第20話 雪解けの来客②
「やっぱりネーサマの焼くパイはおいしいデスネ!この、香ばしい味、久しぶりデス!」
――その意見には大いに同意するところではある。
だが、今の僕にはその焼きたてのパイの味もよくわからない。
魔女かぼちゃを焼いた甘い香りが漂う食卓には、今、三人の亜人が座っている。
どこかしらそわそわと不安げな顔を隠せないエルフのリカ。
我関せずと言った感で落ち着いているケット・シーのクロキ氏。
そして、口の端にパイのかけらを付けて満面の笑みを見せる……、――恐らくはダークエルフであるだろう、リンネローテという娘。
この屋敷の人間種は自分だけであることに、今更ながら不思議な感慨をおぼえる。
しかし、今はそんな思いにとらわれている時ではない。
とにかくこの娘に聞いてみたいことがありすぎる。
リカとはどんな関係なのか。何故ここに来たのか。リカの過去を知っているのか。
まず何から質問すればよいだろうかと迷いあぐねているうちに、僕よりも低い声が先に食卓の上を飛んだ。
「――リンネローテ殿、と言ったかな?」
「リン、でいいデスヨ。クロキサマ。リン、ケット・シーに会うのも初めてで、とても興奮していマス。仲良くなれたらとても嬉しいネー」
話しかけられて、フォークを片手に、にへらっとクロキ氏に微笑みかけるリン。
長いとがった耳と二つ結びの銀髪がピョコピョコと動く、無邪気な喜び方だった。
「それはありがとう。では、リン殿よ、人間の言葉で会話して大丈夫かい?私はエルフ語でも構わないが」
クロキ氏は優しげな薄い笑みを浮かべた。彼らしい気づかいだ。
ケット・シーの公用語は人間語だが、その習慣から何カ国語も使えることが多い。
僕なんかは翻訳家をやっているが、読み書きばかりしかしていないため、エルフ語で会話しろと言われると正直自信がない。情けない限りである。
「お気づかいありがと、ございマス。でも、ネーサマはエルフ語わからない。リンはハイマンからたくさん人間の言葉学びマシタ。問題ないデス!」
得意気に胸を張るリン。背は子供としか思えないぐらい低いのに、意外なほど女性的なスタイルをしている。あまりこういうことを言うのは品が無いかもしれないが、あけすけに言えば胸が大きい。
先ほどまで着ていたコートを脱いだその姿は、この国ではあまり見かけない民族衣装のような、ビーズに似た飾りのついたピッチリとした緑色の服を身にまとっていて、それがコルセットのように身体のラインを強調している。
ダークエルフの女性というのはエルフの女性と比べて肉感的だ、なんて与太話をどこかで読んだことがあったけれど、案外当たっているのかも知れないな、と彼女の突き出された胸を見て思う。
しかし、男性にとってはついつい目がいってしまうそんな仕草も、リンが口に出した「ハイマン」という言葉のせいで台無しだ。
「やっぱりあの爺さんが絡んでるのか……」
僕はやれやれと片手で顔を覆う。
わかってはいたことだが、いらだちを感じずにはいられない。
性懲りもなくまた僕のもとへエルフを送り込んできたというわけだ。
どこまで僕を振り回せば気が済むのだろう。
「無事なら無事で手紙のひとつでも寄越せばいいのに。こんな遠回しなことせずに全てを話してくれれば僕だって――」
「ダンナサマ、それは違うマス。ハイマン、リンがネーサマに会いにいくと言ったら、凄く反対したネ。あいつに任せておけば問題ない、っテ。それ凄く信頼されてると思いマス」
「リンくん、だまされちゃいけない。それがあの爺さんの手口なんだ。そうやってさんざん厄介事を押し付けられて………………って、ん?ちょっと待ってくれ」
僕は思わず顔を上げる。
「ハイマン先生が、反対した……?」
「そうデス。ハイマンはリンがここに来ることは反対だったネ」
どういうことだ。
先生はまた何かの企みがあって彼女をここに送り込んだわけではないのか?
「記憶ない人に、『アナタのこと知ってマス』と言う、良くないこと。相手を刺激したり混乱させたりするデス。ネーサマ、リンのこと、不気味に思う、怖がるかも知れないとハイマンに言われまシタ」
不安げな顔でちらりとリカのほうを見るリン。
そう言われれば確かにそれはそうかも知れない。
見たこともない相手に「貴方と私は知り合いです」と言われたら、正直あまり気持ちのいいものではないだろう。
自分の知らない自分を他人が知っていると言うのは、不吉な占いをする魔女に出会うようなものだ。
驚きよりも恐怖が先に来るのではないか。
「いえ、えと、私はそんなことは……」
リンの視線に気づいたリカが慌てて取り繕うが、その声はどこか歯切れが悪い。
リカが優しい性格をしているのは僕がよく知っている。
しかし今回ばかりはそう簡単な話ではない。
相手に気を遣うことよりも、戸惑いや不安のほうが大きいのは当たり前だろう。
言いよどむリカを横目にクロキ氏が口を開いた。
「ふむ。そんな反対を押し切って、相手にどう思われるかもわからないまま、わざわざ人間の国にやってきたわけだ。それは何か理由があってのことかね?よもや観光ついでにここに顔を出したわけではあるまい?」
「それは……。ネーサマを元気づけてあげたかったからデス」
リンは少しうつむいてゆっくりと言葉をつむぐ。
たどたどしい人間語だが、聞き取りにくくはない。いつ彼女がハイマン先生と出会ったのかはわからないが、相当勉強したのだろう。
と、同時に、なめらかに人間語を話すリカの異常さも改めて感じられた。
リカは、いったいどこでそれを学んだのか。
「見知らぬ土地で、ニンゲンから隠れて、何も知らされず、思い出をなくしたまま生きていくなんて、そんなの酷すぎマス……!」
彼女は手にしたフォークを握りしめたまま、語気を強めた。
「リンはがんばってハイマン説得しまシタ。ハイマンはあいつに任せておけば大丈夫言いましたが、リンはネーサマのダンナサマ知りまセン。何が大丈夫なのかわからない。なんと思われようとリンはネーサマの味方だと、そう言いたかったのデス」
つまり、僕がちゃんとリカを守っているのか不安だったわけだ。
ハイマン先生はいつもの脳天気さで持って、それなりに上手くやっているだろうと勝手に思い込んでいたのだろうが、確かに僕のことを知らないリンからすれば心配するのも無理はない。
「…………ひとつ、よろしいでしょうか?」
そこで、さっきからほとんど昼食に手を付けていないリカが重たげに口を開いた。
「私はいったい何者なのですか?記憶を失い、怪我をして、故郷を追い出されるなんて普通じゃありません。リン様は私の味方だと言いましたが、私はいったい何をしてそんなことになったのでしょうか?」
当然の疑問だ。
そして、それは僕たちの間でずっと疑問だったことだ。
彼女が何故そんなことになったのか。
僕とリカの出会いはいったい何によってもたらされたものなのか。
それがはっきりすれば、少なくとも僕たちは前を向いて歩いてゆける。そんな気がする。
しかし。
「…………ごめんなさい。それは詳しく教えることは出来まセン。それはネーサマの記憶を取り戻すことに繋がる。ネーサマ記憶取り戻す、危険なことになるかも知れない。そう強く言われていマス」
唖然とした。
僕は癇癪というものとは無縁の性格をしていると思っていた。
もちろんいらだちを感じることもあるし、腹の立つことだってある。けれど、それらは刹那のものじゃない。もっとゆっくりとした感情だ。芝居役者が演技でそうするように、突然我を忘れて怒りをあらわにすることが自分には出来ないと、勝手にそう思っていた。
だが。
「――ふざけるなっ!」
瞬間、頭に血がのぼっていた。
食卓を叩くと、パイに添えられていたティーカップが高い音を立てた。
「わざわざここに来たのはリカを元気づける為だったんだろう!?それなのに、何があったか知っているがそれは言えないだって?なら最初からここに来なければいい。記憶を取り戻してはいけない?ハイマンの爺さんや君が知っているのにか?そんな馬鹿な話があるか!生殺しみたいな真似をして、ただリカを混乱させているだけじゃないかっ!」
一度回りだした口は止まらなかった。
ただ、正直に言ってこの状況はリカを馬鹿にしているとしか思えなかった。
わざわざ答えを持ってきたが、それは教えられない。そんな話があるものか。
「……ごめんなさい、ダンナサマの言いたいこと、よくわかりマス。ハイマンもそれを心配して、リンがここに来るのを反対してマシタ。でも、それでも言ってはいけないことなのデス。これは大事なこと。ハイマンも、リンの仲間たちも、ネーサマがこのままニンゲンの嫁として静かに一生を過ごすことを望んでいマス。リンだけが、ワガママ言ってここに来てしまいマシタ」
この娘は何を言っているのか。
リカがこのまま一生をここで終える?エルフの寿命で?
ハイマン先生はいずれこの国に帰国するだろう。その時さえも僕たちに何も教えないつもりなのか?
「貴方様、落ち着いてください」
リカの静かな声が食堂に響いた。
「……つまり、私はそれほどまでに重大なことをしてしまったのでしょう。このまま、何もかも忘れて暮らしていくことを望まれている。それほど、犯してはいけない何かを……」
リカのどこか諦めたような、生気をなくした碧眼を見て、少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。
彼女はそんなことを考えていたのだ。
自分のせいで、故郷を追い出されたのだと。全ての罪は自分にあるのだと。
何故僕はそれに思い至らなかったのだろう。
彼女と暮らして来て、それだけはあり得ないと勝手に思い込んでいた。大罪を犯してエルフ達から憎まれるような真似を彼女がするはずがないと。
「ネーサマ、それは違いマス!ネーサマは何も悪くない!」
「リンがここに来たのは、それを言うため。ネーサマの過去はしゃべること出来ない。でも、少なくとも、ネーサマは悪くない。本当なら、ネーサマをこんな目に遭わせたくなかった。ネーサマにこんな仕打ちをするアールヴの末裔達が憎いと思った。ネーサマに、どうしても、楽しく生きていてほしいと思った……。幸せで、幸せな……」
彼女の声は震えていた。
だんだんと声は小さくなり、最後はほとんど聞き取れないほどだった。
その声を聞いて、先ほどまで僕を焦がしていた怒気はいつの間にかしぼんでいた。
彼女が何を背負ってここに来たのか、それは明らかにされない。
けれど、その褐色の身体は随分と小さく見えた。
ティーカップから薄く湯気が立ち上っているのが目に入ったが、お茶の香りもパイの香りもほとんどしなくなっていた。
「……………………」
最初に言葉を発したのは、クロキ氏だった。
この場に彼がいてくれて良かった、と素直にそう思う。
「ふむ。色々と深い事情がありそうだね。――少し情報を整理したいのだが」
僕やリンが声を荒げたことすら、まるでなかったかのように冷静に状況を判断する。
「リン殿が奥方の過去をしゃべるわけにはいかない。それは理解した」
彼の、短めのヒゲがヒクヒクと動いた。
「たとえばの話だが――、群れは個を守るために存在するが、群れの為に個を犠牲にすることも珍しくはない。これはどんな生き物でも同じだ。人は法や掟によって社会を守ろうとするし、獣は群れを守ろうとする習性がある。そこに善悪というものは無い。言うなれば自然の摂理に等しい。…………恐らく奥方が悪いわけでも、奥方を追い出した者達が悪いわけでも、そしてそれを明かせないリン殿が悪いわけでもないのではないかね?」
リンはじっとうつむいたまま答えない。それは、否定にも肯定にもとれた。
「もちろんリン殿の奥方を思う気持ちもわかるつもりだ。何しろ、リン殿は、奥方のことを姉様と呼んでいる。これはつまり、二人の間には血縁関係があると言うことかい?それとも、それすらしゃべることは出来ないのかな?」
思わずはっとした。
そうだ。
リンはどう見てもダークエルフのようにしか見えない。
それが、リカと姉妹だと言うのは簡単には納得できないことだ。
「それは…………」
言いよどむリンの、次の言葉をじっと待つ。
目の前のきつね色をしたパイはすっかり固くなってしまっている。
しばらくして、彼女の衣装についた飾りが軽い音を立てた。
「……そうデスネ。それくらいなら言っても問題ないかも知れまセン。ネーサマとリンは本当の姉妹ではありまセン。フィルニーサマとネリリネーサマが結婚して、リンとネーサマ姉妹になった」
「フィル、兄様と、ネリリ、姉様……?」
彼女の言葉の、わからない部分を復唱する。
フィルとネリリと言う人物、が結婚して、リンとリカが姉妹になったということか……?
少し鼻をすすりながら、リンはたどたどしい人間語で言葉を続ける。
「ン-、上手く説明出来るか、わかりまセン。フィルニーサマ、ネーサマの本当のニーサマ。ネリリネーサマ、リンの本当のネーサマ」
つまり。
「リカに兄がいる、ということか」
リカの兄、フィルというエルフが、リンの姉、ネリリというダークエルフと結婚して、リカとリンは義理の姉妹になったということなのだろう。
「ん……?まてよ、エルフとダークエルフが結婚……?」
最近どこかでそんな話を聞いたような。
記憶の片隅にあるそれを引っ張りだそうと試みるが、どうにも上手くいかない。
そして。
次の瞬間、僕の思考は吹っ飛んだ。
「フィル…………、兄様………………」
「――リカッ……!?」
彼女の白い顔が。
さらに蒼白になり。
その碧眼からは、すうっと涙がこぼれていた。
「ネーサマ!?」「奥方!」
「行かないで…………、兄様…………、リカを置いて、兄様………………!」
ふらりと。
いつものエプロン姿のまま彼女は立ち上がり、まるで目に見えない妖精を追うような遠い目で、何かをつかもうと。
「フィル…………兄様、貴方がいなくなったら…………私…………」
ぞくりとした。
はるか遠い昔のことにさえ感じられるあの日。
僕がアルウィンと酒を飲んで帰ってきた日。
彼女は涙を流した。
その時のことが何故か鮮明に思い出された。
今度は帰って来てくれた――――
何故かそう思ったら気持ちが止まらなくなって――――
確か彼女はそう言っていた。
「……………………」
そして。
「リカッ!!」「ネーサマッ!!」「奥方っ!!」
まるで糸が切れたかのように、彼女はそのまま気を失った。
引っ張って申し訳ありませんが、次回に続きます。




