか」


「聞いてたのっ!?」


「ちょうど書斎の前を通ったら聞こえてきましたので」


 本当だろうか、と思うがそこを追及するのも少しためらわれる。


「そうなんだ。……まあ、ちょうどいい。君がハイマン先生と会った時のことは憶えているかい?」


 前から聞こうと思っていたことだ。

 ハイマン先生とリカがどういう経緯で出会ったのか、あの爺さんが彼女に何を吹き込んでここに寄越したのかがわかれば、彼女について知る手がかりになるかも知れない。


「おぼろげながら……、ですが」


 リカはどこか遠くを見るような目で喋り始めた。


「私が憶えている最初の記憶――、恐らくは、それ以前の記憶を無くしてしまった直後のことではないかと思います」


「目が覚めたのは、どこか小屋のようなところでした。私はベッドに寝かされていて、何か不思議な話し声が聞こえてきたのを憶えています。……今思えばあれはエルフ語だったのでしょう、ハイマン様ともう一人、不思議なエルフの女性が話しているところでした」


 リカの話によると、ハイマン先生とそのエルフの女性はリカが目覚めたことに気付くと、彼女にはわからない言葉――恐らくエルフ語で話しかけてきたと言う。それが通じないとわかると、今度はハイマン先生が人間の言葉で「もう少し安静にしていなさい」と深刻な顔で言ってきたのだそうだ。


「――それからしばらくはハイマン様が私に色々と話しかけてくれました。身体の調子だとか、喉は渇いていないかだとか。けれど、もう一人の不思議なエルフの方は言葉が通じないためか、じっと不安げにこちらを見るばかりで、話しかけてはこようとしませんでした。……ただ、その、着替え、ですとか、包帯の交換などは、その方にやっていただいたのですけれど」


 ふむ。今の話だけでは判断出来ないが、恐らくリカの言う「不思議なエルフの女性」とやらは彼女と繋がりがあるのだろう。もしかしたら親族か何かと言う可能性もある。

 ……ん?


「――って、包帯の交換?もしかして怪我してたのかっ!?」


「え、あ、はい。……今は大丈夫ですけれど。もしかすると、その怪我の際に記憶を無くしたのかもしれません」


 ますます持って物騒な話になってきた。

 怪我をして、記憶を失い、さらに人間の国に来なければならない――つまり他のエルフに頼れない何かがあったということだ。


「その後、私が自分で動けるようになると、ハイマン様が『申し訳ないが、お前さんはなるべく早くここを離れなければならない』とおっしゃって、この家に行くようにと指示されまして……」


 リカの顔はそこでわずかに悲痛な色を見せる。


「ですから、私は、他に頼れるところが無いのです。……もちろん貴方様にご迷惑をかけていることは承知しております。嫁として迎えるのであれば、同族の方のほうが良いというのもわかります。ですが、わがままを申しますが、もう少しだけこちらに置いては頂けないでしょうか……?」


 そこまで言って彼女は下を向いた。


「…………」


 それほど広くも無い玄関のロビィが、沈黙に包まれる。

 少しして、僕は何でも無いことのように彼女の頭に手を置いた。


「気にしないでいいよ。僕だって君が来てから色々と助かっている。毎日おいしい食事が食べられるのも、客が驚くぐらい家が綺麗になったのも、リカのおかげだ。――感謝している」


「貴方様……」


「それよりも本当に怪我はもう大丈夫なのかい?まだ治りきってないのに、あの爺さんに急かされて無理をしてきたんじゃないだろうね?」


「え、ええ。まだ少し(あと)は残っていますが、痛みはありません」


「痕って……、気付かなかったな。毎日顔を合わせているのに、そんなことも知らなかったなんて」


「あ、それは、その、少々見えにくい場所ですし……、ほら」


 そう言って彼女は、少し恥ずかしげに着ていたエプロンとチュニックをずらして、右肩をはだけさせる。


「えっ、あっ、いや」


 思わず狼狽(ろうばい)しながらも凝視(ぎょうし)してしまう。

 白い磁器のようなつるりとした肩。ずらしたエプロンの肩紐がだらしなく二の腕にかかっている。

 これで目がいかない男がいたら見てみたいものだ。


 ……しかし。

 そこには確かに何か酷いひきつれのような痕が残っていた。


「これは……。火傷か何かかな……?」


 リカの肌が美しい分、くっきりと残る傷痕は、見ているだけで痛々しい。

 本当にもう痛みは無いのだろうか。


「あの、せ、背中にかけても痕が残っていますが、あの、その、……見ま、すか?」


「えっ」


 心臓の鼓動が早くなる。

 リカの恥ずかしげな表情。

 思わず生唾を飲み込んでしまう。


「…………」


 その時、だった――。


「――――申し訳ありません、先生。もしかしてこちらにハンカチを忘れてはいませんでしょう……か?」


 建て付けの悪くなった古い玄関のドアが音を立てて開いたのは。


「……………………えっ?」



次回に続きます。

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