虫よけ
クエルは会議室を出ると大きく背伸びをした。班長会議などという慣れないものに出たせいで、肩がこりまくっている。本来は国学総演習に向けての会議のはずだったが、自分も参加させろと殴り込んできたムーグリィに、ひたすら引っ掻き回されただけだ。
「何の意味もなかったな……」
そうぼやきつつ、クエルがフリーダたちの待つ準備室へ戻ろうとした時だ。不意に桃を思わせる甘い香りが漂ってきた。
「クエルさん、お疲れ様です」
銀色の髪をなびかせながら、少し小柄な女子生徒が声を掛けてくる。着ているものはクエルと同じ学生服だが、全身からにじみ出る気品は、クエルとは世界が違う別の何かだ。
「ア、アイリス王女様!」
驚くクエルに、アイリスは不満げな顔をした。
「私たちは生徒同士ですから、敬称無しでお願いします」
「そ、そうですね」
クエルは苦笑いを浮かべながら答えた。同時に、アイリス王女がどうしてこんな所にいるのか不思議に思う。わざわざ自分から出向く用事があるとすれば……。
「ムーグリィでしたら、怒って部屋に戻りましたけど……」
「北領公に用事はありません。国学総演習の前に、クエルさんを応援したくて、こちらにまいりました」
「ぼ、僕に?」
「はい。私は国学総演習には参加できませんが、陰ながらクエルさんのご活躍をお祈りしています」
「ありがとうございます」
クエルは素直に頭を下げた。その態度を見たアイリスが、さらに不満げな顔をする。気づけば、会議室から出てきた生徒たちがこちらをガン見だ。衆人環視の元で、王女と話をする勇気はクエルにはない。
クエルはアイリスの手を取ると、廊下の角を回った。その拍子に、アイリスが体のバランスを崩してしまう。それを支えようとしたクエルは、アイリスの体を抱きしめる形となった。
「す、すいません!」
慌てて体を離そうとしたクエルの背中へ、アイリスが自分から腕を回す。二人の体がぴったりと重なった。クエルは全身に感じるアイリスの体の柔らかさと、甘い香りに焦った。
「クエルさんは私の婚約者です。謝る必要など何もありません」
「それを認めたつもりは――」
「分かっています。それでも私は、クエルさん以外の伴侶を選ぶつもりはありません」
アイリスが高く上った月のような瞳でクエルを見つめる。クエルは思わず耳の後ろが熱くなるのを感じた。
「どうかお気をつけて……」
戸惑うクエルに、アイリスはにっこりと微笑んだ。そして名残惜しそうにクエルから体を離す。
「明日は早いというのに、お時間を取らせてしまいましたね。今宵はここで失礼させていただきます」
そう告げると、再び桃を思わせる香りを残して去っていく。クエルはアイリスの残り香に包まれたまま、夢見心地でフリーダたちが待つ教室へ続く廊下を歩き始めた。でも体が重さを失ったみたいに、フワフワした感じがする。
「クエル様、お疲れ様です」
棘を含んだ声が聞こえた。気づけば紺色の侍従服に身を包んだセシルが立っている。
「セ、セシル、ど、どうしてここに!?」
「わざわざ迎えに来てやったと言うのに、まるで邪魔者みたいな言い方だな」
「そんなことは言っていない!」
セシルはクエルをジト目で眺めると、いきなりその匂いを嗅ぎはじめた。
「女の匂いがする……」
「まじ!?」
「我はマスターの忠実な人形だぞ。マスターがあの腹黒女の残り香に、ぼーっとなっていることぐらい、すぐに分かる」
「腹黒女って、アイリス王女のこと?」
あっけなく頷くセシルに、クエルは辺りを見回した。
「誰かに聞かれてみろ、不敬罪で投獄だ!」
「隠れてマスターにちょっかいを出してくる女に、何を遠慮する必要がある。まあよい。それよりも、班長会議は終わったのだろうな」
「うん、終わった。と言うより、ムーグリィが引っ掻き回して、何も決まらないままお開きになった」
「赤毛が遅いと騒いでいる。一人で相手をするのに疲れた。さっさと教室に戻るぞ」
フリーダの機嫌が悪くなると、それを直すのは大変だ。クエルはセシルの後を追って、教室へ駆け出した。
「一人って、フローラさんもまだなの?」
「男だ」
「はあ?」
「ここに来る途中、フローラがマクシミリアンと話をしているのを見た。フローラはあの男に惚れている」
「えっ、確かフローラさんって、ジークフリード卿の愛人じゃなかった!?」
「それがどうした。そもそも恋は理屈ではないぞ。マスターも、女心と言うものを理解せよ」
フンと鼻を鳴らして見せるセシルに、クエルは大きくため息をついた。
「どうしてセシルに、人の恋愛について語られないといけないんだ?」
「我を何だと思っている。深淵たる世界樹の実の化身だぞ」
「それって、単なる耳年増じゃないか……」
「わ、我を、み、耳年増だと!?」
足を止めて詰め寄るセシルに、クエルは思いっきり後ずさりした。その足が何か固い物にぶつかる。
「すいません!」
振り返ると、車いすに乗ったフローラが、大きな箱を膝に抱えてクエルを見上げている。
「フ、フローラさん……」
先ほどのセシルの話に、クエルがフローラの瞳から目をそらした時だ。教室のドアが勢い良く開き、不機嫌な顔をしたフリーダが顔を出した。
「クエル、遅いわよ!」
「遅れてすみません」
そう言って頭を下げたフローラに、フリーダが慌てた顔をする。
「べ、別にフローラさんに言った訳じゃないの。ともかく明日は早いから、さっさと準備を始めましょう!」
フリーダがフローラの車椅子を押して教室に入る。クエルもその後に続いた。この教室はクエル達13班の準備室になっていて、他の生徒たちはいない。机の上にはすでに野戦服、地図や指示書、緊急用の笛や包帯などが並べられている。
「一応、私の方で先にできる準備はしておいたのだけど……」
「出られない分、準備のお手伝いぐらいはと思っていたのに、申し訳ありません」
再びフローラがフリーダに頭を下げる。
「そんなことないわよ。それにフローラさんには色々とお願いしてあるし……」
「はい。明日の朝とお昼のお弁当、それに食材の準備をお持ちしました」
フローラが膝に抱えた大きな箱のふたを開けた。香ばしい食欲をそそる匂いが広がる。
「だいぶ温かくなってきたので、茶色いものばかりになってしまいました」
「とっても美味しそう。これぞ戦飯という感じね!」
フリーダが感嘆の声を上げた。焼いたチキンと卵が挟まれたサンドイッチに、夕飯を食べたはずのクエルの腹も鳴る。
「演習なんかじゃなくて、これを持ってピクニックに行きたいぐらいだね」
クエルのセリフに、フリーダは眉をひそめた。
「クエル、分かっている? あなたの成績がかかっているのよ」
「わ、分かって……います」
「もう、真剣さが足りないわね。でもピクニックに行きたい気持ちは私も同じよ。それはそうと、虫よけはちゃんと用意した?」
「あっ、忘れていた。もう購買は閉まっているか……」
「私が使っているものでよければ、お渡ししますけど」
フローラが慌てるクエルに声をかけた。
「クエル、昔から虫に刺されまくりなんだから、自分で用意しないと駄目でしょう!」
フリーダがクエルに思いっきりため息をついて見せる。
「フリーダさんも必要なら、小瓶に分けますが……」
「フローラさん、ありがとう。私はしばらく虫に刺されたことがないから大丈夫よ」
「きっと、血がまずいんだ」
「なんですって!」
口を滑らしたクエルに、フリーダが怒りの声を上げた。
「フリーダ様、血を吸うのはメスだけなので、そのせいかもしれません」
「セシルちゃん、そうなの? それよりも、セシルちゃんは大丈夫。一晩は演習場で過ごすことになるわよ」
「私も虫に刺されたことがないので大丈夫です。ですが、クエル様には悪い虫が寄ってこないよう、絶対に虫よけが必要です」
セシルが冷たい目でクエルを眺める。
「ほら、セシルちゃんもだから、私の血はまずくなんかありません。お弁当の用意もできたし、これで明日の準備は大丈夫かしら?」
「はい、フリーダ様。各自の着替えを除けば、不足しているものはないと思います」
「うん。イクセル助教にはさっさと降伏しろと脅されたけど、お風呂場でブレンダさんが演習の連携をすごく褒めてくれたから、ばっちりよね。それじゃ、みんな明日に向けて気合を入れるわよ」
「気合?」
「クエルに一番足りていないものです。ではみんな――」
フリーダは大きく息を吸うと、こぶしを天井に向けて突き上げた。
「エイ、エイ、オー!」
「エイ、エイ、オー!」
クエルもフローラやセシルと一緒に拳を突き上げた。フローラが楽しそうに笑っている。セシルもいつもの面倒だという表情とは違う、まんざらでもない顔をしていた。フリーダは明るい茶色い瞳をクエルに向けると、子供の時と同じように、小さく舌を出して見せる。
それを眺めながら、クエルは明日の演習が無事に終わることを、そしてこの幸せがいつまでも続くことを切に願った。
* * *
青白い月の光が辺りを照らす中、アイリスは一人自分の宿舎、実際は王族用の迎賓館に向かって渡り廊下を歩いていた。その途中でふと足を止める。アイリスの背後には、いつの間に現れたのか、皴一つない侍従服に身を包んだ細身の男性が立っていた。
「ラムサス、明日の国学総演習だけど……」
そこで言葉を切ると、アイリスはラムサスに自分に近づくよう合図する。
「あの人を誰からも気づかれないよう監視して」
「不測の事態があった場合でもでしょうか?」
「どんな嵐が吹こうともよ。あなたならできるでしょう?」
「はい、アイリス様。仰せの通りに」
アイリスがラムサスへ、クエルに向けたものとは全く違う笑みを浮かべて見せる。
「色々な人たちが彼に手を伸ばそうとしている。でも国学総演習から締め出したぐらいで、私を排除出来たと思っているのなら、なめすぎよ」
ラムサスはアイリスに深々とお辞儀をすると、沈み込むよう闇の中へ姿を消した。




