道草を食いたくなったら
◇
信じられる?
眞輔も巽も茉以も、幼少期に習うはずの野花の名前、ひとつも覚えていなかった。
「タンポポとかツクシくらいなら見分けつきますけどね」
「ヒメオドリコ? 雑草のくせに随分と生意気名乗るじゃん」
呆れた。
意味があるから教わったんでしょ。
「義務教育なんてのは見境なしに詰め込まされるもんだろ。そのあとで当人たちが何が必要か不必要かを決めりゃいいのさ」
その巽の理屈、異論しかない。
〝春の定義〟なんて特別面白くもない話題。
私たちは春休みのあいだ顔を合わすたびに、そういう他愛もない話に気の向くまま時間をかけて語り合った。
私のアパートは先々月に給水機が破損して取り換え工事をしたばかりだったのに、今度は別の個所で水漏れが起こってしまった。
本格的にガタがきてるんだよね。
勘弁してほしい。
断水中の私を憂いでみんなが日帰り温泉に連れ出してくれて、そこを出たあとは気ままに巽の車を走らせた。
そうして行き着いたのは全方位を田んぼに取り囲まれて孤立したコンビニ。
店舗の面積の5倍はあるだだっ広い駐車場は、日が暮れかけて人の気配もまったくしない。
遠くに松の群生林が見えて、心なしか海が近いのかもしれないと思えた。
ザワザワと吹く生暖かい風に多めの水気を感じた。
眞輔はさっきレジ横でお湯を入れたばかりのカップ春雨を早くも啜り始めた。
「もう食べるの?」
「固めが好きなんですよ」
「ふーん」
そう言う私はカップアイスを買ったんだけど、木片ヘラですくって口に運ぶたび、ゾクゾクと身体が冷えていく。
店の壁際に設置された室外機からぬるい排気が吐き出されるのに気付いて、そそっと身を寄せた。
「貧乏くさ」
眞輔は声も出さずに笑った。
「なに見てんだよ。スープ寄越せよ」
「嫌だ」
喫煙スペースでは茉以が巽からふんだくったタバコに火をつけて、例のごとく格好だけでふかしていた。
すっかりはまってしまったらしい。
「……つまり、ツクシやらヒメなんとかやらで周りが埋め尽くされれば、花帆にとっては春の始まりってことね」
そういうことだけど、もっと言い方を考えてほしい。
「私にとっての春は……。そうね、長いことお世話になったコタツをしまう決心が付いたら、もう春と呼んでもいいかもね」
茉以はタバコを口に咥えたまま、がに股で腰に手を付き、上半身を大きく後ろに仰け反らせた。
「早く来ないかなぁ、春。もうコタツで居眠りしすぎて、いい加減腰が痛いのよ」
「モノグサ女」
呟く巽の脛の辺りを茉以は容赦なく蹴っ飛ばした。
「茉以ちゃんは外見に見合うおしとやかさを身に着けた方がいいと思うな」
「お気になさらず。イケメンの前では完璧に繕う技巧は身に着けておりますので」
一転して耳に抜けるよそ行き声を披露する。
茉以のオヤジ臭さとその隠蔽技能は、日に日に磨きがかかっていくと思う。
「巽の思う春は?」
「日中の最高気温が安定して10度を上回れば春でいいだろ」
事もなげに言ってのけるけど、そういうことを聞きたいんじゃない。
「天気予報じゃなくて、アンタの中の線引きの話よ」
「ああ。まさに俺の線引きの話をしてるんだぞ」
すかした奴。
正月にインドカレー屋で趣がどうたら抜かしていたけど、コイツに言われたくはなかった。
私たちの眼前にどこまでも広がる農地は、日の落ちた今は完全な漆黒に染まって、まるで静止した大河のように悠然として佇んでいる。
その向こうの対岸には県道や集落の明かりが灯り、地平線の輪郭を形作るように横一文字に瞬いている。
空になったカップ春雨の容器をゴミ箱に入れて、眞輔がゆったりした足取りで戻ってきた。
「当たり前ですけど、毎年春の始まりって変動するじゃないですか。〝何月何日から春〟なんてはっきりと区切ることはできないでしょ。だけど梅や桜は人に指し示されるまでもなく、ちゃんと花を開く日を決められますよね。なんだかすごいことに思えませんか」
誰に言われなくたって、地球は回って季節は動く。
そう待ちわびなくても春は勝手にやって来るし、逆に追い縋ったって冬は去る。
それを人の都合でじれったく感じたり、急かされるように思ったり。
それは春というものが憂いと昂ぶりの入り混じった時季だからかもしれない。
新しい何かが始まろうとしている不安と期待を、暖かくなった日差しと共に肌で感じられる時の節目。
「眞輔は? 君にとっての春」
「そうだな……」
私の問いに、やっぱり眞輔はいつもの朗らかな笑顔で返す。
「帰り道、道草を食いたくなったら、春」
思ったとおり、眞輔らしい答えだった。




