第三十二章 陰雨
1
雨が降り始めた。
ぽつぽつと、僕の顔に冷たい雫が乗っていく。
風は猛獣のように唸り声を上げ、周囲の砂やごみを巻き上げて、遠くから遠くへと過ぎ去った。
ついさっきまで体が熱くて仕方が無かったはずなのに、今ではもう何も感じない。南極の海に落ちてしまったかのように、外面も、内面も凍りついている。
視界の中に映る千花は、まどろみの中から物事を眺めているかのように、目の光が消え去っている。僕の瞳もきっとそうに違いない。
「――酷い有様だな」
倉庫から這って出てきた、骨と皮の塊となった四業を見て、真壁教授が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。彼があそこまで悲惨な姿になっているとは思ってもみなかったらしい。
「これを食べるんだ。四業。君ならすぐに動けるようになる」
見るに耐えかねたのだろう。懐から栄養食品のようなものを取り出した真壁教授は、それを真下で震えている四業に差し出した。
四業は見下されていることに怒りを覚えているようだったが、真壁教授には逆らうことができないのか、僅かなためらいを見せたあとにそれを受け取り、口に含んだ。
筋肉が戻ったとまではいわないが、それを食し終わったことで僅かに彼の顔色が良くなる。四業はコンテナに手を当て、老人のようにゆっくりと体を起こすと、僕に向かって憎しみのこもった目を向けた。
「そいつを、殺させろ。そいつは、必要ねえんだろう?」
「優先対象ではないがね。手に入ったのなら、役にはたつ。今の彼はもう私の大切な十業だ。傷つける必要はない」
「我慢ならねぇんだよ。そいつ、俺を哀れみの目で見やがて……」
「いいから四業。お前は自分の仕事をしろ。三業のほうで別の少女と接触したらしいのだが、途中から連絡が途切れた。もしかしたらそちらが本物のカナラかもしれない。お前はすぐに三業の応援にいけ」
「カナラ? その女は違うのか?」
深い呼吸を繰り返しながら、四業は訝しげに千花に目を向けた。
「おそらくな。それを確かめるためにも、三業の安否を知る必要がある。心配するな。今の私はこの二人の肉体を操ることが出来る。もし私の方に敵が来ても対処は可能だ」
真壁教授がそう強い口調で指示すると、四業は未練たっぷりな目を僕に向けたまま舌打ちし、素直に背を向けた。歩く筋力も低下しているのか、酷く辛そうに見える。
「二百メートルほど向こうに小さな食品倉庫があったはずだ。そこで何か食べて回復しておけ」
真壁教授がそう声をかけても、聞こえていないかのように壁に寄りかかりながら進んでいく。そんな四業の態度を見て、真壁教授はため息をついた。
「まったく。精神年齢の幼い素体を利用したのはやはり失敗だったな」
彼はずぶ濡れのまま棒立ちしている僕と千花を振り返ると、
「雨が強くなってきたな。さぁ。落ち着けるところに行こうか」
慈愛の篭った声でそう言った。
不思議な感覚だ。自分の手足のはずなのに、自分で動かしているはずなのに、それを行っているという意識がない。
まるで神経に直接電流を流し込まれて、強制的に動かされているかのような、そんな気分。
でも、その感覚も時間の問題だった。触手が飛び移ってきた直後は吐き気を催すような強い不快感があったものの、こうして歩かされているうちにそれも薄くなってきている。
進行が進めばいずれ完全に違和感はなくなり、僕は物言わぬ人形へと変貌する。はたしてそんな状態で蟲喰いを使えるのは疑問だったけれど、千花に暗示をかけさせることが出来ていたのだから、何かしら手段があるのかもしれない。
「どこかで傘でも調達しようか。すぐに四業の後を追いかけたかったのだがね。今の君たちが行っても、たいして役にはたたない。なに、ゆっくり散歩しながら向かえば、着く頃には十分に私とのリンクが確立されているはずだ。心配することはない」
返答することはできないとわかっているはずなのに、実に気さくにそう声をかける真壁教授。自分の彫った人形に名前をつけて呼びかける種の人間と同じような行動だろうか。心なしか、先ほどよりも声に親しみが込められているような気がした。
カナラに精神干渉されたときと比べて、真壁教授による触手の乗っ取りは、当人の思考まで制御することはできないらしい。体は確かにまともに動かせず、視点も定まらなかったけれど、僕は歩きながらこうして様々な感想を抱くことができた。
時刻は……二十一時くらいだろうか。
三業とカナラが居ることになっている浄水場は、北区のはずれのほうだから、ここから歩いても三十分はかかる。まさか、ずっと歩いて向かうつもりなのだろうか。
真横を歩いている千花の気配を感じ、僕は心苦しくなった。
彼女は大丈夫だろうか。
姿を確認したいのに、声を聞きたいのに、無事を確かめたいのに、どれだけ願ってもそれを実行に移すことができない。瞳はただ真っ直ぐに草木の間に伸びた暗い道を追い続け、足は水車のように勝手に回り続けている。辛うじて黒い影だけが視界の右方向を塞いでいた。
小さくうめき声が漏れる。僕の口から漏れた音だ。
僕の声を聞いた真壁教授は、機械的な表情で自分の肩を触った。すると突然、僕の手にへばり付いていた触手が激しく逆立ち、さらに何本かの触手を肉に突き立てる。僕は痛みに悲鳴を上げたかったのだけれど、それは心の中だけに閉じ込められた。
「大丈夫だ。もうすぐ君も私になれる」
まったく大丈夫でない台詞を吐き、真壁教授が満足げに前を向く。
突き刺さった触手の周囲からは鮮血が漏れ出し、痛々しく皮膚を腫らしていたけれど、彼の言葉の通り、僕は次第に自分の意識を喪失していった。
まず最初に無くなったのは、寄生されている手の感覚。突然手首が溶けてしまったかのように、指の感触が、手のひらの感触が無に帰す。
それはどこか絵の具を混ぜ合わせる感覚に近かった。青色の僕の中に赤い触手が入り込み、徐々に、徐々に緑色に濁らせていく。そんなイメージ。
その変色は緩やかに、しかし確実に僕の体を侵食してゆく。
根が伸びているのがわかる。鈍い痛みと熱さのあとに僕の体感は消え去るのだ。それが触手から伸びた端子であることはすぐに理解できた。
工業地帯を抜け坂に出る。左手には大きな塀がずっと続いているが、一体何の敷地なのかはわからない。右手には明社町の光が広がり、割と近い場所にあの文化センターの菱形の壁が見えた。
都会の夜と比べるとかなり暗い景色ではあったけれど、それでもいくつもの家の光が輝いている。僕たちがこんな争いをして、こんな状況になっていることなど知る由も無く。
こんな状態になってなお、僕は諦めてはいなかった。千花が誘拐されたときに、絶対に諦めないと誓ったから。彼女を助けると、そう心に決めたから。必死に抜け穴を探し、もがいていた。けれど、体が動かない以上はどうしようもない。
視界が狭まる。闇に囲まれ輪のように光が小さくなっていく。まるで、いつか見たあの公園の空のように。
これが、最後の光景。僕――佳谷間穿としての、死に際の映像。
認めたくはなかった。諦めたくは無かった。けれど、どうしようもない。
狭まっていく闇の輪を眺めながら、僕はいやおうにも父の言葉を思い出してしまった。後悔だけはするなよと、そういった彼の顔を。
三年前のあのとき、僕は逃げてしまったから。自分の罪を認めることができなかったから、こんなにも長い間後悔し続けるはめになってしまった。
金色の月が見える。こんな大雨の中だというのに、奇跡的に雲の間から覗いてた。
その月を見上げながら、僕は思った。
まだ何かできることがあるだろうか。何が、できるだろうか。
体はもう動かない。目も良く見えない。でも、ここで何もしなければ、僕はまた後悔するだろう。自由の利かない体に閉じ込められたまま、千花を、カナラを失った事実に一生苦しみ続ける。それは嫌だった。
僕は意識を集中させた。真壁教授の言うとおり、生物の認識が物事を動かし、世界を構築しているというならば、ここで僕が僕を認識し続けている限り、僕はきっと消えないはずだ。僕が僕を存在させ続けるはずだ。
何も感じられない世界の中、僕は必死によりどころを捜し求めた。
千花との出会い、思いで。家族との団らん。カナラとの記憶。
精神と記憶を振り絞って、僕を生かし続けようとした。
触手の精神干渉と摩擦のようなものを起こしているのか、記憶が火花のように弾け、脳裏に浮かんでいく。
緑也たちと一緒に出かけたプール。
蟲喰いの暴発で傷ついた姉の肩。
母の姿を目にしたとき、初めて見た父の涙。
楽しそうに絵を描く、母の横顔。
様々な記憶がめぐり行き、僕の意識を保ち続ける。
叫ぶことはできない。けれど、僕の意識は確かに叫んでいた。負けないように、折れないように。必死に教授の力と抗い続けていた。
暗い記憶の火花が散り、何かが脳裏に湧き上がる。これは、三年前の光景だ。僕がかつての四業を殺し、カナラと別れたあのときの。
血の海に座り込む僕。泣きじゃくる少女。唖然とした目でこちらを眺めるカナラ。
その記憶が通り過ぎ去ろうとした瞬間、僕は、大きな違和感に気がついた。そのイメージの中、そこに居るはずのはい人間が見えたからだ。
あの泣きじゃくる少女。なぜ、――千花の姿がそこにある?
真壁教授の精神干渉に耐えるのが限界に近づき、辛うじて繋ぎとめていた意識が消えかけたそのとき、僕は妙なものを感じ取った。真壁教授の奥に、何か干渉するものがあるような気がしたのだ。
懐かしい暖かさ。かつていつも隣にいて、母を失った僕を支えてくれた彼女の――
その瞬間、僕はある事実に気がついた。
僕の体を支配しているこの触手は、真壁教授の意識によって動いている。先ほど僕の抵抗を抑えたようにその接続はリアルタイム。つまり、彼と精神を共有しているのだ。と、なれば、当然千花とも何らかのリンクが形成されているはずだ。
僕自身は千花を見ることはできない。確認するこもできない。けれど、真壁教授の触手を通してなら、彼女の存在を感じることができる。認識することができる。
その事実を認識したとき、ひとつの案が浮かんだ。
真壁教授が千花の中にいる‶カナラ〟の精神干渉を防げているのは、彼の頭蓋に埋め込まれた父親の細胞防壁があるおかげだ。それがある限り、カナラはどれだけ頑張っても彼を暗示にかけることはできない。だが、もし。もし、内部から干渉することが出来たのなら。
今の僕たちは、ほとんど直接真壁教授と繋がっているといっても過言ではない。触手と言う媒体を通して、三人の意識が輪で繋がっている。そしてそれを支配しているのは、五業の細胞から作られた軟弱な触手生命体。真壁教授の意識によって操作されているとはいえ、その原理は同じはず。つまり、何らかの力によって同調作用を受けている。
物理現象であるのならば、実在する力であるのならば、蟲喰いに消せないものは存在しない。そして内側からならば、千花の暗示はかけることが可能なのだ。
答えは明白だった。
僕は僕と千花を押さえつけようとしている力に対してのみ、意識を集中させた。それだけに全ての神経を集中させた。
――カナラ。お願いだ。気づいてくれ。
完全に肉体が支配されれば、もはや思考を行うことすら適わないだろう。
――千花……!
僕は体の底から吼えるように、蟲喰いをそこに解き放った。
2
「――ん? ……何だ?」
前を歩いていた真壁教授の脚が止まる。小さな水溜りに、大きな波紋が広がった。
視界が開ける。はっきりとものを見ることができる。彼女の顔を、見ることができる。
「千花――!」
自分の頭を押さえつけながら僕は叫んだ。
触手の力に押し負けるよりも早く。意識が押し戻されるよりも早く。蟲喰いによって打ち消された真壁教授の精神抑制が元に戻る前に。
千花は一瞬、キョトンとした表情で僕を見返したが、すぐにはっとしたように身を翻した。その瞳は真っ直ぐに真壁教授を向いている。
今の僕たちは頭の中で繋がっている。触手による干渉と言う名の道が出来ている。真壁教授が驚いた表情を浮かべた直後、彼の頭の中に、‶カナラ〟が進入した。
真壁教授の体が動こうとして、そのまま固まる。手足は石のように硬直し、驚いた表情のまま彼女を見つめていた。
「ま、さか、……どうやって……?」
「記憶を消して!」
千花が頭の中のカナラに向かって叫ぶ。
彼女は手を伸ばし、握りつぶそうとするかのようにそれを丸め始めた。彼女の動きを見て真壁教授の顔に恐怖の色が浮かび上がる。
「馬鹿なことを。せっかくの進化のチャンスを逃す――……」
搾り出すような声で真壁教授が何か言いかけたが、既に時は遅い。千花が手を握り締めると同時に、その瞳からは光が消え、彼の体が崩れ落ちた。
猶予も最後の言葉も何も無かった。
たった今のひと時だけで、彼は成すがままに‶カナラ〟によって頭の中を蹂躙され、その全てを失った。
腕を下ろし、千花がコンクリートの壁に寄りかかる。僕は彼女に駆け寄り、そのずぶぬれの肩を抱いた。
「千花、大丈夫? 教授は……」
「記憶を……全部消した。たぶんもう、自分が誰かもわかってないよ」
濡れた長い黒髪の隙間から千花がつぶやく。僕はそれが確かに千花本人であると確信すると、肩についている触手に目を向けた。
意識の発信元が機能不全を起こしたためか、触手は知能を失ったかのようにぐったりと垂れ下がり、徐々に体から抜け落ちていく。もう心配はないようだった。
僕は自分の腕に張り付いていた触手を引き抜くと、それを地面に投げ捨てた。白い糸のような栓が長々と体から出てきて、非常に気持ち悪かった。
目を逸らすように真壁教授の様子を確認すると、彼は呆然とした様子で空を見上げていた。
「真壁……教授?」
恐る恐る尋ねてみる。
僕の声を聞いた彼は、酷くおびえた目をこちらに向けた。
本当に記憶を失ったのか? あの一瞬で?
カナラの力が強大であることは理解しているが、やはりどうにも信じきれない。僕たちがじっと見つめていると、彼は不気味がるように腰を退かせた。
「な、何だ? 君たちは? ……何を見ている?」
まるで初めて僕の顔を見たかのような反応だ。彼はそのまま静かに周囲を見回すと、寒そうに座ったまま自分の体を抱きしめた。
「何だ? どうなっている? どこだここは?……そんな、嘘だろう? わ、私は一体誰だ……!?」
本当に記憶が……。
この狼狽した姿が演技だとはっても思えない。彼は確かに、人間としての行動能力意外の全ての記憶を抹消されてしまったようだった。
「上手くいったみたいだね」
小さく微笑みながら千花が首を傾ける。僕は彼女を抱いたまま腰を下ろした。
「千花、意識ははっきりしてる? 僕がわかる?」
「大丈夫だよ。穿くんでしょ。わかるよ」
触手に乗っ取られた反動だろうか。千花はか細い声でそう微笑んだ。
僕は千花を抱きしめたまま、濡れた自分の顔を拭った。しかしすぐに髪から流れ落ちた水滴で皮膚が覆いつくされる。
真壁教授は酔っ払いのように独り言を呟きながら、頭を抱えている。こうしてみると、普通の老人にしか見えなかった。
「一之瀬刑事に電話しよう。君が見つかったことと、真壁教授のことを話さないと。君のことを凄く心配していた」
「……そう」
千花は困ったように相槌を打った。
「大丈夫だよ。君の家のことはばれてない」
僕は千花の懸念を想像し、そう答えた。
端末から通報を終え、近くのバス停の下で雨宿りをさせていた千花に近づいた。僕の顔を見ると、彼女は憂いの篭った顔を上げた。
「本当に上手くいったのかな? これで、本当に終わったの?」
「真壁教授の頭に入ったんだろ? 僕たちのことを知っているのは、彼だけだったんだよね」
「……うん。たぶん」
「だったら心配ないよ。記憶を失った真壁教授に協力者は現れない。もうこれ以上君が追われることはないんだ」
隣に座り、千花の目を覗きながらそう声をかける。彼女はまだ恐怖心を持っているようだったが、それで少しは安心できたようだった。
「羊が一匹……羊が二匹……――」
バス停内の後ろからは、真壁教授のお経のような独り言が続いている。どうやらこの状況を夢だと判断したらしい。その表情からは、以前のような凛々しい雰囲気は微塵も感じられなかった。
「さて――」
僕は立ち上がった。真壁教授との争いはひとまず決着がついたが、まだやることは残っている。それを放置しておくわけにはいかなかった。
「どうしたの? 穿くん」
大きな目をこちらに向ける千花。僕は正直に彼女に説明した。
「四業がカナラの元に向かったみたいなんだ。いくら彼女に協力者がいたとしても、実験体を二人も相手にしたら部が悪いはずだ。それにカナラは少し弱っているように見えた」
「彼女を助けるつもりなの?」
「うん。君は複雑な心境かもしれないけれど、僕にとってカナラはまだ友達なんだ。どうしてこんなことになったのか、しっかりと彼女に確認したい。それに」
僕は千花の目を見つめ返した。
「三年前に本当は何が起きたのかも、聞きたいしね」
先ほど、千花とのつながりの中で見えた記憶。三年前のあの事件に居た少女は、確かに千花だった。
もう今更かもしれないけれど、知ったところで何かが変わることはないだろうけれど、僕には真実を知る必要がある。あの事件こそが、今の僕と千花の始まりのような気がしたから。
立ち去ろうとする僕の腕の袖を千花が掴んだ。溶けた血が流れ落ち、彼女の白い肌を伝っていく。遠くのほうからパトカーの聞きなれた音が響きだしていた。
「私もいくよ。私も彼女に会って真実を確かめたい」
「でも君は三日間も閉じ込められ連れ回されていたんだよ。少し休んだほうがいい」
「私だって知りたいんだよ。私の中に何で彼女がいるのか。何で私が追われなくちゃいけなかったのか。これは穿くんだけの問題じゃないんだから」
僕は一瞬迷ったのだが、千花の強い眼差しを見て心を決めた。確かに僕に彼女の行動を強制する権利はない。彼女の意思は彼女のものだ。
「わかった。一緒に行こう。一之瀬刑事には悪いけれど」
真壁教授を現行犯で捕まえることは出来なくなるかもしれないが、どうせ記憶を失っているのだ。どちらにせよ、彼の行く先は決まっている。
僕が頷くと、千花は久しぶりに、嬉しそうな笑みを浮かべた。
3
風に押されたゴミ箱が真横を転がっていく。プラスチックの塊がコンクリートにぶつかる妙な空洞感のある音が弾けた。
雨はいっそう強さを増し、頭上では雷鳴が響いていたが、既にずぶぬれになっている僕たちは、そんなことなど気にも留めなかった。ただ硬い地面を踏みしめ、真っ暗な夜道を突き進み、カナラのいる場所に向かって歩み続ける。
「見て。あれ」
千花が前髪を掻きあげながら、正面にある駄菓子屋を指差した。閉ざされた扉は大きく破られ、中の商品がいくつも転がり出ている。とても器具や鍵を使って開けられたような跡ではない。僕はそれが誰の手によるものかすぐに気がついた。
雑草や左右の小さな畑の上を漂っていく包み紙に目を通しながら、僕はため息を吐いた。
「四業だ。回復するためにここで食事をとったんだな」
「お菓子の成分じゃ、肉は作れないよ。まだ大して傷は癒えてないんじゃないかな」
「それでもマイナスにはならない。僕たちは回復できないけれど、彼は食べれば食べるほど傷を修復できる。ここから浄水場までの間に、肉屋とかがないといいんだけれど」
僕は北区のことはそれほど知らない。再び万全な四業とやりあって、今の状態で勝てる見込みはほとんどなかった。僕は願うようにそう言った。
風景は一変し、工業地帯と言うよりは、既に当たりは農地の割合が大幅に増えている。高い建物といえば、さらに北のほうに見える高速道路と、東にそびえ立つ文化センターだけだ。あの塔を目印にしているおかげで、何とか方向を掴むことが出来た。
「それで、浄水場はどっちだろう。なんとなくしか場所を知らないんだけど」
「あっちだよ。あの雑木林を抜けた先」
「……何で知ってるの?」
「この町に着たばかりのとき、色々と調べたからね。身を潜めそうな場所とか。……あの浄水場はかなり前に破棄されていて、今はもう南区のほうで全てを担っているらしいの」
なるほど、隠れるにはうってつけの場所ということか。
僕は彼女の言葉を素直に信じることにした。
雨のおかげで腕についていた血はほとんど流れ落ち、醜い傷跡だけがそこに残っている。左手はまだ血が漏れることもあったけれど、右は摩擦で燃やされたおかげで傷口が塞がっていた。
道路沿いの土の上を歩きながら、千花が上目使いにこちらを見た。
「腕、大丈夫? 痛む?」
「ちょっとずきずきするけれど、問題はないよ。それほど深い傷じゃないし。雨に濡れ続けたせいで、痛みも麻痺しちゃったみたいだしね」
「ごめん。私のせいで。私が捕まったから……」
「いいよ。千花が捕まったのは僕がミスしたからだから。君が謝ることじゃない。それに、怪我には慣れたって言っただろ」
ここ二ヶ月あまりの出来事を思い起こし、僕は苦笑いを浮かべた。
土が濡れているのと、雨音のせいで話していなければ千花の場所を認識できない。僕は彼女の存在を確認するように言葉を続けた。
「そういえば、すごく今更な話なんだけど、君は僕よりも一ヶ月早くこの町に来ていたみたいだね。転校は僕より後だったにも関わらず。あればどういうわけなの?」
「調べていたの。この町に何かおかしな点がないか。そもそも、穿くんが現れるまで、最初は転校を装うつもりもなかった」
「調べる? 何で?」
僕は横を向き尋ねた。
「真壁教授の追っ手から逃げている間にね。数ヶ月くらい前かな。その時期から変な感覚を感じるようになったんだ。呼ばれているような。誰かに声をかけられているような」
「それは、君の中にいる‶カナラ〟の声じゃなくて?」
「たぶん、違うと思う。……最初は気味が悪かったんだけどね。繰り返しそれを聞いているうちに何だか助けを求められているように聞こえたの。必死に自分を装って否定しつつも、何かの恐怖しているような。……それでその声を感じるままに移動してみたら、この町についたんだ」
僕は千花の言葉について考えてみた。声の主が千花の中にいる‶カナラ〟でないとすれば、恐らくそれは本物のカナラによるものだろう。彼女が何らかのリンクを通し、千花に呼びかけこの明社町へ導いた。……一体何のために?
思えば偶然として出来すぎている。三年前別れたはずの三人が、こうしてとある田舎の小さな町で一同に会しているのだ。明らかに不自然なことだった。もはや人為的に集められたとしか考えられない。
千花はカナラに呼ばれた。じゃあ僕は?
僕がこの町に来ることになったのは、父が出張で一度訪れたからだ。三ヶ月あまりの時間をここで過ごした父は、この明社町を大層気に入り、引越しを決意した。半ば強引に、ある日突然。
もしかしたら、彼はその出張期間の間にカナラに遭遇していたのかもしれない。そこで彼女に僕の父だと気がつかれ、暗示をかけられた。僕をこの町に呼び込むために。
真壁教授の言葉が正しいのなら、カナラはあえてこの町に残り、彼を撃退しようとした。自分がこの町に居ると示し、罠を這った。そして真壁教授たちにとって、僕と千花は予期せぬ伏兵だったがずだ。彼らは完全にカナラだけに狙いを定めていたはずだから、僕と千花が実験体たちを倒したことで大いに混乱させられた。カナラがそのために僕たちを呼び寄せたのだとしたら、納得がいかないこともない。
彼女は僕たちを利用したのだろうか。あの明るく優しかった彼女がそんな真似をしたとは考えたくはなかったけれど、現実的にそうだと断定すれば全ての辻妻が合う。
先日の夜に見た彼女の変わり果てた顔を思い出し、僕は言いようのない不安感に囚われていた。
畑の合間を抜けると、小道がいくつも分かれている場所に出た。右側の奥のほうに何やら古臭い大きなタンクのようなものが立っており、あそこが目的の場所のようだった。
僕は千花と顔を見合わせ頷き合うと、静かに足を進めた。といっても足音なんて水の音でかき消されているから、あんまり意味はないのだけれど、気持ち的にそうしてしまっていた。
浄水場が近づくにつれ、千花をつれて来てしまったことが本当に正しかったのか、少しためらいを覚えた。
僅かな傾斜を上がり壁沿いに進む。すると、金属製の錆びた柵が見えた。赤茶色にさびついたその柵には錠前がかかっていたようだったが、何かで破壊されたらしく地面の上に落ちている。そこに広がっているひび割れのような跡を見て、僕は確かに何者かがここに居るのだと確信した。
柵を前に押し出しながら耳を澄ませると、奥のほうで物音が聞こえた。土の抉れる音。金属がぶつかる音。水がはじけ飛ぶ音。何者かが争っているようだ。
「あっちだ」
僕は土を踏みしめ、事務所のような場所の横を通りぬけた。途中にあった巨大な貯水タンクの外面は破壊され、中から腐った水が流れ落ちている。長い間洗っていない雑巾のような匂いが地面から漂っていた。
学校のプールのような良くわからない設備を迂回し、音の出所へ向かう。
この先に‶触れない男〟を殺した人間と、カナラが居る。
争う音は既にやんでいたが、少なくとも誰かが存在していることは確かだ。僕は再び四業と争うことを考え、強い意思を持ってその場に足を踏み入れた。
建物の壁から顔を覗かせ、音の発生源の姿を探す。
抉れた土。破壊された壁。転がる金属。その中心に一人の少年が立っていた。
年は僕と同じくらいだろう。美青年と言うよりは、どこか男らしさの篭った野生的な顔立ちの少年だった。僅かに白髪の混じった顔から覗く目は、獲物を刈る狼のように鋭い瞳をしている。
彼の足元には、三業が血まみれで倒れていた。
白髪交じりの少年は、冷たい眼で三業を見据えると、そのまま腕を突き出そうとした。何か嫌な悪寒が背中に走る。
僕は真壁教授の言葉を思い出した。実験体たちは全て、生きた人間に超能力者としての傾向性の高い細胞を埋め込んだ存在だ。つまり彼を殺すことは、正真正銘、ただの殺人でしかない。
冷静に考えればここで飛び出すことは間違っている。どうせ僕やカナラの敵なのだ。だがそうはわかっていても、長年の習慣かトラウマか、僕は命が消えることに我慢がならず、気がつけば、その少年の前に飛び出していた。
4
壁の裏から躍り出た僕を見て、白髪交じりの少年の顔が驚きに包まれる。しかし彼はすぐに我を取り戻し、僕を睨みつけるように見返した。
「やめるんだ。その人はもう動けない」
僕は警戒したままそう呼びかけたが、少年は腕を向けたまま下ろそうとはしなかった。
なるべく敵意を見せないようにゆっくりと歩みつつ、
「君はカナラの仲間だろ? 僕は彼女の友達なんだ」
カナラが僕たちに協力してくれたということは、彼も当然、僕たちの存在を認知しているはずだ。案の定、彼は何かを悟ったように体の向きを変えた。
「――ああ……お前か。随分と早かったな」
落ち着いた声で言葉を続ける。
「例の教授はどうなった?」
「記憶を消して警察に渡した。もう僕たちが追われる心配はないよ」
壁の裏から出てきた千花を振り返りながら、僕はそう答えた。
「カナラは――彼女はどこに?」
「あいつなら向こうで……休んでるよ。ちょっと無理をしすぎたんだ」
無愛想なまま彼は答えた。
風の向きが変わったのか、雨が正面から殴りつけるように顔に当たっていく。僕は薄目を開けるように彼を見返した。
「そこに倒れているのは三業? 今のうちに縛っておこう。実はもう一体こっちに向かっていたはずなんだ」
「縛る? 何を言ってるんだ?」
白髪交じりの少年は、心底不思議そうに僕を見返した。
「こいつらは特殊な存在だ。記憶を消したところで、その肉体的特性は変わらない。例の教授は何らかの研究機関にこいつらを売り込むつもりだったんだ。生かしておいたらいつまた脅威になるかわからない」
「殺すって、彼らは移植手術を受けただけの普通の人間なんだぞ」
「知ってるよ。だから何なんだ」
少し不機嫌そうに少年は僕の顔を覗いた。
知ってる? 普通の人間だと知っていて殺そうとしたのか。
僕はその言葉に驚いた。
「他の実験体たちも君が殺したの?」
「殺さなきゃ殺されるんだ。当然だろ。……お前だってそうしてきたじゃないか」
「僕は誰も殺してない。誰一人。彼らは全員、違う誰かに殺されたんだ。ひび割れみたいな跡を残す超能力を起こせる人間に」
「何だよ。まるで自分には何の責任もないみたいな言い方だな。自分が綺麗な身だとでも本気で思ってるのか。お前がやらなかったから、誰かがその尻拭いをしてきたんだろう」
「……とにかく、その男を殺すのはやめるんだ。別に殺さなくても記憶を消せばいいじゃないか。それで問題は解決できる」
「そんなことじゃ解決はしない。能力自体は残る。もしこいつが超能力を使って、興味を持った何者かに軌跡を調べられれば、俺たちに辿り着く可能性だってありえる。そんなリスクは負えない」
白髪交じりの少年は再び横たわる人間に向かって手のひらを向けた。指の関節に力が篭っていくのがはっきりと見て取れる。
僕は咄嗟に駆け出し、少年の体を突き飛ばそうと試みた。
しかし少年は僕の体当たりを軽々とかわすと、三業にむかって伸ばしていた手をこちらに向けた。
――身の毛もよだつような悪寒。
考えている間もなかった。
僕は瞬時に蟲喰いを展開し、男の手を弾こうとした。だが発生した半透明の波は、生まれた端から何かに打ち消されるように消えてゆく。
それは稲妻のような亀裂だった。
蟲喰いと酷似した目に見えるようで見えないおぼろげな輪郭。その亀裂が、蟲喰いを片っ端から食い千切っている。
二つの現象の衝突の余波で土が波打ち、爆散地のようなひび割れが刻まれた。触れない男の死亡現場。大量の動物たちの死体があった場所と同じ、あのひび割れが。
直後、彼は体を前傾姿勢にし、強引に腕を突き出した。体勢を整えていなかった僕は、自分の手のひらごとその亀裂を顔面に押し付けられていく。
これは牽制でも脅しでもなんでもない。明らかに最初からこれを狙っての動き。彼は、三業を利用して僕を殺そうとしたのだ。
僕は左手を地面につくと、押される勢いを利用して少年の足を払った。しかし彼は後ろに飛びのきそれをかわし、面倒くさそうな表情で僕を見返した。
少年はワインレッドのシャツの袖をめくり直し、刃物のような瞳をこちらに突きつけると、二度、右手を開いて閉じるという動作を行った。
まるで狂気に乗り移られたかのように、白髪混じりの少年の目には殺意が充満していた。とてもこちらの言葉を聞き入れてくれるようには見えなかった。
「何で……!」
「実験体たちの死には奴らを殺した明確な犯人が必要なんだよ。教授の研究に興味を持ったやつらが、それ以上追って来ないために」
これは完全に予想外の事態だ。
カナラがこんな指示を出すとは思えない。僕は背後を振り返った。
「何かおかしい。千花、カナラを探――」
言いかけた途端、少年が地面を蹴った。猛獣のような気迫と勢いで、躊躇無く僕に向かって襲来してくる。
僕がぎりぎりで拳を避けると、頬に一筋の赤い亀裂が走った。
首をそむけた勢いのまま腰を回転させ、ひじを少年の腹部に打ち込む。しかし彼は歯を食いしばりそれをものともせず大きく振りかぶった左手を僕の頬に打ち下ろした。
強烈な一撃、頭に火花が散ったようだった。
一瞬動きを止めた僕を見て、少年は亀裂を乗せた右手を打ち込もうとする。僕は何とか肩から蟲喰いを発生させそれを相殺した。
何も存在しえない無数の点を作り出す蟲喰いを何故防げるのかだろうか。あの地面のひび割れ模様を思い返し、僕は彼の現象が蟲喰いと類似したものなのだと判断した。
千花が離れたかどうか確認している暇もない。これでは、至近距離でマグナム拳銃を打ち合っているようなものだ。
少年が足を目の前に踏み出し、後ろに引き絞った拳を伸ばそうとする。現象を乗せているか乗せていないかで、その効果は天と地ほども違う。
僕が首を傾けると、風を切る音が耳の横を通り過ぎた。
僕は右腕に蟲喰いを乗せ、少年の脇腹に放った。しかし彼は僕の上腕部を殴りつけることで強引にその軌道を外した。空振りしてしまった直後、今度は少年の現象が僕の頭に向かって振り下ろされる。僕は咄嗟に左ひざを屈めしゃがむことで少年の攻撃を回避した。
冷や汗が止まらない。僅かでも判断を間違えば、いつ死んでいてもおかしくはなかった。
僕はそのまま続けざまに右手に蟲喰いを乗せ彼に放った。
少年はぎりぎりでそれをかわし、僕の拳は背後の壁を貫いた。大きなひび割れが走り、そこから大量の水が滝のようにあふれ出る。
水の勢いに押され、僕は水溜りだらけの地面に腰を打ちつけた。
それを目にした少年がもらったとばかりに半透明の亀裂を振り下ろす。
僕は前転するように横に転がった。
立ち上がりながら彼の顔を見上げると、妙なことに急に猛烈な怒りが沸き上がってきた。僕は別に彼を憎んでもいなかったのだが、不意にその表情や目つき、態度の全てが気に食わなくなっていく。
襲われたから反撃したものの、ついさっきまでの僕に彼をどうにかするつもりなんてなかった。ただ千花がカナラを見つけるまでの時間稼ぎさえできればそれでいいと思っていたのだ。だが、今の僕には自分でも不思議なことに抑えきれないほどの彼に対する憎しみが沸き起こっていた。
横の建物の入り口に入ろうとしていた千花がこちらを見て何か叫んでいたが、声は一切聞こえなかった。まるで雨と一緒に目視できない壁が間に振ってきたかのようだ。
「お前さえ居なければ……!」
目を血走らせ少年がこちらに突撃する。
お互いの現象がお互いの頭部に向かって直進していた。
亀裂が頬に触れる直前、僕は首を左に傾けた。彼も同様に頭を逸らす。
蟲喰いが彼の頭部の後方で炸裂し、同時に僕の頭の後ろでも雷鳴のような鋭い音が響く。そのままお互いの腕をラリアットし合ったように絡ませながら、僕たちはバランスを崩し地面の上に倒れた。
こいつがカナラをおかしくしたんだ。こいつが‶触れない男〟たちを殺したんだ。
頭の中で声が響き、呼吸をすることも忘れて立ち上がる。
お互いまだ膝をついている状態だったが、早く相手に攻撃を当てたいがために、そのまま現象を打ち合いその場で見えない火花が散った。
波と亀裂がせめぎ合い、二人の間にあった地面は大きくひび割れほころびていく。
押し巻けたら終わりだ。
僕はそのままの状態でさらに蟲喰いを放とうとしたが、刹那、少年の現象から伸びている半透明の亀裂が僕の腕に触れ、それを察知した途端、僕の体は電流が走ったかのように痙攣した。
腕から肩にかけて体にいくつもの裂傷が恐るべき速度で生まれていく。これは蟲喰いにはない現象だった。
痛みで力が抜けてしまった僕は、少年の亀裂の勢いに押され、腕を弾かれると同時に後方へ押し飛ばされた。全身を泥で濡らしながら地面の上を転がる。
完全な隙。これ以上ないチャンス。白髪交じりの少年は立ち上がると、一気に僕に向かって亀裂を発生させた。
このままやられるわけにはいかない。
再度蟲喰いを発生させ、目の前に解き放った。
目の前の雨が消えさえり少年の起こした亀裂がゆがみ掻き消える。
腕を弾かれた少年は、大きく後ろに仰け反る。
そのまま追撃のために左手を伸ばそうとしたところで――
「穿くん!」
千花の声が頭に響いた。
5
咄嗟に彼女のほうを向く。心配そうにこちらを見る彼女の顔が見えた。
何だ……?
そのとき、僕は違和感に気がついた。感じる千花の意識とは別に、もうひとつの何かが僕の精神に覆いかぶさっている。進入しているような気がしたのだ。
――穿くん、しっかりして。
再び千花の声が届く。現象を使っているのか、脳に直に声が響く。僕は見えない何かから逃れるように、彼女の声の出所に自分の意識を寄り添わせた。
千花の意識に近づいたことで、はっきりとその異物を理解することができた。その何かは僕の認知と千花の意思に押されるように端へ追いやられ消えていく。まるで自分の存在を知られたくないようだった。
我に返ると、先ほどまでの怒りが嘘のように消えていた。僕が何であれほどまでに怒っていたのか自分でも理解できなかった。
建物の前に立っていた千花が僕の様子を見てほっとしたような表情を見せる。どうやら僕は、何者かの精神干渉を受けていたらしい。
真壁教授の触手は抜き去った。彼の記憶も消去した。こんなことを出来る人間には、一人しか心当たりがない。
わけがわからず、僕が混乱していると、強い衝撃が頬に走った。白髪交じりの少年に殴られたのだ。
再度泥の上に背をつき、服の汚れを増やす。やめろという間も無く、少年は亀裂を発生させた。
僕は咄嗟に泥を掴み少年の目に投げつけた。怒りで我を忘れていた彼は、もろにそれを受け悶絶する。その隙に立ち上がり、僕は彼から距離を開けた。
「やめるんだ。君と争う気なんてない」
言葉を投げかけてみたが少年に聞く耳はなさそうだった。彼は見えない僕に向かって拳と現象を振り回している。先ほどの僕と同様、強い憎悪に支配されているようだった。
……こいつもさっきの干渉を受けているのか?
彼の態度は明らかにおかしい。自分の身など一切構わずに僕を殺そうと暴れている。
僕は何とかして彼を正気に戻さなければと思った。
「千花。僕が動きを止めるから、その隙に彼の精神に進入するんだ。たぶん、この人も何かに操られてる」
「わかった……!」
今度はそうはっきり彼女の声が聞こえた。
距離を置いて対峙する。下手に動くことはできない。先ほどまでは近距離でせめぎ合っていたから必死に抵抗していたが、この距離では話が別だ。この距離ならどちらも余裕を持って拳を繰り出すことが可能となる。
僕は右手を頬の横に沿え、左手を腰の前に持ち上げた。
少年はじっくりと僕の様子を観察すると、獣のように身を低くした。
現象の効果を考えれば、争いが長引くことはないとわかっていた。僕の蟲喰いと彼の亀裂では、破壊するかされるかでしか決着をつけることができない。
少年はじりじりと足をこちらに近づけながら、両手の骨をぽきぽきと鳴らした。
通常武道の試合において、攻撃する瞬間というものは隙を見つけたときだけだ。自分の拳が相手に命中するという確信を持った場合のみ、それを押し出し体を打つ。肩や足の動きでフェイクを入れるのも、わざと隙を作り狙ったタイミングで相手に拳を出させるのも、全ては自分の拳を相手に当てるための道、先をとり隙を生み出すための行為だ。
そのため武道ではよく先に攻撃を‶出さされた〟ほうが負けと言われている。僕は彼の手を出させるために後ろ足に体重を乗せたまま左手を打ち出す用意をした。
それを目にした途端、少年が一気に前足を僕の前に滑り込ませた。僕の足の間を割り、己の体を入れると同時に亀裂を乗せた拳を打ち出す。
しかし僕はその動きを予測し、伸ばしていた前足を後ろ足を軸に引いていた。その動きによってつめられていた距離が一気に元に戻る。
僕はここだとばかりに右手に蟲喰いを乗せ、少年の肩に向かって放った。タイミングはばっちり、体勢から考えて避けることは無理だ。少年の表情が凍りつくのが見える。
これで決まると思ったとき、少年が倒れこむように強引に前に出た。消えかけている現象を乗せた腕を引き戻し、僕の右手の側面にかすらせる。空気の破裂音がなり、またもや相殺現象が起きた。
少年はそのまま全身の体重を乗せた足を強く踏み込むと、逆の腕で連続して亀裂を発生させようとした。
僕は反射的に少年に体当たりし、その体を引き剥がす。しかし少年は諦めずそのままの体制で渾身の拳を突きつける。僕が蟲喰いを発生させたのは、それとほとんど同時だった。
全力の拳と現象同士が衝突し、半透明の波と稲妻が周囲に散らばる。余波がお互いの肌を裂き、雨の中に赤い雫を混ぜ込ませてゆく。
雄たけびを上げ少年がもう片方の腕を振り上げる。それを間一髪のところで左手で受け止めながら、僕は叫んだ。
「千花、今だ!」
既に扉の前から離れていた千花は、僕の斜め右後ろに立つと、歯を食いしばるように少年の意識へ侵入する。
僕と少年の拳の間で拮抗していた力が、暴発するように甲高い炸裂音を響かせたのは、それとほぼ同時だった。




