表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
38/42

第三十八章 二の炎

 

    1


 僕の姿を見た一業は、何の言葉も発しなかった。

 暗闇の中月明かりに照らされた千花を背にして、右手を横に伸ばす。

 光源がないからこそその色の移り変わりが顕著に見え、辛うじて彼の手の周囲の空間がノックバックしているのがわかった。

 三業と四業を倒したやつ相手に正面から挑むのは危険過ぎる。

 僕はすぐに横へ移動した。一業の視線から逃れるように円柱となっている内側の壁際に身を隠す。

 彼は追うのは面倒だと思ったのか、その場に立ったまま現象を起こしかけていた腕を下ろした。

「千花、聞こえてる? 返事をしてくれ」

 壁に隠れたまま、窓際で寝ている彼女に声をかける。しかし当然のように反応はなかった。

 千花。起きてくれ。僕の声を聞いてくれ……!

 頭の中で感じる彼女の存在に何度も呼びかけてみる。声をかけるたびに一瞬存在感は大きくなるものの、それだけだ。

 時間を稼がなければと思った。

 僕は目の前にあった整列用のポールを手に取り、一業に向かって投げつけた。

 勢いよく宙を舞ったポールは一業の胸を透き通るように通り越し、窓の下の壁に当たる。金属が床に衝突する空しい音が数度展望台の中に響いた。

 やっぱりだめか。三業と同じ現象だけど、何かが違う。一体どうなってるんだ……?

 三業が物を通過させるときは、三業自身にも物にも何の変化もなくただ物だけが後方へと移動していた。だが一業の場合は、接触部の空間が歪みポールの姿が霞んでから背後でまた濃くなった。彼が現象を起こすたびにかすかに見える周囲の空間のノックバック。恐らく根本的に三業の現象とは原理が違うはずだ。

 限定的な時間の操作? それとも空間移動?

 これまでに彼が起こした現象を思い返せば、ありえない話ではない。とにかくどういった現象か判明するまでは、絶対に近づくべきではないと思った。

 じりっと足を動かしながら一業の様子を確認する。彼は先ほどと全く同じ位置で、つまならそうに僕の隠れている場所を眺めていた。

 一業としては自身の計画さえ達成することが出来れば、僕の命などどうでもいいのだろう。彼はただ、自身の目的が達成されるまで時間を待っている状態なのだから。

 僕は先ほど買ったペットボトルの蓋を外し逆手に持つと、それを一業に向かって投げた。

 飛び散った水とペットボトルは一業と接触した部位から透けその背後へと落ちる。先ほどと全く同じ光景。繰り返しでしかない行為だったが、じっと目を凝らしていた僕は、そのときある違和感に気が付いた。

 どうなってるんだ? 今確かに水の反射が……。

 水自体が一業の体を通り抜けたのなら、水に反射している光は流動したまま反対側に落ちるはずである。だが今目にした水は、通り抜ける直前のまま光の動きが固定されて後ろに落ちた。まるで写真や絵のように。

 通り抜けているように見えているだけで実際は消えている? もしかしたら接触の瞬間だけその場所の物体の存在が無くなっているのかもしれない。だとしたら、対象を一時的に消す力ってことなのか?

 一業の視線がこちらへ向くと同時に、僕は前に飛び出し、手に乗せた蟲食いで右手側のガラスを押し出すように砕いた。

 無数の半透明の刃はさながらガラスの散弾だ。飛び散ったガラスの多くは一業の体を通過したが、その時にも妙な現象が見えた。

 月明かりに照らされていない場経路を通ったガラスの刃だけ、何故か一業と接触しても影になったまま消え、彼の背を抜けた後に光を反射させたのだ。

 ……――そうか。

 僕はそのまま迷いなく一業へ突っ込んだ。

 水も、ガラスも、元の状態のまま光に変換されたんだ。だから同じ映像のまま背後へ落ち、光が無い場所を通ったガラスは暗い映像のまま体を貫通した。つまり一業の現象は、幻を現実にするか、現実を幻に変換するような力……!

 近づく僕に向かって、一業は後退しつつ数個のガラス片を投げ返した。

 僕の目と鼻の先でいきなりガラス片の数が分裂し倍になり、雨となって降り注いできた。

 蟲食いでそれを吹き飛ばし、地面に押しのけたガラスを確認すると、その数は一業が投げる前、分裂前の数へと戻っていた。

 ずっと効果を与えられるわけじゃない。きっと有効時間や有効範囲がある。

 広告の描かれた布を近場のポールからもぎ取り、勢いよく前に投げる。同時に二つのガラス片を彼の頭上に放った。

 足を彼の足元に滑り込ませ、右の拳に蟲食いを発生させる。

 物体を認識する情報源は視界のはず。その外からの攻撃なら幻には変換できない。

 上からガラスが脳天めがけて落下し、前方からは布の妨害で見えない蟲食いが迫る。これでダメージを与えられないわけがないと僕は確信したのだが――

 落下したガラスは水のように一業の体を流れ落ち、布越しに放った蟲食いは何の手ごたえもなかった。

  ――そんな。幻覚なら蟲食いで破壊できるはずだ。幻覚という存在がそこにあるのなら、消せないわけはないのに……。

 布が下にずれ、一業の顔が目の前に映る。赤い目が冷たく僕の顔を捕らえた。

「どうやら勘違いしているみたいだな。ぼくの現象はお前の思っているようなものじゃない」

 ここに来て初めて一業が口を開いた。ぐっと握られた手に力が籠る。

「ぼくは‶存在を塗り替える〟ことができるんだ」

 言い終わると同時に、僕の腹部に何かが押し込まれるような感覚が走る。

 温かくなっていく肌。

 じわじわと広がっていく痛み。

 抜ける体の力。

 顎をわずかに下げると、白い指が僕の体を貫いていた。





  2


「そう。残念。じゃあいいよ。好きにしなさい。どうせ、無駄だもの」

 膝を立て重い腰を上げる。彼女が腕を横に下ろすと同時に、真理は前に飛び出した。

 ――最初に全力の‶亀裂〟をぶち込んで怯ませる。その間に近づければ、カナラの拘束を解くことができる。

 自分が無謀な人間であることは自覚しているが、それでも二業との力量の差は十分に読み取れた。

 走りながら右手を伸ばし‶亀裂〟を前に放つ。三業を倒したときのように周囲にほとばしって伝播していくそれは、まさに色のないいかづちだった。

 縦横無尽に駆け巡る真理の‶亀裂〟を目にし、二業は興味深そうに瞬きをした。

「へえ、いつの間にそんなことまで……」

 言い終わる前に‶亀裂〟の端が到達する。真理が命中すると思った瞬間、二業の指が鋭く鳴った。

 立ち上るのは灼熱の業火。それは迫る亀裂を素通りし、一直線に真理の身体へ飛来した。

 ――なっ、‶亀裂〟と接触したのに消えない?

 目の前の光景に驚愕しつつも、体は反射的に左へ飛ぶ。足が離れた瞬間、その部分の床が荒い砂で削られたように黒焦げになってえぐれた。

 地面に手を突きながら惨状を確認する。ショックは隠しきれなかった。

 ――俺の現象は‶力を無効化する力〟だ。それに触れて影響がないなんてありえない。どういう手を使ったんだ?

 上方から熊の手のような炎が降ぐのを見て、真理は再び‶亀裂〟を放った。しかし炎の行進は止まらない。

 舌打ちし後方へ逃げる。目の前で広がった炎に焼かれて、左右の段ボールが屑紙のように燃え上がった。

 二業は逃げまどう真理を見て、中途半端なジョークを聞いたときのような半端な笑い声を漏らした。

「無駄だよ。真理くんの現象はあたしの現象とすごく相性が悪いの。どうあがいても勝ち目なんてないんだから。教えてあげようか。あたしの現象」

 二業が手を握りしめると、のたうち回っていた炎の帯がぱったりと姿を消す。あちらこちらに飛び火していたおかげで、部屋ところどころから煙が上がっていた。

「あたしは火を作り出しているわけでも、操っているわけでもないよ。あたしが動かしているのは大気中の分子。その振動を自由に変動させることのできる‶場〟を作り出すことがあたしの現象なの。真理くんの現象の精度じゃ分子間力を打ち消すことはできても、分子の振動自体を止めることはできない。この意味わかるでしょ? つまりあなたはあたしの攻撃を何一つ防ぐことはできないってこと」

 それを聞いて、真理は思わず苦笑いを浮かべた。

 ようは、炎をいくら消そうとしてもそれを燃やすガスが出続けるコンロと同じ状況ということか。

 遠距離ではどうにもならない。こうなれば直接‶亀裂〟を打ち込んで動きを止めるしかないようだ。

 真理は足に力を籠めると、短距離走の選手のごとく前傾に体を投げた。

 二業の現象は強力だが、体から離れた場所にそれを発生させる以上、位置認識と現象の誘導は‶亀裂〟よりも僅かに時間がかかるはず。上手く狙いを逸らしながら移動すれば――

「だから、あたしが発生させているのは力じゃなくて‶場〟だって言ってるでしょ。熱は分子の振動の度合いだからね。適当に激しく動かして発火点を超えさせれば、勝手に火がつくんだから。あたしにそんな細かい精度は必要ないんだって」

 二業の目と鼻の先で顔面が急に熱くなる。手足が真っ赤に変色していた。

 このまま突っ込めば指をかすらせることもできず、全身を焼き尽くされるだろう。一瞬にして体中の水分を蒸発させられるかもしれない。

 二業は真理が炎の中に飛び込むのを確信していたようだったが、真理は熱を感じた刹那、足首を百八十度横にして体の向きを強引に変えた。

「あっ……!」

 二業が間抜けな声を出す。それを背中で聞きながらカナラの体を拘束している鎖に手を当てた。

 ――炎だろうが分子だろうが知るか。こっちは最初からカナラを助けることしか考えてないんだ!

 指に力を込め半透明の電流がほとばしる。

 柱を失った家屋のように、鎖にひびが広がり始めたところで、――腕の皮膚が膨張し弾けた。

 遅れて湧き上がるいくつもの赤い刃。

 燃え上がり炭化していく自分の腕を見て、真理は悲鳴を上げた。

 消えるわけがないのに左手でそれを振り払おうとする。赤い刃はそのたびに身をひるがえし、より深く真理の肉に沈み込んだ。

 恐怖の中辛うじて取り戻した理性によって、鎖に指を伸ばすものの、目の前に立ち上った火柱によって態勢を崩し立ち台から転げ落ちる。

 ごろごろと体をまわしながら腕の火を必死に消化させようとしていると、ふっと、それが掻き消えた。

 過呼吸のように胸を上下させ、汗だらけの顔を見せている真理。そんな彼の顔を見て、二業は悪戯っ子に困らされた母親のような、優しい表情を浮かべた。

「だ、か、らぁー。あなたに勝ち目はないんだって真理。まだわからないの?」

 目の前のマネキンの肩に両手を絡ませながら、身を寄りかからせる二業。どことなく色っぽい流し目だった。

 自分の焦げた右手を見た真理は、流石に動揺を隠せなかった。

 焼き芋のようにただれた皮膚と黒ずんだ肉。痛みを感じないのが逆に恐ろしい。

 魂が後ろに引き抜かれそうになりながらも、手を握ろうと力を籠める。するとゆっくりだが指が動いた。神経まではやられていないようだが、これではもう、右手は使い物にならないだろう。

 左腕の全体で体を支え、顔を上げる。目が合った二業は嬉しそうに頬を緩ませた。

「ちょっと焼きすぎちゃったかな。まあ、大丈夫。腕が一本なくたって、あたしは真理のことを嫌いに

なったりはしないから」

 真理は膝を立てた。打撲のせいで強い痛みが走ったが、腕のダメージと比較すれば大したことはない。歯を食いしばりながら立ち上がる。酷い匂いが焼け焦げた腕から漂っていた。

「もう諦めたら? どう考えてもあなたがあたしに勝つことは不可能でしょ。生き残ることと、彼女のことを思えば、素直に下るのが身のためだじゃない?」

 二業はマネキンの肩に肘を乗せ、頬杖をついた。

「このままいけば、あなたに未来はないんだよ? 父親は投獄され、母親は死に、あなた自身の社会的な地位も落とされた。大切な相手も今失おうとしている。……例えここから生き延びることができたとしても、もはやあなたに生きる希望はないでしょ。あたしたちと一緒にくれば、そんな悩みなんて全てなかったことにできる。苦しみも、後悔も、絶望も、全て受け入れずに済む。どちらが得かは考えるまでもないと思うのだけれど」

「……勝手なことを言うな。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、これは俺が生きてきた事実なんだ。これが俺の人生だった。俺は俺の人生に不満はあっても後悔はない。誰に何を言われようと、俺は俺の人生を誇りに思っている。お前に余計なおっせかいや勝手な同情をもらういわれなんかないんだよ」

「ふーん。難易度の高いゲームが好きなタイプなのかな。まあ、いいけれど。どちらにせよ、あなたの意思なんて関係ないんだもの。そうだね。とりあえず今の記憶は全部消して、あたしの執事として更生させようかな。何かそういうの向いてそうに見えるもの」

 じんわりと、腕に痛みが宿っていく。まだ薄っすらとした痛みだったが、ショック反応が消え痛みを実感出来るようになったときのことを考えると、本当に恐ろしかった。

 真理は右腕の付け根を左手で強く握りしめ、刺すように二業を見返した。

 相手の前で頭を下げるのは、視線を外すのは癪だった。例え負けると分かっていても、どれだけ怖くても、意思だけは曲げたくなかった。

 二業が指を広げる。

 彼女が寄りかかっているマネキンの腹部がどろどろに溶け、そこから蛇のように長い炎の塊が這い出てきた。

 炎はとぐろを描きながら動き回り、真理の周囲を囲い込む。

 すぐに息が苦しくなり、眩暈めまいがした。大量の酸素が一気に消費されていくのがわかる。

 抜け出そうにも二業の炎は‶亀裂〟で吹き飛ばすことができない。かといって生身であれに接触すれば、この右手の二の舞だ。

 ――カナラ、目を覚ましてくれ……頼む。

 辛うじて見える彼女の姿に呼びかけるも、効果はない。いくら彼女が周囲の精神を読み取れるとはいっても、意識を失っている状態では意味がないだろう。

 視界が揺れ倒れそうになる。ますます強くなってきた腕の痛みで、何とか持ちこたえた。

 ――か、なら――

 げろを吐きそうなほどの気分の悪さを感じながらも、最後まで彼女の姿を視界に収めようとする。それが今できる精一杯の抵抗だった。

 炎を突破することはできないが、攻撃を防げないのは二業も同じだ。死ぬ気で力を絞り出せば、あそこに立っている二業に‶亀裂〟が届くかもしれない。

 そんな、無茶な妄想を真理が抱き始めたとき、――突然、周囲の全てが重くなった。

 物理的にではない。精神的、空間的な感覚として、世界が重くなったのだ。

 ――な、何だ? この物凄い威圧感は……?

 気圧されたように周囲を囲んでいた炎が弱まる。

 鎖に捕らわれていたカナラの体が激しく痙攣し、金属の摩擦音が響き渡る。彼女の身体を強烈な電流が流れているかのような動きだった。

 炎の隙間から二業の楽しそうな声が聞こえた。

「始まったみたいだね」

 

 

 

  3


 腹に刺さった白い指を見下ろしながら、僕は歴然とした力の差を認識させられた。

 こいつは最初から僕のことなど敵視してもいなかったのだ。

 僕が必死に考察し、現象を解き明かそうとしていたことも、こいつは全て理解したうえで放っておいた。

 無駄だとわかっていたから。

 勝てると知っていたから。

 例え僕が何をしようと、現象の正体を特定しようと、何の障害にもならないと、そう確信していたのだ。

 彼は自身の現象が‶存在を塗り替える力〟だと説明した。おそらく触れた物全てを一時的に別の何かに変換させることができるのだろう。四業の血液を毒化しショック死させたように。カナラの両足が吹き飛んだという現実に変換したときのように。

 すでに一業の指は僕の体内に侵入している。今ならどんな方法でも僕を殺すことができるはずだ。

 僕は動くことが出来なかった。動けばそれが自分の命の終わりだと十二分に実感していたから。

 歯を食いしばりながら恐れを振り払い一業の目を見つめた。どうしても確認しなければならないことがあった。

「お前が瑞樹さんを殺したのか?」

「瑞樹……? ……ああ、あの女か」

 一業は興味無さそうにそう言った。

「どうしてだよ。何で瑞樹さんを殺す必要があった。あの子はカナラと何の関係もない、普通の子だったのに」

 一業は面倒くさそうに目を細め、

「お前が来るとは思っていなかったからな。カナラから教授の目を反らすための囮として利用しようとしたんだ。不要になったから捨てた。それだけのことに過ぎない」

 何の感情もなく、教科書を読むように事実を説明する一業。僕を怒らせるためというよりは、本気で瑞樹さんの死に関心がないようだった。

 あまりに淡々と述べられた言葉に、僕は愕然とした。

 何だよそれ。じゃあ――……僕がこの町に来なければ、一業は彼女を利用する気だったって言うのか。僕がこの町に来たから、彼女は殺されてしまった。

「もういいか?」

 一業の赤い目に殺意が宿り、彼の指先がわずかに動く。僕は思わず死を覚悟した。

 この窮地を切り抜ける策はまだ浮かんでいない。ここで現象を起こされれば間違いなく僕は死ぬ。

 せめて相打ちに持ち込めばまだ千花は助かるかもしれない。

 そう思って腕を上げようとしたのだが、一業の目は全てを見透かしたように全くぶれなかった。

 腕に力を籠めるよりも早く、腹部に刺さった指周りの空間がノックバックする。 

 死を覚悟したそのとき、妙な現象が起こった。

 一業の背後で横たわっていた千花の体が大きく痙攣し始めたのだ。がたがたと、全身が上下に揺れ背中が仰け反っている。

 指の力が抜け、一業の注意が背後に向く。僕はとっさに彼の手首を押さえ、痛みなどお構いなしに引き抜いた。

 そのまま数歩全力で後ろに下がると、点々とした血の跡が地面の上に列をなした。

 一業は気にする素振りも見せず、彼女のほうを向く。

 ――……千花? どうしたんだ?

 彼女の様子は明らかにおかしい。彼が注意を逸らしたことを考えると、一業の手による現象でもないようだ。

 腹部を押さえながら目を凝らしていると、突如、全身に重厚な何かが覆いかぶさるような気配を感じた。肌という肌にねばりつくような汚感が走る。まるでコルタールと針に満たされたプールに飛び込んでしまったかのようだ。

 あまりに不快なその空気に気圧されている僕とは裏腹に、一業は千花を見て僅かに口元を緩ませた。

「ようやく、カナラが超次場を認識したか」

 心地よさそうに手のひらを上に向けてそれを二度、握っては開く。まるで僕の目には映らない何かの感触を楽しんでいるかのようだった。

 周囲に溢れる威圧感は留まることを知らず怒涛のごとく濃さを増していく。それにつれて、千花の痙攣も激しくなった。

 彼女が壊されると、僕は本能的に感じた。それほど周囲から感じる威圧感は異常だった。

 ――千花……!

 頭の中に感じる彼女の存在は、絶叫を上げていた。全身を絶え間なく剣で貫かれているような恐ろしい苦しみを感じる。

 四の五言っている場合じゃない。こんなの、一分だって持つとは思えない。

 全神経を目と耳に集中させた。

 一業の現象の打開策なんて浮かばなかったが、手足を捨てる覚悟で連続的に蟲食いを打ち込めば、一撃くらいは当てることが出来るかもしれない。

 いざ前に出ようとすると、恐怖心で身がすくみそうになったが、感じる千花の苦痛がそれを押し留めた。

 爪を掌に食い込ませ、めいいっぱい左足を前に滑らせる。そして右足を引き付ける勢いを利用し、右手に乗せた蟲食いを放った。

 一業は千花に目を向けたまま、軽く左手の指を上げた。

 途端、右手が強固な何かと衝突し、それを破壊する。一瞬だけ、半透明の壁のようなものが見えた。

 目の前の空気を鉄か何かに変換したのか……!? 

 僕は続けざまに左手の蟲食いを振り下ろしたが、一業は煩わしそうに腕を横なぎにし、僕の体を押し飛ばした。

 勢いを水流にでも変換したのか、洪水に飲まれた犬のようになすすべもなくエスカレーターの前まで戻される。僕の体を壁にぶち当てたところで、半透明の波は消えた。

 触れることすら……――

 蟲食いは一業の現象を破壊することができるが、現象を発生させられるのは一瞬に過ぎない。四業を殺したときのことを考えれば、一業の塗り替えは恐らく数十秒は持つ。カナラに対するときと同様、続けざまに攻撃されれば僕は手も足も出なかった。

 一業は千花が寝かされている窓辺に歩み寄ると、そっと彼女の頭に手を近づけた。

「や、めろ!」

 僕の声が展望台の中に響き渡る。

 一業は気にせず彼女の額に指を置いた。

「……やっと、ぼくの願いが叶う」

 かすかに安堵の籠った声で、短くそう呟いた。

 周囲に溢れていた得体の知れない威圧感が全て千花の周りに集約していく。彼女の息遣いに呼応するようにその威圧感が前後した。

「や、めろ……!」

 背中をぶつけた衝撃で体がしびれて動けない。腹部を押さえながら僕は一業の動きを見守ることしかできなかった。

 千花の口からは血が垂れはじめ、その顔色は蒼白になっている。まるで死人のような姿だった。

 千花の存在を通して一業の意識が伝わってくる。

 これは喜びだろうか。

 彼の表情は変わらなかったが、感じる思いの強さは桁外れだった。

 前後していた周囲の威圧感が一気に渦を巻き千花の体を経由して逆流し始めた。

 見えるわけではない。けれど僕の精神が確固たる存在としてその何かを認識していた。

 それは脈打つように広がっていき、展望台を中心に霧吹きのように明社町全域へ伸びていく。

 意識の暴力。

 強い感情の洪水。

 僕は自分の精神が一業の意識に犯され、混じり合っていくのを感じた。


 

 

  4


 鎖のぶつかり合う鋭い音を響かせ、カナラの体が何度も前後に飛び跳ねる。

 理解できないほどの強烈な威圧感が、この土地に停滞していた何かが、雪崩込むように彼女の身体に侵入し、上方へと移動しているのがわかった。

 見えなくても、聞こえなくても、触れなくても、それがどれだけまずいものなのかだけは感じ取ることができる。

 あまりの激しさに意識が戻ったようだ。カナラは聞き取れない何かを叫び涙を流した。

「抵抗しても無駄だよ。あなたの精神は一巳くんに支配されているもの。彼を殺さない限り、それが解けることはない。今のあなたは彼の体の一部に過ぎないのだから」

 どれほどの苦しみなのだろうか。

 泣き叫ぶカナラの表情は見ているこっちまで辛くなるような壮絶なものだった。

 真理は楽しそうにカナラを眺めている二業に向かって怒鳴り声を上げた。

「やめろ! それ以上やったら、カナラが死んじまう……!」

「そんな簡単には死なないから大丈夫だよ。それにあたしたちの目的の成就にはそれほど時間はかからない。その間だけ生きていれば、問題はないのだから」

 強力な超能力を持つカナラの命を使い切ってまで、実現したいことがあるらしい。笑みを浮かべていたが、二業の目の奥に浮かんでいる意思は本物のようだった。

 真理の周囲を囲んでいた炎の輪が狭くなる。もはや目を開けることすら叶わなかった。

 ――駄目だ。このままじゃどっち道やられる。もう、覚悟を決めるしかない。

 真理は右足に現象を乗せ、強く地面を蹴った。

 二業の炎を消すことはできないが、それの依代となっている床なら破壊することができる。半透明のいかづちは地面の上を滑走し、分解した。

 クレータのように真理の足元が沈み込み、囲んでいた炎が消える。

 ――今だ!

 真理は目の前の床に足を乗せ、そこから飛び出ようとした。だが一歩炎の跡地へ侵入した途端、全身の皮膚が悲鳴を上げ弾けた。

「何度も言わせないでよ。炎はただの余剰効果。空気の酸化反応に過ぎない。あたしの現象は分子の振動を操る場を形成することなんだから。あなた、今自分からミキサーに突っ込んだようなものだよ」

 呆れたように鼻を掻く二業。しかしその顔はすぐに驚きの表情へと変わった。

 全身をぼろぼろにしながらも、血をにじませながらも、真理は強引にその抵抗を突破したのだ。まさに鬼気迫る姿だった。

 二業は理解できないものを目にしたように慌てて次の炎を真理の眼前に飛ばす。真理は天井を支えるための円柱の陰に隠れ、それを回避した。

 鉄のやすりを高速で行き来させたような不協和音が鳴り、コンクリートの円柱の側面が燃えて割れる。その隙に真理はさらに前へと駆けだした。

 二業が再び炎の壁を作り出すと、真理は棚を足蹴にしそれを踏み越え宙に舞った。背後で棚や段ボールが燃え上がるも気にせず腕を前にかざす。

 だがその腕もすぐに真下から立ち上る炎によって覆われる。

 真理は構わず‶亀裂〟を前に放った。無数の半透明の雷が壁や天井を伝って突き進み、大量の粉塵が拡散した。

「目隠しのつもり?」

 二業は手を横なぎに払い、真理のいる場所に確実に炎の雨を打ち込む。

 ぎりぎりそれを回避した真理は、両手に抱えていたものを二業に向かって投げた。躊躇なく、二業はそれを現象で破壊する。だが真理が投げた物の姿を目にした二業は、思わず舌打ちした。

 内部の化合物を強制的に振動させられた消火器は、二業の目と鼻の先で爆発し、無数の金属片をまき散らした。

 反射的に顔を腕で隠し守ろうとする二業。真理はその間に一気に距離を詰めた。

「この、調子に――……!」

 二業の放った炎は瞬く間に真理へと迫ったが、直前で勢いをなくし花火のような弱いものに変化した。消火器からあふれた二酸化炭素によって、炎の材料となる酸素の供給を妨害されたのだ。

 もちろんそれだけでは二業の攻撃を完全に無効化することはできない。彼女の起こした分子の振動は継続して突き進み真理の体を削ったが、炎がない分その痛みに対する視覚的な恐怖心は大きく薄れた。

 真理は自分の痛みなど一切気にせず、ただカナラを目指して突き進んだ。

 もう一度、瞳の中に彼女の顔が移り込む。

「カナラ――!」

 真理は彼女の意識を引き上げるように、大きな声でそう叫んだ。

 カナラは汗と涙混じりの顔で真理を見返すと、ただ一言声を上げた。

「助けて……しん、り……!」

 二業が飛ばした炎が左足に命中し皮膚と筋肉を削られていいく。しかしそんなことなど一切構わないように、真理は‶亀裂〟でカナラを拘束していた鎖を破壊した。

 いくつもの金属の輪が飛び散り、カナラの体がこちらに倒れ込む。彼女を巻き添えにしてしまうと思ったのか二業は慌てて炎の発生を止めた。

 焼けただれた腕にカナラを抱きながら、真理は穏やかな表情で彼女の顔を見た。

 カナラは苦しそうな表情でこちらを見上げ、口を開けようとしたのだが、突然我に返ったように大きな悲鳴を上げた。腕の中で再び彼女の身体が暴れる。

「な、何だ? 拘束は解いたぞ……!?」

「馬鹿だなぁ。一巳くんの拘束は肉体に対してじゃない。精神へのものなんだよ。鎖を外そうと現状は何も変わらない。助けるには彼を殺すか、カナラをここから遠く離れた場所に連れ出すしかないの」

 体にかかった消火器の白い粉を振り落としながら、二業は諭すようにそう言った。

 焼かれた足の痛みで思わずバランスが崩れる。真理はカナラを抱いたまま後ろに倒れてしまった。

「カナラ、しっかりしろ! おいっ……!」

 腕の中で暴れるカナラを必死に抑え、何とかして落ち着けようとするもまったく上手くいかない。彼女の爪が首元を割き、小さな赤い線が出来た。

「頼むよカナラ。しっかりしてくれ。お前に死なれたら俺は……!」

 苦しむ彼女の顔を見ているうちに、いつの間にか真理の目にも温かいものが浮かび始めていた。それはすっと頬を流れ、顎を伝っていく。

 ――俺はお前が居たから戦うことができた。諦めずに生きてこれたんだ。お前が居たから……全部、全部お前が居てくれたから……!

 カナラの目がわずかに揺れる。

「死なせない。死なせないからな」

 真理はそっと彼女の身体を床の上に置くと、ゆっくりと立ち上がった。

 不思議そうに二業がそれを見る。

「ここから遠ざければ、カナラは助かるんだな」

「ええ。もちろん。彼女を苦しめているのは、あくまでこの土地と一巳くんの精神干渉だからね。精神干渉のほうは無理でも、離れれば土地との繋がりは無くなるはずだもの」

 真理は煙を上げている靴で地面を踏みしめ、焼けただれた右手をぎゅっと握りしめた。

 ――二業に俺を殺すつもりはない。例え燃やされても、死ぬことだけはない。それだけが今の俺にある勝機なんだ。両手を使い物にならなくさせられようが、目玉を吹き飛ばされようが、意思さえあれば現象は起こせる。炎の痛みさえ耐えきれば、あいつに届くことはできる。

 防いでいては、避けていては二業には近づけない。防御を度外視した特攻による速攻。それが由一彼女に勝てる可能性のある戦法だった。

 倒れているカナラを一度だけ見返す。

 ――親父のためだとか、復讐のためだとか、色々言っていたけどさ。結局俺がお前に協力した理由は、最初から一つしかなかったんだ。

 あの時廃墟で見た彼女の姿。腕を差し出した自分に見せた、戸惑いの顔。こんなぼろぼろの薄汚れた男なのに、まるで迷子の女の子が父親に会えたときのように一瞬、彼女の目は輝いた。

 真理はただ、その期待に答えたかった。自分をまっすぐに見つけるその無垢な目を裏切りたくなかったのだ。きっとあの時からすでに自分は、彼女にやられていたのだろう。

 足の指先に力を籠める。既に感覚はなかったが、靴の形がそこれ歪んでいるので指はまだついているようだ。数歩歩くことくらいは出来そうだ。

 腕も痛みさえ我慢すれば、まだ動かせないわけじゃない。

 ――二業さえ倒せばカナラは逃げれるかもしれない。……俺がここであいつを倒せれば……!

 そう思い、死を覚悟して前に踏み出そうとしたところで、――いきなり足首を、下からがしっと掴まれた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ