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浄我の形  作者: 砂上巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
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第二十八章 散花(2)



 鳥のさえずりを耳にし、僕は目を覚ました。

 太陽の光が差し込んでいるためか、左方向が苦しいほど眩しい。

「ここは……」

 見慣れない天井。見慣れないベッド。見慣れない部屋。僕はなぜこんな場所で寝ていたのだろう。頭がぼうっとして上手く働かない。

 毛布の中で体の向きを変え周囲を見渡す。隣には高齢の老人が座って本を読んでおり、向かいにも空のベッドがあった。それを見て、ここが病院であると理解できた。

 体を起こそうとすると、全身に鋭い痛みが走った。内側にたいまつを突っ込まれたよな、燃えるような野生的な痛み。思わず小さな声が漏れる。

 そうか……僕は……――。

 あの研究室。四業と名乗った男。

全てを思い出し、僕は飛び起きた。衝撃で痛みの電流が走り、体が硬直する。不審なものを眺めるように、隣の男性がこちらに目を向けた。

 痛みに耐えつつ足を下ろす。毛布から出ると、全身に包帯が巻かれていた。

 僕は壁に寄り添うように移動し、部屋から出ようとしたのだが、そこでちょうど室内へ入ってきた看護師に止められた。

「目が覚めたんですか。だめじゃないですか、いきなり動いて。あなた、あと少しで出血死していたんですから」

「すいません」

 凄い剣幕で怒られ、思わず誤る。そこで、僕は一つの疑問を思い浮かべた。

「あの、すいません。僕はどうやってここに運ばれたんですか。何も覚えてなくて」

「通報があったんです。山道に倒れている人がいるって」

 通報? 一体誰が? 

 上手く自分の状況が呑み込めない。何が起こったというのだろうか。

 僕の表情を見た看護師の女性は、気を落ち着かせようと穏やかな笑みを見せた。

「まだ意識が混乱しているみたいですね。今はとりあえずゆっくり横になっていて下さい。深い傷もないし、幸い命に別状はありませんから、しばらく養生していればすぐに元気になれます」

 半ば強制的にベッドの上に戻される。

 確かに全身が痛く動きずらい。体を休ませなければならないことは事実なのだろうが、こんな不安な精神状態でじっとしていることなど出来るわけがなかった。

 段々と状況を思い出してくる。修玄に、四業と呼ばれた金髪の男。修玄は僕と一緒にいた千花を見ている。もし僕がカナラの関係者だと思われているのなら、千花の身も危険だ。

 僕は看護師の姿が消えると同時に、横のキャビネに置かれていた端末を手に取った。意識を失っている間に父が置いて行ったのだろう。下には綺麗な服が収納されていた。

 修玄や四業が通報なんてするはずがないし、僕が助かったのなら、千花が何かしたとしか考えられない。

 すぐに電話をしようとしたのだけれど、病室内は通話禁止であることを思い出した。僕は腕と繋がっている点滴用のポールを杖代わりにし、看護師にばれないようにエレベータまで移動した。

 屋上に出ると、僕の気分とは裏腹に、海のように青い色が広がっていた。設置されたいくつもの物干し竿には、患者用の大きなシーツが釣るしてある。まるで白い畑のようなその中を、僕は老人のように重い足取りで通り抜けた。

 落下防止用なのだろう。三メートルほどの高さの柵が目の前に飛び出た。その向こうには広大な海が広がっている。

 手すりに寄りかかり、端末を耳にあて千花に電話を掛けた。しかし予想通り、いくら待っても電話が繋がることはなかった。

 気持ちを抑えきることが出来ず、僕は屋上から階段を駆け下り自分の部屋に戻ると、父の用意していた服を鷲掴み、一階のトイレへと駆けこんだ。そこで病院着から着替え、ロビーから外に出る。ちょうど目の前にタクシーが止まっていたので、一般客を装って乗り込み、千花の住所を伝えた。





 千花の部屋は、確かアパートの二階、奥から二つ目の扉だったはず。

 僕は急いで階段を駆け上がり、通路に降り立ったのだけれど、そこで意外な人物と遭遇した。

「一之瀬刑事……!」

 僕が不信感の募った視線を向けると、彼は気まずそうに頭をかいた。ぐちゃぐちゃの髪が、さらに混沌具合を増す。

「何でここに……」

 よく見れば、千花の部屋から出てきた直後のようだ。彼は送れて出てきた若い警官に先に行くように促すと、真剣な目でこちらを見返した。

「通報があったんだ。昨日の夜に不審な物音と部屋から出ていく男の姿を見たってな。通報したのは隣の主婦で、たまたま買い物帰りに目撃したらしい」

「……千花は?」

 何が起きたの心のどこかでは理解しつつも、僕はそう聞かざる負えなかった。

「部屋には居ないみたいだな。端末に電話を入れても繋がらなかったから、確認の意味もあって大家から鍵を借りたんだ。冷蔵庫の中身を見るに、昨日の昼から帰宅していないようだった。もしかしたら、誘拐の線もある。ちょうどこれから、お前さんや学友に話を聞こうと思っていたところなんだが……」

 一之瀬刑事はちろりとこちらを見た。僕の体の傷や包帯を鋭い表情で見つめている。

 僕は目の前が真っ暗になったような気がした。

 酷く気分が悪い。今にも吐き出しそうだった。

 目が覚めた時点で、本当はわかっていた。きっと彼女はもう、この町の中にはいないだろうと。

 修玄と四業の目的は僕を千花から遠ざけることだったのだろう。その隙に残った仲間が護衛のいない彼女を鹵獲する。そういう手はずになっていたと考えれば、納得がいく。

 呆然としている僕を眺め、一之瀬は心配そうに表情を崩した。

「大丈夫か。何か飲むか?」

「……いいえ、平気です」

 僕は何とかそう答えた。

「どうやらお前さんのほうも、何かあったみたいだな」

「犯人の手がかりは、何もないんですか?」

「今のところはまだ何も。部屋は一通り荒らされていたが、電子機器の盗難も貴金属の盗難もなさそうだった。今は指紋の鑑定結果が出るのを待つしかないな」

「そうですか」

 僕は絶望し、目を伏せた。

「……ところで、昨日の夜大怪我を負って病院に搬送された少年がいると聞いたが、まさか君じゃないよな。蓮見千花の件も、君の怪我と何か関係があるのか」

 僕は黙っている。

 傷心しきった僕の目を見ると、一之瀬は小さなため息を吐いた。

「……まあ、何だ。細かい話は病院で聞こう。ここで倒られても困る」

 僕の背中に手を回し、階段を下りるようにうながす。僕はせめて自分の目で千花の部屋の中を確認したかったのだが、そんな余裕もなくどんどん先に進まされる。呆然としたまま、気がつけば、裏に留めてあったパトカーの中に押し込まれていた。

 


 その日は一之瀬刑事への事情説明と、父からの叱責で一日が終わった。

 僕はただなすがままに嘘の説明をし、そしてその後は何もせずにベッドに座り続けた。体は疲れていたし、頭もはっきりしなかったけれど、どういうわけか一向に眠くなれなかった。

 窓の外を蝶がひらひらと舞い、雲が過ぎ去っていく。気がつけば、いつの間にか夜の十時を超えていた。

 僕はいつもの癖でつい端末を握り締めた。しかし当然、いくら待っても千花からの連絡はない。

 十一時になっても、十二時になっても。

 鈍い光だけが暗い室内に灯り、見回りの看護師が部屋の前を通過した。

 昨日の朝から使い続けていたせいで、端末のバッテリーが切れ画面がつかなくなる。

 真っ黒に染まった画面を見て、そこでようやく、僕は本当に千花がいなくなってしまったのだと悟った。認識することができた。

 ――ああ。終わってしまった。

 千花の家に行って、彼女の姿が消えたことを理解して、絶望が心の奥底に溢れかえる。

 僕の努力も。千花のこれまでの逃亡も。‶触れない男〟や和泉さんたちとの争いも。全て何の意味もなかった。

 僕は包帯の巻かれた手を握り締めた。

 きっと今頃千花は、酷い目に遭っていることだろう。全身をチューブでつながれ、電気を流され、痛みを与えられ、様々な苦痛の海に沈められた上で、現象の脳波を記録される。そんな地獄を味わっているかもしれない。僕がミスをしたせいで。僕が失敗したせいで。


 ――また今後、ちゃんと時間があるときに来たいね。


 千花の控えめな笑顔。


 ――絵を描いて欲しいの。


 カナラの楽しそうな微笑。

 それが何度も脳裏に浮かび上がる。

 あの日。お祭り中の丘の上で、僕は確かに誓った。彼女を助けると、一緒にカナラを見つけると、また、今度はゆっくりあの場所を訪れると、そう誓ったはずなのに……。

 僕は自分を殺したくて仕方がなかった。情けなくて、悔しくて、今にも己の頭を吹き飛ばしたかった。その思いを、記憶を、過去を、事実を、蟲が食すように消せたらどんなにいいだろう。どんなに楽だろう。

 発散のしようがない強烈な怒りと自責の念だけが、吹雪のように内側に積もっていく。それは溶けることなく、永遠に体積を増し続けた。

 




 病院で目が覚めてから二日が経った。

 時が経てば経つほど千花との距離が遠ざかっていくような気がして、心が重くなる。

 ベッドの上から窓のそとをぼうっと眺めていると、病室の扉が開き、見知った顔が何人も入ってきた。緑也、日々野さん、桂場、スタイリッシュ、皐月さんの五人だ。

「一体何があったんだ。県南の山道で血だらけで倒れてたって聞いたぜ」

 僕の顔を見るなりに、桂場が直球の質問を投げた。

 僕は機械的に、警察に答えた嘘と同様の言い訳を述べた。

「ちょっと山登りをしたかったんだ。手ごろな山を登ってみようと思ったんだけど、どうも崖から転げ落ちたみたいで。記憶がおぼろげなんだけど」

「山登り? あそこら辺そんな有名な山とかあったか?」

「今の時期って有名な場所は混んでるだろ。だからマイナーな場所の方がいいと思ったんだ。まあ、整備されてなくて結果はこんな感じだけど」

「はあ。しかし一人でよくそんなことをしたな。何かあったらどうすんだよ」

「そうだね。もう二度と一人で山には登らないよ。こんな目に遭うとは思ってもみなかった」

 そういうと、納得したように桂場は豪快な笑みを浮かべた。

「今度行くときは俺を誘えよ。お前が落ちそうになったら助けてやるか」

「二人で一緒に遭難しなければいいけど」

 僕は小さく笑って見せた。

「ところで、千花は一緒じゃなかったの? 昨日から連絡がつかないんだけど」

 真剣な表情で日比野さんがこちらを見る。彼女だけは、他の面子とどこか表情が違っていた。

 その言葉に一瞬心臓がちくりとする。どうやら一之瀬刑事はまだ、日比野さんたちへの聞き込みをしていないらしい。

「一緒ではなかったよ。少し前に両親と旅行に行くみたいなことは話してた気がするけれど」

「そう。端末の電源を切っているのかな……」

 どこか納得がいかなそうに日比野さんは首を傾げた。

「喉とか乾いてないか。売店で色々と買ってきたんだけど。あ、入院中って勝手に食ったり飲んだりしたら駄目なんだっけ?」

 相変わらずカラフルな服装のスタイリッシュがビニール袋からペットボトルを取り出し固まる。

「軽い飲食程度なら大丈夫。僕の場合はただの外傷だから」

 スタイリッシュからペットボトルを受け取り喉に流し込む。炭酸の弾ける感触が広がった。

「何か必要なものがあったら言ってくれよ。用意するから」

「ああ。ありがとう」

 そのまま炭酸ジュースをちょびちょび呑んでいると、スタイリッシュと肩を寄せ合うように、皐月さんが前に出た。

「ねえ。穿くん。退院したら旅行とか行かない? もちろん千花も呼んで」

「旅行?」

「うん。あたしのおじいちゃん家がさ、有名な避暑地にあるんだ。遊びに来るように言われてるんだけど、どうせ暇になりそうだからさ。せっかくだから、みんなも来ないかなって思って」

「それ、お前の爺さんたちに悪いんじゃないのか」

 緑也が僕の気持ちを代弁してくれた。

「大丈夫だよ。賑やかなこと好きな二人だし、きっと喜ぶと思うよ。それにキャンプファイヤーとかも出来るんだから」

「へえ、それは楽しそうだな」

 桂場が興味を持ったようににまっと笑った。

「ってことで、退院したら連絡してね。スケジュールを合わせないといけないし」

「もう行くことは確定なんだね」

 僕は苦笑いを浮かべた。

「せっかくの夏休み何だよ。何か特殊なことをしないと損でしょ。こういう思い出作りって、皆が一緒に居れる今でしか出来ないんだから」

 思い出作り、か。

 僕はとっさに千花のことを考えた。その思い出の中に、決して彼女は参加することが出来ない。

 その後小一時間ほど適当な雑談を続けた後、緑也たちは帰っていった。

 周りから人の気配がなくなると、一気に部屋の中が静かになった。

 僕はその静けさに耐えきることが出来ず、声を出さずに叫び声を上げた。





 三年前のあの日。どうしてそうしたのかはわからない。きっと無意識だったのだろう。だがそれでも、あの行為は許されるべきことではなかった。

 トラックが突撃してくる瞬間、母は僕をかばおうとした。必死に腕を伸ばし、タイヤから遠ざけようとした。でも僕は、怖くて仕方が無かった僕は、反射的に彼女から遠ざかろうとした。守ろうとした母の手を拒絶した。

 そのときの母の表情は、絶対に忘れることができない。

 僕はすぐに己の愚行に気がつき、母の手を引こうとしたのだけれど、彼女はどこか諦めたように、それでいて悲しそうに僅かに笑みを浮かべた。それは全てを諦めた目だった。自分の命も、絵の道も、これからの人生も。

 僕が手を弾いてしまったせいで、彼女は全てを失ったのだ。

 そして母は、僕の目の前でどこかへ吹き飛んでいった。真っ赤な血の花を咲かせて。



 夜。見舞いの限界時間である十九時に差しか帰ると、ぎりぎりで父がやってきた。

 仕事も忙しいはずなのに、こうして見舞いに来てくれるとどこか申し訳ない気持ちになる。

「ごめん。父さん。気を遣わせちゃって」

「気にするな。これも親の仕事だ」

 ぶっきらぼうに父は答えた。

 そのまま無言の空気が流れる。元々会話の多い間柄ではないのだ。特に話題も見つからず、時間だけが過ぎていく。父は暇を持て余すように、お見舞い品の梨の皮をナイフでむき始めた。

 僕の表情があまりに暗かったからだろうか。父はちろりとこちらを眺めると、遠慮がちに口を開いた。

「急に山に登るなんて、一体どうしたんだ? アウトドアが好きってわけでもあるまいに」

「僕は結構アウトドアが好きだよ。よく意外に思われるけど」

 正直な気持ちで答えたつもりなのだが、父には納得がいかなかったようだった。

「……何か悩み事か」

「まあね」

 僕は静かに頷いた。そのまま黙っていたのだが、父がじっと見つめているため仕方がなく言葉を続ける。自分一人で気持ちを抱えているのも、もう限界近かった。

「好きな人が出来たんだけど。ちょっとわけがあって遠くに行っちゃいそうなんだ」

「引っ越しか何かか」

「まあ、そんな感じかな」

 適当に相槌を打つ。

「そうか。……悩んでいるときに動かないと、必ず後悔することになるぞ。いつまでもその時の煮え切らない思いを抱え込むことになるんだ」

「そうだね。それはよくわかっている」

 自然と、母さんの最後の姿が蘇った。胸に鈍い痛みが走る。

 僕の様子を見て何かを察したのだろう。少し躊躇いを見せた後、父は重々しい表情で言葉を続けた。

「穿。この機会だから言うが……お前は自分が母さんを連れ出したから、あんな事故に遭ったって思ってるよな。けれど、あれはお前の所為じゃない。あれは、事故だったんだ。ルールを破った馬鹿の所為で不幸を押し付けられた。それだけのことなんだ。お前は何も悪くはない」

 父の気持ちはよくわかる。けれど、

「……どうしても許せないんだ。あの日の自分が、僕が母さんを連れ出さなければ、僕が腕を伸ばしていれば、母さんは生きていたかもしれないって思うと」

「悔やむのは必要だ。また同じ過ちを行わないためにも。けど、その苦痛を思い出にして悲劇のヒロインぶるのはやめろ」

 珍しく、父は厳しい口調で僕に語り掛けた。その言葉に少しだけむっとする。

「僕は別にそんなつもりじゃ……」

「あの日、俺は母さんに早く帰ると約束をしていた。けれど、仕事のキリか悪くて、約束を破って残業していたんだ。俺が病院に着いたとき、既に母さんの息は亡くなっていた。……お前は母さんの最後を見届けたんだろう。あいつが命を懸けてお前を守った。だったら、あいつの思いに答えるために誰よりも幸せになる努力をするべきなんじゃないのか。それこそが母さんに対する一番の親孝行なんじゃないのか」

 そんなことはわかっている。わかっているけど、そんな簡単に割り切れるものじゃないんだ。

「そうだね。それはわかっているんだけど」

 僕の言葉を耳にした父は、我慢の隙間から感情が漏れてしまったかのように、ぼそりと呟いた。

「自分だけが悲しいと思うなよ」

「え……――」

 思わず父を見返す。ずっしりと、目の前の空気が沈み込んだような気がした。

 黙り込んだ僕を見て、父はしまったというように視線を逸らした。

 そのまま表情を一変させ、ぎこちない笑みを見せる。

「だから、その、俺が言いたいことはな。もし今お前に大事な人がいて、何かを伝えきれていないのなら、追いかけて必ずそれを伝えろってことだ。絶対に後悔しないようにな」

必死に取り繕う父。だが今の言葉を聞いて、その深い悲しみに満ちた顔を目にして、僕はふと気が付いてしまった。

 母さんが亡くなってから今ままで、父は一度も泣き言を吐かなかった。一度も暗い顔をしなかった。だから気にすることなんてなかった。いや、気づいていたけれど見ないことにしていたんだ。本当は誰よりも彼が一番悲しいはずなのに。一番苦しいはずなのに。誰よりも、僕を恨んでいたはずなのに。 

 ずっとそれに気が付かないふりをして、自分が悪いと逃げてきた。母の死を受け止められず、駄々をこねていた。母の思いに答えるために。父親としての責務を全うするために。

「……ごめん父さん」

 僕は深々と頭を下げた。それを見た父は、気まずそうに頭を掻く。

 後悔していたのは僕だけじゃない。それは父さんも同じなんだ。父さんも、母を助けられないかった苦しみをずっと胸に抱いて生きてきた。この三年の間ずっと。

 何かを押し殺すような父の横顔を目にし、僕ははたと気が付いた。その顔はよく似ていた。鏡に映る僕の表情と。捨てることの出来ない、深い後悔だけを抱えて必死に耐えているような表情を。

 ――そうだ。僕は何をやっているのだろう。

 強い気持ちが胸に押し寄せてくる。

 母を失ったときに誓ったじゃないか。もう二度と彼女のような犠牲者は出さないって。もう二度と後悔なんてしないって決めたはずなのに。

こんな簡単に千花を諦めて、こんな簡単に彼女を見捨てて。まだ助けられる可能性が、方法があるかもしれないのに。これじゃ何のために生きてきたのか、何のために蟲喰いなんて力を得たのかわからないじゃないか。

 手がかりは確かに少ない。勝ち目も薄い。けれど、このまま千花を諦めて生きていけば、僕は母の時のように、父のように、きっと一生後悔し続ける。一生悩み続ける。だったら、一生千花を探し続ける人生のほうが、まだマシだ。


 ――また今後、ちゃんと時間があるときに来たいね。


 千花の言葉が再度脳裏に木霊する。

 僕は強く奥歯を噛みしめた。


 


 それから二日後。僕は無理を言って、病院を退院することとなった。

 血はだいぶ量が戻っていたし、傷口も塞がった。これ以上、病院に居る必要はないと思ったからだ。

 お世話になった看護師に礼を言って、ロビーから出る。

 日比野さんや緑也たちは千花の情報交換のためにオカルト研究部のプレハブで待っていると言っていたが、僕は行くつもりはなかった。

「何だ? 乗らないのか?」

 病院の駐車場で、父がこちらを振り返る。僕は一歩離れた位置から答えた。

「ごめん。ちょっと友達に用事があって」

「そうか。まあ、何度も見舞いに来てくれてたもんな。でも、あんまり遅くなるなよ」

「わかってる。ちょっとだけだから」

 僕が答えると、父は中に乗り込み扉を閉めた。窓越しに皺の刻まれた深い目が見える。

 彼はゆっくりと車を前に出すと、一瞬片手を挙げ、そのまま道路に出て行った。

 手がかりがないのなら、探すしかない。動かなければ何も変わないのだ。自分が前に進もうとすることで、初めて歯車は回る。

 あれから入院中ずっと考えていた。千花が通報したわけじゃないのなら、あの状況で救急車を呼べる人間は一人しかいない。

 普通に考えれば彼がまだこの町にいるはずがない。とっくに姿をくらまして、研究に没頭しているはずだ。

 晴れ渡った空を見上げ、寺に向かって歩き出す。

 けれど僕は何故か、彼が――修玄が自分を待っていると確信していた。





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