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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
36/42

第三十六章 死と花


 1


 二つの強い意思を感じる。

 僕の精神を支配しようとするカナラの力と、それを防ごうとする千花の力だ。

 二つの意思は互いに渦を巻き、僕を取り巻いているようだった。

 目に見えるわけではない。ただ感覚のみでそう理解する。カナラの力は強く強大だったものの、どこか不安定で落ち着きがなかった。きっと、一業に無理やり操られているせいだろう。

 拮抗している力の一部が僕に触れた。白い紙に絵の具が滲むように、ぼんやりと世界に色が生まれていく。いつもと同じだ。どうやら僕はまた、誰かの記憶を見せられるらしい。

 深く深く、僕の意識はその光に飲み込まれていった。

 


    ◆


 五業から追われ続け、たまたま身を隠した町で、私は穿に出会った。

 ずっと人の思念や意識に当てられ疲れていた私は、なるべくひと気の少ない場所を探していた。

 住宅地から逃げるように、なるべく思考密度の低い場所へ移動し続けた結果、ひっそりと絵を描いていた彼を見つけた。

 最初は先客が居ることに不満を感じたのだが、彼の心が流れ込んでくると、それが実に酷い有様であることが分かった。

 今にも決壊してしまいそうなダム。ひびの入ったガラス。

 彼の精神からはそんな危うさを感じたのだ。

 穿のことが気になった私は、少し意識を集中させ、彼の記憶を読んでみた。

 飛び込んでくるトラックに、血まみれの女性。中途半端に伸ばされた小さな手。

 私は彼が何故絶望しているのかを理解し、同時に強い興味を持った。不謹慎なことだと自分でも思うけれど、私はそのとき見た彼の絶望や苦しさに、親近感を抱いてしまったのかもしれない。

 気が付けば、彼に向かって声をかけていた。

「何を描いているの?」

 穿はお化けでも見たかのように肩を跳ね上がらせ、素早くこちらを振り返った。

「ねえ、何を描いているの?」

 特に強要したわけではないのだけれど、私の存在に気圧されたかのように、彼は言葉を返した。

「コンクリートに囲まれた場所から見える空の絵だよ。真下から見上げているように描きたいんだ」

「空の絵? へぇー、すごいね。鉛筆だけなのに、すごくリアルに見える」

 絵なんて小学校の教科書でしか見たことがなかったけれど、その絵を見た私は、妙に感動してしまった。見えない何かに手を伸ばそうとしているかのような、高い場所にある何かに懇願しているかのようなその絵は、彼と私の心情を非常によく表している気がしたからだ。

 私の感想を聞いて照れたのか、彼は顔をわずかに赤くして固まってしまった。なんだかとても恥ずかしそうだった。


 怪しい男たちと化け物に追われていた私は、なるべく人目につかないように路上で寝ることが多かった。

 ホテルに泊まれば監視カメラに映る危険性が高く、そういった場所では私の幼い姿は非常に目立つ。暗示を誰かにかけて家にお邪魔することも度々あったのだが、もしその家に追っ手の化け物が来れば、無関係な家族を危険に巻き込んでしまうと思い、長居することは出来なかった。

 だからその日穿と出会ったのは本当にただの偶然だ。たまたまいつものように夜を越せる場所を探していたら、彼が居た。それだけの関係のはずだった。

 もしかしたら私は寂しかったのかもしれない。気が付けば、私はよくその公園に遊びに行くようになっていた。とくに行き場もなく、ただ町に潜んでいただけの私にとって、同い年くらいの彼との会話はとても楽しくて、有意義な時間だった。

 同じ時間、同じ場所で、彼はいつも絵を描いていた。

 私は毎日あの公園を訪れ、彼の描いた絵を見て感想を述べた。素人の何のひねりもない感想だったけれど、それを聞いた穿はいつも難しそうに自分の絵を見直し、私がおかしいと指摘した部分を直しにかかった。

 雨の日や曇りの日などは穿も公園に来ることはなかったため、非常に寂しくて退屈でつまらなかったのだけれど、そういうときは他人の記憶を見たり、通行人に幻をみせたりして遊んだ。そうして現象を使っているうちに、自分に何ができて、どこまで影響を与えられるのか、理解がより深まっていった。

 私は穿との時間を邪魔されたくなくて、現象を使って公園の周囲に影響を与え続けた。

 この場所に気づけないように。近づけないように暗示をかけた。この公園は私と穿だけの秘密の場所のつもりだった。

 けれど、二か月余りが経ったある日、穿が突然妙な女の子を連れてきた。千花という可愛らしい子だ。暗示の対象外である穿が自ら連れてきたことで、彼女には私の現象が無効化されてしまったらしかった。

 千花は何ともないように公園の中に入ってきた。

 心を読んでわかったことだが、どうやら穿は私の友人を増やそうと思って、彼女を連れてきたようだった。名前の響きが同じということで、仲良くなったらしい。

 気持ちはありがたかったけれど、私はあまり喜べなかった。穿が彼女に向ける笑顔が、声が、何だか私に向けられている時よりも楽しそうな気がして面白くなかった。

 それからよく遊びに来るようになった千花を、私はそっけなく扱った。一時期は記憶を操作して追い出そうかとも思ったが、知人には絶対に現象をかけないと誓っていたため、仕方がなく受け入れた。それが私の唯一のポリシーだった。

  何度か一緒に時を過ごし、会話をしていくうちに、千花がとてもいい子であることがわかった。

 私自身、彼女と一緒にいると楽しかったし、退屈もしなかった。知ることのなかった同年代の女の子たちの生活を垣間見ることができ、新鮮な気持ちになれた。時には穿が居ないときに、二人で話し込んだりもした。

 けれど、心のどこかで、私は彼女の存在をうとんじていた。彼女が来るまでのこの公園は、ある意味完成されていた。

 気を遣う必要もない相手。余計な他者の思念の無い空間。海と風の音の心地よさ。

 私はそれが好きだった。あの空気が好きだった。けれど、千花がいることでその空気が崩れてしまった。遠慮や気の使い合い。余計な雑念が生まれてしまった。

 いい人間であることはわかっている。けれど、私にとって彼女は異質な存在でしかなかった。



 その日は突然訪れた。

 穿と私と千花で、いつものように公園で時間を潰していたとき、彼がやってきた。

 その男の心は深い悲しみと諦めに満ちていた。

 彼が何故そんな感情を抱いていたのかはわからない。けれど、私を本気で殺そうとしていたことだけは理解できた。

 その感情を読んだとき、私は嫌だと思った。死にたくないと思った。

 訳も分からず父親が殺人鬼になり、訳もわからず母親が死に、訳も分からず妙な男たちに追われた。

 ずっと一人で逃げてきた。ずっと恐怖と戦ってきた。ずっと救いを求めてきた。

 この公園で穿に出会って、私は少しだけ楽になれた気がした。彼らと一緒に遊ぶことがとても楽しかったし、普通の人間になれた気がした。

 強い足取りでこちらに向かってくる男を見て、穿が危険を察知し、彼に掴みかかっていった。が、すぐに吹き飛ばされ、壁に背をぶつけた。

 やめて……やめてよ。やっと安息を感じることが出来たのに、喜びを思い出すことが出来たのに、どうして邪魔をするの? まだ穿と一緒に居たい。私はまだ、生きていたい。

 男がかなりの覚悟を持って挑んできていることはわかっていた。けれど、どうしても、私は自分の死を受け入れることが出来なかった。

 男の姿に恐怖したのか、千花が涙を流し悲鳴を上げた。

 私は現象を使って男を止めようとしたのだけれど、感情が高ぶっているせいで上手く制御が効かなかった。迫りくる男の姿を茫然と見つめることしか出来なかった。

 泣き叫ぶ千花を見て、意を決したように再び穿が男に突撃した。体格の差を埋めるためか、爪や歯を食い込ませ、必死に男の動きを止めようと足掻いている。

 男は邪魔そうに穿の体を引きはがそうとして、彼の顔を殴りつけた。勢いで穿の口から血が飛び、目の前の地面に落ちた。

 男は崩れ落ちた穿には目もくれず、私に向かって歩いてきた。明確な殺意をその目に抱いて。

 私は死にたくないと思った。まだ生きていたいと思った。

 全身の血が煮え立つような強い恐怖を感じた。せっかく救われたと思ったのに。せっかく居場所を見つけたのに、何故それを奪うのかと、いきどおった。

 声は出さなかったけれど、私は現象を使って叫んでいた。悲鳴を上げていた。

 やめて! 私は違う。あなたたちの追っている人間じゃない!

 視界の隅に、泣いている千花の姿が映る。

 穿の笑顔を向けられていた彼女。自分とは違い、両親や友人に恵まれている彼女。

 何でいつも、私が……私だけ……!

 恐怖で頭がいっぱいになり、自分でも何が起きているのかよくわからなかった。一つの感情に意志が集約し、そこにすべての力が向かった。ただ、純粋に彼女が私だったのなら、立場が逆だったのならと、懇願するように願った。

 私じゃない。私じゃない。あの子を追ってよ。私は悪くない。

 制御の効かない現象の奔流ほんりゅうが勢いよく千花に向かっていった。彼女の精神を強く感じ、私はそこに私がいるように錯覚させようとしていた。

 もし私がまともな状態なら、冷静であれば、決してそんな真似はしなかっただろう。けれど、そのときの私はとにかく助かりたい一心で、恐怖から逃げたい一心で、自分の存在を半ば無意識のうちに千花へ押し付けようとしていた。

 溢れ出た精神波が周囲に吹き荒れた。

 私の首を切り裂こうとしていた男の腕が、その瞬間、停止した。

 彼は私と千花を見て不思議そうに首を傾げた。非常に混乱しているように見えた。

 私は涙を流し、男の行動を見守った。

 何も考えることが出来ず、思考を放棄していた。

 男は頭を振ると、苦々しい表情でこちらに向かってきた。どうやら私の現象の影響は上手く働かなかったようだった。

「やめろ……!」

 壁に手をつき立ち上がった穿が、男へ声を上げた。彼の姿を見て、私は強く願った。

 助けて! 助けて! あいつを殺して、殺してよ!

 先ほどと同様溢れ出る力の波が穿に向かって駆け抜けていく。私の精神は彼と連結し、一体化した。

 殺して! 殺して! 殺して!

 現象が、私の意識が穿の体に命令した。濁流に飲み込まれた流木のように、穿の意識もそれに続いた。

 両親が死亡した後に引き取ってくれた夫婦は、前にこんなことを言っていた。

 あなたのような特別な子は、認識が人とは異なっている。普通の人には捉えられない軸を認識することができるのだと。

 恐らく、もともと肉体的な素養はあったのだろう。その瞬間、私の意識に引きずられるように、穿の中で何かが変わった。彼の意識のあり方がこの世界からずれた。

 男に掴みかかった穿の手から、半透明の波のような輪が飛び出し、耳鳴りに似た奇妙な音が響いた。

 それに合わせるように男の胸が裂け、流星のごとく血と肉が周囲に飛び散った。

 男は信じられないという目を穿に向け、そしてすぐに私を視界に捉えると、背中から倒れ込んだ。

 

 流れ込んでくる思念の断片から彼の意識を盗み取った。

 彼はまだ動くことができた。

 立ち上がろうとする彼を、私は制した。

 やめて、立たないで。私は生きたい。まだ死にたくないの!

 何度も何度も心の中でその言葉を繰り返した。制御の効かない現象は、私の気持ちを十二分に彼に伝達した。

 彼は悔しそうに。

 残念そうに。

 そして悲しそうに私を見ると、がっくりと体の力を抜いた。回復しかかっていた細胞の動きがそれで止まった。

 蛇のように流れ出ていく赤い道筋が、着実に彼の命を削っていく。

 最後に放心状態の穿に深い同情の目を向けると、彼はゆっくりとまぶたを閉じ、そのまま息を引き取った。



 血の池の中で、穿は自分の震える手を見つめていた。

 わけがわからなそうに、何かを思い出すように、激しい恐怖と動揺を感じた。

 地面に座り込んだまま、千花はキャンパスを見下ろしていた。穿が途中まで描きかけていた私と彼女の絵が、徐々に赤い色に染まっていく。

 笑顔も、あの明るい表情も、全てが綺麗さっぱりに消えてしまっていた。私がそれを壊した。

 いつもと同じ公園のはずなのに、あれほど私が大切に思っていた場所だったのに、今ではもう別世界のようにしか感じられなかった。

「……カナラ……」

 虚ろな目で穿がこちらを向いた。

 私は彼の顔を直視することができず、視線を逸らした。

 恐怖による感情の高まりが落ち着き、現象の拡散が緩やかになってくると、自分のしてしまったことの恐ろしさに胸がつぶれそうになった。

 私は、千花を自分の身代わりにしようとした。

 私は、自分のために穿を殺人者にしようとした。

 何も考えず、躊躇もなく、ただ自らの命を守りたいがために。

 なんという自己中。なんて酷い人間なのだ。

 こんな女のために彼らは時間を使っていたのか。かばって、守ろうとしてくれたのか。

 ゆらゆらと立ち上がった。これ以上、私のせいで傷つき苦しんでいる彼らの姿を見ていたくはなかった。

「ごめん。ごめんね。穿。……千花」

 私なんかと出会ってしまったばっかりに、あなたたちをこんな目に遭わせてしまった。味わう必要のない恐怖を、危険を与えてしまった。

 私は自分に関する記憶を彼らから消そうと試みた。しかし現象がうまくコントロールできず、彼らの精神に十分な影響を与えられなかった。

 私という存在をいくら消しても、何故か千花が私に成り代わったり、穿が千花の存在を忘れたりした。

 何とか彼らの記憶に整合性をつけようと足掻いていると、突然千花が立ち上がり、私たちとは逆方向に向かって走り出した。まるで何かから逃げるように必死な形相をしていた。

「カナラ……!」

 恐怖で混乱しているのか、彼女に向かって私の名を叫ぶ穿。しかし千花は止まらず、そのまま遠くへ走り去っていく。あっという間に彼女の姿は暗闇の中にかき消えてしまった。

 茫然とした穿は、今度は私に目を向けた。何も見ていないような真っ暗な目だった。

 血まみれの足に力を込め、立ち上がろうとする穿。

 私は彼に何かを言われることが怖かった。彼に敵意を向けられることが怖かった。

 だから私は、自分の姿を彼の目から隠した。幻覚を見せ、居ないように見せた。

 金色の月が、穿と木陰にいる私の間を照らす。

 パトロール中の警官が穿の姿を見つけるまで、私はただずっと、彼の空虚な目を眺めていることしかできなかった。






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