第二十章 忘失
1
この数週間の間境和研究所について調べてみたところ、いくつかわかった事実があった。
一つ目は、本田克己の遺体が献体として境和研究所に持ち込まれたという事実だ。
本田克己はとあるSNSに登録していたが、そのリンクの中に彼の家族と思わしきページが乗っていた。僕は本田克己の友人と称し、その家族に公衆電話から連絡を取ってみた。故人のことを思い出させることは心苦しかったが、どうしても必要な情報だったため、申し訳無さを抱きつつも電話をかけた。
本田克己から借りていたものを返したいと伝え、その話の中で献体契約のことをさりげなく話題に混ぜると、彼の家族はそれを素直に受け止めていた。
二つ目は、献体契約の対象がこの県内、しかも協和研究所から数十キロの間のみということだ。これは協和研究所の献体サービスへ申し込むための窓口としている病院の分布から推測したことだった。
また‶触れない男〟の遺体を回収するように指示を出した候補として、研究所の所長やその他の研究員、献体契約を実施している医者等、ホームページに乗っている人間について調べてみたりもしたのだが、公開されている情報だけでは、特に気になる手がかりは得られなかった。
僕はベッドに寝っ転がりながら、これまでに調べたことを頭の中で整理した。
協和研究所は、献体サービスを提携している病院に例のアンケートを配布し、何らかの基準に引っかかった本田克己を実験材料として‶触れない男〟を生み出した。
献体契約を結んだ患者を見張ってその遺体の流れを読むという方法もあるけれど、研究所の中に運び込まれた後どういうルートを経由してどんなことをしているのか確認することは不可能だ。
だとすれば、最も確実な手段は、千花を狙ってくる人間を返り討ちにして、相手の正体を吐かせることだろう。
プールで襲撃してきた人物の姿を思い出す。
僕はゆっくりと右の親指で他の指を撫で上げた。
今日の夕食は僕の番だったので、適当に野菜を切って、肉と一緒に炒める。いつもは自室に篭っている父も、珍しくリビングでテレビを観ていた。
料理酒と、みりんと醤油とごま油。にんにくなどの簡単な味付けをして、皿にのせる。少し味気ないと思ったので、昨日買った豆腐を冷蔵庫から取り出し、生姜とねぎを乗せて醤油をかけ、味噌汁の横に置いた。
父は料理に視線を移すと、体の向きを正し、小さく「頂きます」と呟いた。
今父が見ていた番組は、世界中のあらゆる珍妙な事件を取り上げるというバラエティで、毎週月曜日はそれを見ることが彼の楽しみだった。
引っ越してきてそれなりに日数は経ったけれど、未だに会話はあまりなく、二人とも無言でテレビを見続けた。
僕は早く自室に戻って、あることに関する調査の続きを行いたかったのだが、箸をすばやく動かしている間に、珍しく父が話しかけてきた。「穿」と、短く僕の名を呼ぶ。妙な間があったので、僕は怪訝に思い顔を上げた。
「なに?」
父はテレビを見つめたまま、ゆっくりと口を動かした。
「学校のほうはどうなんだ?」
「別に、普通だよ。友達も何人かできたし、それなりに充実してると思うけど」
「そうか。夏休みはどうするんだ? 実家のほうの友人たちに会いに戻るのか?」
「どうだろう。今のところその予定はないけど……」
この町にカナラがいなければ、‶触れない男〟に遭遇しなければ、確かにそんな選択肢もあっただろうが、この状況ではとてもじゃないが東京で遊んでいる余裕などない。僕はいつものようにあいまいな返事をした。
「一応、メールでは連絡を取り合ってるよ。二人とも暇で死にそうみたいだったけど」
「学生時代の友人は人生の宝になるぞ。ちゃんと大切にしとけよ」
「分かってるって。そんなこと」
何だか今日は妙に饒舌だ。こういうとき、父は本当に言いたいことを隠していることが多い。無駄な探りあいや言葉遊びはしたくなかったので、素直にその気持ちを押し出してみた。
「どうしたの、父さん?」
「ん、何が?」
「何か言いたいことがあるように見えるけど」
「……ちょっとな」
気まずそうに頭を掻きながら、体の向きをこちらに変える。しわの出始めた、疲れたような顔で僕を見つめた。
「お前ここ二年、墓参りに行ってないだろ。夏休みなんだし、たまには顔を見せたらどうなんだ?」
すぐに何のことか理解し、僕は表情を強張らせた。
「お前の気持ちは理解しているつもりだけど、ずっとそのままってわけにもいかないだろ」
僕は静かに箸を置いた。
「そうだね。確かにごたごたしていて、行ってなかったなぁ」
「……お前はいつもそうやって聞こえのいい返事をしてるけど、本気でそう思ってないだろ。いいかげん、しっかり向き合え」
知ったかのような口調で話す父。その態度に、僕は少しだけ怒りを覚えた。
「分かってるよ。……わかってる」
声を僅かに荒げ、威嚇のような真似をとってしまう。父は至極当然なことを言っているだけなのに。
まだ料理はいくらか皿に残っていたが、これ以上口に運ぶ気持ちにはなれなかった。
僕は椅子から立ち上がると、食器を持って流しに向かった。
「穿……――」
置いた食器に水を通し、そのまま自室へ歩き出す。料理担当の日は父が食器の洗浄を担当することになっているので、問題はない。
まだ何か言いたそうにこちらを見ている父の横を素通りし、僕は中扉を閉めた。
部屋に入るなりにベットに横たわり、僕はそのままぼうっと天井を見つめた。
いつもそうだ。父は、――父さんは何もわかってはいない。こっちの心境を勝手に推測して結論ずけて決めつける。
僕が人殺しだということも、どういう心境で日々を過ごしているかも知らないくせに。
辛い目に合っている人は数多くいるだろうけど、いくら伝えようとしても、結局それを本気で理解できるのは本人だけだ。その感触も、痛みも、苦しみも、実際にその場にいた人間しか体験していないのだから。
別に、父を責めるつもりも、悲劇のヒロインぶるつもりもない。ただ、どうしても心の整理がつかないのだ。あの日母を連れ出さなければという強烈な後ろめたさが、罪悪感が僕の足を繋いでいる。
まぶたの裏にあいつが、いつも夢に出てくるあいつが――‶幼い僕の顔〟が浮かび上がる。
僕は大きなため息を吐き、腕をそっと横に置いた。
視界の端に光るものが見える。
何だと思って首を動かすと、それは僕の端末だった。画面にウィンドウが出て、メールの通知を知らせている。
寝っころんだまま端末を掴み、顔の前に持ってくる。差し出し人は姉の御奈だった。本文には短く、「明日遊びに行く」とだけ書かれている。
今は大学の試験期間中だろうに。変なタイミングで来るな。
違和感を感じつつも、「わかった」とだけ返信する。
三年前からずっと、彼女は僕にとって母親の代わりのようなものだった。今のこの危険な町に彼女が訪れることはなるべく避けたかったのだが、拒否する理由も思いつかない。
二~三日で帰ってくれることを願いため息を吐きつつ、僕は端末をベッドの脇へ放り投げた。
2
幼い頃といわれて、一番最初に思い出す光景は、絵を描いている母の姿だった。
当時の家は目の前に大きな公園があり、鳥のさえずりや風の音がよく聞こえててくる場所だった。母は開け放した窓からそれらの音響を楽しみつつ、絵を描くことが好きだった。
大抵は仕事の絵ばかりだったけれど、まれに僕の好きだったアニメのキャラクターや、母がふざけて作った怪物の絵なんかも描いてくれることがあった。そういうのを真似して描き始めたのが、僕が絵に興味を持ったきっかけでもある。
仕事の売り上げはあまり宜しくないようだったが、それでも母は毎日が楽しくて仕方が無い様子だった。好きなことを自分の好きなだけできる。それが幸せなんだといつも言っていた。
幼い頃の僕はその笑顔を見ることが好きだった。
楽しそうな、幸せそうな母の顔を見ていると、自分まで元気になるような気がしていた。
だから年齢が進むごとに笑わなくなっていく母を見ることが、とても辛かった。悲しかった。
あの頃の母が何に苦しんでいたのかはわからない。創作関連の仕事ならば、個人にしか理解できない悩みもきっと多かったのだろう。
でも、それでも、僕はまた母の笑顔を見たかった。楽しそうに毎日を送って欲しかった。あの日一緒に出かけようと誘ったのも、そんなささやかな願いを抱いたからだ。
僕は御奈の車から外に出ると、枯れた空気を肺に吸い込み吐き出した。
明社町に来て二か月が経つけれど、こうして海岸に出るのは最初に瑞樹さんと緑也から町の案内を受けた日以来だ。久しぶりに見る海は、前よりも波が穏やかに見えた。
車にロックをかけ砂浜へ歩き出す御奈。おしゃれを見せる相手もいないからか、今日はいつもよりも落ち着いた服装をしていた。
「久しぶりだね。こうして二人で歩くの」
横に立った僕を見て、皆が茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「ついこの間、車でこの町まで送ってくれただろ」
「ただ送っただけでしょ。こうして兄弟仲良く一緒に歩くのなんて、あんたが中一の時以来じゃない?」
「そんなことないと思うけど……」
僕は足元の石ころを蹴った。
「せっかくの休みなのに、都内に遊びに行ったりとかしないの? ほら、特に仲の良かった友達が二人いたじゃん。寂しがってるかもよ」
「定期的に連絡はとってるから大丈夫だよ。それに、今はこっちでやることがあるんだ」
「何やることって」
僕は一瞬黙り込み、答えた。
「絵のコンテストがあるんだ。明社町にはいいロケーションが多いからさ。集中して何枚か絵を描きたいんだよ」
「ふ~ん。相変わらずそういうのやってるんだ。美術部とか入ったの?」
「考えてるけど、まだ入ってない。ちょっとタイミングを逃してさ」
「部活に入るのにタイミングも何もないと思うけど」
さっぱりわからないというように、御奈は微妙に眉を細めた。
その表情を見て、僕は一瞬息詰まる。
年を重ねるごとに、彼女は亡くなった母へ似てきている。顔つきや仕草だけでなく、服装の趣味やおせっかいなところまで。
それが嬉しくもあり、同時に怖くもあった。彼女を見ていると、ふとした瞬間に、あの事故のことを思い出しそうになってしまうから。
小学校高学年の頃。カナラと出会う少し前。
僕と母は、交通事故に巻き込まれた。
飲酒運転による、明らかな殺人未遂だった。
あの日、僕は仕事で落ち込んでいた母を元気づけたくて、一緒に隣町まで遊びに行った。母の好きだった花の展示場が、期間限定で開催されていたからとか、そんな理由付けだったと思う。
思春期の真っ只中だった僕だけど、母の疲弊があまりに酷かったので、その日だけは、彼女に尽くした。荷物を持ち、飲み物を運び、席を取った。
母は最初は遠慮していたけれど、珍しく息子がいっちょまえに気を使ってるのを見て面白く思ったのか、途中から素直に従ってくれるようになった。
最近は滅多に母が笑うのを見ていなかっただけに、僕は楽しそうな彼女を見ることが嬉しかった。子供ながらに息巻いて、必死に頑張った。
帰り道、久しぶりに機嫌の良さそうな母は、今日はごちそうにしようかといった。何でも僕が気を使ってくれた記念だとか、ふざけた理由で。
僕は肉じゃがが食べたい、と答えた。昔から母の作る肉じゃがはとてもおいしかったから。
母はそんないつもと変わらない料理でいいの? と不思議がっていたけれど、結局、僕の押しに負けて要望を受け入れてくれた。
僕はうきうき気分で家に向かっていた。早くご飯を食べたい。とお腹を鳴らして。
道路を走っていた大型自動車がハンドルを誤り、こちらに向かって向きを変えたのは、そのときだった。
母は慌てて横に逃げようとしたのだけれど、咄嗟のことで間に合わなかった。先にトラックに気が付いた僕は、すぐに母に手を伸ばそうとした。けれど、激しく迫るトラックの轟音を意識した途端身がすくんでしまい、一瞬その腕を止めてしまったのだ。
僕の目と鼻の先で母の姿が掻き消え、不快な音が鳴り響いた。車の重量をもろに受けた母は、ぼろ雑巾のように宙を舞い、地面に落下した。
広がる血。
冷たくなってゆく体。
死の足跡。
その光景は、僕の意識に強烈な‶何か〟を植えつけた。
僕や父さん、御奈は一睡もせず母の手術を見守った。また彼女の笑顔が見れると信じて。また一緒に街を歩けると願って。
でもその思いが神様に届くことは無かった。病院に運ばれてから三時間後。母は、ゆっくりと息を引き取ったのだ。
一通り歩き回った後、御奈は暑そうに息を吐いた。駐車場の前に設置された自販機からブラックコーヒーを二つ購入し、一つをこちらに放り投げる。
僕は無言でそれを受け取り、ひと口だけ飲み込んだ。苦く舌触りの悪い味が一気に口内に広がる。まるで何かの罰を受けているような気分だった。
御奈は自分の缶をあっという間に空っぽにすると、それをゴミ箱に投擲し、壁に寄りかかった。まだ車に乗る気はないらしい。
僕はちびちびとコーヒーを口に運びながら、何となく彼女の長い茶髪を見つめた。
半分ほど飲み込んだころだろうか。不意に御奈が口を開いた。
「……どう? この町は?」
「どうって?」
僕は視線を逸らしながら、応じた。
「いや、だから学校とか、居心地とかさぁ。どうなのかなぁって」
「別に、普通だよ。こっちとそんなに変わらない」
「ふぅ~ん。なんだぁ。てっきり早く戻りたいって、べそかいてるんだと思ったんだけどね」
そんなこと、考えてる余裕もなかったんだよ。
僕は心の中で文句を言った。
「……御奈の方はどうなの? 花の大学生活」
「私? う~ん。特に高校の頃と気持ち的には変化はないんだけど。強いていうなら、ナンパがうざったくなったことかな」
同じ大学の学生だけではなく、サラリーマンや見知らぬ男たちまで簡単に声をかけてくるんだと、御奈は愚痴を言った。
「格好や立場が変わっただけで、私は私のままなのにね。みんな変に期待して、急に声をかけてくるんだもん。何だか、気持ち悪いよ」
「今の大学は勉強するよりも人生最後の学生生活を楽しむ場所になってるって、ニュースで言ってたよ。みんな、青春を送ることに必死なんだよ。きっと」
「あんたは何でそんなに冷めてんの」
僕の感想を聞き、御奈は吹き出すように表情を崩した。
シャツの隙間から、一瞬彼女の腕の傷が見える。鑢で削られたかのような荒らしい痕。
僕の視線に気がついたのか、御奈はさっとそれを隠した。
「最近はだいぶ薄くなってきたんだよ。もう、近くで見ないとほとんど分からないくらい」
「……そう」
気の利いた台詞を言うことができず、控えめに言葉を返す。何せ、それはカナラがいなくなって間もない頃に、僕が蟲喰いでつけてしまったものだから。
僕の表情がよりいっそう暗くなってしまったからか、彼女は慌てて声の調子を緩和させた。
「ちょっとぉ、あんたもいつまでも気にしてないの。昔から変にそういうところみみっちいよね。穿って」
「気にしないわけにはいかないだろ。僕がつけた傷なんだから。……母さんのこともあるし」
「そういうのをやめろって言ってんの。毎回毎回暗い顔で見られたら、こっちのほうが気にするわ」
呆れるように、御奈は腰に手を当てた。
「お母さんだって、そういうの望んでないよ? たとえあんたが連れ出したことが原因だとしても、いまさら悩んだってどうにもならないでしょ。それより、元気な姿を見せて、立派に生きてあげる方が親孝行だと思わない?」
「それは……そうだけど」
僕は缶の上部を見つめた。言っていることはわかるが、そんな簡単に整理がつくわけはない。
「お父さんも心配してたよ。何だか最近穿に元気がないって」
「父さんが?」
ほとんどまともに時間を共有していないはずだけど、本当にそんなことを言ったのだろうか。僕はにわかには彼女の言葉を信じられなかった。
御奈は風にたなびく髪を押さえながら、真っ直ぐにこちらを見つめる。
「ああ見えて、穿のこと心配してるんだよ? お父さん、不器用だから上手く言葉にできないけれど。あんたが暗い顔してたら、いつまでもお父さんだって安らげないじゃん。ただでさえ、辛いはずなのに」
「……うん」
僕は子供のように頷いた。
自分のことばかり考えていたが、確かに父の心情から省みると、僕の行動は嫌なものに映るだろう。彼にとって母は、僕以上に長い時間を共有した大切な存在なのだから。
「すぐにどうにかしろとは言わないけど、ちゃんと周りを見て考えてね。いつまでもこのままってわけには行かないんだから」
父さんとは違い、御奈は僕の蟲喰いのことも知っている。だから、僕は素直に応じるしかなかった。
缶のコーヒーが空になり、ようやく手が軽くなる。僕が缶を捨てるのを確認すると、御奈は目の前に止めてあった自分の車の扉を開けた。
遅れて後部座席に座り、シートベルトを巻きつける。顔を前に向けると、バックミラーごしに御奈と目があった。
「いつまでこっちにいるの?」
間を取り繕うように、僕は尋ねた。すぐに御奈は回答する。
「明後日の夜には帰るよ。試験とか、サークルの合宿とかもあるし。次に来れるとしたら月末くらいかな」
「そんなに頻繁に帰ってこなくてもいいのに。わざわざこんな遠くまで」
「遠くっていっても、車で二~三時間程度でしょ。別に大したことないじゃん。私ドライブとか好きだから、これくらいの距離がちょうどいいの」
僕はあえて何も返さなかった。家族の気遣いに少し申し訳なさを覚える。
「でも穿が元気そうでよかったよ。上手くやってるみたいだし。彼女とかできた?」
「そんなのいないよ」
「ふ~ん。ホントかな。お父さんからはいつも遊んでいる子がいるって聞いてるけど」
千花のことだろうか。何故父が知っているのだろう。
驚愕の表情を浮かべている僕を面白そうに眺めながら、
「……ま、何かあったら気軽に連絡しなよ。可愛い弟のためなら、いつだって飛んできてあげるから」
「……うん」
遠慮がちに微笑み、そっと目を窓のほうに置く。それで、御奈は満足したように視線を離した。
3
ベットの上でくつろぎながら、何をするともなく天井を見つめる。半透明なカーテンの隙間から日の光が入り、部屋の中を入れたての紅茶のような色が満たした。
白い輝きへと転じかけている暁の刻と比べて、これから闇へと染まりかけているか細い光。燃やしきった命を飲み込まれかけているような、脆弱な灯。
何となくその姿がカナラと重なり、僕は頭を振り払うように身を起こした。
ずっと呆けていたらますます暗い気持ちになってしまう。触れない男たちについて進めている調査のことを考えようと思ったけれど、あんまり乗り気になれなかった。
気分を一新するために、テレビや漫画でも見るかと立ち上がったところで、足元に転がっている白い紙を見つけた。僕が思いつきで絵を描くための、スケッチノートだ。最近は掃除を怠けていたから、何かの拍子に一部がちぎれて飛び出してしまったらしい。
僕はその紙とノートを拾い上げ、ぱらぱらと何となく視線を巡らせた。
窓とその前に置かれた椅子や、姉の似顔絵。暇つぶしに想像して描いた架空の生物の絵など、懐かしいものがいくつも目に入る。それらを見ているうちに、何だか久しぶりに手を動かしたくなり、気がつけば、僕は鉛筆をとって必死に何かを描きこんでいた。下敷き代わりに膝の上に乗せたノートから、かつかつという小さな鉛筆のぶつかる音が鳴る。
動いている己の手を見て、始めて自分が絵を描いているんだと認識した。まだ輪郭だけだったけれど、僕はどうやら、この部屋から見える海と空を、窓越しに覗く絵を描いているようだった。
空は、母の絵の特徴。
無意識でもそれに順ずるものを描こうとするなんて、我ながら影響されているなと思った。
窓から侵蝕してくる紅茶色は、先ほどよりもその範囲を縮小している。僕は完全に太陽が沈みきる前にその光景をとどめておこうと、かなり荒く全体像の線を引いた。
初めて訪れたときも思ったが、ここから見える夕日は物凄く美麗だ。僕の実力でこの美しさを表現できるかは怪しかったけれど、とにかく本能の赴くままに手を動かし続けた。
徐々に暗くなっていく視界の中、絵の形がしっかりしていくにつれて、脳裏に母の記憶が流れた。
僕が真似て描いた絵を見て、褒めてくれたこと。
御奈とふざけていたときに謝って、完成間際の絵を台無しにしてしまったこと。
幼い頃の短い間の出来事なのに、鉛筆の動きに合わせ、どんどん思い出があふれ出てくる。
いつしかオレンジ色の光は姿を消し、外は完全に闇に包まれていた。何も覗けない、漆黒の海だけが、存在感をそこに残している。
僕は鉛筆を置き、紙を机の上に置いた。家の外見に合わせて購入された、レトロな木製の学習机。どことなくそれは、母が使っていたものに似ていた。
もう、僕が焦がれた景色は真っ黒に染め上げられている。これでは、絵の続きを描くことなんてできはしない。
腰を床につけたまま、塗りつぶされたような海と空に目を通す。ずっと見つめていれば少しは遠くまで見えるようになるかもしれないと思ったけれど、まったく意味はなかった。
携帯の画面が光り、メールの到着を知らせる。暗闇の中にその光だけが点滅した。
無造作に手に取り、中を覗く。千花からのメールだった。
僕は立ち上がり、部屋の電気をつけた。そのまま、のろのろした足取りでベットの上に腰を下ろす。
内容は、予想通りのものだった。
「……やっぱり、か」
感じていた違和感の正体。
正直、違って欲しいと願っていた。
そうでなければと、祈った。
けれど現実はいつも残酷だ。冷酷で無情なものなのだ。それは、十分過ぎるほどこれまでの人生で理解している。
――穿。
つい最近、灯台下の公園で見た、カナラの悲しそうな顔を思い出す。あれが本物か幻かは分からなかったけれど、その表情は死ぬ直前の母の顔に、酷く似ているように見えた。
もう、絶対に大切な人を失いたくはない。例えそのために、何をしないといけなくなっても。
明かりにつれられて、蟲が部屋の中に入ろうと旋回している。僕は手を伸ばしかけたけど、思いとどまり、そっと、窓を閉めた。蟲は何度かガラスに接近したが、侵入できないと悟ったのか、しばらくして、闇の中へと姿を消した。




