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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
41/42

第四十一章 虚偽不還(きょぎふげん)


  1


 左右から伸びる蟲喰いの霧を目にした一業は、自身の体を幻影に塗り替え、それを回避しようとした。

 避けられた蟲喰いは壁に衝突すると、害蟲がいちゅうの大群のように拡散しコンクリートを粉々に砕いていく。

 一業は霧の隙間から前に飛び出し右手を上げたが、僕は彼よりも早く指を動かした。

 先ほどまでとは違い、僕の霧は消えることなくそこに生じている。一業がいくら存在を塗り替え攻撃を無効化したところで、そこに蟲喰いは残り続ける。

 霧の刃が腕をかすり、一業の真っ白な肌から僅かな血が飛んだ。舌打ちし再び体を幻影に変化させる一業。だがどれだけ逃げたところで、どこに逃げたところで、霧は離れない。霧は消えない。いつまでもいつまでも彼にまとわり続ける。

 一業が逃げた先に移動し、霧をまとった拳をその胸に打ち込む。

 追ってくる霧を無効化するので精一杯だった一業は、もろにその攻撃を受けたように見えた。しかし、内側から焼き消えるように身体の輪郭が薄れ、背後に地面を蹴る音が響く。

 ――これも幻影……!

 僕はすぐに霧を移動させ背を守った。一業は霧の隙間を突こうと先ほどと同様に毒に変化させた空気を押し出したようだったが、その全てが蟲喰いの霧によってかき消される。

 総量が違い過ぎるのだ。短時間の間しか展開することのできない一業の毒霧では、どうあがいても僕の霧をうわまれない。

 渦巻きのように纏わりつく霧を拳から伸ばすと、一業は実に素早く後方へと退去する。

 すでに立場は逆転していた。もはや逃げているのは一業で、それを追い詰めているのは僕だ。どれだけの時間この霧を維持できるのかはわからないけれど、霧を出している間なら僕は一業とまともに向き合うことが出来る。

 霧の包囲から辛うじて抜け出た一業は、床に足を着くと、観察するように僕を見返した。今までのように無感情な視線ではなく、攻略法を探すような、僕を敵と認めたような目だった。

 一業は自身の腕の血を指でぬぐい、手の中で持て遊んだ。

「……嫌な霧だな」

 誰に言うともなく、そう呟く。 

 僕はちらりと千花の居場所を確認した。いくら超次場をコントロールするための道具だとはいえ、一業にとって千花は偶発的に連れ込まれただけの人間だ。カナラが生きている以上、一業が千花を殺す可能性は十分にあった。僕は霧の一部を常に千花の近くに配置し、いつでも反応できる状態を保っていた。

 一業はその霧をちらっと一瞥すると、何かを考えるように自分の下唇を軽く舐め、真っすぐ前に跳んだ。

 僕はすぐに霧を飛ばしたのだが、自身の姿を霧に変換し一業は姿をくらませる。

 ――いくら隠れたところで……。

 この展望台の中であればどこだろうと僕の霧は届く。姿を見せた瞬間、そこを叩けばいいだけの話でしかない。

 右、左、後ろ。あらゆる方向からの攻撃に備えていたが、一業が出現したのは、あろうことか僕の目の前だった。

 たちこめる蟲喰いの霧を幻影でかわし、地面に手を着く。

 一体何をするつもりだと思った途端、足元に違和感を感じた。地面の感覚がない。――いや、地面が溶岩になっている。

「なっ――!?」

 猛烈な熱気と足の痛み。溶ける靴底。僕は瞬時に後ろへ飛びのいたのだが、それが大きな間違いだった。

 一業の白い手が伸び、空間を握りしめる。

 ――何かヤバい……!

 霧を集め前に壁を作り出す。

 次の瞬間、僕の居る場所全体の空間がノックバックした。息を呑む間もなく服の一部が弾け、肌が裂けていく。

 蟲喰いの霧で覆っているはずの僕を、どんな攻撃だろうと通さないはずの壁を、貫通してくる攻撃。

 瞬く間に太もも、手首、額、首元と、針の山でも投げられているように急速に肌が裂けていく。

 ――これ以上の出血は……――!

 身体を削られつつも霧を飛ばす。一業はそれを生身で回避すると、回り込むように僕の左側へ移動した。

 再びのノックバック。てっきり左側からくると思っていた攻撃は、何故か継続して右からやってくる。気になりそちらに注意を向けると、明るく輝く金色の月が目に入った。

 ――……月? そうか、――光か。

 僕は輝く夜空の女王を見て、攻撃の内容を理解した。

 蟲喰いだって万能ではない。霧は触れたものがどんな硬度や材質でも破壊できるが、触れないもの、その点同士の隙間をすり抜けていくものは消せない。そこを利用し、一業は差し込む月明かりを刃に変換しているのだ。

 一瞬視界がかすみよろけそうになりつつも、展望台の中央、柱の影へ移動し闇の中に身を移す。それで体を切り刻もうとしていた無数の刃は途切れ、攻撃は止まった。

 一業は窓際に下がると、手ごたえを感じたように手首をスナッピングさせた。

 ……まずい。この展望台は側面の大部分を窓に囲まれている。中央にさえ居れば大きなダメージは受けないけれど、彼が千花を襲えば外に出ざる負えない。いくら霧の一部を置いているとはいえ、その大部分は常に僕を囲うように移動している。離れれば離れた分だけ対処が遅くなってしまう。

 僕が出てくるところを狙っているのか、ゆっくりと千花に近づいてく一業。彼女は疲労のせいでまだ上手く動けないようで、怯えた目で一業を見上げた。

 くそっ……!

 息を大きく吸い込み止めると、僕は最短距離で一業に向かって走った。

 体の周りに追従していた大量の霧を打ち出し、彼の進行を邪魔する。これほど大量の霧で猛襲すれば、一業は防戦一方になり光を変換する余裕なんてなくなる。その隙に千花を移動させることが目的だったのだが、

 全身を包むノックバック。

 急に背後から気配を感じる。

 ――しまった、前にいるのは幻影――

 蟲喰いの霧の大半を飛ばした今、生身の部分を攻撃されればたまったものではない。既に出血死目前の状態である。いくら弱い攻撃だろうと次に攻撃を受ければ、負けるのは確実だった。

 ここまで来て――!

 無言の叫び声をあげつつ振り返り、僅かに残った霧を集約させる。光を変換しようとしていた一業は、急速に押し寄せた霧を見てすぐに後方へと切って返した。

 千花の前に立った僕は、口を大きく開け息を吸い込んだ。

 腕が、足が、肺が、全身が悲鳴を上げている。今すぐにでも倒れてしまいそうだった。

 微かに視界が明るくなってきている。朝が近づいてきているのだろう。これ以上差し込む光が増えれば、一業の攻撃の範囲はさらに増してしまう。

 僕が荒い呼吸でふらついていると、背後から千花の声が聞こえた。

「穿くん……私が支えるから」

 消えてしまいそうな僕の精神を、暖かい千花の意識が包み込む。それによって微かに視界のぶれがなくなり頭痛が軽減した。触れているはずはないのに、近くにはいないのに、まるで背中に手を添えられているような気分だった。

 目の前の空間が大きく歪み、一業が再び姿を見せた。

「ぼくは馬鹿だな。なにも、わざわざ刃に変換する必要なんてなかったのに」

 また嫌な臭いが鼻につく。毒だ。

 僕は瞬時に霧を戻し、自分と千花の体を覆った。拡散していた霧を極限まで密集させ光すら食い漁らせる。僕と千花のいる場所だけ世界が闇に包まれた。

 何かが霧に当たる感触。一業が光を変換して造った毒が衝突しているのだろう。光すらも消している蟲喰いのせいで霧の外がどうなっているのかまったく見ることができない。これでは霧を解除したとき、一業がどこにいるのか、どんな攻撃を仕掛けてくるのか予想がつかなかった。

 ――駄目だ。もう密集状態を維持できない。

 拳を全力で握りしめ続けることが不可能であるように、蟲喰いの霧を固めていられる時間にも限界がある。僕は手のしびれを感じ、霧の壁を解除せざる負えなくなった。

 光が差し込み、闇が張れる。割れたガラスと日々だらけの部屋が目に入るも、一業の姿は見当たらない。

 どこに――!?

「穿くん、後ろ!」

 存在を認識した千花が声を上げる。慌てて振り返ったが、すでに遅かった。

 歪む空間。

 変質する光。

 霧を集約しようにも解除したばかりの今は無理だ。僕たちは真っ向からそれを受ける格好になってしまった。

 しまっ――!?

 殺される。

 思わず目をつぶりかけたそのとき、――一業の動きが止まった。

 とっさに千花を引っ張り遠ざかる。広がっていた霧を戻し視線を向けると、何故か彼の口元から、僅かに赤いものが流れ出ていた。

 

 


  2


 僕は思わず目を疑った。状況がよく理解できなかった。

 どういうわけか、一業が吐血している。苦しそうに胸を抑えながら。

 ふらつき下を向く一業。唖然としていた僕だったけれど、すぐに我に返り、一業に向かって霧を放った。

 しかし一業は体を透過させ、あっさりと霧をかわした。

 口元に付いた血を手で拭い、わずらわしそうにこちらを振り返る。

 ……どうしたんだ?

 彼の様子の異変に、疑問を持つ。

 これまで僕の蟲喰いは致命傷など与えてはいない。全て無効化されていた。なのに、何故彼は血を吐いているのだろうか。

 

 ――やっと、ぼくの願いが叶う。


 先ほどの一業の表情が脳裏に浮かぶ。安堵の籠ったほっとしたような声。長い間苦しんできたことにようやく終止符を打てるようなそんな表情。

 

 ――ありふれた、普遍的な願いだ。ただぼくには、それを叶える手段が他になかった。


 明社町の住民の人格を全て塗り替える。それはあまりに異常で馬鹿げた企みだ。普通の人間ならば全く持って理解できない事柄だ。――……けれど、もしそうするしかない状態だったのだとしたら。そうしなければ未来がないのだとしたら。

 一業は普通の人間ではない。人工的に細胞を組み替えて生まれた人造の人間だ。ただ体の一部を差し替えられた実験体たちですら定期的な診断と処理が必要だったのに、そんな不自然な生まれ方をした人間がまともに生きていられるわけがない。‶存在を塗り替える〟などという強烈な現象。いや、願い。

「そうか。一業、君は……時間が……」

 言いかけたところで、一業が口を挟んだ。

「――……ぼくは、ただ超能力を発生させるためだけに作られた。それだけの生き物。はなから長期的な運用も、存命も望まれてはいない。真壁教授たちにとっては実験体の試作。プロトタイプみたいなものだった。最初からそう設計されている以上、近いうちに限界がくることはわかり切っていた。無理に超能力を行使すれば、その分体に負担もかかる」

「じゃあ、君がやろうとしていることは……」

「一年ほど前、ぼくの寿命が近づいていると悟った教授は、カナラの力の把握のために、僕を捨て駒にすることを考えた。意識のない人形なら彼女の精神干渉を受けないんじゃないかとな。彼女の捕獲に失敗し、ぼくはそれが運命だと。そこで死ぬと思っていた。だが偶発的にカナラと繋がり感情という概念を学んだことで、ぼくはそのことに強い恐怖を覚えたんだ。ぼくは、死ぬことが怖くなった」

 自分の血の付いた手を見下ろす一業。

「命なんてただの現象だ。積み重なった化学反応の結果が命と定義されているに過ぎない。誰だろうといずれ死に、誰だろうといずれ消える。そこに意味はなく、理由も価値も存在しない。だからこそ人は、満足できる人生を、満足できる命を自ら定め、そう認識できる自由を持っていた。誰に定められたわけでもない、自分自身で決められる人生の価値。それは、とてつもなく幸せな行為だ。

 だがぼくにはその機会が限られていた。それを定める時間がなかった。自由がなかった。

 感情という指針を得たぼくは、真っ先に真壁教授から逃げることを考えた。逃げて、自分の価値を見つけたかった」

 抑揚のない声。変わらない表情。だがその言葉の長さが、ここで僕にそれを伝えるという行為が、彼の心境を大きく表していた。

「この身体は限界だ。ここまで力を行使した今、いつ死んでもおかしくはない。だが新たな身体さえ手に入れば、人口体である一業という枠組みから抜け出すことさえできれば、ぼくはまだ生きることができる。ぼくとして存在することができる。……ぼくは超能力の発展や人間の昇華なんて無意味な思想に興味はない。そんな嘘びいた救いの供物になるつもりなんてない。ぼくは、ただ本物の人生が欲しかった」

 話を聞いていた千花が僕の背後から声を出した。

「だからって、こんな……町のみんなを巻き込むような方法を選ぶ必要なんてなかったのに……」

「他にどんな道がある? すぐに教授へ情報が伝わる病院に駆け込むことか? 遺伝子に破綻をきたしている肉体は、例えどんな名医だろうと直すことはできない。生きることは所詮争いだ。自分の体を構築する材料と場所の奪い合いに過ぎない。人格の上書きがどこまで持つかもわからないんだ。種は多く撒くに越したことはない。そのために真実に気が付く可能性のある真壁教授を排除した。障害となりうる二業に体のいい嘘を述べ懐柔した。お前たちさえ死ねば、ぼくという存在が居たことは誰にもわからない。上書きがあったという事実を知ることは不可能だ。ぼくは、この明社町という代価を経て新たな人生を手に入れる」

 他者の苦しみを理解したうえでの犠牲。自分は他人とは違うのだという明確な認識。

その目を見て、僕はどうあがいても彼の意見を変えることが不可能だと悟った。

 もし世界中が飢饉になって、食料に限りがあるのだとしたら、どんないい人だって、生きるためにそれを求め奪い合う。子供のためだとか、家族のためだとか言い訳をして。

 彼はただ、そう判断したのだ。自分の命が他者よりも大切であると。それを犠牲にしたうえでも生きていたいと。

 結局のところ、一業も、他の実験体も、僕たちも、根本的な願いは同じだったのだろう。ただアプローチの仕方が違っただけ。その差が、僕と彼らの間に見えない壁を構築し、遮っている。

 横に千花が何とも言えない表情で一業を見る。

 生きるということは、限られた資源の奪い合い――。

 かつての四業の姿を追思い浮かべる。

 僕は、ぎゅっと自分の手を握りしめた。




    3

 

 美麗な赤い線が窓の外、遠くのほうに見え始めている。真夏の朝は早いから、もう間もなく日の出だろう。僕は千花の寄り添う意識に支えられ、何とか体の感覚を掴み続けた。

 普通に攻撃するだけでは、一業を傷つけることはできない。彼が攻撃に現象を使用しているときであれば、霧も届くだろうけれど、向こうも当然それはわかっている。必ず警戒して、用心するはずだ。

 腹部と肩から血が流れ落ち、床を濡らす。

 四業にやられた腕の痛みが激しくその存在を主張し、僕の神経を殴り続ける。

 蟲喰いの霧も崩壊が始まっていた。出血量からみてそろそろ身体も限界近い。

 僕は鈍っている頭を必死に回転させ、策を探した。今までは何とか相手の隙を、弱点を見つけることができた。何とか打ち勝つことができた。だが一業は、いくら考えてもその隙を見出すことができない。

「穿くん」

 僕の名を呼ぶ千花の声。

 一業を警戒しつつ、僕は横目で彼女を振り返った。

 千花は酷くやつれていたけれど、相変わらず綺麗な表情をしていた。まっすぐに僕を見つめ、囁くように口を近づける。

「私が幻覚で隙を作るよ」

「……無理だ。君の幻覚は触れるか視界を合わせないとかけられない。一業は当然それを予想しているだろうし、幻覚を強化しようにもそれに認識を割けば、僕の霧が展開できなくなる」

 原理から考えれば、超次場が影響を受けるのは常に一つの認識だけだ。僕と千花の現象を同時に強化しつつ、それを維持することは、理論上実現できるはずもない。

 だが千花はその解答を予想していたかのように、すぐに唇を動かした。

「穿くんへの認識の偏りを消さなきゃいいんだよね。大丈夫。……‶触れない男〟のときみたいにきっと上手くできる」

「‶触れない男〟のとき?」

 彼女が“触れない男”を目にしたのは、誘拐されかけた時だけのはずだ。あの時は確か、僕が囮となって彼女がスタンガンで留めを刺した。

「あの時だって、絶望的な状況だったけど、二人だから勝てた。二人だから乗り越えることができた。だから、私を信じて身を任せてくれないかな」

 何か考えがあるのだろうか。三年前と変わらない、力の籠った優しい目。

 そうだ。彼女だって、ただ守られるだけの女子じゃない。これまでずっと教授たちから逃げてきた、戦ってきた人間なんだ。

 僕一人の思考では一業に読まれてしまう。だがそこに千花の意識が介在するのなら、一業の演算にずれが生じるかもしれない。

 僕は千花を見つめると、小さく頷いた。



 蟲喰いの霧を暴れさせたせいで、展望台の中はぐちゃぐちゃだった。

 窓ガラスは割れ放題で地面にその残骸をさらし、壁や床はあちらこちらがひび割れ大地震の直後のような姿を見せている。

 その中を、赤い瞳の少年が浮くように近づいてきた。

 一業の力は強大だ。安易な策を練っても、奇を狙った攻撃をしても、すぐに対応し反撃される。だから彼を倒すには、存在を塗り替えようと絶対に避けられない状況を作り出す必要がある。そしてその状況にもっともふさわしいのは、僕が死ぬ瞬間以外にはありえない。

 僕は、悲鳴を上げる体を動かし、一歩踏み出した。

 それに合わせ、一業も歩を進める。

 彼の接近に合わせ、僕は周囲に滞在していた霧を打ち込んだ。それは上下左右から幾重もの塊となって一業の体を食いつぶそうと猛威を振るう。

 一業は体を陽炎のような何かに変換し、それを避け続ける。僕は何とかタイミングを合わせ、彼の本体に霧を命中させようと足掻いたのだが、攻撃の道筋を全て読まれているのか、一業は難なく間合いを潰し、僕の眼前まで一気に移動した。

 空間が歪み光が変質する。

 僕は反射的に目の前の霧を集約し、蟲喰いを展開した。

 霧によって作られた無の塊に飲み込まれ、消えていく一業の攻撃。すぐに残りの霧で彼の実態を攻撃したのだが、あろうことか一業は空間を塗り替え距離を変化させ、一瞬にして僕の真横へ移動した。

 この位置ではもはや霧は間に合わない。霧でしか一業の攻撃を止めることはできない以上、彼が変質させた光が僕の体を貫くことは確実だ。

 ――だから僕は敢えてそこで腕を伸ばした。

「なに?」

 一業の口から声が漏れる。空間を歪ませ今にも留めを刺そうとしていた一業の腕を、僕は強く握りしめた。

 霧はまだ僕の下まで戻り切ってはいない。一業は僕の手をただの悪あがきと判断したらしく、構わずに現象を行使しようとする。それが過ちだった。

 ――超能力だけが全てじゃない……!

 自分の掌を回して一業の腕を後方へと流す。そのまま逆の肘で彼の腹部を強打した。

 口から唾液を吐き出し、僅かに苦悶の表情を浮かべる一業。その間に霧が追いつき、僕の腕に纏わりつく。

 僕はそのまま彼の胸を殴り飛ばそうとしたのだが、一業は拳が触れそうなところだけを半透明な陽炎に変化させ、攻撃を回避した。

 ――まずい……――!

 視線が交差した瞬間、変質した猛毒と刃の光が僕の全身に降り注ぐ。一瞬にして肌が変色し、血管が浮き出て、その眼球が真っ赤に染まった。ぶちぶちぶちぶちと血管が切れ、弾け飛ぶ。

 とても助からない。確実な死の宣告。

 崩れ落ちていく僕の遺体を、僕は目の前で見送った。

一業は勝利を確信したように力を抜こうとしたが、何かを感じ取ったように目を見開いた。

 僕の死を見ても千花に何の反応もなかったことで察したのだろう。すぐに自身の脳を塗り替え下精神干渉の効果を白紙に戻す。そして戻した直後、消えた幻影と僕の姿を見て自分の失態に気が付いたようだった。

 千花の幻覚はまだ無力になったわけじゃない。脳を塗り替えて幻覚を無効化するということは、その間現象を利用しているということだ。だから千花の幻覚を打ち消す間は、こちらの攻撃を回避することが不可能になる。

 一業――……!

 刹那、僕は背中に隠していた霧を右拳にまとわせ、一業の腹部を殴りつけた。一業は体をくの字に折り曲げ、ぎりぎりのところで直撃を避けたものの、霧によって削られた皮膚と肉からは真っ赤な液体が漏れ出す。

 その隙に周囲に追いついた霧の全てを彼の体に向かって打ち込んだ。

 滝のように霧が上から降り注ぎ、一業の赤い目を、白い肌を覆いつくす。

 床が割れ大量の粉塵が宙に舞い、天井が崩れ落ちてきた瓦礫が霧によって粉々になった。

 小さな台風がそこに出現したかのように渦を巻く蟲喰いの霧。

 幾多ものひび割れが落下地点から広がり、展望台のあちらこちらを切り刻んでいく。

 霧を集約させ続ける限界になり、僕が力を抜くと、蟲喰いの台風が落下した位置には、ひび割れが幾重にも折り重なり、階下まで続く大きな穴が開いていた。

 激しく息を吐き、頭を抑えながら穴の底を覗く。だが真っ暗で何も見えない。ただ無数の蟲喰いの霧だけがあらゆる場所にただよっている。

 必死に目を凝らし、彼の姿を探していると、千花の声が聞こえた。

「穿くん、前に……!」

 顔を上げ激しい頭痛に耐えながら、月明かりに照らされた彼の姿を見つける。

 霧が当たる直前、存在塗り替えで回避を試みたようだが、それでも全てを防ぎきることは叶わなかったようだ。

 一業は全身のあちらこちらを血に染め、ぼろぼろの状態で立っていた。服は破け、皮膚のあちらこちらからは流血し、ひび割れにも似た裂傷がいくつも刻まれている。

 だが、それでもその表情に苦しみはない。その目に怒りはない。

 薄っすらと明かりがさし始めた夜空を背景に立つ彼の姿は、なおも冷たい眼をこちらに向けていた。

 



  4


 一業は差し込む月明かりに照らされた自分の損傷具合を確認すると、すこぶる冷静な口調で質問した。

「……幻覚には注意していた。どうやった? 千花の目を見た覚えはないんだが」

「真壁教授がカナラにやっていた方法の逆だよ。僕と千花には繋がりが出来ている。僕の目を通して君に幻覚をかけた」

「なるほど。超次場の制御に精いっぱいで、もう脅威にはならないと思っていた。ぼくの落ち度か」

 こちらの返答を聞いた一業は、納得したように息を吐いた。

 きっと彼にとってここまでの損傷を受けることは、ここまでの反撃に遭うことは、完全に予想外だったはずだ。簡単に殺せる。簡単に目的を達成できる。そのつもりだった。なのに、何故こうも冷静でいられるのだろう。

 一業は僕と背後の千花を見比べつつ、ゆっくりと手の甲で口元の血を拭った。

「お前の霧は確かに脅威だ。薄く広げられれば、何処にいても存在を感知され、ぼくの現象を破壊することができる。ただ纏っているだけでおおざっぱな攻撃なら何であろうと防ぐことができる。さらにそこへ千花の補助が加われば、どんな超能力を持とうと正攻法では勝ち目がない」

 疲労を感じているようにため息を吐く。

「……だが――一つ思いついたことがある。……無気力に過ぎしていた教授の研究室生活にも、意外と意味はあったらしい」

 一業は右手を上げ、左手でその手首を掴んだ。

「邪魔ならば、その現象を消せばいいだけだ」

「現象を消す?」

 一業の現象はあくまで‶存在の塗り替え〟。それは現存するものであれば、どんなものでも違う何かに変化させることができる力だろうけれど、‶何も存在しない点〟の集合体である蟲喰いだけは塗り替えることができないはずだ。だから僕はこれまで彼と戦うことができた。彼の力を防ぐことができた。一体何をするつもりなのかと、疑問に思う。

「お前の現象はあやゆる万物を消失させられるが、全てを失ってもなおそこに存在しているものが一つだけある。形相と質料の関係だ。物体が現実的なものとして存在するためには可能的なものとしての種子が必要になる。その種子がなくなれば、現象は存在しえない」

 どういう意味だ……?

 話を聞きている途中で視界が途切れ倒れそうになったものの、千花の意識がそれを支え、僕は何とか踏みとどまった。もはや彼女の助けがなければ目を開けていることすらできそうにはなかった。

「超能力とは認識による存在因子の方向づけだ。突き詰めれば、この世に存在する全てのものは、何らかの方向性を受け形を成しているに過ぎない。超次場はあくまでその濃度が高いだけの場所だからな。方向性そのものを塗り替えることが可能なら、現象は発生せず物体はその存在を否定される」

 一業の掲げた手の周囲の空間がゆっくりとノックバックをはじめ、舞っていた紙切れが透き通るように崩れ去った。どうやら物体が存在するための原因そのものを塗り替え、その存在を破壊したらしい。

 修玄の話を思い出す。この世界はテレビの画面のようなものなのだと。物体が映像として出力された現象なら、一業のいう方向性とはそれを映し出している電気信号のようなものなのだろう。決められた信号を失ったテレビは、色の制御を失い光を無くす。

 蟲喰いも僕の認識によって生み出している現象だ。僕が世界の一部をそう認識し、方向性という名の信号を送ることで発生している現象だ。もし彼がその信号そのものを消すことが出来るのなら、たとえ蟲喰や、その他全ての超能力を無効化することすら叶うかもしれない。それはある意味、カナラすら凌駕する力だと言えるだろう。

 超能力の現象は、本人の真相心理に焼き付いた強い願望。

 生まれたから今までの間、一業はきっとずっとそれだけを願ってきた。人間になることを、自分の人生を手に入れることを、偽物ではなく、本当の人間として生きることを。彼は作られた人間だけれど、他の誰よりもその純粋な願いを持っていた。その願いが、ここまで異質な力を形成しているのだ。

 無意識のうちに指を動かす。

 血が不足し鈍った頭をフル稼働し、必死に考えた。

 僕はあの日常に、千花たちと過ごした日々に戻りたい。彼女たちの人生を取り戻したい。それが、母の犠牲の上に蟲喰いという力を得てここに立つ僕の意味だから。

 視界が暗くなり、意識が体を手放しかける。だが、再び千花がそれを繋ぎ留めてくれた。

 横に立った千花が無言のまま僕の腕に手を乗せる。

 僕は彼女の横顔を静かに見返した。

 一業は掲げていた腕を水平に伸ばし、拳を握りしめた。すると彼の手を中心に、球状の膜のような波がいくつもノックバックし周囲に拡散していく。

 その膜に触れたものは、床も瓦礫も、空気さえも、全て最初からその場に存在していなかったかのように、陽炎かげろうのごとく掻き消えていった。

 あれはもはや‶存在の塗り替え〟などという現象ではない。蟲喰いのように消すのではなく、ありとあらゆる存在そのものを根本から否定する空間――場そのものだ。

 僕たちにしかと狙いを定めた一業は、無言で床を蹴り、前に飛び込んだ。

 彼の掲げた拳から広がる空間のノックバックにより、それが通過した付近の床や柱は何もかもが幻のように掻き消え、存在そのものが消失していく。

「止まれ!」

 急接近する一業に向かって幻覚を飛ばす千花。しかし一業の拳の陽炎からノックバックした膜が炸裂しあっさりと千花の認識を打ち消した。もはや幻覚すらも効果がない。どこを攻撃しようともあの連続発生している膜がある限り、こちらの攻撃は無効化されてしまう。

 ――あいつは今生身なんだ……! 現象を起こしている手を無視すれば、傷は負わせられる!

 僕は反射的に周囲の霧を集約させ極密度の蟲喰いを作り出すも、それさえも瞬く間に幻影のように空間へ溶けてしまった。見えない炎の塊が目と鼻の先に迫り、恐怖で息が止まる。こんなもの一体どう防げばいいというのだろうか。

 視界が陽炎一色に染まりかけた刹那、勝手に残りの霧が集約し消え去ろうとしている蟲喰いを再構築し始めた。

「諦めないで……!」

 どうやら千花が僕の意識に干渉し操作したらしい。真横から声が聞こえる。

 彼女の目を見て僕ははっと我に返った。

 無意識のうちに叫び声をあげ意識の全てを蟲喰いへ集中させる。四方に旋回していた霧は僕の認識に合わせ凝縮し、何重もの蟲喰いの輪を作り出した。

 ぶつかり続ける二つの現象。

 掻き消える蟲喰いと消失する陽炎。

 お互いがお互いの存在を否定し、食い千切り合う。

 一業の陽炎が蟲喰いを作り出す原因を消し去るのと同様に、僕と千花の蟲喰いもその一業の現象そのものを消失させていく。

 心が、精神が焼き切れそうだ。普段一瞬しか発生させていない現象を強引に作り出し続けているせいで今にも頭が割れてしまいそうだった。

 目を血走らせ無言で拳を押し出し続ける一業。彼も相当な無理をしているらしく、その腕が徐々に消失させている蟲喰いと同様に、おぼろげに薄くなっていく。

 ――僕は生きるんだ……! 僕はまだ――

 失ってしまった母。

 やっと笑みを見せるようになった父。

 見守ってくれる姉。

 緑也や日比野さんたち。

 僕はまだ、やることがある。

 僕にはまだ生きる理由がある。

 ずっと死にたいと思っていた。ずっと罪を償いと思っていた。

 でも今の僕は、もうここで死ぬわけにはいかない。

 幼いころの千花とカナラの姿が浮かび、今の彼女たちに置き換わる。

 雄たけびのような声を上げて意識を蟲喰いに集中させる。極限まで無の点を密集させ、まるでブラックホールのような光すら存在しない場を作り出す。

「無駄だ」

 短く呟く一業。それだけで密集させていた蟲喰いが半分ほど空間に溶けて掻き消える。

 僕は突き出しているのと逆の腕で添えられた千花の手を握りしめると、思考もなにもかもかなぐり捨ててただ現象を発生させ続けた。しかしその努力もむなしく実にあっさりと陽炎によって蟲喰いは霧散していく。

 足掻き続ける僕たちにしびれを切らしたのか、一業はさらに力を込めようと前に踏み出そうとしたが、――態勢を前のりにしたところで、息を詰まらせたように吐血した。現象を酷使し過ぎたせいで不完全な身体に悪影響が出たらしい。

 その瞬間だけ陽炎の精度ががくりと落ち、同時に蟲喰いの塊も掻き消える。

 急に抵抗を失ったせいで、千花が前に仰け反り倒れた。

 一瞬の時の中で、一業と視線が交差する。

 僕は何も考えず左半身を前に滑らせ、腰を回転させる勢いで、僅かに霧の残った右拳を前に突き出した。

 一業はすぐに防御の構えを作ろうとしたが、体が思うように動かないのか、もろに僕の拳を胸に受け押し飛ばされる。彼の身体はそのまま転がる様に割れたガラス片の中へ飛び込み、倒れ込んだ。

 激しい頭痛が走り、感じていた千花の温もりが遠ざかっていく。

 僕の周囲に停滞していた霧は、溝を埋められるように空気の中へ溶けていった。






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