第三十四章 殺人マリー(後編)
1
しばらく僕の顔を虚ろな表情で見つめていた彼女だったが、急にはっとしたように手を放した。一歩後退しながら警戒した目でこちらを見つめる。
僕は苦笑いを浮かべながら、
「ここ、結構不良のたまり場になってるみたいだぞ。早く帰ったほうがいい」
親切心で言ったつもりだったのだが、彼女は突き放すように答えた。
「別に、あんたに関係ないでしょ。私は好きでここにいるんだから、気にしないで」
「好きって、こんなとこで何してるんだよ。危ないぞ」
「私の勝手でしょ。うるさいなぁ」
面倒くさそうにその少女はため息を吐いた。続けて何かを観察するようにこちらを再びじっと見つめる。まるで心の中を見通されているような気分だった。
しばら無言の時間が経過したあとに、その少女は驚いたように肩眉を上げた。
「……ふ~ん。あんた面白い経験をしてるね」
「は? なにが?」
「別に。独り言」
意味の分からない台詞を吐きながら、少女は再び瓦礫の上に座り込む。どうやら移動する気はなさそうだったので、僕は微かなため息を吐いた。
「ずっとここにいる気なのか?」
「そうだよ。ここって落ち着くの。静かで、荒廃的で、なんだか世界に私一人だけになれたような気がして」
「家出とか?」
「どうでもいいでしょ」
つんとした態度で僕の質問を拒絶する少女。いくら警告しても聞く耳は持たないようだ。僕は仕方がなく、一旦退散しこっそりと警察へ「家出少女がいるから保護してくれ」と連絡しようと思った。
しかし、回れ右をしようとしたところで彼女に呼び止められた。
「ねぇ。どうせ警察に連絡をしても無駄だよ。あの人たちに私の姿は見えないんだから」
「何を言ってるんだよ」
「――……私はね。超能力者なの」
突然の突拍子もない言葉に、僕は眉を上げた。どうやら痛いタイプの人間らしい。
「失礼だね。私はまともなんだけど」
「まとも? 何が?」
「今私のこと妄想癖のある人間だと思ったでしょ」
ちょうどそう思っていたところなので、思わずどきりとしたが、顔に出すことだけはなんとか我慢した。
「いきなり超能力者だなんて言われたら誰だってそう思うだろ。……邪魔だって言うのなら俺はもう行くよ。一応忠告したからな」
今度こそと思って立ち去ろうとしたのだが、またもや彼女に呼び止められた。
「あっ……ちょっと待って真理くん」
「え? ――何で俺の名前知ってるんだよ?」
もしや中学時代の同級生とかだろうか。それとも殺人マリーの噂を知っていて?
疑問に思ったのだが、僕を怖がっているようには全く見えない。なんだか不思議な気分になった。
「あんたいい人そうみたいだから、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
「何だよ」
「実は私、ちょっと体調が凄く悪くてね。あんまり長い間動くことが出来ないんだ。それで出来れば何でもいいから食べ物を買ってきて欲しいんだけど」
「はあ? 何で初対面の女に俺が飯を恵まないといけないんだよ。全然元気そうじゃないか。そんなに困ってるならさっさと自分の家に帰ればいいだろ」
「それが不可能だからお願いしてるんでしょ。本当に体調が悪いんだって。これでも必死に痛みに耐えてるんだから」
何だ? 猛烈な腹痛でも我慢しているというのか?
先ほどまではあれほど僕を突き放してきたというのに、急な態度の変わりようだ。僕は困惑したが、家出少女の我がままに付き合ってやるほどお人良しでもなかったため、その言葉を無視することにした。
「はいはい。それは次にここへ来たやつに頼むんだな。きっと鼻ピアスをつけたヤンキーが親身になって話を聞いてくれるぜ」
「ちょっと、待ってって……!」
少女は手を伸ばし引き留めようとしたが、それでもかまわず扉に向かって足を進めた。変なやつに絡まれてしまったと思いながら、そこを出ようとしたところで、
「あんたのお父さんに濡れぎぬ着せたやつを、見つけてあげるから」
滑り込むようにその言葉が耳を突き抜けた。
思わず足が止まった。
何故、そのことを知っているのだ?
僕は全身の毛を逆立てながら少女を見返した。
「言ったでしょ。私は超能力者なの。あんたの記憶を読むことだってできる。……あんた、どうやらちょっと私と関係あることに巻き込まれてるみたいだし、協力してくれるなら見返りを渡せるよ?」
「お前……何なんだよ。犯人の仲間なのか」
「だからあんたの記憶を見たって言ってるでしょうが」
少女は面倒くさそうに瓦礫の上に丸めた手を置いた。
「これで信じられる?」
そう少女が呟いた直後、急に周囲の景色がたわんだ。
ぼろぼろの壁が、砂だらけの地面が、波打ちながら姿を変えていく。
――嘘だろ。何だよこれ……!?
僕が恐怖を感じた直後、景色の流動が収まり視界が安定した。生い茂る緑色の草木に、たくさん生えている黄金色のタンポポ。いつの間にか僕は、住宅街の隙間にあるような狭い公園の中心に立っていた。
「何だここ? どうなってるんだ?」
「あははっ。間抜けな顔。これは私が見せてる幻覚だよ。言ったでしょ。私は超能力者だって」
「幻覚? これが?」
目に映る光景はあまりにリアルだ。風の感触や草木の匂いまでしっかりと感じることができた。瓦礫の上に座っていたはずの少女は、いつのまにか海沿いのコンクリートの淵の上に座っていた。横には何故か真っ白なキャンパスノートが置いてあった。
「どう? 信じる気になった?」
さわやかな笑顔を見せながら悪戯っぽく微笑む少女。
こんな光景を見せられて信じないわけにはいかない。僕が息を飲んでいると、彼女は満足げに鼻を鳴らした。途端に景色が豹変し、元のすたびれた講堂の中へと戻る。
「今のは……本当にお前がやったのか?」
僕は少女のほうを向き、問い詰めようとした。だがいくら待っても返事はない。かすかに聞こえる荒い呼吸音。どうやら苦しんでいるらしい。彼女は自分の体を抱くようにうずくまっていた。
「おい、大丈夫か?」
「……言ったでしょ。体調が悪いって」
額には大粒の汗が浮かんでいる。相当な無理をして先ほどの幻覚を作ったようだ。事態が全く飲み込めてはいなかったが、苦しそうな彼女を見ていると、急に悪いことをしてしまった気になった。
「横になったほうがいいんじゃないか? 水飲むか?」
「……大丈夫。ちょっと休んでいれば回復するから。でも……これで何で私が助けを必要としているかわかったでしょ。この力のせいで体がおかしくなているの。ほんとは私、もう立っているのも辛いんだ」
ここぞとばかりに弱そうな表情を浮かべる少女。その顔を見て、僕は何故か申訳ない気分になってしまった。
「わかったよ。飯を買ってくればいいんだろ」
「牛肉たっぷりの弁当と……桃の天然水がいい……」
「すぐに戻ってくるから、待ってろ」
焦っていた僕は、何も考えずそう復唱し、三百メートルほど遠くにあるコンビニへと全力で走っていった。
空の弁当箱を横に置くと、彼女は満足げな笑みを浮かべた。久しぶりにご馳走を食べたといった表情だ。頬には米粒までついている。
今さらになって若干騙された気がしなくもないが、彼女の胃に飲み込まれた弁当となけなしの小銭はもう元には戻らない。僕はその代わりと言わんばかりに、彼女に先ほどの言葉の説明を求めた。
彼女は僕の顔をじっと見つめた後、雑談をするように軽やかに語り始めた。
彼女の家は昔から代々身近で不思議なことが頻発していたそうだ。霊感が強かったり、見えない人間の声が聞こえたり、とにかくそういった超常的な能力を持つ家系の生まれだった。
ある日、彼女の家に強盗が押し入った。
警察を通報しようとした彼女の母は、口封じのため強盗に腹部を刺され、彼女を守る様にして息絶えた。悲鳴を聞きつけ二階から降りてきた彼女の父は、血溜まりの中に倒れる妻と娘を目にし、絶叫した。母の胸に抱えられていたからか、彼女の父は娘も死んだと思ったのだろう。絶望の淵に立たされた彼女の父は、その瞬間、苦しみからある超能力を発現した。それは、人を呪い殺すという現象に特化した力だった。
異様な気配を感じ取った強盗はすぐ様にその場から逃げ出したのだか、力を制御することのできなかった彼女の父は、そのまま近隣の住民を力の余波で殺害しつつ強盗を追った。
総勢二十名。それが、彼女の父の力によってその日殺された住民の人数だった。
超能力による殺害なんて、裁く法律も立証も存在しない。警察ももちろんそれが超能力によるものだとは信じなかった。彼女の父は逃げ伸びた強盗を追い続け何人もの犠牲者を出し、彼女自身は、父を呼び寄せる危険があったため、偽名を名乗らされ遠くに隔離された。
その後どういった経緯があったのかはわからないが、彼女の父は警察に撃たれ死亡したという連絡が入った。
彼女は悲しみと安堵の入り混じった複雑な感情を抱いたものの、その後平穏な生活を送ることが出来たのだが、しばらくして不思議な現象を感じるようになった。
人の心の声が聞こえたり、見たことのない記憶が見えたり。まるで自分と他人の境が無くなってしまったかのような錯覚を覚えるようになったのだ。
それはコントロールさえすれば、幻を見せたり、人の記憶に干渉することも可能であり、彼女は自分が父と同じような力を身に着けたのだと理解した。
そしてそれと同時に、父のことを研究していたというとある研究者が彼女にコンタクトをとる様になった。男の胡散臭さに最初こそまともに取り合わなかった彼女とその受け入り家族だが、研究者は決して諦めようとはせず、段々とその研究者たちの行動がエスカレートしていき、ついには誘拐未遂のような事件を起こした。
このままでは自分を匿ってくれた人々に迷惑がかかると思った彼女は、受け入り家族の記憶を操作し逃亡を図った。だがいくら逃げても逃げても、どこから情報を入手してきたのか、研究者はしつこく追跡を続けてきた。彼女はそのたびに力を使い周りの記憶をごまかし逃げ伸びた。盗み、他人の記憶をあやつって居候するなど、出来ることはなんでもやった。
そしてちょうど半年前、とうとう追い詰められた彼女は激しく追手と争った後、大きな傷を負ってしまった。肉体的な傷だけではなく、それは彼女の力そのものにも影響を及ぼしたらしい。
それからとういうもの、彼女は超能力を使うたびに全身に痛みが走る様になり、以前のように人々の記憶を自由に操れなくなっていった。
この廃墟に逃げ込んだのも、その研究者たちの目から逃れるためだったそうで、痛みで動けなかったときにちょうど出くわしたのが僕ということだった。
「なるほど。それでその追っ手とやらが俺の父をはめたやつに関係してるって?」
「お父さんは被害者の心臓から触手みたいなのが生えてたって言ってたんでしょ。あれはさっき説明した研究者が作り出した五業っていう実験体なの。超能力を量産する研究の上で生まれた怪物。あんたのお父さんに濡れ衣を着せた人間は、きっとその実験体を始末しようとしていたんだと思う」
始末? 仲間割れってことか。
良く事態は呑み込めなかったが、ふと疑問に思ったためそれを口に出した。
「……お前が犯人じゃないよな」
「お父さんは少年って言ってたんでしょ。私じゃないよ」
彼女は疲れた表情で額の汗を拭った。
「さっきのを見たでしょ。私は人の精神に介入することが出来る。あんたが助けてくれれば、その犯人を捜すのを手伝ってあげてもいい。どう? いい取引だと思わない?」
僕は、黙り込んだ。
普通ならばとても信じられるような話ではない。幻覚や精神への干渉などあまりに馬鹿げている。だがどうしてか、この時の僕はその話を信じる気になってしまった。
幻覚を見せられたり、記憶を読まれたからじゃない。その少女に強い興味を感じたからだ。どこか現実離れした彼女の存在感。そして僕と似た境遇。どことなくお互いにシンパシーを感じたのかもしれない。
あまりに急な出来事ではあったものの、どうせ人生にには絶望していたのだ。生きなければならないのなら、希望があるほうがいい。
僕はその日から、父をはめた犯人を捕まえるために、彼女と協力関係を結ぶことにした。
しばらくの間は、まるで執事にでもなったような気分だった。
彼女――真方カナラが空腹を訴えれば、嫌々ながらに買い出しに行き、体調不良を訴えれば薬局に走って薬を飲ませた。ずっと廃墟に籠っているはずなのに、何故か彼女は多額の資金を持っていたから、そういった活動費に僕の貯金を利用することはなかった。正直生活には困っていたので、彼女の補助によって得られる恩恵はありがたかった。
僕の記憶を読んだからだろう。彼女は特に気取ることも可愛子ぶることもなく、まるで最初っから友人であったかのようにフランクに接してきた。体は弱っているはずなのに彼女は太陽のように明るかった。とても悲惨な人生を送っている人間には思えないほどだ。一緒にいると誰しもが笑顔になれる。超能力云々は関係なく、そういう力が彼女にはあるような気がした。
僕の世話のおかげかどうかはわからないが、一か月ほど経ったころには、彼女はある程度散歩にも出れるようになっていた。傷自体は治ってはいないそうだが、体調を整えるこつを掴んだらしい。
夕刻。明社町唯一の川辺を歩きながら、僕はカナラに質問した。
「追われてるんじゃなかったのか? あんまり出歩くと見つかると思うけど」
「普通にしていれば心配はないよ。連中は小学生のころの私の顔しか知らないからね。聞き込みやら現象の発生した痕跡やらなんやらで追ってきてはいるけれど、私とすれ違った人の記憶は前部その瞬間に記憶を忘れさせてるし」
「便利な力だな。そんなものが使えるなら、俺なんかに頼まなくても誰かを操って飯を持ってこさせるなんて簡単なんじゃないか?」
「そいういうことはしないポリシーなの。現象を行使するには体力を使うし、私が記憶を埋め込めばそこらへんを歩いているおじいさんだって、すぐに私のために命を捨てるような信者に変貌させられる。けれど、そんなことをしたらその人の人生はむちゃくちゃになるでしょ。……もう間違いは犯さないって決めたんだから」
カナラはかなり強い口調でそう言った。
過去に誰かを操ってひどい目に合わせてしまったのだろうか。父のことがあるため、なんとなく気持ちは理解できた。
日が落ちてきたのでそろそろ廃墟に戻ることにした。いつの間にか僕は家にいる時間よりも、カナラと一緒にあそこにいる時間のほうが長くなっていた。いつも楽しそうに笑顔を浮かべている彼女だったけれど、その目の奥にはどことなく危うさがあった。母の死を見ている僕は、どうしても彼女を放って置くことができなかった。
来た道を戻り、大きな企業の敷地の前の道路へと出た。
会社帰りなのか、ちらほらと疲れた表情を浮かべているサラリーマンたちの姿が見えた。
前方からも一人の中年の男が歩いてきた。なかなか顔立ちの整った渋い男だ。彼の姿を見た途端、カナラが足を止めた。
「どうした?」
僕が聞いても答えない。全く耳に入っていないようだった。
彼女は「嘘でしょ……」と呟くと、真剣な表情で歩いてくるサラリーマンを見つめ続けた。
僕たちのことを不審に思ったのだろう。サラリーマンは首をかしげるようにこちらを眺めてから、急にはっとしたように足を止めた。そして顔をほころばせながら、
「あれ? もしかして……カナラちゃん?」
「あっ……お久しぶりです。佳谷間さん」
いつにも増して嬉しそうな表情で、カナラは会釈を浮かべた。
どうやらそのサラリーマンは、彼女の古い友人の父親らしかった。とても仲のいい人物で、何度か家にも訪れたことがあるらしい。
しばらく世間話をしていた二人だったが、しばらくしてカナラが会話を切り上げた。どことなく寂しそうな横顔だった。
サラリーマンが離れていったあと、僕は彼女に声をかけた。
「どうかしたのか?」
「ごめん。……ちょっと懐かしい人だったから。なんだか自分でもわからないけれど、泣きそうになちゃって、変だよね。私……。勝手に現象の影響とか出てないといいんだけど。つい穿に会いたいって思ちゃったからなぁ」
彼女が出した穿という言葉の響きが、何となく面白くなかった。
「……行こうぜ。あんまり遅くなると、人が減って目立つ。追われてる身なんだからさ」
「うん。わかってる」
カナラは一瞬両目を閉じると、すぐにいつものような明るさを取り戻して歩き出した。先ほど見せた弱気な表情など、まるで嘘のようだった。
2
カナラの体調がいい時を見計らい、僕たちは町の人間から父をはめた少年の情報を探すことにした。
最初は手がかりなんて得られないだろうと予想していたのだが、しばらくして、数人の記憶から怪しい人物の姿を発見した。黒髪で、僕と同年代の色白の少年。彼は父が犯行を犯したとされる場所のすぐ近くで目撃されており、その姿を頼りに調べていくと、何故か、彼はこの町の文化センターのすぐ近くでよく目撃されているようだった。
翌日。僕たちは文化センターへ向い、その少年の姿を探すことにした。
僕は朝からカナラのいる廃墟へと向かい、彼女のために朝食のパンをコンビニで購入した。
廃墟へ向かうところを頻繁に目撃されていると、怪しんだ誰かがカナラを見つける可能性があるため、なるべく裏路地を通って歩いていると、その道中で、粗暴の悪そうな若者たちに絡まれている少女を発見した。毛先にウェーブのかかった茶髪の少女だった。この時間に制服を着ていないということは、高校には通っていないようだ。どうやら強引に裏路地へ連れ込まれたらしく、ひどく嫌そうな表情を浮かべていた。
余計な争いごとに首を突っ込むべきではないと、最初は立ち去ろうと思った。けれど、すれ違い際に見た彼女が非常に困っていそうに見えたので、頭を掻いて彼らの近くに寄った。囲んでいた若者たちがうざったそうにこちらを見てきた。
「何だてめえ。あっち行けよ」
ツンツンとがった髪を見せびらかしながら、彼が手を目の前で振った。
「嫌がってるみたいだけど、何か揉め事?」
「あっちいけって言ってんだろ」
「警察を呼んだ方がいいなら呼ぶけど」
その少女に向かって呼びかけた直後、若者の一人が殴りかかってきた。
僕はため息をつき、仕方がなく彼に反撃した。喧嘩を売られて引き下がるのは、好きではなかった。
何度か拳のやり取りを繰り返し、お互いいい感じに顔がイケメンになってきたところで、相手の一人が僕のことを殺人マリーだと気がついた。僕は不気味な笑みを浮かべ、懐からナイフを取り出すそぶりを見せると、怖気づいた彼らは尻尾を撒いて逃げ出した。勿論、実際はナイフなんぞ持ち歩いてはいない。
「あの……ありがとう」
若者たちの姿が遠ざかったからか、少女は潤んだ目でこちらに寄ってきた。
「ひどい怪我をしてる」
「大したことねえよ。ちょっと皮膚が切れただけだって」
「……ちょっと、待ってて」
傷だらけのまま荒い呼吸をしていると、その少女が手当てを申し出てくれた。僕は遠慮したのだが、半ば強引にコンビニ横の公園に連れ込まれ、そこで彼女が買った絆創膏を張り付けられた。
僕が照れて黙っていると、少女は面白そうにこちらを見た。何故か好感を持たれたようで、しばらく雑談に付き合わされることとなった。
「ふ~ん。真理って言うんだ。変わった名前なのね」
少女は上品に微笑んだ。きっといい家の出なのかもしれない。
「見せかけだけじゃなく、物事の真実を見極められるようにって、親父がつけた名前なんだ。あんまりその名前の通りには行動できてないんだけどさ」
「そうお父さんが。いい名前だね。名前って呼称でしかないけど、意味を知っていればそれを意識するから自然と影響が出るものだもの。だからそういうのって凄く大事だと思う」
見た目には似合わない、妙に達観した意見を少女は述べた。
しばらく雑談したあとに、僕はカナラの食事のことを思いだした。慌ててレジ袋の中を確認して立ち上がった。少女に礼を言って立ち去ろうとしたのだが、それを見て彼女が質問した。
「それって真理くんの朝ごはん? 朝から随分とたくさん食べるんだね」
「え、ああ。いや違うよ。これは友達の分。何というか、今家に遊びに来ててそれで……」
「家? この近くは廃墟とか工場しかないはずだけれど」
「はずれのほうにはいくつかあるんだよ。目立たない場所だけどさ」
僕はとっさにうそぶいた。
「ああそう。でも、気を付けたほうがいいよ。それってすごく目立つもの。毎朝ここら辺を走り回っていたら、嫌でも近くの人に顔を覚えられてしまう。あんまりお家の場所は特定されたくはないでしょ」
何だ? 変なことを言うやつだな。
僕は不思議に思ったが、人の目を気にしやすい子なのだと思い、それ以上深くは考えなかった。軽く挨拶をし彼女と別れると、真っすぐにカナラの元へと向かった。
文化センターの中は人がよく出入りしているため、殺人マリーという噂で有名な僕はびくびくと肩を縮こまらせていたのだが、カナラが人々の目に僕が別人に見えるように幻覚をかけてくれたため、目立たずに行動することができた。
一日かけ店員や職員を中心に記憶を探してみたのだが、努力の大きさとは裏腹に大した情報は得られなかった。不思議なことに文化センターの中では肝心の目撃情報が一切見つからなかった。
カナラが言うには、どうにもこの場所は妙な感覚がするらしく、何者かに精神干渉を監視されているような気分になるらしかった。
何となくこのまま文化センターに残ることに悪寒を感じた僕たちは、一旦廃墟へと戻ることにした。
怪しい人物がいないか追手に気を付けながら、裏道を歩き続け、小さな町工場が乱立した道の中腹まで出た。
そこで、僕は妙なことに気が付いた。いつの間にか背後に一匹の年おいた犬がいたのだ。その背中には不気味な赤黒い腫瘍がへばりついていた。彼の姿を見て、カナラが緊張感の籠った声を出した。
「まずい。……五業だ」
とっさに走り出すカナラ。僕は慌てて彼女の後を追ったのだが、しばらく逃げたところで足を止めざる負えなくなった。カナラが倒れたのだ。今日一日の行動とさっきの記憶操作のせいで、体力と精神力の限界が来たらしい。そのまま地べたに座り込んで動けなくなってしまった。
「おい、大丈夫か? 早く逃げないと。追っ手とかが来てるんだろ」
僕は彼女の肩を支え、起こそうとしたのだが、そのタイミングで突然、誰かが正面から歩いてきた。
「……まさか。本当にこの町に居るとはな」
かなり背の高い大男だった。短い髪に、大けがでも負ったことがあるのか、全身に縫った後のような切れ込みがあった。切れ込みに合わせて肌の色がところどころ変色しており、彼の強面を一層印象付けている。明らかに普通の男ではない。カナラの話していた追っ手の仲間だろうか。僕はすぐに彼女を担ごうとしたのだが、その前に男が僕の前の前にたち、ぽんっと、肩を叩いた。
「お前は誰だ? ……何も知らないのなら、その女を置いていけ。その女と俺達には特殊な事情がある」
「……悪いけど、俺も無関係ってわけじゃないんでね」
カナラを抱えて逃げ切れるのは無理だ。スキをついて、この男を行動不能にさせるしかない。横を見ると大きな石が置いてあった。僕はとっさにそれを取ろうとしたのだが、手が触れる直前、いきなりその石が僕の顔面めがけて飛び出した。
「うわぁあっつ!?」
慌てて顔をそらして回避した。自分の運動神経の良さを思わず称賛した。
「そうか。関係者であるならば、お前も拘束する必要があるな。悪く思うなよ」
傷だらけの男がそう言うと同時に、回避したはずの石が再び後方から戻ってきて僕の背中にぶつかった。肉がたわむ音が鳴り響き、僕はその痛みに絶句した。
「ポイントは一つだが。十分だろう」
見ると、目の前の石やらゴミやらが全て空間に浮遊していた。ありえない光景だ。思わず我が目を疑う。それらのゴミは一斉に僕に向かって飛びかかり、体にぶつかった。よけてもすぐに戻ってくるためどうしようもない。僕はあっという間に全身を傷だらけにし、石やゴミをまとわりつかせたままその場に倒れた。
「さて。女はもらってゆくぞ」
横たわるカナラに向かって近づいていく男。彼女は悔しそうに男の顔を見上げた。
「俺は八業。こう言えばわかるだろう。お前が居なければ俺たちは長生きできない。悪いが、付き合ってもらうぞ。まだ死ぬわけにはいかないんでね」
そういってカナラの体を持ち上げようとした。しかし腕を掴まれた途端、彼女は強く暴れ男の手から逃れようと足掻いた。
「美しくないな。結果の見極めは重要だ。もうお前に未来はない。そんなに足掻いても何の得もないぞ」
「うるさい。黙れ。私は……私はお前たちの道具になんてならない。私は……生きるんだ!」
「生きればいいさ。ただし〝教授〟の下でな。今よりもずっと安定した生活を送らせてやろう」
暴れるカナラに向かって壁際に置いてあったガラス瓶や石が飛んでくる。頭を石で打たれ、手足をガラスの破片で切り裂かれたカナラは、悶絶し倒れこんだ。
「や、やめろ! 何すんだてめぇ!」
僕は叫んだが構わず男はカナラへの打撃を続けた。確実に動けなくするつもりのようだった。
やめろ。やめろ。そいつは弱っているんだぞ。もう動くこともできない、怪我人なんだぞ。
僕は立ち上がろうとしたのだが、それを見た男が指を鳴らした途端、僕の体は反対側の壁に叩きつけられた。さらに続けざまに別のゴミがいくつもぶつかってきた。まるで僕の周囲だけ重力の中心が壁に変化したかのようだった。
「……真理……!」
頭と口から血を流しながら、僕の姿を見つめる彼女。その目はおぼろげで力が無かった。
やめろ! やめろ! やめろぉお!
全力で力を込めながら壁から離れようと足掻く。これ以上彼女がぼろぼろになっていく姿は見ていられなかった。
「ごめん真理。私……」
既にまともな思考ができないようだ。わずかにこちらに向かって手を伸ばしながら、ぼうっとしたような表情で彼女は小さく呟いた。
「……けて。助けてよ。――穿」
彼女と視界が交差した。その瞬間、何か大きな変化が自分の中で起きたような気がした。奇妙な感覚が脊髄を駆け上り、全身の神経に伝搬していった。
急に周囲の物体の〝つながり〟がわかるようになった。壁のコンクリートとコンクリート。自分の肉と肉。いや、それの材料である酸化カルシウムや鉄分の中。分子と分子を結び付けている力の存在をはっきりと感じた。
僕は無我夢中でそれを消した。物体自体を消失させるわけではない。ただそれを連結させている力を消し去った。
背中の壁がひび割れ崩れ落ち、壁に向かって僕の身体を押し付けていた石が砂となった。重力の発生源が消えたからか、一気に体が楽になる。
「何だと――……!?」
一瞬驚愕の表情を見せたものの、男はすぐにカナラから離れ、僕に向かって複数の石を投げつけた。どうやら触れたものを重力の中心地点へと変えることが出来るらしい。周囲に飛散した複数の石は、それぞれが独立した重力点として、僕の身体を左右あちらこちらに引っ張った。
僕の動きが止まったことを見てとると、男は割れたガラスを勢いよく放り投げた。この一撃で確実に殺すつもりのようだった。
僕は無我夢中で、先ほどの現象を発生させた。
ガラスが体に到達する刹那、半透明の稲妻のような亀裂が自分の体の周りに広がり、切先からガラス片を粉々に砕いていく。同時に僕の周囲にあふれていた重力点も崩壊し、先ほどの石に引き寄せられ浮かんでいたゴミや砂は支えを失ったように地に落ちた。
「……――お前、まさか……!」
表情を一変させ、再度転がっていた鉄パイプやらを投げつけてくる男。しかしそれらの物体はすべて僕の体に到達する前に粉々になり、分解された。
僕は男の懐に飛び込むと、右手の拳の外側を彼の腹部へ強くめり込ませた。
空気を切り裂くような甲高い音が鳴り響き、男の腹部から鮮血が弾け飛ぶ。伸びた半透明な稲妻の余波で周囲にいくつものひび割れができ、男を助けようと飛びかかってきた先ほどの老犬も体中を切り裂かれ壁に激突した。
周囲に白い蒸気が舞い上がり、全身から血を流した男が倒れた。
その姿越しに、悲しそうな表情を浮かべているカナラの姿が目に入った。
3
カナラの説明によると、助けを求める彼女の気持ちが僕の精神に干渉し、その意識の在り方を彼女の次元に近づけてしまったそうだ。
認識によって人は周囲の世界を構築するため、意識に強い指向性があれば特殊な現象が発生するとかなんとか言っていたが、さっぱり理解できなかった。
確かなことは、父の罪を消し去りたい、母の死を無くしたい、殺人鬼の息子という結果を無くしたいと強く深層心理で願う僕の意識が形となったものが、あの‶力を消す力〟という現象として現れたらしい。
僕たちは気絶した男をその場に残し、すぐに現場を離れたのだが、後日、カナラの精神干渉によって、あの男――八業は遺体として発見され、警察に回収されたことが分かった。
その事実を知った僕は、手の震えが止まらなくなり、毎日のように嘔吐を繰り返していたが、肝心のカナラは心ここにあらずといった調子で、何故かずっと不機嫌な様子だった。何を怒っているのか聞いても答えてはくれなかったが、どうやら僕にあの力が発言したことが、気に食わない様子だった。
不機嫌なカナラと一緒に廃墟にいるのが気まずかったので、気分転換に近所の公園を歩いていたところ、前に不良から救ってあげたあの少女と再会した。
「あら、偶然だね」
彼女は以前と同様にラフな格好で、相変わらず学校には通っていないようだった。
「ああ。お前か」
僕は別に彼女と深い話をするつもりなんてなかったのだが、彼女はゆっくりと僕の隣の椅子に腰を下ろした。
「この前はありがとう。おかげで助かったよ」
「別に、大したことはしてない。たまたまむしゃくしゃしてたから、あいつらに当たっただけさ」
そういってそっぽを向くと、彼女は足を組み直し聞いてきた。
「……何だか、元気が無さそうだね」
「ああ、ちょっとな」
僕は話を濁そうとしたのだが、何故か興味を持ったのか、彼女はしつこくその理由について聞いてきた。このまま公園から立ち去ってもよかったのだが、この時の僕は、何となく誰かに話を聞いて欲しくて、内容を置き換えて自分の苦しみを吐露した。誰かと会話をするのは久しぶりだったからかもしれない。
「……この前、自転車で友達の猫を引いちゃってさ。その猫が今日死んだんだよ」
「猫? ふ~ん」
その少女は僕の話を聞いた後、実にあっさりとした様子で小首をかしげた。
「それは事故なんでしょ。あなたに何の不備があるというの? そこまで苦しむ理由がわからないのだけれど」
「わからないって、だって死んだんだぞ。相手の気持ちを考えれば、申し訳ないじゃ済まないじゃないか」
「人は誰だって殺しを行っているじゃない。あなたが毎日食べている肉は長年生きていた豚や牛の体だし、飲んでいるジュースやお茶は植物の体を刻んで混ぜ込んだものでしょう? 生物の命に価値を決めつけているのは人間の勝手。食事生産の過程を人間で置き換えれば、あなたはすでに大罪を犯しているということになるのだけれど。そもそもその残酷という感情すら人間が勝手に押し付けているものだけれどね」
「な、何を言ってるんだお前……――」
「人間の意識から離れた客観的な意見を述べてるだけだよ。あなたが‶八業〟の死を悔いる必要はない。彼は自らの意志であなたに挑み、そして敗北した。それは豚の命を刈り取るときのような逃げ場のない強制的な採取ではなく、自由意思による結果でしょ。何故それを悲しむ必要があるの?」
何だこの女? 何を言っているんだ?
僕はとっさに立ち上がり、少女に警戒の目を向けた。
あのとき、裏路地にいたのはただの偶然だと思っていたが、まさか――。
「お前……あいつらの仲間なのか?」
彼女はウェーブがかった毛先を指で遊びながら、
「本当はもっと様子を見るつもりだったのだけれど。あなたがあまりに不甲斐ないからね。少し口を出すことにしたの。――私は十業。八業と同じ研究室から脱走してきた人間だよ」
「十業?」
カナラから聞いた情報では、実験体は九体しか存在しなかったはずだ。一体この女は何を言っているのだろうか。
「あなたが八業を倒したせいで、教授は本腰をいれてくるはず。きっと残り八体の実験体を全部投入するかもね。――でも、それは逆に言えばチャンスでもある。教授の駒を倒し続ければ、いずれ教授本人がここへ姿を見せるかもしれない。まあ、それまであなたたちが生きていればの話だけれど」
どういうことだ。この女はあの八業の仲間のはず。何故、僕に協力するような台詞を吐くのだろうか。全く持って理解が追いつかない。
僕は問い詰めようとしたが、彼女は立ち上がると公園の出口に向かって歩き出した。僕は彼女のことを追おうとしたのだが、何故か急に霧が出てきたため、一瞬の隙に、その姿を見失ってしまった。
その後、十業と名乗った少女の言う通り、町で異様な現象が多発するようになった。
最初の数週間は、五業と呼ばれる寄生体をよく見かけるようになり、僕はカナラを守るためにそれに寄生された動物を狩って回った。
僕の存在を教授側が認知したのかどうかはわからないが、五業狩りを始めてからしばらくして、明社町ではさらに〝触れない男〟などという謎の怪人の噂をよく耳にするようになった。彼は明らかにカナラのことを探しているようで、彼女に似ている少女たちに被害が出始めていた。
このままでは、父親に濡れ衣を着せた真犯人を探すどころではなかった。犯人を見つけるより早く、カナラが教授とやらに捕まってしまう可能性が高かった。
「なあ、カナラ。ちょっとまずいんじゃないか」
廃墟ホテルの講堂。いつもの瓦礫山の上で休んでいたカナラに向かって声を掛けると、彼女は実に落ち着いた表情で振り返った。どういうわけか、いつものような疲労は見えなかった。
「――問題ない。予定通りだ。彼らは私たちには勝てないよ。お前のその力は非常に強力だ」
まるで別人のような口調。僕は違和感を感じたが、構わず会話を続けた。
「俺はもう人殺しなんてしない。あんなことは二度とごめんだ。記憶を消したりして追い返せばいいだろう」
「知っての通り、私の体は弱っている。今の力では彼らとまともに戦えるか怪しい。まだお前には頑張ってもらう必要がある。そうだな……その罪悪感がじゃまだというのなら、楽にしてあげよう」
そういって僕の目をまっすぐ見つめるカナラ。射るような視線に穿たれた僕は、何だか奇妙な立ちくらみを感じ、仰け反った。
「生きるために殺すのは当然のことなんだ。同じ枠――限られた空間内でレゴブロックの塔を積み上げたいのなら他の塔を崩すしかない。それは当然の代償なのだから」
実に感情の籠らない話し方だ。だがどういうわけか、僕は彼女に対する違和感を急速に喪失していった。
僕にはカナラが必要だ。彼女が居なければ父の無実を証明することは出来ない。犯人はこの明社町の近辺に住む人物のはずなのだ。カナラと二人で一時的に町から遠ざかろうかとも考えたが、時間が経てば立つほど犯人の足取りを追うことは出来なくなる。なにより、追われている身ではまともに人々の記憶を読み歩くことすら出来ない。
僕たちは話し合った末、先に実験体たちを始末する方向に方針を変えることにした。彼女にとっても、僕という強力な武器を得た今が、生き残る最大のチャンスでもあったのだ。
ある日、僕たちは偶然カナラの力で五業に寄生された男を発見し、追いかけた。動物だけではらちが明かないと思ったのか、五業は人間への寄生を本格的に開始したようだった。
僕たちの姿を目にした五業はすぐに逃げ出した。情報を本体に伝えることを優先したのだろう。当然僕たちはすぐに彼の後を追い、あと少しというところまで追い詰めた。
辛そうに汗を流しながらカナラが前を指さす。
「この坂を下りて、あの角を左に曲がったところにいる」
「わかった」
実験体の電波のようなものを感じているのだろうか。彼女に絶大な信頼を置いていた僕は、すぐに五業に迫り亀裂を打ち込もうと考えていたのだが、途中でいきなりカナラの足が止まったため、怪訝に思い振り返った。
彼女は坂の中腹で、川辺のほうをじっと見ていた。
響き渡る楽しそうな笑い声。その川辺では、何人かの人々がバーベキューを行っているようだった。
カナラはとても複雑な目をしていた。悲しそうで、どこか嬉しそうで、懐かしいものを見るような瞳。彼女とあってから、そんな表情を目にしたことはなかった。
「どうした?」
僕は不思議に思って質問した。
「……まさか。……本当に来ちゃうなんて」
「来ちゃう? 誰が?」
彼女の横に立ち、川辺の集団を見つめる。
「やっぱりあのとき思い出したのがダメだったんだ。私は今、思うように現象が操作できなくなってるから」
彼女の視線はある一人の少年に向けられていた。後ろ髪がわずかに逆立った端正な顔立ちの少年である。控えめな笑みを浮かべ、隣の仲間と話していた。
「知り合いがいるのか」
僕が聞くと、カナラは以前説明してくれた穿という少年の名前を告げた。
どうやら先日あったサラリーマンは彼の父親で、その時にカナラが無意識の暗示をかけてしまったかもしれないらしい。
「今の明社町は危険すぎる。このままこの町に居たら、いつ実験体たちとの争いに巻き込まれてもおかしくない。早く穿を帰さなきゃ……」
「……だったら急いだほうがいいぜ。この町はかなり閉鎖的だからな。よそ者はすぐに噂になる。こんな状況での転校生なんて、真っ先にあいつらにも目をつけられるぞ」
カナラの友人は帰り支度を終わらせ、仲間と一緒に帰路につき始めた。そんな彼の様子を何とも言えない表情で眺めながら、カナラは自分のスカートのすそを握りしめた。
「わかってるよ。すぐに……――」
ため息をつき、顔を上げようとしたところで、僕たちの目にある光景が映った。先ほど取り逃がした五業の寄生者が、カナラの友人たちのところへと向かっていた。ひどい手傷を負わせていたから、なりふり構わず新しい媒体を得ようとしているらしい。カナラははっとしすぐに友人の下に駆けだそうとしたのだが、急に立ちくらみを覚えたらしく、その場に座り込んでしまった。
「おい、大丈夫か」
「いいから、行って。早く五業を止めて」
このままでは穿が危ないからだろう。自分の体などどうでもよさそうに手を前に振った。
僕は彼女のことが心配だったけれど、確かにその穿とやらが五業に寄生されれば、相手をしずらい。すぐに走り出し、寄生者に留めを刺そうと思った。
だが一歩遅く寄生者はカナラの友人の目の前へと出てしまった。僕は全力で走っていたが、このままでは五業が彼の体に移り替わるのを防ぐことはできない。焦りを覚えた瞬間、――突然その寄生者が燃え上がった。全身から強烈な炎を立ち上らせ、大きな悲鳴を上げた。
「な、なに……!?」
思わず足を止め目を見開いた。
ありえないほどの火力で燃やされた寄生者はすぐに力つき、その場に崩れ落ちた。少年たちはパニックに陥りその状況を見ていた。
どういうことだ? 明らかに普通の火じゃなかったぞ? まるで超能力で燃やしたような。
周囲に目を配らせると、左の小道のほうで走り去る影が見えた。自分と同じくらいの背丈の人間だ。
すぐに追うべきかと思ったのだが、カナラのことを思い出し踏み留まった。得体の知れない人間が近くにいるのなら、彼女を一人にするべきではない。
僕は坂の上に駆け戻ると、すぐにカナラを起こしその場を離れた。騒ぎを聞きつけたのか、周囲では家の明かりが次々につきだしていた。
4
数日が経ち、体調が戻ったカナラは、すぐに穿というその友人を都心へ戻そうと試みた。
学校から出てくる彼を監視し、一人きりになったタイミングを見計らってコンタクトを計った。
正直言って会話をする必要なんてなかったのだけれど、久しぶりに会う友人だから挨拶をしたかったのだろう。僕は若干複雑な思いで遠くからその様子を監視していた。
会話が終わり、カナラが倉庫裏へと戻ってきた。僕は疲れた表情を浮かべている彼女に問いかけた。
「どう? 上手くいった?」
だが彼女の返答は予想外のものだった。
「それが、変なの。どれだけ頑張っても何故か穿に暗示をかけれない。何か私の内側からそれを食い止めようとするような力が働いているみたいで、力の干渉がキャンセルされる」
「は? 言ってることが良くわからない」
「私にだってわからないよ。変なんだもん。でも本当にあいつに暗示をかけることができないんだって」
僕は最初穿と別れたくないための言い訳だと考えたのだが、カナラの様子を見る限りそうでもないようだ。若干疑いは持ったものの、仕方がなく廃墟へと戻った。日を改め後日また挑戦すればいいと思っていたのだが、事態は予想外の方向へと転倒した。
その穿という少年は、僕と同じように超能力を発現しているそうだった。彼の様子を見に行ったときに、カナラが記憶を読んでわかったことなのだが、どうやら彼はその力で実験体の一人と交戦し、既に目をつけられてしまっていた。
彼や彼の父親に暗示を掛け、都内に戻らせることが出来たとしても、教授たちが彼のことを追いかけ見つけ出せば、もはやカナラには何も出来ない。仕方がなく彼女は穿に暗示をかける試みを諦めた。穿がこの町に居る間に、教授を含めた実験体たちを全て処理しようと決意したのだ。
だがしばらくして、穿はこちらの預かり知らぬ場でその実験体を殺した。遺体は交通事故に見せられ、心臓を木片で一突きにされたらしかった。
カナラは穿を巻き込んでしまったことに酷く心を痛めているようだったが、僕は、彼を囮にすればもっと楽に実験体たちを処理できるかもしれないと、密かに希望を抱いた。
5
事件から半年が経ったというにも関わらず、町ゆく人々の僕に対する反応は変わらない。
殺人マリー。イカれた殺人鬼の息子。父親の真似をして動物を殺しまわっている。
何故か知らないが、カナラの話では一部の区で、僕は女性だと思われているらしかった。名前の所為かもしれないとカナラは推測した。
気分転換のため公園で一息ついていると、ベンチの横に人の気配を感じた。カナラかと思い顔を上げたのだが、そこに立っていたのは、十業と名乗ったあの少女だった。
「……お前――」
「上手くやったみたいね。これでもう、九、八の二体がいなくなった。町に来ている残りは五、六、七の三人だけど、六はたぶん、穿って子がやってくれそうだね。六業の方からアプローチを掛けてるみたいだから」
「お前は一体誰なんだ。何が目的なんだよ」
彼女の言葉をぶっきらぼうに遮った。
「私はただ生きたいだけ。真壁教授さえいなくなれば、私は自由になれる。実験体たちはカナラを捕まえれば長生きできると思っているようだけど。私はそうは思わない。彼女を使えば超能力者なんていくらでも量産することができるんだもの。都合よく使い捨てられるのがオチでしょ」
「例の教授と戦うことが目的なら、カナラに直接会って協力すればいいじゃないか。何でいつも俺の前にしか現れないんだよ」
「あの子は人の精神を操れるんでしょ。近づいて利用されるのはごめんだもの。それに、こうしてあなたと会話していれば、あなたの記憶を読んで私の意思は伝わっているはずでしょ」
「確かにそうだけどさ」
僕はどことなく腑に落ちない気持ちで答えた。
カナラから十業について話をされたことなんて、今までに一度もない。まるで、その部分だけ都合よく僕の記憶が見えていないかのように。
「今後あなたたち、いや、私たちの目的を達成する上で、一番の邪魔になるのは五業。彼さえいなければ、たとえ教授がやってきても情報戦で不利になることはない。私も私で色々と動いていてね。五業の本体に近い分身体に寄生されている人間を見つけたの。太一って男なんだけど」
「そいつを殺せって?」
「違う。彼に寄生している五業は本体にかなり近い個体なの。捉えて記憶を覗くことが出来れば、いい情報を得られるかもしれない。分身体を経由して本体の居場所を発見することだってね」
「ああ……なるほど」
今までに僕が殺してきた五業は、全て記憶領域をどこか別の肉体に置いたただの傀儡だった。だからいくらカナラが接触しようとしても、精神干渉が本体に届く前に逃げられていたらしい。五業の分身体たちの中で彼の超能力を行使することが出来るのは、彼が人間だったころの肉体をベースにした分身だけだ。そしてその分身体を経由して、本体の人格や記憶のやりとりを寄生された生物と行っている。
この十業と名乗る少女の言葉に従うのは気に食わなかったが、実践すれば、確かに目障りな五業を一掃し、教授に近づけるかもしれない。
僕の心の揺れを感じ取ったのだろう。十業は一方的に太一の住所を伝えると、さっそうとその場を離れていった。
その日、家から出てきた太一は、明社町の中をふらふらと歩き回り始めた。はたから見ればただ暇をつぶしている少年にしか見えなかっただろうが、五業が寄生していると考えると、その行動は僕とカナラを探しているのだと推測することが出来た。
ひと気が少なくなった場所で、僕は彼に接触してみた。最初こそ素知らぬふりをしていた太一だったが、僕が亀裂を使いかまをかけてみると、あっさりと正体を現した。
いつの間にか複数の寄生された犬がそこに現れ、僕の周囲を取り囲んでいた。あらかじめ太一は自身を守るために、分身を近場へ待機させていたようだ。
僕は何とか太一に寄生している腫瘍へ一撃を打ち込んだのだが、寄生犬に気を取られた隙に、太一はその場から逃げ出してしまった。寄生犬を全滅させ慌てて追いかけていくと、古びたゲームセンターの中へ逃げ込んだようだった。
ゲームセンターの中は多くの若者で溢れていた。ここに来るのは中学のとき以来だったが、何も様子は変わっていないようだ。僕の顔に気が付いた何人かが、殺人マリーだとひそひそと噂話をしていた。
彼らの間を通りすぎ通路を進んでいくと、レースゲーム用の台座の前で休んでいる太一の姿を見つけた。
適当な台座の前に座り、ゲームをしているふりをしていると、太一が関係者用の扉を開けその中へ消えていった。
このゲームセンターは小さい頃からよく遊んでいたから、ふざけて職員用通路に入ったこともある。僕は別の扉から職員用通路へ出ると、そこで太一を追い詰めた。
カナラによって発現させられた〝亀裂〟の現象を行使し、彼の腹部に寄生していた五業の分身である腫瘍をちぎりとった。暴れる腫瘍を金属製の箱の中にしまい、そのまま悠然と正面から外に出た。
駐車場のほうで犬の声が聞こえた気がしたが、別に襲い掛かってくる様子もついくる気配も無さそうだったので、無視して帰路へ着いた。
捕獲した五業の分身は、何故か上手く記憶を読み取ることが出来なかった。カナラの推測によると、精神干渉対策として何らかの措置を施している可能性が高いらしい。
だが、例え記憶を読むことは出来ずとも、その精神に接触さえすれば、五業の本体の居場所を感じ取ることはできた。カナラは五業の分身へ意識を伝達している大本を追いかけ続け、とうとう彼の本体の居場所を特定した。
五業の本体は僕と同じくらいの少女に寄生していた。三つ編みの大人しそうな子だったが、五業の影響でその表情は気味悪く歪んでいた。
僕が道路下の空地まで追いつめると、五業は観念したように戦闘態勢をとった。同時に、彼に呼ばれたのか多くの寄生体たちがそこに集合し、僕を囲んだ。どの動物も原型を整えてはおらず、ホラー映画に登場するモンスターのような血管や目玉が飛び出した異様な姿をとっていた。
圧倒的な五業の物量によって全身を血だらけにしながらも、僕は構わず猛攻を続けた。だが流石に数の部が悪すぎたため、次第に追い詰められ動きが鈍っていった。五業は死に物狂いで生きようとしているのだ。こっちも同じような覚悟がなければ、殺しきることはできない。こちらの〝亀裂〟が発動する時間は一瞬だけだ。五業はそこを狙って攻撃を繰り返していた。
隙をついて攻撃してきた五業に対処するため、僕は自分の体に流れる痛みに歯を食いしばり、〝亀裂〟の現象を発生させ続けた。連続で起こすのではなく、継続で起こす現象。稲妻のような亀裂は空中を伝わり、次々に五業たちの身体を切り裂いていった。
全身と鼻から血を流しながら、僕は最後に残った五業の本体へ近づいた。戦闘を開始したのは十八時を過ぎた頃だったが、すでに三十分以上は経過していた。これほど長い間戦い続けたことはなかったため、体は限界近かった。
僕は五業の本体を少女から引き離すと、現象を乗せた手で強く握りしめた。水風船が割れるような音が鳴り響き、肉と血が飛び散った。
そのまま疲労で倒れこむと、目の前に倒れている少女の体からもう一体、ずるずると頭太い筋肉をむき出しにした魚のようなものがはい出してきた。それは僕を見てほくそ笑むように顔を歪めた。
まさか、あっちが本体なのか。
僕は立ち上がろうとしたが、一旦緊張の切れた体は思うように動かなかった。そのまま迫ってくる五業を目視しつつも、段々と意識が遠ざかっていく。目の前に醜い肉の塊が見えたところで、僕の視界は途切れた。
深夜。目を覚ますと、顔から数センチのところで、五業の本体が死んでいた。何か重いもので叩きつけられたかのように、大きな石がその体の上に乗っている。上にある道路のコンクリートか何かが落ちたのだろうか。偶然にしては出来すぎている気もしたが。
僕は立ち上がると、深い息を吐いた。これで町にいる実験体はあと二体だけ。だが十業の話を信じるなら、六業は穿と接触を試みているらしい。
僕は怪我だらけの体を支え、カナラのいる廃墟へと足を引きずるように戻っていった。
その後、十業からの情報提供によって、僕たちは七業と呼ばれる女を発見した。
ぼさぼさ頭のかなり変わった女で、カナラの追跡をほとんど五業に任せ、自分は山に近い土地の空き家で引きこもり生活を満喫してたらしいのだが、五業が死んだことで仕方がなく外に出ることが多くなり、それで足がついた。
僕は放って置いても無害なのではと思ったのだが、叩けるなら叩いておいたほうがいいとカナラが指示してきたため、不本意ながらも彼女を捕まえることにした。いつもなら僕一人で対処するのだが、その日は体調がいいからとカナラも一緒に着いてきた。
多数の畑の奥にある空き家へ侵入し、七業が寝ている間に動きを封じる。そういう予定を立てたのだが、いざ行動してみると、思うようにはいかなかった。
家の前の畑に足を踏み入れたところで、僕たちは急に足が土にめり込み動けなくなった。必死に足を抜こうとしていると、パジャマを着たままの七業が、古びた家から外に出てきた。
「あら、そっちから来るとはねぇ」
自分の髪をくしゃくしゃにかき乱しながら、七業が興味深そうにこちらを見た。
「……おとなしく付いてこい。抵抗しなければ何もしない」
もうこれ以上人を殺したくはないという思いからそう言ったのだが、何故か、心のどこかから〝あの女を殺さなければならない〟という思いが勝手に湧き上がってきた。
僕は自分の気持ちの矛盾に混乱した。
「おたく……例のあれ? カナラとかいう女が護衛として作った駒でしょ。噂は聞いてる」
七業は大きくあくびをしながら歩き出した。
「思ったより若いんだね。てっきり屈強な大学生とかをたらしこんだのかと思ったんだけどさ。ま、別にどうでもいいけど。……うちを殺すことはできないよ。だってあんた、もう詰んでるもの」
「……つんでる?」
意味が分からず首を傾げると、急に足が土の中にめり込んでいった。まるで最初からこれくらいの深さであったかのように、一気に太もものあたりまで体が沈んでいく。
「な、何だこれ?」
「うち、めんどくさがりだからさぁ。自分から隠れている人間を探すのは、嫌だったの。どうせ待ってれば他の誰かが見つけてくれるだろうしね。……でも、万が一向こうから来た場合に備えて、用意はしていた」
さらに体が沈んでいく。もうほとんど腰のあたりまで泥に漬かっていた。
おいおい、畑ってこんなに深かったけ? どうなってんだ!?
もがいても足は全く動かない。このまま頭まで引きずり込まれれば、間違いなく窒息死するだろう。
仕方がなく僕は〝亀裂〟で周囲の土壌を吹き飛ばした。
「あっ」
声を上げる七業に向かってますぐに突っ込む。何の現象かはわからないが、直接的なものではないようだ。発生させる前にけりをつければ、簡単に勝てると思った。
「ざんね~ん」
畑から外に踏み出した途端、鋭い痛みが足の裏に走った。見ると、無数の小枝が突き刺さっていた。
先ほどの土への沈み込みといい、一体何をされてるんだ?
同じ場所に立っていては危険なので、とりあえず左に回避した。七業はぼうっとした目でそんな僕を観察していた。
本人が何かしているようには見えなかった。彼女は先ほど用意をしていたといった。つまりこれは、何らかの条件によって後発的に発生する現象ということなのだろうか。もしそうだとしたら非常にやっかいだ。なにせ、どういうタイミングでどんな攻撃が起こるのか、こちらには全く把握できないのだから。
いくら七業に近づこうとしても、そのたびに不測の事態が起こり、自分自身がケガをした。彼女はまるで運命に守られているかのようだった。
このままではらちが明かない。僕は強引に突っ込もうとしたのだが、それと同時に狂風が吹き背中を強く押された。迫る地面の上には何故か先のとがった大きな石が置いてある。それが側頭部を貫くぎりぎりのところで、僕は〝亀裂〟によってそれを破壊した。割れた断片によって頭を割かれ、血が滴った。一瞬でも現象を起こすのが遅ければ、どうなっていたかと思うと、心底ぞっとした。
何だか強く攻めようとすればするほど向こうの抵抗も強くなっているみたいだ。摩訶不思議な現象である。どうすればいいのかわからなくなっていると、後方に控えていたカナラが呼びかけてきた。
「真理。落ち着いて。動揺したらダメ」
「……何かわかったのか?」
「この近辺。そこら中から七業の意志のようなものを感じる。私が人の精神に介入できるのと同じように、きっと彼女は周囲の物体に自分の意識を埋め込むことが出来るんだよ」
カナラの話を聞いた七業は、おかしそうに笑った。
「へぇ、すごい。そんなことまでわかるんだ。流石は教授が執着してるだけあるね。うちらみたいな模造品とは出来が違うってわけか」
七業はそう言って自分のぼさぼさ頭を大きく掻き上げた。
「でも、いくら凄い能力だろうと、対策を取られていれば意味はない。うちらにあんたの現象は効かないんだ。あんたに出来ることは、精々そいつの心の声を聴くぐらいなもんさ」
瞬間、周囲の全ての空間が、僕に対し殺意を向けてきたような気がした。木々が、草が、蟲が、鳥が、空気が、風が、ありとあらゆるものが脅威に感じられる。少しでも体を動かせば、何らかの不条理な要素が働いて、あっという間に死んでしまうような気がした。
一歩も動けずに固まっていると、
「大丈夫。真理、私の言葉に従って」
頭の中にカナラのそんな言葉が響いた。
彼女は人の意識を認識する力を持つ。七業の記憶を読んだり彼女に幻覚を見せることは出来なくとも、どこで七業の殺意が深まり、どこで薄まるか、それを把握することは可能だった。
カナラの指示した通りに動き回ると、ぎりぎりのところで不自然な死を回避し続けることが出来た。
これに焦りを覚えたのか、ようやく七業の顔色が変わった。だがその時にはすでに僕は彼女の目と鼻の先に肉薄していた。
「――俺はお前を殺したくない。けど、殺さないといけないんだ」
胸の奥がきゅうきゅうと締め付けられる。しかしここで殺さなければ、カナラと自分の身が危険になるのだ。殺せという指令が、どこからか頭の中に流れ込んできた。
僕は全力で〝亀裂〟を炸裂させると、七業は腹部を押さえて倒れこんだ。まだ意識ははっきりしているらしく、恐怖にゆがんだ瞳でこちらを見上げた。
「痛てぇ……!」
自分の血を見て青白い表情を浮かべた七業。
怯えた目でこちらを見返す彼女を見ると、一瞬手が止まりかけたが、心の奥に潜む何かが彼女を殺せと再び指令してきた。
僕は手を伸ばし、亀裂を発生させようとした。
「ひいっ……!」
手を地面につき、獣のように逃亡する七業。古びた家の中に飛び込み、カギをかけた。僕は〝亀裂〟で扉を破壊し、そこに飛び込んだ。七業は怯えた表情でこちらを見返し、震えた。頭の中では七業を殺さないといけないという意思が蠢いていたが、そんな彼女の姿を見ているとどうしても腕を動かすことが出来なかった。
僕がそんな葛藤に苦しんでいると、何故か、突然七業が苦しみだした。自身の後ろを気にするようなそぶりを見せながら、血を盛大に吐き出した。
「な……んだ?」
一瞬彼女の横の空気が歪んだような気がしたと思った直後、七業は目を見開き、そのまま動かなくなった。
6
五業、七業と、実験体たちの死に際は何かがおかしかった。もしかしたら、八業の死すらも何らかの意思が働いていたのかもいれない。
僕は抱いている違和感についてカナラと相談をしたかったのだが、彼女は最近、一人でふらふらとどこかへ姿を消す機会が増加しており、まともに会話する機会がなかった。たまに廃墟に戻ってきたかと思えば、疲れたように眠りこけ、少しも動こうとはしない。
カナラに対する不信感を募らせていった頃、僕の前に、入れ替る様に十業がよく姿を見せるようになった。
最初こそ警戒心を露わに接していたけれど、他に頼れる人間もいないため、気が付けば、僕は彼女に相談をしてしまっていた。
カナラの様子がおかしいこと。実験体たちの妙な死に様など、不可解に思っていることをそのまま伝えた。
静かに耳を傾けていた十業は、ベンチに乗っていた葉をつまみ、そっと地面に落とした。
「話を聞く限り、カナラはその穿っていう子に会ってからおかしくなったみたいだね。もしかしたら、その少年が彼女に何かしたんじゃない?」
「あいつが?」
「彼の近くには、カナラの現象の一部を移された女の子がいるみたいなの。彼女は頭の中でカナラと繋がっているみたいだから、もしかしたら、その子を使ってカナラを操っているのかもしれない」
「……でも、一体何のために? あいつがカナラを操ってどんなメリットがあるって言うんだよ」
僕は半信半疑になりながらそう聞いた。
「メリットは色々とあるじゃない。彼女を囮にして実験体たちを呼び寄せたり、逆に彼女の力で実験体たちを探したり。目撃者の記憶を消させたり」
確かに、穿と会ってからカナラの様子はおかしくなった。弱り切っていたはずなのに、ふと姿を消すことが多くなり、現象を行使していないはずの日も、非常に疲労していた。
……そういえば、あいつが姿を消した日って、九業と六業が死んだ日だったような……。
考え出すと、怪しい点はいくつも浮かんできた。まるで意識を強制的に誘導されているがごとく、そうに違いないと僕は思い始めていた。
「もし彼が最終的にカナラを自分の道具として確保するつもりなら、実験体たちだけでなく、あなたの存在も邪魔になるはず。やられる前に、先に手を打ったほうがいいかもしれない」
「俺に人を殺せって言うのか」
「何を今さら。すでに三人も殺してるじゃない。……何が大事かよく考えなさい。あなたにとって、カナラは大切な人なのでしょう。このままだと穿に奪われてしまうんじゃないの? 実験体たちと同じ。殺したくなくても、殺すしかないの。法律なんてものは、この事件に関しては何の力も持たないのだから」
僕は死んだ八業、七業、五業の顔を思い出した。今さらもう止まることは出来ない。
「……それは、本当にあいつがカナラを利用しているのかどうか確証を持ってからだ」
「好きにすればいいと思うけれど。痛い目をみないようにね」
どこか含んだ笑みを浮かべながら、十業はそう言った。
「五体の実験体たちが死んだせいで、そろそろ教授自身がこの町にやってくるかもね。彼ならば的確な指示を実験体たちに与え、カナラの力もより深く分析することが出来るでしょう。……私はしばらく身を潜めることにする。彼に見つかれば、どうなるかわからないし」
「なら、俺と一緒に居るか? どうせ同じような身だろ」
「冗談。教授が一番に欲しいのはカナラ何だよ? 何故もっとも危険な場所の近くに居なければならないの」
そう言うと、十業はベンチから立ち上がり歩き出した。いつも通りのどこか優雅な、しっかりとした足取りだった。
教授がこの町にやってきたのは、それから数日後のことだった。
どうやら穿と一緒にいる千花という少女のことを、カナラと勘違いしているらしく、彼女を誘拐しようと試みたそうだ。
五業の寄生体からヒントを得たカナラは、七業を殺したあたりから、千花の隣人に干渉し、彼女を見張らせていたらしい。
カナラは、千花が誘拐されたと知るや否や、その能力をフルに使い誘拐した犯人たちに攻撃をしかけた。
千花の周囲にいる人間に精神干渉し、手当たり次第に誘拐中の実験体たちを襲わせたのだ。操られた人間が怪我をしようが反撃されようがお構いなしだった。
そのカナラの凶行により、教授たちは人目に着く場所を移動することが出来ず、町から出ることが叶わなくなった。まともに争えば操られた人々など敵ではないのだが、無限に湧き続ける襲撃者を撃退していれば、すぐに騒ぎになり目を付けられる。
彼らは千花が力を使いそれを起こしていると勘違いしていたようで、彼女を抱えたままひと気のない場所を移動し続けざる負えない状況となった。
千花が誘拐されたことを、穿が放って置くはずがない。
穿と接触したカナラは、彼の記憶から修玄という男の存在を知った。教授の部下でありながら、穿に見方をしようとしている怪しい男だ。
彼の作戦が上手くいけば確かに教授を無効化することは出来るかもしれないが、代わりに修玄自身が次の脅威になる可能性も高かった。
僕たちは穿と修玄の作戦を利用することにした。
彼らの計画を補佐し、修玄が引き付けた実験体の一人を葬りさり、同時に修玄自身に接触を行い、動きを封じるつもりだった。
トラックが浄水場の中に入り、修玄が運転席から姿を見せる。
僕たちは彼を拘束しようと考えたのだが、そこで突然カナラの様態が急変した。頭を押さえ蹲り、よくわからない小さな悲鳴を上げ始めたのだ。
彼女に触れようとした途端、頭の中に閃光が走り、ある光景が飛び込んできた。
――それはカナラが穿と会話をしている光景だった。夕方。あの灯台下の公園だろうか。
彼が仲間の少女に命令し、嫌がるカナラに何かの暗示をかけていた。「真理を殺せ」と、そんな言葉が聞こえた。
フラッシュバックが解け、意識が元に戻った。そこに三業と呼ばれる男が駆け込んできた。バイクを盗んだようで、トラックの横に慌ただしく停車した。
彼は僕とカナラの姿を発見すると、酷く動揺したようだった。これが罠だと気が付いたらしい。
僕はすかさず彼に攻撃をしかけた。自分の‶亀裂〟を使えば、どんな能力者だろうと勝てると高をくくっていた。
だが、何度拳を打ち込んでも、三業に傷を負わせることは叶わなかった。
攻撃をかわしながら、三業は余裕の表情を浮かべた。
「ぼくにあなたの現象は効きませんよ。ぼくの体は刹那の間に分子同士の連結を解除して、奇跡的な確率で起こるトンネル効果を誘発させることが出来る。どんな攻撃であろうと、物理現象であればぼくの体に触れることはできません」
三業はナイフを取り出し突いてきた。僕は右手で防ごうとしたのだが、刃がすり抜けて僕の胸を切り裂いた。
「あなたの力ではぼくに手も足もでませんよ。このままでは確実に死を迎えるでしょう。……その前に答えてくれませんか。あなたたちが一体何者なのか。そこの少女は誰ですか」
どうやらカナラの姿に疑問を抱いているようだ。このまま僕が負けてしまえば本末転倒になってしまう。僕は必死に打開策を頭の中で巡らせた。
三業の現象は分子結合の瞬間的な解除と再構成。それにより物質の間をすり抜けている。ならば、すり抜けた直後であれば体の分子をつなぎ合わせようとする力が働いているはずだ。そこを狙って‶亀裂〟を打ち込めば、ダメージを与えられるかもしれないと思った。
五業を倒したときのことを思い返した。イメージはあの稲妻だ。
何かを感じたのか、警戒心を強める三業。僕と正面から相対しないように、すっと壁の向こうへ姿を消す。僕はわずかに身をかがめて、その時に備えた。
勝負は一瞬だった。
僕の足元、真下から、ナイフが飛び出してきた。それを回避した瞬間、右方向から三業が切りかかってきた。
僕はそれを左手の側面で受け止めると同時に、右手で彼の首を掴んだ。三業はすぐに透過して腕をすり抜けようとしたが、それに合わせ、僕は可能な限り最大の〝亀裂〟を周囲に広げた。
地面の上を、壁の表面を、稲妻のような半透明の何かが走り回った。
三業は壁の向こう側へ逃げようとしたようだったが、それをすり抜けた瞬間、広がった僕の〝亀裂〟の切先をもろに浴びて悲鳴を上げた。
僕は鼻血を出しながら亀裂を維持し続け、そのまま壁を粉砕して外に飛び出し、三業の目の前に迫った。ここは二階だったため、真下に小さな花壇のようなものが見えた。
雄たけびをあげながら空中で三業の体に再度〝亀裂〟をぶつけると、体中から血をまき散らした三業は、そのまま地面に衝突し、動かなくなった。
重い体を動かし、花壇の上から這い出ると、寝転んでいる三業の前まで移動し、留めを刺そうとした。
この男が意識を取り戻せば、同じ手は効かないだろう。カナラの命がかかっているのだ。躊躇など微塵もなかった。
だが今まさに手を振りおろうそうとした直前で、向かいの物陰から誰かが飛び出した。驚いたことにそれは、例の穿という少年だった。
彼の顔を見ると、急に得体の知れない憎しみが湧き上がってきた。僕は歯を食いしばる様に彼を見返した。
僕を見て、穿はわざとらしく優しい声を出した。
「君はカナラの仲間なんだろう? 僕は彼女の友達だ」
友達? 利用しているだけだろうが。
指に思わず力が籠った。憎しみを何とか隠し、彼に答えた。
「――ああ、お前がそうか。随分と早かったな」
その言葉で安堵したのか、穿は教授の最後についてや、自分たちがどうしてこの場に来たのか説明を始めた。一応筋は通っている内容であったが、さっきの記憶を見た僕にはやつの本当の目的が分かっていた。あいつは僕を殺し、カナラを奪いにきたのだ。悠々と、人畜無害のような態度を取りながら。
三業を殺すふりをすると、穿が飛び込んできたので、それに合わせて攻撃を打ち込んだが、間一髪のところで避けられた。
三業との争いによって体に蓄積したダメージはかなりのものだ。動ける時間は限られている。一発一発、全ての攻撃がとどめというつもりで、拳を放った。
僕と穿はお互いが一撃で相手の命を刈り取ることのできる攻撃を打ち合った。やつの放つ波が頬を掠めるたびに高所から落ちたような寒気に襲われたが、目を見開いて腕を振るい続けた。
拳と拳が衝突し、強い痛みが走った。
――まだだ……!
負けるわけにはいかない。倒れるわけにはいかない。勝たなくてはならない。
さらに力を籠めようとしたところで、――突然、温かい光とともに、視界が真っ白に包まれた。




